つぼみの開きはじめた桜と群青に近い空――布団に横たわったまま見ることのできる外の世界のすべて。それが視界に入るすべてならよかったのに。横方向に積み上げられた本と本のすき間にまた別の本が縦方向に突き刺さっている本棚とか、すっかりすり切れた畳だとか壁紙だとか、洗濯されるべき衣類の山だとか、その隣の崩れた本の山だとか、そういう見たくもないものだってどうしたって多少は目に入ってしまう。もう少し元気でいらいらしていたらどれもこれも蹴飛ばしてかえって滅茶苦茶にしてしまいそうな諸々だが、幸いにしてというか不幸にしてというか、高熱を出して寝返りを打つのもそろそろ大儀になってきた今となってはそういう心配をする必要はなかった。
とりあえず見たくないものを見ないためにできるだけ窓の外ばかり眺めているのだが、そうしているうちにどうしてそうしていなければならなかったのかということを忘れて寝返りでも打とうものなら、それ以上に見たくないものを見る羽目に陥るのだった。
窓とは反対側には母親が座っていて、包丁でりんごを切り刻む作業に没頭していた。最初近所のスーパーの袋いっぱいのりんごを抱えて部屋に入ってきたとき、わたしに食べさせてくれようとしているのだと思った。だってほかにどう考えたらいいのかわからなかったから。そんなことを期待するのが無茶だとわかっていても。
母親は袋からりんごを一個一個取り出してはエプロンで少しつやがでるくらいまできれいに拭き、わたしの寝ている頭のすぐ側に山と積み上げた。もし崩れてきたら、一個か二個くらいはわたしの頭を直撃するかもしれなかった。でもやめてくれとは言わなかった。小首を傾げてなぜ？なんて聞かれた日には困ってしまうから。わかるように説明する気力なんてこれっぽっちもなかったし。
りんごをひととおり積み上げてしまうと、母親は部屋から出ていった。しかしすぐに包丁と大皿と琺瑯のボールを手に戻ってきた。ボールは畳の上に、大皿と包丁は布団の横に出ていた小さな座卓の上に置いた。
その座卓は朝のうちにわたしが用意したもので、市販の風邪薬と水差しが載っていた。水差しは夏の間麦茶を冷蔵庫で冷やすのに使ったものだ。コップがないのは準備する前に気力がなくなったから。水は水差しからじかに飲んでいた。
水差には薬を飲むという目的のほかに、発熱による発汗で失われた水分を補給するという意味もあった。高熱が出たときはそうした方がいいとどこかで聞いていたから。水よりも薄めたスポーツドリンクがよいという話だったが、なかったのでただの水道水を入れてある。
母親はそれらを無造作に隅に寄せると中心に大皿を据えた。それからりんごの山のいちばん上の一個を手に取ると皮を剥き始めた。ギネスブックに挑戦するみたいに細く長く。剥き終わると白っぽくて丸いりんごが手のひらの上に残った。それに斜め上から中心を通るように包丁を入れて半分に割り、片方を剥いた皮の入っているボールの中に入れ、残りを手の上で芯も形もお構いなしに器用に切り刻んだ。四角いのもあれば、櫛形のもあるし、くさび形のもあるし、いくつかには種が入っている、という具合に。大きさだけはだいたい揃っていた。
それから切り刻まれたりんごを大皿の上に一様に並べていった。たぶん。布団に寝たままでは皿の上までは見えなかった。ボールの中の残りの半分も、同じように処理された。
見ていたのは二個目が切り刻まれ、三個目が切り刻まれ始めようとしていたところまで。そのあと寝返りを打ってからはずっと窓の外を見ていた。あるいは見ようと努力していた。風が強いのか桜の枝が大きくたわみ窓枠ががたがたと音を立てた。空には一片の雲も見えない。みんなどこかへ吹き飛ばされてしまったのだろう。桜が咲き始めたというのに春一番のような南風ではなく木枯らしのような北風。見ているだけで寒そうな空の色。
部屋の中は石油ファンヒーターのおかげで寒くはないはずだった。でも寒くて仕方がなかった。冷気が窓ガラスや外壁、内壁、畳、そして布団を伝わって来るのだ。
熱はたぶんどんどん上がっていた。夕べは三十八度六分だったが、いまはどのくらいだろう。三十九度を越えているかもしれない。でも熱を計ることはしない。三十九度を超えている、あるいは四十度を超えているなんてことがわかったら挫けてしまいそうな気がするから。挫けたらどうなるのだろう。よくわからない。一度挫けてみたらどうか、と思わないでもないけど高熱が長引くのは嫌なので、たぶん挫けそうになることはしないだろう。と思う。
つい寝返りを打ってしまった。母親のこともりんごのことも忘れていたのだ。座卓の上のりんごの残骸の山はだいぶ成長していた。一方まだ切り刻まれていない方のりんごの山はそれなりに低くなっていた。もういくつくらい切り刻まれたのだろうか。もし熱がなければＩＱテストみたいにその数を割り出したかもしれないが、そんな気力はとてもなかった。再び寝返りを打って窓の方を向いた。
そもそもどうして高熱なのか。風邪かもしれないし、インフルエンザかもしれない。でも今頃の季節にインフルエンザが流行するものなのだろうか？分野を問わず流行には疎いのでわからない。疎いついでにインフルエンザにも掛からない、ということならいいのに。
それとも昨日の面接に失敗したから高熱を出して寝込んでいる、ということなのだろうか。たしかにずっと前、好きな人に好きだといったらほかに好きな人がいるのだと言われて熱を出して寝込んだことはあるが、そのときはせいぜい三十七度止まりだった。そのときのほうがずっとショックは大きかったはずだ。そういう経験は最初だったし。でも面接に失敗するなんていうのは初めての経験ではない。昨日のパターンは初めてだったが。面接に失敗したというよりも面接にこぎ着けるのに失敗したのだ。遅刻というやつだ。その原因および責任がわたしにあるのはもちろんだが、母親にだってないとは言えまい。というかかなりあるかもしれない。ただし母親に責任能力があるかどうかは微妙だ。
必要なとき、すなわちいつまでも寝ているわけに行かないときは目覚まし時計を枕元に四つ並べてセットする。どういうわけかわたしの買ってくる千円くらいの目覚まし時計は夜中のうちにサボったり止まったりするという悪癖を持っているものばかりで、そういう事故のある度に新しいのを買い足すのでいつの間にか四つに増えてしまっていた。
四つの時計のうち、その手の事故を一度も起こしたことのないのはひとつもない。だとすればさらに買い足していってもいいのかもしれないが、四つの時計が同時に止まったり遅れたりすることは確率的にほとんどないだろうと思ったので、それ以上時計を増やすのは無駄に思えたのだ。
それら四つの時計を、数分間隔でアラームが鳴るようにセットする。そうすればたとえひとつまたは二つの時計が止まってしまっても、ある時間帯のうちに少なくとも二度はアラームが鳴ることになる。
一度セットすると数分ごとに何度も鳴るアラームというのもあるにはあるが、わたしはあれが嫌いなのだ。一度アラームを切った時計が再び鳴り出すというのに耐えられないのだ。だからそういう機能があったとしても、それは使わない。それに、そんな機能があっても止まってしまったら役に立たないわけだし。
三つ以上の時計が同時に止まってしまうということはどうにもありそうもないことなので問題はないと思っていたのだが、実際にはそういうことが起こってしまったのだ。
最初のアラームが鳴ったとき、まだ時間的な余裕があったので次の時計のアラームが鳴るまでもう一眠りしようと思った。それが間違いだった。
二度目に目が覚めて手にした時計が示していたのは、先ほど見たのよりもずっと前の時刻だった。一瞬時間が逆戻りしたのかと思ったが、すぐにその時計の秒針が止まっていることに気が付いた。驚いて枕元の時計を片端から手に取ると、さきほどアラームを止めた時計以外は全部止まっていた。裏蓋が開けられ、電池が抜き取られていたのだ。
それが母親の仕業であることはすぐにわかった。そういうことをするのがいつでも母親だということを別にしても。だってほかには誰もこの家にはいないのだから。
唯一動いていた時計は、出掛けるつもりだった時刻の三分前を示していた。飛び起きると最低限の身繕いをして家を飛び出した。ところが電車の乗り継ぎが悪くて、結局二十分遅刻した。受付の人はなぜかわたしに同情して面接官に取り次ごうとしてくれたのだが、だめだった。わたしは惨めな気持で帰路についた。
帰ると母親はキッチンで大根一本分をみじん切りにしているところだった。わたしはその後ろ姿を睨んだだけで何も言わなかった。何か言っても何も変わらない、むしろ悪化するかもしれないと思ったから。あるいはそう思うことにしていたから。しかし心の中で密かに呪いはした。
それに、母親はすべての時計の電池を抜き取ったわけではなかったのだ。理由は分からないが。いたずら？警告？そのどちらでもないような気がする。
だいたいわたしは最初のアラームで目を覚ましたのだし、そのとき布団から出ていればたぶん遅刻だってしないで済んだはずなのだ。面接だというのに遅刻ギリギリまで寝てようというわたしの態度にだって問題はあった。
しかしそれはそれとして、母親が奇矯な行動しかできないことに対するどうしようもない苛立ちというのがあって、その苛立ちを母親にぶつけていいものなのかいけないものなのかはよくわからなかった。
でもきっと医者だろうと親戚だろうときょうだいだろうと相談すれば誰でもそうしてはいけないと言うような気がする。というのもわたし自身そう思うから。
というわけで苛立ちを鎮めるために不貞寝したのだが、夕方目が覚めたときには悪寒がしていた。
こうして思い返してみると、やっぱり風邪かもしれない。でも風邪を引かないように気を付けて不貞寝したはずなんだけど。
あるいは日頃の生活態度にも問題があるのかもしれない。毎日十二時間くらい寝ていることとか、母親が生きている限り働かなくても生きていけるという考えからどうしても抜け出せないこととか。失業保険が切れてもう二ヶ月も収入がないのにほとんど焦りを感じていないのはまずいことではないのか。
失業保険が切れて貯金を取り崩そうとしたときに、母親はわたしの生活費を負担してくれると言った。わたしが家から出ていかないのも結婚しようともしないのも、自分の世話をしてくれようとしているからだ、それなのにわたしが自分の生活費を工面するために貯金を取り崩すのは間違っている、というのだ。
確かに母親のことが心配だというのはあったとしても、家を出ていかないのはたぶんなんとなく出て行く機会を失ってしまったからだし、家賃が掛からないからだし、結婚しないのだって、たぶんその理由のほとんどは母親とは関係がない。結婚する相手がいないからとか、なんとなく結婚したくないからとか。どうしても誰とでもいいから結婚したいというのなら結婚情報サービスに登録するとか、誰かに相手を紹介してもらうとか、そういう手段に訴えただろう。出て行くにしろ結婚するにしろ、どうしてもそうしたいと思ったら、そうしていたような気がする。もちろんそうなった場合、母親をどうするかきょうだいや親戚と話し合っていちばん良さそうな方法を模索したことだろう。
でもわたしは母親の申し出に従った。というか甘えた。それが親孝行という気持もあったかもしれないけど、やっぱり自分のお金を使わないで済むのなら、それに越したことはないから。誰かに甘えていると非難されたら、その通りです、としか答えようがない。でもそれが非難されるようなことなのかどうかはよくわからないし、体調の悪いときに考えたいことでもない。
母親は、何度説明されてもよくわからなかったが、三通りの「年金」を受給していて、潤沢とはいえなくてもそこそこの生活を続けるだけの収入があり、わたしが食べるくらいの分を負担しても家計はたいして圧迫されないのだ。ここ半年の母親の生活というか行動の大半はわたしの理解を超えていた。家計に関してもそうだった。ただしそれはわたしが家計に関するありとあらゆる常識知識才能を欠いているという意味においてだが。
無目的に大根一本をみじん切りにしてしまうような今でも、母親は家計のやりくりをきちんとこなせるのだった。いったい脳の神経のどこがどう配線されるとこういうことになるのかわたしにはさっぱりわからなかった。医者にも分からないのだから、誰にも分からないのだろう。ただ、母親から渡されたお金を母親の助言に従って使っていけば、足りなくなることも必要以上に余ることもなく、ほどほどの生活水準を保って生活できるのだった。
母親がこんなことになってしまった原因はわたしにはよくわからないし、医者にもよくわからないようだった。事実としては、半年前にガン摘出の手術を受けてからずっとこの調子なのだった。
医者は一年間再発しなければその後に希望を繋げると言った。まだ半年だけど、今のところ再発は確認されていない。それはそれとして、でも母親の人格はずいぶん変わってしまっていた。
そのことについてはきょうだいとか親戚とか医者とかの間でずいぶんいろいろなやり取りがなされたのだが、結局今のような形に落ち着いた。つまり手術をする前と同じ環境で生活するのがよいだろうということ。そうすれば何かのきっかけで元通りになるかもしれない、と医者は言わなかったがわたしを含めたきょうだいと親戚はそう言った。
また寝返りを打つと、乱切りりんごの山はもうかなりの高さになっていて、今にも崩れそうだった。結局いくつのりんごが犠牲になったのだろう。りんごの山は最後の一段がすでに切り崩され始めていた。そう遠くない将来にすべて乱切りりんごになってしまうのだろう。積み上げられた乱切りりんごの山は下の方から変色が進んで、たとえ体調が良くてお腹が空いていても、それほど食欲をそそらなかったに違いない。ひとことで言って、凄惨。
そもそもあのりんごはどこからやってきたものなのか。近所のスーパーで買ってきたものなのか、それとも近所のお裾分けなのか。お裾分けだとしたら少し面倒だ。あとでお礼を言わなくてはならないし、機会があったらお返しをしなくてはならない。しかしうちには到来物なんてめったにないので、到来物ということにして買ってきた何かでお返しするということになってしまうのだ。
それと、母親が何かとんでもないことをしたり言ったりしていないといいのだけど。幸いそれが問題になることはまずないのだけど。というのも近所の人は事情を知っているので。とはいってもいただいたりんごがこんな姿になってしまっては。もし体調がよければジャムにでもしてしまうところだけど、それどころではない。
せっかく熱を出して寝ているのだから、心静かにしていたいのだけどなかなかそうはいかない。頭が勝手に動いてしまうから。しかもよくない方へと。
そういうことを考えたくなくとも考えているうちに、また熱が上がってきたのかもしれない。なんだか体中が熱くて、布団を掛けていられないほど。でも布団から手足を出すととても寒い。鼻が詰まって息苦しい。でも母親はひたすらりんごを剥き続けている。それが憎たらしくてならなかった。少しは心配してくれたっていいだろうに……それを期待するのが無理だと分かっていても。
また寝返りを打つと、桜と、その向こうの藍色の空が見えた。熱が下がったら花見でもしたいと思った。でもきっと、母親と二人でお茶でも啜りながら桜を眺めるのがせいぜいだろう。せめて桜餅くらいは買ってこよう。すると母親が「それどころではないでしょう」と言った。何がそれどころではないというのか。就職のこと？それとも高熱を出して寝込んでいること？
それ以前に花見に行きたいなんて声に出して言ったりはしていない。でも母親はまるでそれを聞き取ったかのようにそう言うのだ。そういうことはときどきあった。偶然なのか、それともわたしの内なる声を聞き取ってしまうのか。それとも、こういう母親と一緒に暮らしているうちに、声を出しているのに出していないと錯覚するようになってしまっているのか。
何がそれどころでもないのかと母親に問いただすのは無駄なことだった。そんなことを言ったかしらとでも言いたげに首を傾げるばかりだったから。昔飼っていた文鳥みたいに。昔飼っていた桜文鳥。あの、小首を傾げる動作はいったいどういう積もりだったのか。たぶんどんな積もりもなかったのだろうけど、そう思わせるような動作。母親の動作はそれとそっくりだ。やっぱりどんな積もりもないのだろうか……。
いつの間にか部屋の中は真っ暗になっていた。窓の外も暗かった。でも街の明かりや星明かりで薄ぼんやりと明るかった。いつの間にか眠ってしまい、そのうちに日が暮れたのだろう、おそらく。しかし、母親がわたしの横でりんごを剥いていたのと同じ日の夜だと言い切る自信はなかった。丸二日くらい眠ったままでしたと誰かに言われたら信じてしまったかもしれない。数時間では見られないと思えるほどたくさんの嫌な夢を見ていた。
体調はどうしようもなく低調だったが、熱は少し下がったような気がする。ほんとうに下がったのかどうかはわからないが。トイレに行こうと布団から這い出ると、部屋の中は寒かった。ファンヒーターは止まっていた。石油が切れてしまっていたのだ。起きあがると体がふらついて、目眩もした。微熱にまで下がってはいないようだ。まだクリーニングに出していないダッフルコートを着て廊下に出ると真っ暗だった。廊下の先の階段も真っ暗だった。
電気を付けながらトイレにたどり着き、用を足して部屋に戻ろうとしたとき、キッチンからハミングが聞こえてきた。背中を冷や汗が流れたような気がした。本当に流れたかもしれない。ぞっとする、というやつだ。熱が出ていて汗をかいてもさらにその上冷や汗までかかねばならないのかと思うと納得できない気持がした。
ハミングはもちろん母親の声だった。ただ、廊下とキッチンを仕切るドアのガラスの向こうが真っ暗だったので、ぞっとしたのだ。
ハミングが止まった。勇気を出してドアを開け、電気を付けた。母親はテーブルにの上のノートに何かを書き付けていた。暗かろうが明るかろうがわたしがいようがいまいが関係ない、とでもいうように。
わたしは黙って母親の向かいに座った。覗き込むと五線譜のノートに音符ではなくアルファベットの筆記体で何か書いていた。ローマ字でもなければ英語でもない。フランス語？スペイン語やイタリア語ではなさそうだった。
電気を付けないと目を悪くするとわたしは言った。最近すっかり視力を落としていいるわたしなら、豆ランプの明かりで文字を読み書きするなんてもうできないし、ましてや北向きの窓から入ってくる隣家の明かりで辛うじてテーブルの所在を知ることができるという程度の明るさで文字を書くなんて不可能だった。
ところが母親は老眼鏡さえ掛けていなかった。こうなってしまってからは決して老眼鏡を掛けようとはしないのだった。
キッチンはとても寒かった。少なくともわたしの部屋よりも寒いようだった。コートの前を合わせてもあまり変わらなかった。その寒さが悪寒のせいなのか本当に寒いのかもよくわからなかった。たぶん両方だろう。
母親は夏物のブラウスとスカートを着ているだけで、震えてもいないし鳥肌を立てているのでもなかった。心配になって母親の額に手を触れると気持ちいいほどひんやりしていた。母親はうるさそうにわたしの手を払いのけた。
仕切の引き戸を開けて居間に行くと、エアコンのスイッチを入れた。キッチンには暖房がないのでそうしないと暖まらないのだ。
次に母親の部屋に行き、わたしの理解できない方法で「きちんと」片付けられている中からカーディガンを探し出し、キッチンに戻って母親に羽織らせた。母親はカーディガンに袖を通し、書き物を続けた。
キッチンのワゴンの上には乱切りりんごの山のできた大皿が乗っていた。頂上にはなぜかウサギの形に細工されたりんごが乗っていた。どのりんごの断片も例外なく茶色に変色していた。もう誰も食べたいとは思わないだろう。
ノートに書き付けられている筆記体の文字はよく揃っていて美しかった。悪筆のわたしがどんなに頑張ってもそんなふうには書けないだろう。ほとんど真っ暗なキッチンで老眼鏡も書けずにいったいどうしたらそんなふうに書けるというのだろう。
わたしはキッチンとそれに続く廊下や居間の電気を全部消してみた。目が慣れるにつれ、母親やテーブルを見分けられるくらいになってきたのでさっきと同じように母親の向かいに座りノートを凝視したが、鉛筆がノートの表面をさらさら滑っているらしいことが分かるだけだった。
わたしの負け、という気持ちでまた電気を付け、母親の向かいに座って何を書いているのかとたずねた。すると母親は歌を歌い始めた。こうなる以前の母親がときどき口ずさんでいた、聞き覚えのあるメロディ。古いシャンソンで、若い頃ラジオの語学講座か何かで覚えたらしい歌。
開いたノートのページのいちばん上の方に"Le petit train"と書かれているのが見えた。たぶんそれがタイトルなのだろう。
そういえばわたしはその歌のタイトルや歌詞を一度も母親に尋ねたことがなかった。ただ母親の歌うフランス語の歌、というくらいにしか思ったことがなかった。子供の頃からずっと聞いていたというのに。あるいは子供の頃からずっと聞いていたからそうなのか。
そのノートに書かれている歌詞を読めばその意味も分かるのだろうが、わたしはフランス語が読めなかった。もっとも、その歌のタイトルの意味くらいはなんとなく見当が付いた。"petit"はプチ、小さな、"train"はたぶん英語と同じで列車とか汽車とかそんな意味だろう。小さな列車、あるいは小さな汽車。そう、小さな汽車、だろう。歌詞の中の「チッチッ」と聞こえる部分は、たぶん日本語で言うところの「シュッシュッ」なのだろう。
「これはね、田舎に小さな汽車が走っていて、でもそれに乗る人もだんだんいなくなって、とうとう廃止になってしまうのだけど、なくなってしまってから、あんな汽車があったんだなってみんなが懐かしむ、という歌なのよ」
わたしが何かを尋ねるよりも先に、母親が歌詞の内容を説明した。でもわたしにはそれが本当かどうか分からなかった。どうしても知りたいと思ったら、母親が歌詞を書き付けているノートを借りて、誰かフランス語の分かる人に聞いてみるしかないだろう。でも身近でフランス語が分かるのは母親以外にいないのだった。
歌詞を全部書き終えてしまうと母親はノートをぱたんと閉じ、居間の方へ歩いていった。そして居間の中を"Le petit train"の歌を歌いながらぐるぐる歩き回り始めた。水平にした両腕を左右交互に、前後に動かしながら。わたしが子供の頃に幼稚園か何かで習った、蒸気機関車の動作。
野菜や果物を無目的にみじん切りにするというようなことにはすっかり慣れっこになっていたが、そういう子供みたいな真似をするのを見るのは初めてだったので動揺しないではいられなかった。とうとう子供みたいになってしまったのだろうか。すぐにでもやめさせたかったが、そうするべきなのか、少し様子を見るべきなのか、わからなかった。母親の後について歩きながら、どうしたらいいのかと考えた。でもそうしているうちに頭ががんがん痛んできて、的確な判断を下すどころではなくなってきた。ただ、母親の後について部屋の中をぐるぐる歩き回るだけ。少しだけ、運転手はきみだ、車掌はぼくだ、と思わないでもなかった。そうしているうちに目が回ってきたのか気持ち悪くなってきてその場にしゃがむか倒れるかしたのだが、その後どうなったのかはまったくわからない。覚えていない。気が付いたら二階の自分の部屋の自分の布団の中にいて、窓から朝日が差し込んでいた。
母親がわたしのことを担ぎ上げてくれたのだろうかとも思ったが、母親がそんなことをしてくれるとはどうしても思えなかったし、それにもし母親がそうしたいと思ったとしても、今の母親が今のわたしを抱き上げたり負ぶったりするのはかなり難しいことのように思えた。
熱を計ると三十七度五分だった。思ったよりも低かった。まだ油断はできないが、一日ゆっくりしていればだいたい回復するだろう。
コートを羽織って階段を下りていくと、卵を焼くいい匂いがした。いい匂いと感じられるのだから、食欲も回復し始めているのだろう。でもそれ以上にわたしはどきどきしていた。わたし以外の誰かが料理をしてくれている！きょうだいとか親戚が来てくれているのでなければ、料理をしているのは――。
わたしは失望しすぎないようにキッチンのドアを開けながらきょうだいの名前を呼んだ。「来てるの？」
「来ていないよ」と母親が答えた。母親はエプロンをしてレンジの前に立っていた。「もうすぐできるから、座って待ってて」
軽く目眩がした。というのもテーブルの準備は完璧だったから。ランチョンマット、ナイフとフォーク、ティーセット、トースト立て、きつね色に焼けた薄切りの食パン、バター、ジャム、サラダ……
奇跡が起きたのだと思った。大変だったけど、こういう生活をしてきてよかったんだ。これであと半年ガンが再発しなければ、何もかもがうまくいくに違いない……。
母親は"Le petit train"をハミングしながらフライパンを軽く動かしていた。「お母さん」とわたしは言った。母親のことをそう呼んだのはたぶん半年ぶりのことだった。口にしてしまってからなんとなく気恥ずかしくなってしまったけど。
昔これと同じようなことがあった、というような眺めだったけど、たぶんこういうことは一度もなかった。だって母親と二人で暮らすようになってからは朝食なんていつも手抜きだったから。菓子パンと牛乳、とかそんな感じ。
わたしは母親の子供になったような気分で――もちろんわたしは母親の子供だけど――母親のそばに寄った。わたしの方がだいぶ背が高いのが変な感じだった。そして母親の肩越しにフライパンの中を見た。よい加減のサニーサイドアップがもう少しでできるところだった。ただし、十個目玉の。きっと冷蔵庫に入っていたひとパック全部を使ってしまったのだろう。わたしはため息をついた。
少ししてから、テーブルには十個目玉の目玉焼きとぬるま湯で入った紅茶がサーブされた。