（２）

三年前のことを覚えている？そう、あなたが今日みたいに酔っ払って昼過ぎまで寝てたときのこと。

いままでどうしても話すことができなかったけど、やっぱりどうしても話さなければいけないことだって、あなたを見て思った。辛いでしょうけど、最後まで聞いてちょうだい。

あの日、帰りが遅くなるとあなたは電話をしてきたのだけれど、十一時を過ぎても十二時を過ぎても帰って来なかった。それまでいちどもそんなことはなかったので、私は心配で心配でたまらなかった。事故にでも巻き込まれたのではないか、と思ったりもした。

お父さんが単身赴任さえしていなければ探しに行ってもらうこともできたのだと思うと、少しだけ恨めしい気持ちになった。たとえあなたのことが心配でも、夜中にひとりで外へ出るのは恐かったのだ。

でも午前二時前になって、心配のほうが恐怖よりも強くなって、とにかく駅まで行ってみようって思った。

外に出るとしんと静まり返っていて、少し肌寒かった。公園の前まで来たとき、自然と足がそちらへ向いた。いつもその中を通っているからだと思う。そしてそこに足を踏み入れたところで、私は動けなくなってしまったのだった。

あなたはそこにいて、何かをずるずる引きずっていた。そしてトイレに入るとすぐに手ぶらで出てきた。

あなたの歩いていこうとするあたりに血まみれの男の人が仰向けに倒れていた。死んでいることはすぐにわかった。目は大きく見開かれたままだったのを覚えている。あなたはその人のところまで来ると、体に開いた大きな裂け目に右足を突っ込んで、かき回した。嫌な音がした。「やめなさい」と言おうとしたのだけど、声が出なかった。膝ががくがくいっていうことをきかないのをどうにかあなたの側まで行き、肩を掴んで私のほうを向かせた。

あなたの顔にはまるで表情がなかった。あなたのそんな顔をそれまでに見たことはなかった。誰よりもよく知っているはずのあなたの顔なのに、それは世界中の誰よりも知らない誰かの顔だった。

私はあなたの顔が恐ろしかった。でも同時に、それまでに見たどんな人の顔よりも美しいと思った。私はあなたの血まみれの両手を掴んで、何かを訴えようとしたのだけれど、どんな言葉も出て来なかった。

母親の私がこんなことをいうのはどうかしていると思うけど、水銀灯に照らし出され、全身に血を浴びたあなたはこの世のものとも思えないほど美しかった。

公園の水道で手足に付いた血を洗い流そうとしたのだけれど、とてもじゃないけど完全には洗い落とせなかった。それでも血が滴らない程度にはきれいになった。あなたはされるがままになっていた。

それからあなたの手を引いて家に戻ったのだけれど、膝ががくがくして、普段の三倍くらいの時間がかかったと思う。あんな時刻のせいか誰にも会わなかったのは幸運だった。

玄関で着ているものをすべて脱がせて──家の中が血で汚れないように、それからお風呂に連れていって頭のてっぺんから爪先まで念入りに洗った。あなたはその間人形みたいにおとなしかった。

あなたの裸の体を見たのは何年ぶりだったかしら？

全身をタオルでよく拭いて、パジャマを着せてベッドに寝かせたら、すぐに目を閉じて寝息を立てはじめた。私も寝ようと思ったのだけれど、結局一睡もできなかった。

血の付いた服は新聞紙にくるんで翌朝可燃ゴミとして出してしまった。

ママの話してくれたことはまったく記憶にないことだったのだけど、不思議と驚きはなかった。むしろ真実を知ってほっとした、という感じだった。

その日の晩、友達から電話で、私を振った人が死んだと聞かされた。なんでも自分のベッドの上で全裸で死んでいたらしくて、発見者は「彼女」だということだった。

死体には傷ひとつなく、とても美しかったという話だった。でもどういうわけか体の中の血が半分以上なくなっていて、その原因はとうとうわからなかったらしい。

私は結局自首しなかった。その人を殺したのは私に違いないと思う。でも、その人を殺したことも覚えていないし、ましてやどうやって殺したかなんて、まるで見当も付かないのに、いったいどうやって何を自供すればいいのだろう？

・・・ここまで話を聞いてくれてありがとう。じゃあ、いちばん話し難いことを話すね。

このことはまだママにも話してないの。でも、きっと察してると思うけど。

ここ一ヶ月くらい避けててごめんね。この前会ったのがあの事件の前日だから、仕方がなかったんだ。

私さあ、あの七人に乱暴されちゃったんだ。そう、輪姦されちゃったってこと。私の口からこんな言葉が出てくるなんて意外？私だって、意外。だいたい、どうしてそんな目に会わなきゃならなかったのかなって。私、なんにも悪いことしてないよ。ただ、あのうちのひとりが高校時代の友達で、たまたまうちの学園祭に来ていて、懐かしいねって。それで、そいつの友達とかいう連中と一緒に飲みに行って、それからカラオケ行って・・・。

・・・うん、そういうこと。そのあと私、テーブルの上にあったお酒をひとりで全部飲んじゃったの。そう、酔っ払って皆殺しにしてやるって思ったの。で、たぶんその通りになっちゃったってわけ。殺そうって思って飲んだのはこれが初めて。だから私は人殺しってわけ。

警察には呼ばれたわ。前の晩、私が一緒にいたのが目撃されていたから。でも、通りいっぺんのことを聞かれただけだった。

どうしてこんなことを話すかっていうと、警察へ行って、本当のことを話そうと思うから。あいつらに乱暴されたことを含めて。

あるいは私の言うことなんて信じてくれないかもしれない。だって、どうやってあいつらを殺したのか、私にもわからないのだから。あるのは、動機だけ。

××くんには、私のすべてを知っていて欲しかったから。

うん、これで全部。聞いてくれて、どうもありがとう。

女の子は男の子の両手を握った。

私はひと月ほど前に起きた奇怪な事件を思い出していた。

そのあたりはいつもなら明け方頃からカラスがうるさいのに、その朝はまったく静かだったという。付近の住民は、かえってそのために目を覚ましたくらいだとテレビで語っていた。

ゴミを出しにきた住民が、カラスよりもずっと黒くて大きい何かが、いくつも電線からぶら下がっているのに気付いた。

まもなくそれは黒焦げの人間ではないかということになって、警察に通報されたのだった。実際、それはその通りのものだった。

検死結果は、確か感電死だったと思う。身元の確認に少し時間がかかったのだが、七人とも某大学某運動部員だということだった。

それは明らかに「事故」ではなかった。しかし今日まで、どうしてそんなことになったのか、何もわかってはいなかった。

原稿からわずかに視線を上げると、男の子がほとんど泣きそうな顔をしているのが見えた。それから、ヨーコの青ざめた顔も。

女の子たちの向こう側は壁だったし、隣の別なカップルは自分達の世界に浸っていたみたいだったから、たぶんその話を聞いていたのは連れの男の子と私とヨーコだけだったろう。

話が終わって間もなく、女の子たちは席を立った。テーブルの上には手付かずのオードブルが二皿残されていた。女の子のグラスは空だったけど、男の子のほうは、半分以上残っていた。

私は女の子の後ろ姿を穴の開くほど見つめた。見るからに華奢な体つきだった。

男の子は女の子の差し出したお金を受け取ろうとせずに、ひとりで会計を済まそうとしていた。女の子は少しだけ不満そうな顔をした。

それから私の視線に気付いたのか、女の子がこちらを向いた。人形みたいな端正な顔立ち。人がいいだけが取り柄みたいな連れの男の子とセックスしたりするのは、似合わないように思えた。むしろ、その子の犯したかもしれない「殺人」のほうが似合うような気がしたくらいだ。

私たちは数秒間見つめ合った。いや、実際にはもっと短かったかもしれない。女の子は笑みを浮かべた。私もつられて笑いそうになったけど、笑わなかった。

そして女の子たちは店を出て行った。

私もヨーコもしばらくのあいだ押し黙っていた。テーブルの上にはそのまま捨てるにはもったいないほどの量の食べ物が残っていた。でも、それ以上飲んだり食べたりする気にはなれなかった。

「出ようか？」という私の提案に、ヨーコは同意した。ヨーコはなんだか憔悴しているようにみえた。きっと私も憔悴していたのだろうと思う。

もう帰る、というヨーコを説き伏せて、私たちはカラオケに行った。ほんとはカラオケに行くのは嫌だったのだけど、誰もいない自分の部屋に戻るよりはましだと思ったのだった。でもヨーコは実家だから事情は違うわけで、その意味では申し訳ないことをしたと思う。

午前二時頃まで歌っていたのだけれど、いい加減疲れてきてまだ開いていたファーストフードの店に入ってうとうとしているうちに「午前三時です閉店です」の声に追い出されて、仕方なくとぼとぼと駅まで歩いていって、寒風吹きすさぶ中をシャッターが開くまで待っていたのだけれど、運よく十分も待たないうちに中に入ることができた。

私たちは駅ビルのエレベーターの前に座り込んで缶コーヒーを飲んだ。

「疲れたね」

「眠いね」

まもなくヨーコは私の肩に頭を預けて寝息を立てはじめた。私はとんでもなく眠かったが、どうしても眠る気になれなかった。ヨーコが羨ましかった。

しばらくしてヨーコは初電に乗って帰っていった。

私の乗るべき電車が走り出すまでにはまだ少し間があった。でもひとりで電車を待っているのが堪え難くて、外へ出てタクシーを拾った。夜明け前という時間帯のせいか道路は空いていて、あっという間にアパートに着いてしまった。

部屋の中はひどく寒くて暖房を付けてもなかなか暖まらなかった。部屋が暖まる頃には起きているのが苦痛になっていたが、日が昇るよりも前に眠ってしまうのが恐くて、ヘッドホンを掛けて大きな音で音楽を聴いた。

あたりが明るくなりはじめると同時に、私は着替えもせずにそのままベッドに潜り込んだ。

電話の音で目を覚ましたとき、窓の外は暗かった。一瞬、時間が逆戻りしたような気がした。そしてたまらなくうんざりした。

電話はヨーコからだった。ヨーコの声は震えていた。

「夕刊見た？」

「・・・いま目を覚ましたところだから」

「ずっと寝てたの？」

「・・・うん」

「あのね」

受話器の向こうで深呼吸する音が聞こえた。

「あのね、あの事件の被害者たちが、女の子に乱暴したって記事が載ってた」

「・・・そお」

「あの子、警察に行ったのかな」

「・・・そうかもしれないね」

「・・・」

「・・・」

「あの話って、本当だったのかな」

「・・・たぶん本当なんじゃないのかなあ」

受話器を置いてから、体がたがた震えているのに気付いた。暖房を付け、再びベッドに潜り込み、それから自分の体を思い切り抱きしめた。

あの女の子のことを応援したいと思ったけれど、でもそれはできない相談のような気もするのだった。