その話をしていたのは、夕べとある店で隣り合わせになった女の子だった。その店は看板に「バー」と書いてあったから「バー」であるに違いないと私は判断したのであったが、ヨーコは、「この店、看板には『バー』なんて書いてあったけど、バーとしちゃあ邪道だよね。まあせいぜい『洋風居酒屋』ってとこかな」と「洋風居酒屋」説を唱えたのであった。まあこれでどんな店かだいたいわかって頂けたのではないかと思う。
私とヨーコはいつもながらの冴えない格好でその店の暖簾を潜り、いや、実際には暖簾なんてなかったけど、土曜の晩のせいかやたらに混んでいて、私達が向かい合って座ったテーブルの両サイドを都会風にドレスアップした──といういいまわしもなんだか妙だが──男女のカップルに挟まれてしまったのだった。
肩身の狭い思いをしながらも、私たちは仕事の話だとか、いまどんな本を読んでいるかとか、趣味で書いている小説を見せあったりなどしていたのだった。
「これがさあ、ウイーンのカフェなんかだったら、サマになると思わない？」
ヨーコはなんとかいうカクテルの入ったグラスを右手に持って、うっとりと中身を見つめた。
「二十世紀末のウイーンにそんなカフェが存在するものなのか？それに、私たちじゃあ世界中どこへ行ってもサマにならないと思う」
「相変わらずだね、キミは。そんなことだと友達はできないよ」
「まあね」
私たちの左隣では人並みの容姿だけど人に不快感を与えないようなこざっぱりした服や髪型がどんなものであるかを知っているらしい男の子が、これまた化粧を落としてヨーコと並んだら絶対に負けるだろうって女の子に、鳥に餌をやるみたいにフォークでオードブルを口の中に押し込んでいた。
ヨーコは顔を近づけると「羨ましい？」とささやいた。私は首を横に振ったが、その直後にボッスの「悦楽の園」という絵に描かれている人たちを思い出して、「やっぱり、羨ましいかもしれない」とヨーコにも聞こえないような声でつぶやいたのだけれど、ヨーコはそれをしっかりと聞き取ったようだった。そして勝ち誇ったような笑顔を見せた。
「どーしてあんたが勝ち誇るんだよ？」
「だって、私もああいうこと、したことあるもん」
「ヤな女」
「キミほどじゃないけどね」
ヨーコはそういって済ましている。
「でもさ」
私は話題を変えた。
「男の人の二人連れよりも女の子の二人連れのほうがこういうお店を華やがせる、ってのは嘘だよね」
「誰がそんなこといった？」
私はある共通の知り合いの名前を出した。
「ああ、奴ならいいそうだね」
「でしょ？でさあ、あっちのカウンターに並んで座っている二人連れなんだけどさあ」
ヨーコは体をねじってカウンターのほうを見た。
「あの二人のほうがさあ、私たちよりもお店を華やがせるって思わない？」
「・・・私はキミの意見に同意することに吝かでない」
そこには中年と若い男のカップル──私たちは勝手にそう決めつけた──がいて、二人とも知的な美形だった。経済を語らせても芸術を語らせてもぴたりと決まる、そんな感じだった。
「あの二人が、この店の中心だよね」
で、私たちは自らをほとんど無意識のうちに省みて、なんとなく意気消沈して、黙々とカクテルを飲んだりオードブルを食べたりしながらお互いの小説の原稿を読みはじめたちょうどそのとき、「・・・あの事件の犯人、たぶん私なのよ」という言葉が耳に入ってきた。そういったのは、右側に座っていた「悦楽の園」の住人ではないほうの女の子だった。私とその子を隔てていたのはわずかにその子のハンドバッグひとつだけで、ときどきお互いの体がぶつかるほど近くに座っていた。
聞いてはいけないせりふを聞いてしまったような気がして、思わず原稿から目を上げると、ヨーコが縋るような目つきでこちらを見ていた。
視線を原稿に戻しながら、筋向かいに座っていた男の子をちらと見た。その子は硬直していた。ほとんど体温さえ感じることのできるほど近くに座っていた声の主の女の子の顔を見る勇気はなかった。その子たちのほうがあとからやってきたのだけど、わたしはその女の子の顔をみてはいなかった。
「ねえ、聞いてる？」
女の子は少し怒ったようにいった。
「・・・うん」
女の子は少し泣いてるみたいだった。
「私、ひどく酔っ払っちゃうと、普段じゃ考えられないようなことをすることがあるらしいの」
「・・・俺だって、飲み過ぎて、気が付いたら駅のベンチで寝てたことがあったよ」
「ううん、そういうことじゃないのよ・・・」
そして女の子は話しはじめた。
どうやら私は、わけがわからなくなるほど酔っ払うととんでもないことをしてしまうらしいのよ。それがどんなにとんでもないことか、お願いだから最後まで聞いてね。
はじめて「とんでもないこと」をしてしまったのは、高校一年の秋のことだった。文化祭が終わって、クラスの友達と街中へ繰り出して、大学生だって嘘をついて居酒屋でお酒を飲んだの。
お正月のお屠蘇とかそういうのを別にしたら、お酒を飲むのはそれが初めてだった。だんだん酔っ払ってくるのがわかるんだけど、なんだかやめられなくて。気がついたら自分の家のベッドの上だった。吐き気はなかったけど頭が割れるように痛くて、ああこれが二日酔いなのねって思ったら、なんか可笑しかった。時計を見たら午後二時を過ぎてた。
喉がからからで、水を飲みにキッチンへ行くと、ママがテーブルに頬杖突いてぼーっとしてた。
「どうかしたの？」
私が声を掛けると、ママはびくっとしてこっちを見た。肌ががさがさで、目の下にはくっきりとした隈があった。
「どうしたの？顔色悪いよ」
でもママは黙って私のことを見つめるだけだった。なんだか困ってしまって、「何かあったの？」って聞いた。
「夕べのこと、覚えてる？」
居酒屋で飲んでいたときからさっき目を覚ますまでの記憶はまったくなかった。きっと酔っ払って大声を出すとか、友達に迷惑をかけたとか、なにかとんでもないことをしてしまったのだと思った。そのときになって初めてお酒を飲み過ぎたことを後悔した。
「ごめんなさい」
私は素直に謝った。でもママはそれが聞こえなかったかのように、「夕べのこと、覚えてる？」ともういちどいった。
「ごめんなさい。未成年なのにお酒を飲んで、ママに心配を掛けました。ごめんなさい」
「そのことじゃなくて・・・」
ママはなにかいいかけたのだけど、結局それきり口を噤んでしまった。
その日の午後のことだったと思うのだけど、学校の友達が電話をかけてきて、私の家の近くで殺人事件があったことを教えてくれた。
殺されたのは三十歳くらいの男性で、私の家から三百メートルも離れていないところにある公園で、その死体が発見されたのだった。
友達はまるで新聞記事を読み上げるみたいに話してくれた。
「死亡推定時刻は午前一時から三時のあいだ、死体の損傷は激しく、胸から下腹部にかけて大きく切り裂かれていた。消化器官などの内臓は腹腔にはほとんど残されておらず、それらは同公園内の女子トイレの床にばら撒かれているのが確認されている。それから」
友達はちょっといい難そうに付け加えた。
「・・・被害者男性のペニスが、公園内のセメントでできたカバの口の中に置かれていた」
私は熟睡していたので、午前中にあったはずの騒ぎをまるで知らずにいたのだった。
その日の夕刊にその事件の記事が載っていた。その男性が殺されたのは、その日の午前２時頃のことらしかった。ちょうどその時刻頃、近所の人が女の人の悲鳴を聞いて外へ出てみたのだけど、誰もいなかったし、なにも変わったことは見当たらなかったので、そのまま家の中に戻ってたいた、ということがあったらしい。
殺された男性には婦女暴行の前科があったというのを読んで、殺されて当然だって思ったのだった。
その公園は駅への近道だったのだけど、なんだか気味が悪くて、しばらく通るのをやめていた。でも、いつしか何もなかったかのように、また公園の中を通るようになっていたのだった。
大学一年のとき、恋人ができた。──あんまり聴きたくないかもしれないけど、聞いて、お願い。
その人は私にとって初めての人だった。──ごめん、こんな話、聞きたくないよね。
私はその人のことがほんとうに好きだった。愛してましたか？って聞かれても「はい」って答えていいかどうかよくわからないんだけど、気がへんになるくらい好きだったのは事実。
でもその人は、私がその人を好きであるほど私のことを好きになってはくれなかったみたい。付き合って半年も経たないうちに新しい彼女を作っちゃったくらいだから。
そのことで私がその人に愛想を尽かすことができればよかったのに、って、いまはすごく思う。
その日私はその人から呼び出されて、ほかに好きな子ができたって聞かされた。私はそのことを知っていたけど、その人の口から直接そのことを聞いたら、体の震えが止まらなくなった。私は体の震えを止めてもらうために力いっぱい抱きしめてもらいたかったけど、きっとどんなに頼み込んでもそうしてはくれなかったと思う。
「君にはもっと似合いの人がいると思う」なんてことをいってたような気がする。ほかに好きな人ができただけのことじゃない、それをそういういい方をするのはずるいよって思った。
私たちはしばらく黙ったまま並んで歩いていたのだけれど、その人は「いい人にめぐり合えるように」なんてカッコつけたせりふと私とを残して去っていったのだった。
そのあとしばらく、体の震えがとまらないまま、私は冬の街をふらふらと歩きまわった。寒かった、ってこと以外、なにも覚えてない。そしてたどり着いたのがこの店だった。確か水割りを四、五杯立て続けに飲んだのだと思う。飲みながら、初めての「恋人」に半年も経たないうちに捨てられた運命を呪った。
そのあと店を出たところまでは覚えているのだけど、そのあとのことはまるで覚えてない。気がついたときは自分のベッドに寝ていたのだった。
時計を見ると午後二時過ぎで、頭が割れるように痛かった。もう、その日の講義に出るのはあきらめた。ひどく喉が渇いていた。水を飲みに行こうとベッドから出たら、ブラウスの胸のあたりからスカートにかけて赤黒い汚れがべっとりと付いているのに気が付いた。もうすっかり固まっていたけど、それは人の血に間違いなかった。
そして、その血が私を振った人のものであることも、なぜか直感でわかっていた。
私はブラウスとスカートを脱ぐと、デパートの紙袋に入れ、袋の口のところを折ってテープで止め、中身が見えないようにした。その作業を終えたとき、「風邪をひくから早く服を着なさい」という声がした。振り返るとママが立っていた。私は裸同然の格好で、がたがた震えてその作業をしていたのだった。
不思議と、「見られた」とさえ思わなかった。
服を着て暖房を入れると、ママは「話したいことがあるの」といった。私は黙って頷いた。ママは私をベッドに腰掛けさせ、自分も隣に座った。