（２）

布団に横たわったまま見ることのできる外の世界はつぼみの開き始めた桜とその向こうに広がっているというかどうしようもなく隔たって見える群青に近い青い空だけなのだけれどもそれは見ているだけで凍えそうな景色なのだが桜がほころびかけて凍えそうだなんてどうかという気がしなくもなくて群青というか濃紺というか深青というかそれはどうしようもなく寒そうでよくカレンダーなんかにある南極とか北極とかにペンギンとかシロクマとかと一緒に写ってしまっている氷山とか氷のかたまりとかと一緒に写ってしまっている海だとかってそういえば海の水は塩水なはずで塩水だとするならモル凝固点降下だっけよく覚えてないけどたぶんモル凝固点降下のせいでたぶんおそらくその水の温度は零度よりも低くてなんて考えるだけでまるで体のどこかが氷に触っているというよりもむしろそういう塩水に使っているみたいなひやりとした感じがしてぶるぶるぶると震えてしまいそうになるけどいや実際には震えているんだけどそうやって感じるだろう寒さというか冷たさというのは高熱を出して悪寒に震えるというのとはたぶんおそらくきっとまったく違ったものであるのだろうなんて思わないわけでもないけどそうやって偶然なのかどうかはよくわからないけどシロクマやペンギンほど注目されない海と同じくらい注目されない空というのがあってその青さというのといまわたしが目にしているところの青さというのは似ていないでもないような気がしなくもないのだけどたぶんそれよりもエベレストだかチョモランマだかと一緒に写ってしまっているところのたぶんペンギンやシロクマと一緒に写ってしまっているところの海よりはいくぶん注目されているかもしれないところの真っ青というか群青というかコバルトブルーというかの青ともかなりよく似ているかもしれないと思わないでもないけどなにしろカレンダーの写真というのはしょせん写真でしかも印刷なのでわたしが見ているのはむしろインクなのかもしれないけど最新の印刷技術について正しい知識を持っているわけではないので間違っていないとはいいきれないけどいまわたしが目にしているところの群青というかコバルトブルーというかの透き通るようなというか半ば透き通って宇宙が透けて見えてしまっているはずのところの空というものはたぶん空気の層なのかもしれなくてもし空気が透明なのだとしたらいや透明に決まっているけどその向こうに見えているのは宇宙だったりするに違いないのかもしれないけどそうやって桜の向こうに宇宙を直接覗き見ているのだと考えると恐ろしくてぞっとして震えが止まらなくなりそうな気がしなくもないけど気が付けばというかずっとずっと気になっていてほんの一瞬も忘れていないのだけどからだがぶるぶるというかがたがたというか震えていてというか震えが止まらなくて舌を噛んだら危ないと子供の頃金属のへらを口の中に差し込まれて胃袋がひっくり返ってしまったことを思い出すとますます震えがひどくなるというか嘔吐したくなるというかその一歩手前の吐き気がするような気がするのだけどたぶんきっとおそらくそんな気がするだけの話できっとおそらくさっきからずっと同じように震えているのかもしれないけどいったいどのくらい時間が経ったのかまるで見当も付かなくて布団から外に手を伸ばすと恐ろしく涼しくてそれが気持ちよくて実はひどい汗をかいてしまっていて着ているものがびちょびちょになってしまっていてそのまま寝ているよりもビニールか何かでできた服を着るかあるいはポリエチレンの袋に入ってその上から布団を掛けてしまえばインスタントサウナというかポリエチレンダイエットになるのではないかと思わないではいられないけどポリエチレンダイエットってなんなんだよって自分で自分にツッコミを入れずにはいられないのだが震える指先が目覚まし時計をひっつかんで顔の前まで持ってくるとこの何ともいえない気持ち悪い感じになってからやっと二時間ということが明らかになったのかもしれないけどさっき時計を見たときに見たのが本当に二時間前の時刻だったのかどうかあやふやなのでたぶん熱が下がってみないことにはそういった判断をすることは躊躇されなければならないと思わずにはいられないのだという気持ちがしなくもないのだけどよく考えれば午前中から空があんな色をしているのはおかしいというのも窓は東側にあって東側にあるということはすなわちそちら側に太陽があるということであり空はもっと明るい空色というか何ともいえない輝きを見せてくれれれるはずなのかもしれないけどよく考えればというか今思い出したのだけど東側に窓があるのは昔住んでいた家の中のわたしが住んでいた部屋のことで今わたしが住んでいるアパートには南側にしか窓はなかったはずなので窓の外の空の色が午前中の東向きの窓と全然違っていたところでなんの問題もないような気もしないでもないのだけどそもそもそこからは桜の木なんて見えなくてというか近所には桜の木なんて一本もなくてそれが春先の気持ちを挫くというか滅入らせるのだけど何しろ窓からは桜の木なんて見えなくて隣の家の壁と屋根と自分のアパートの軒とのあいだに見える空くらいしか見えるものはないのだけど実際にはもっとたくさんのものが見えるかもしれないのだけどとにかく桜の木はかけらも見えなくてだとしたらわたしが寝ているのは昔住んでいた家のあの部屋なのかもしれないけどどうしてそんなことになってしまっているのかなんていくら考えても分かるはずもないという以前にときどき頭が締め付けられるように痛むのでほとんど何も考えることなんてできないのだけどそれはきっとすごく熱が上がっているからに違いないのだろうけど熱がどのくらい上がっているのかということを確かめるのが怖くて今ここでこうしているのだけど何しろあとほんの少しで四十度という体温計を見るのは本当に恐ろしい体験で水銀があんなに膨張するものだとはそうわたしは水銀の体温計を使っているのだけどというのも昔好きだったのかなよくわかんないけどとにかく心惹かれてしまっていたのは今から思えば若気の至りというか理解不能というかまあそんなことはどうでもいいんだけど水銀の体温計があとひと目盛りかふた目盛りで四十度というのを見たときああわたしはもうだめだと思ってしまったのはどういう因果なのだろうかと思わずにはいられなかったけどそれはつまりあの面接がすべて悪いのではないかと突然すべてを憎み始めたわたしの脳というか心臓というかが体のどこかを壊してしまいその結果こんなことになってしまったのではないかと思わないではいられないとは思えなくもないのだけどそう思えといわれてもいったいどうしてそう思わずにいることができようかと 悩まずにはいられないのだが窓と反対側に座ってさっきからずっとりんごを剥いている母親が遅刻するのが悪いのだとわたしを責めるのだが遅刻の責任の一端は母親にもあるのではないかと思って牛のように反芻してみるのだけどそもそも三つある目覚ましのうちひとつは夜のうちに止まってしまっていてもうひとつは夜のうちに五時間も遅れてしまっていてもうひとつはきちんと動作していたのだけど最初にアラームが鳴ったときにアラームを止めてしまったのだけどそれはつまりほかの時計のアラームがもう少ししたら鳴り出すだろうと他力本願なことを考えていたのだけどそれはつまりアラームが三つの目覚ましで時間差を持って鳴り出すように設定していたという記憶がたぶんあっていつもその通りに動作していたはずなのだから当然面接に行く朝だって同じように動作すると考えるのは別に不思議なことでも不自然なことでもないと思うのだけど母親はそういうときの用心のために目覚ましは枕元に最低七つは並べて置きなさいと常日頃言っていたのだけど普通そんな効率の悪いことをせずにスヌーズという何度もアラームが鳴る機能を利用するのが普通だし自然だと思うのだけどわたしはあれが大嫌いなのでどうしてもいくつも時計を並べないわけにはいかなくてそれなら母親の言うように七つも時計を並べるというのにも一理ないわけじゃないのだけどいやたぶんそれ以上の理があるに違いないのだけどやっぱり七つも時計が並んでいるのは鬱陶しいに違いないような気がしなくもないというか秒針の刻む音がうるさいというかでもこないだ買ってきた時計は秒針の音がしないというふれこみで使ってみると確かにほとんど音がしなくてよかったのだけど同じ時計を七つ買うというのはどういうものだろうというのもスーパーとか日用雑貨を安売りしている店で同じ時計を七つ買ったら店員にどう思われるのかというのが気になってならないのだがそんなこと誰も気にしないと母親ならいいそうだけどでもきっと店が終わってから友達と飲みながら今日同じ時計をひとりで七つも買っていった客がいたとなんの論評も加えずに話題にされて相手もそういうことってよくあるなんて相槌を打たれた日にはわたしの立つ瀬がないと思わないでもないのだけど安全を考えたら七つは多すぎるとしても五つくらいは並べておくべきだったと思ったときは後の祭というか祭の後というかとにかく面接官という人はわたしが五分遅刻していったら会ってくれなかったのでいったいどんな人なのかを知る機会は永遠に失われてしまったと思わないではいられないというのもその面接官にはそれまでに一度も会ったことがなかったし写真を見たわけでもないのでたとえ道ばたで偶然出会うことがあったとしてもそのことに気付かないであろうというわけなのだが母親は寝坊するあなたがいけないのよとわたしを責めるのだけど実際ここ三ヶ月は母親の年金で生活しているわけでそれが破綻してしまうということだってないとは言えないとは言えないような気がするというのも母親の年金だけでわたしと母親が生活していて困ったことが一度もないというのがその証拠であるような気がしなくもないのだけどその面接官という人は品行方正質実剛健清廉潔白不言実行な人柄に違いなくだとすればわたしとの相性がいいはずもないので二人の出会いがなかったことはどちらにとっても幸い以外の何物でもないと言えなくもないのだが 面接官という人が昔好きだった人と面差しが似ているなんて母親が言うものだからわたしは母親の形見の手鏡をじっと覗き込むのだけど反対側の壁には姿見があるので期せずして合わせ鏡になり無限に続くほの暗い世界の向こうから面接官がそっと手招きしているような気がしてそのせいでわたしは遅刻したのですと受付嬢に申し上げると会うこと叶いませんと受付の美しい男の人から優しく言われて思ったことは昔好きだった人がその人と同じくらいせめて八割くらいの美しさを持っていたらわたしの思い出はそれに比例して美しくなったはずだと母親に言うと母親は思い出は美しくないのが花なのよと分かったようなことを言うので小憎らしいと思っているとりんごの切れ端を楊枝に刺してわたしの顔の前でひらひらさせるので目を閉じて口を開けるとりんごを閉じた目蓋に押しつけるので痛いイタイでも冷たくて気持ちイイと口走るとりんご追分け信濃追分越中ふんどし空に舞うと言いながら今度は鼻の穴にりんごを押し込むので母親がそんなことをするものではないでしょういやらしいいやらしいと口をとがらせるとりんごをわたしとがらせた唇に押しつけるのでそのままりんごに接吻し続けると始めてキスしたときの味を思い出すわけでもなくてというのも始めてのキスなんて何かに紛れて行方不明になってしまっているからでわたしの始めてのキスを返して欲しいとりんごを半ば口に含みながら言うとりんごは突然暴れ出してものすごい勢いで窓の方に飛んでいくとぶつかって粉々に砕け散り散りになって母親とわたしの上に降り注ぎながら那須与一の横恋慕なんていうからああ憎たらしい昨日わたしを袖にした面接官の足の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいというとあんたが寝坊するのが悪いんでしょう自業自得と分かったようなことをいうのでいったいどうやってやり込めてやろうかと考えあぐねようとしたけど何しろ頭痛が酷すぎて少しだって考えることなんてできやしないのが常日頃の行いとどんな関係があるっていうのと母親がりんごを剥きながら呟くのだけど剥かれたりんごの皮は幅が五ミリくらいで畳の上にとぐろというか滴って固まった血液というかとにかく赤い染みのように広がっていくのだけどそれではギネスブックに申請するには帯に短し帯に流しだろうというと懐から千枚通しを取り出してわたしの左胸を思い切り突き刺したのでわたしは左胸を押さえてのたうち回るのだけど母親はものすごい力でわたしを押さえ付けて血の流れるまま地の掟と告げると穴の空いたわたしの左胸の穴に人差し指をぎりぎりと差し込んで穴を押し広げるのだけどたぶんその穴は肺に達したのでしょうわたしは突然息苦しくなって咳き込むのだけどそれだけじゃなくて咳と一緒に痰が出てそれから痰に赤いものが混じり始めてそれを見た母親がホトトギスホーホケキョ春の夜の短きかなかな蝉といったのでわがみよにふるながめせしまにと事切れようとしたけどそのくらいで事切れるわたしじゃないと母親が太鼓判ではなく芋版をわたしの額に押したので母親の形見の手鏡で額を見ると蘇我入鹿滅殺と朱の印が押されているのが見えてそれならば眠ってみせようと人事不省に陥ったのがどのくらいの時間になるのかわからないというのは決して不自然なことではないはずだというのも夏目漱石が修善寺で人事不省に陥ったとき周囲の人びとが時計で計測していた時間は何十分という長さを持っていたのに漱石が感じていたのはほんの一瞬というよりも瞬きをするよりも短い時間であったというそれならばわたしが眠ってまた起きるまでの時間がわたしの感覚で瞬きよりも短いとしても何の不都合も不思議もないはずだけど不思議なもので眠ってしまう前には少しもおしっこしたいとは思わなかったのにまばたきの人事不省のあとでは膀胱がいっぱいになっているように感じられたということでそういえばおしっこはもともと血液だそうでだとしたら出してしまうのはいかにももったいないけどリサイクルというわけにもいかないし飲むなんてもってのほかだ少なくともわたしはでももちろん飲みたい人が自分のおしっこを飲むのは勝手だけどわたしのおしっこを飲みたいのでくださいといわれても拒否しないではいられないのはいったいどういうわけなのだろうかなんて悠長に構えている暇はなくて布団から這い出るとものすごく寒いと思ったらそんなでもなくて 涼しくてきもちいいくらいでしかし窓の外はまっくらでまばたきするあいだに太陽が消滅したか地球が突然ものすごい速さで自転したかまあそんなことはわたしの知ったことではなく科学者と呼ばれる人たちが考えればいいだけのことに違いなく窓の外を見るとさくらのつぼみが水銀灯に照らされて空気が普段よりもずっと透明になったように見えるのはいったいどういうことなんだろうなんていっても科学者が答えてくれるものかどうかわたしには見当も付かないが面接に行った先の受付の人と同じくらい美しい科学者ならどんなことでも答えてくれるなんてことはなくても何も答えてくれなくてもただその人の顔を見ているだけで幸せな気持になれると思えるのはたぶんほんのいっっっっっしゅんのことで次の瞬間には相手からわたしが見られていることに愕然としてしまうに違いないのだけどそういう気持というか繊細さというか羞恥心というかデリカシーというか無神経というかがわたしを銭湯や温泉から遠ざけているというのはここだけの秘密というか周知の事実というか周知といってもわたし以外には誰もいないしここだけといってもわたし以外には誰もいないのだがそういう状態を孤独というのだと言ったのはたぶんわたしで夏目漱石も面接官も関係ないかもしれないけどどこかでそれと同じことを言っていないとはわたしには断言できないのは当然といえば当然だろうけど涼しさのあまりの心地よさに着ているものを全部脱ぐなんてことはもちろんしなくてでも着ているものは全部脱いでしまったらやっぱり寒かったのは当然といえば当然でどうして着ているものを全部脱いでしまったのかといえば汗でしっとりというかじっとりというかぐっしょりというかとにかく湿ってというか濡れてというかで肌触りが気持ち悪かったのとそのまま放置しておけば汗が気化するときに体温を奪ってさらに体にダメージを与えると思ったからだけど着ているものを全部脱いでからカーテンを閉め忘れたことに気付くという段取りの悪さは寝起きで頭がぼけぼけなせいかそれとも熱があるせいかその両方か生来の間抜けのせいかよくわからないが壁沿いに窓に近付いてカーテンを閉めたのだがいつまでも裸でぶるぶる震えながら部屋の中を歩き回っている方がどうかしているといえばどうかしているのだけどどうせ部屋の中は真っ暗だし窓の外には桜しかないしどこか遠くのマンションから赤外線スコープで覗いているとかいうことでもなければ誰かから見られる心配なんてまずなかっただろうしだいいちいったいどこの誰がわたしの裸なんて見たいと思うだろうかと思わないでもないけどそれでもやっぱり人前に裸体をさらすのはとても嫌で温泉に行かないかと誘われてもどうしても縦に首を振れないのはそういう個人的な事情があるからなのだけど箪笥から乾いたパジャマと下着を出して身に着けるとその暖かさが身に染みるというか寝起きの頭が再び眠りの方へ引き戻される心地よさというかあの美しい受付嬢が呼んでいるというかそういえば面接官はとても美しい女の人だったそうだけどもちろんわたしは美しい人のことはそれが女であろうとなかろうと男であろうとなかろうとそれ以外であろうとなかろうと美しければ好きなのだけど好きというのは別にその人と一緒に暮らしたいとか同じ布団で同じ夢を見たいとかただたんに結婚生活を共にしたいとかそういうことじゃなくて眺めているとそれだけで嬉しい眼福という意味であってそんなの生活全般からすればほとんど意味がないという人はバイカル湖の湖底に住むといわれるこの世でいちばん醜い雷魚と一緒にひっそりと生活していればよいとわたしは思うのだけどそれはそれで領空侵犯かもしれないと思わないでもないけど今がよければすべてよしのわたしとしては乾いて暖かく感じられるパジャマに身を包んだところで誰かが金槌で頭をぶん殴っているんじゃなかろうかというほどの頭痛と朦朧とした頭脳とぎくしゃくする身体と震えの止まらない体とほかにも不具合がたくさんある現状には我慢できないのだけどとりあえずトイレに行きたいというのが次なる欲求であるので寝ていた部屋を出てトイレのあるべき場所に行こうとするとないはずの階段があるということは知らないうちに家の外に出てしまったのだろうかと一瞬ぎょっとするのだけどその階段を下りたところにもトイレがあることはあまりに明白なのでそのまま暗闇を一段ずつ転落したりしないように足探りで降りていくのだけどどうしても電気のスイッチを入れる気になれないというのも明るくなった瞬間目が痛くなりそうに思えたからなのだけどトイレにはいるときに電気を付けないのは少々気掛かりだったけどなにしろ勝手知ったる空間なので粗相したりはしないで済んだのだけどおしっこが全部出てしまうまでにあまりに時間が掛かったのでおしりを丸出しにしたまま永久に便座に腰掛けていなければならないのかという気がしてああ神様これも試練ですかとひとり呟かないではいられなかったのだけどわたしの呟きの後に続けて誰かが神様わたくしに試練をお与えくださいと言うのが聞こえたので いわゆるトイレの神様かトイレの花子さんかと思ったのだけど神様はともかく花子さんが一般家庭のトイレにおいでになるなんて聞いたこともないし狭すぎて居心地も悪かろうと思うのだけどその声はトイレじゃなくてどこか別の場所から聞こえてくるのが分かったのでとりあえず階下を探検することにしたのだけどトイレを出てすぐのところにあるのは三年前に死んだ母親の部屋で今では仏壇がそこにあって母親が死ぬ五年前に死んだ父親とそのさらに五年前に死んだ文鳥が祀ってあるのだが文鳥の位牌は特になくてその代わりに小さなポートレートが飾ってあるのだけど真っ暗な中で仏壇の前の座布団に座って文鳥と父親と母親の顔を見極めようとしてもさっぱりわからないのだけどそれでも写真や位牌を凝視しているとそんなに暗くちゃ見える分けないでしょうと母親が言って電気を付けるとその部屋のごちゃごちゃした装飾というかガラクタというかボロというか絢爛豪華というかが暗いところに慣れた目を刺激したのだけどなによりも禅宗の仏壇は地味だから嫌いと仏壇屋に嘘を言って買ってきた豪華絢爛金ぴかの浄土宗の仏壇は日に日にグレードアップしていき今ではそれが仏壇だかなんだかよくわからなくなっているのだけど母親の葬儀のときやってきたお坊さんが思いきり嫌な顔をしてご先祖様を大事にしようと思われるなら宗派に合った仏壇に買い換えることをお勧めしますと言いながらもお経を唱えてくれたのは滅多にないほどありがたいことに思えたのだけど後日いくつかの仏壇屋から仏壇買い換えのオファーがあったときには仏壇を取り替えるつもりはこれっぽっちもなかったので今のところ必要ありませんと全部断ったというわけなので今に至るまでこの仏壇なんだけどきょうだいはかなり嫌がっていたけど故人の意思を尊重してやって欲しいとわたしが説得したので結局そのままの姿できょうだいの家に運ばれていったのだがその後のことは知らないし興味もないしどうでもいいと思ったので仏壇の前のクレージーパッチワークの座布団に座ってどうでもいいやというと母親がやはりクレージーパッチワークのこたつ掛けの掛かったこたつに入ってみかんでお手玉をしながら親不孝者と言ったのではいわたしはどうせ親不孝者だと返すとそう思うなら早く結婚して孫でも連れてきなさいと言われたのでわたしは自分の子供なんてこれっぽっちも欲しくないのだと返したのは言うまでもないのだけどどうして自分の子供が少しも欲しくないのか実はわたしにもよくわからないのだけどこれまでずいぶんいろんな説明を自分に対してしてきたのだけどたとえば自滅型ＤＮＡだとかもう家庭にはうんざりだとか体力がなさ過ぎるので子育ては不可能だとかもうほんとうにいろいろ考えてきたのだけど結局のところよくわからなくて分からなくなった果てに新しい家族がやっぱり欲しいと言うことになれば母親も草葉の陰で浮かばれようというものかもしれないけどやっぱりそういう気持になれないので母親が業を煮やして化けて出てきたのかとも思ったけど少なくとも生きているうちはそこまでしてわたしのことを縛り付けたことはほとんどなかったというかああなってしまってからはほとんどわたしに関心がなかったのだから何をいまさらと思わないではいられないのだけど母親はお手玉のみかんの数を三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十と増やしていきながら親不孝者とわたしに向かって言うのでわたしはこたつに入りながら空中に浮かんでいるみかんのひとつを手に取ると剥いて食べるのだけど桜の咲く頃のみかんなんてどうしたってわたしの口に合うわけもないのだけどなにしろ寒くて体の震えが止まらないのでどうしようもなくて衝立の上に掛かっていたやたらに派手な振り袖を下から引っ張って取ろうとすると衝立が倒れてきて痛い目を見たのだけど衝立はその辺にうっちゃって振り袖を羽織ると少しは暖かく感じられたのだけどそもそもその振り袖はいったい誰のものなのかと母親に聞くと母親はあなたのものじゃありませんとだけ答えたので結局誰の者かは分からずじまいなのだけど母親のものとかその母親のものとかわたしのきょうだいのものとかそんなところなのかもしれなけどそういえばわたしは振り袖なんて一度も袖を通したことがなくてだからといって袖を通したところでどうということもなくてただ寒さを凌ぐ役に立っているということ以外の何物でもなくて 晴れ着という意味合いはひとつもなくてどうしてわたしには振り袖がないのだろうと言うと母親はお手玉をしていたみかんを一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つとわたしにぶつけてわたしが痛い痛いというと高笑いをする上にあなたにはずいぶんよくしてあげたのにそれでもまだ足りないとでもいうのと言葉にはしないけどそういう顔をするのでそうまだ足りないのですとわたしは言葉に出して言うと母親はそれには少しも動じないでそれじゃあ付いていらっしゃいと立ち上がると背筋がぴんと伸びて高熱でよれよれになっているわたしとはえらい違いなのだけど別にわたしは高熱を出していてもいなくてもいつでもよれよれで振り袖の前を合わせてでも帯を締めているわけじゃないので両手でずっと前を合わせ続けていないとならなくてしかも裾をずるずる引きずるのだけど母親がそんなことには頓着しないというようすを見せたのでわたしも頓着しないことにしてキッチンに付いていくと窓からは朝日が差し込んでいていかにも気持のいい朝なのだけど高熱が出て気分が悪いのは何も変わらなくて母親はエプロンを付けてフライパンをレンジの上に乗せ火を付けると軽く油を引いて冷蔵庫から卵の十個入りパックを取り出すと見てらっしゃいこれが太陽がいっぱいサニーサイドアップといって太陽がいっぱいという映画をパロディ化したらしいサニーサイドという映画があってその中で主人公の貧乏な青年と殺してしまうはずの大金持ちの青年が心だけでなく体も愛し合ってしまうのだけどそのシーンで見えてはいけないものが見えていると言うことで日本では公開されなかったのだけど確か制作した側が修正に応じなかったという経緯があったはずで今ではビデオにはなっているはずなので見たことがなければ一度見るべきねそうそうその映画では二人の男が共謀して大金持ちの恋人だった女の子を殺してしまうのだけどあんまり話してしまうとビデオを見るのが詰まらなくなってしまうわねその映画の中で二人の青年が初めての夜を過ごした次の朝食べるのがこれから作る太陽がいっぱいサニーサイドアップなのだけどそれはビデオの中でそう名付けられていただけのことでフランス語なんだけど会話を聞き取るとたんに目玉焼きとしか言ってないのよねそれはそうとしてその映画はパロディとして作られたのだけどそう今ほど多様な愛の形が世の中に認識されていなかった時代のことだからなんだけどそれがパロディの形を取っていながら切ない愛の形を描いていると日本にこの映画を紹介した人はビデオの解説で書いていて見てみればわかるけどまったくその通りでたったひとつの愛の形そしてたったひとつの家族の形しか信じることも想像することもできない惨めな男たちの意識を逆手に取っているというわけなのだけどそんなことを言っているうちに太陽がいっぱいサニーサイドアップができたわねそこの大皿を取ってそうそうそれ昨日りんごを積み上げたやつあのりんごはどうしたかってもちろん全部ジャムにしたわよそんなことを心配する必要なんてひとつもないのにみじん切りにした大根は全部冷凍してあるのよあれはお正月のなますにでもしようかと思うのどうかしらねそういえばあなたはなますは好きだったかしらナマズは好きだってなに詰まらないシャレをいってるのよいいから座って出来損ないの朝食ですっていいじゃないそんなのお腹に入ってしまえばおんなじよまだ熱があるから食欲がないってそれなら食べられるだけ食べればいいじゃない太陽がいっぱいサニーサイドアップはちっとも食欲をそそらないってそうそう映画の中でも二人の青年はそれまで体験したことのな幸せな夜を過ごした後の浮かれた気分でこれを作ってしまうのだけど結局全部は食べられないのよね作ったのは貧乏な青年の方なんだけどつまりそれは彼がいつかお金持ちになったときに食べてみたかった朝食なんだけどそのことをお金持ちの青年に話すとお金持ちの青年は黙って貧乏な青年の目を見詰めてありがとうっていうのよぼくはとっても嬉しいよぼくはたぶんいまはじめて家族の意味を知ったかもしれないって笑わないでよ確かに話だけするととても変に聞こえるかもしれないけどベタかもしれないけどやっぱりそこで泣けてしまうのよね実の母親からそういう話をされるとは思わなかったってそうねわたしもこんなことをあなたと話す日が来るとは一度も思わなかったわ今日まで生きて来れて本当によかったと思うわ神様に感謝しますいい加減な気持じゃなくおざなりな気持じゃなくほんとうに心からありがとう神様こんな素敵な朝を。