米国帰りのつよしが言った。
「アメリカには真っ青な空の色をしたジャムがある」
さらに続けてこうも言った。
「アメリカには省エネという概念が存在しない」
そういうものなのかとわたしは思った。
よーいちはオランダのなんとかいう美術館にレンブラントの「夜警」を見に行ったことがあるそうだ。
「ぼくがいちばん感銘を受けたのは」
よーいちはグラスの中の酔鯨を飲み干し、続けた。
「そこに居合わせた日本人観光客のひとりが別のひとりに向かって、『この絵がいちばん上手ねえ』と言ったことだ。それこそ頭を木槌で殴られたような気がしたものさ」
そういうものかもしれないとわたしは思った。
一度だけ海外に行ったことがある。ずいぶん前のことだ。きょうだいの一人がイングランド北部のある都市に留学していたのでそれを口実に出かけていったというわけだ。
その都市の裏手には荒れ野（ムーア）が広がっていて、わたしがぜひ見に行きたいと言ったので、ある日、昼食を取って少ししてから（きょうだいに用事があったので）車で連れて行ってくれた。街の裏手とはいっても、歩いていける距離ではない。
きょうだいは貯水池の横に車を止め、そこから先はひとりで行くようにと言った。どうして一緒に行かないのかとたずねると、ひとりで行きたいのだろう、と言った。たしかにその通りだった。十数年一緒に暮らしていただけのことはある。
羊よけの柵の向こうの森を抜けると荒れ野が広がっているときょうだいは言い、わたしが日本から持ってきた漢和辞典を読み始めた（どんな小説よりも漢和辞典が読みたいから持ってくるようにと言われていた）。車から降り、羊よけの柵（といっても石積みなので塀とか壁といったほうがしっくりくる）の扉を開け（扉はもちろん木製だ）、閉め（開けたら閉めろと注意書きがある）森を横切った。
間もなく目の前に丘が現われた。草はみんな枯れていた。夏も終わろうとしていたからだろう。走って丘を登った。
頂上からの景色は見渡す限り、でこぼこの枯れ果てた荒れ野だった。高さ数メートルから十メートルくらいの丘というか小山というかが谷に隔てられながら延々と続いていた。
谷をひとつ隔てた向こうの丘を立派な犬を連れた大柄な人が歩いていて、貯水池とはまるで違う方向へと歩いて行った。そちらの方角には荒れ野が広がっているだけだった。そろそろ日が傾きつつあるのに大丈夫なのだろうか、と彼らにとっては日常に違いないことをつい心配してしまった。
去年の秋、海沿いの町に出掛けた。日曜だったので休暇を取る必要も休暇の理由を考える必要もなかった。
朝から軽い頭痛がしていた。風邪かもしれなかった。風邪薬を飲み交通の便や時刻を調べ、バッグひとつ持って家を出た。
各駅停車しか止まらないその駅に降り立ったのはわたしひとりしかいなかった。小さな待合室がひとつだけの無人駅。線路沿いの国道に沿って町が細長く伸びている。人の姿はまったくない。店もほとんど閉まっている。その代わり、車だけが国道をひっきりなしに行き交っている。
駅から百メートルほど歩くとコンビニエンスストアがあった。中に入ると人がたくさんいた。お年寄りばかり。お客も店員も全部お年寄り。ほんとうの年齢はわからないがお年寄りにしか見えない人ばかり。マガジンラックの前に座り込んで雑誌を読みふける人。店の中をぐるぐる歩き回っている人。コピーを取っている人。冷蔵庫のガラス扉の前でじっと中を覗き込んでいる人。レジ横の飲食のできるコーナーにたむろして話し込んでいる人たち。
わたしが店に入っていったことで会話が途切れるとか視線がいっせいにこちらを向くというようなことはなかった。わたしの家の近所のコンビニエンスストアと何も変わるところはない。
おにぎりとホットのウーロン茶を買うと、国道から数十メートルのところにある堤防に向かった。
海は荒れ気味だった。堤防に座ると足の下の波消しブロックのすき間に波が入り込んできて、頭の上にまでしぶきが飛んだ。たぶんそのせいで堤防の上はしっとりと湿っていた。
堤防の上でおにぎりを食べ、ウーロン茶を飲み、海を眺めた。しっとり全身が湿った頃堤防を後にして駅に向かった。ホームにはわたしと同じくらいの年齢の女の人が立っていた。女の人は電車がやってくると線路に飛び込んで轢かれてしまった。
京都駅の改札を出るとすぐにエスカレーターに乗る。もちろん大階段の横の、あのエスカレーターに。新幹線を降りていちばん先にそうしないと気が済まない。上れるところまで上る。いちばん下から大階段を仰ぎ見ると空に続いているように見える。でも上の方へ行けば行くほどもっと、空に続いているように見える、不思議なことに。そのまま永久にエスカレーターで昇って行くことができたらいいのに。あるいは永久に階段を昇って行くことができたらいいのに。でもあの大階段とエスカレーターだけで物足りないということじゃない。でも、それでも、永久にあのエスカレーターを、あの階段を上って行けたらいいのに。どこまでも昇って、そのまま分子や原子に分解されて消えてしまえればいいのに。
屋上からの街の眺めはそれほどでもない。わたし的には。色の付いたガラスに囲まれている屋上なんて。なんて、ってほどでもないんだけど。というのもその分意識は自然に空に向かうから。階段やエスカレーターの限界まで行き着いたさらにその先にまだ広がっている空。透き通った青い空でも春霞の掛かった空でもどんより曇った空でも雨の降ってくる空でも雷鳴轟く真っ黒な空でも（どれもすべて経験した）。端から見てたら変かもしれないけど、たぶん変だろうけど、きっと変だろうけど、それでも空ばっかり見てる。空しか見たくない。地上よさようなら。真夏だとものすごく暑くて肌がじりじりしてきてせっかくの白い肌が紫外線に毒されるし真冬だと恐ろしく寒くて十秒と立ってられないほどだけどそれでも空を見てる。空ばっかり見てる、空ばっかり見ていたい。空しか見たくない。永遠に。
ある年の端午の節句、太郎、次郎、三郎の三兄弟は鯉幟を見上げて腕組みをしていた。太郎は四十二、次郎は三十七、三郎は三十の歳になっていた。太郎は数年前に死んだ父親の跡を継いで名主になっていた。次郎と三郎は近隣の村で妻帯していた。
その鯉幟は太郎の長男のやはり太郎のために太郎が作らせたもので、息子の太郎がひとつ歳を取るごとにひとつずつ増やし、すでに五匹になっていた。
五月の風は少し強めに吹いていたが、そのためにかえって鯉幟はよい具合に空を泳いでいた。
朝のうち、五匹の鯉は風の吹いてくる南の方を向いて泳いでいたが、昼過ぎになって、奇妙なことが起こり始めた。上から三番目の、緋の色も鮮やかな鯉だけが、急に西向きに泳ぎ始めたのである。
近所の人がそれに気付いて太郎に鯉幟のようすがおかしいと告げた。太郎は鯉幟を見上げ、これは面妖、と思ったが、ふとあることを思い出した。
子供の頃、弟たちと一緒に近くの小川で鯉をつかまえた。普段その小川にはめだかだとかナマズだとか鮒だとかどじょうだとか、そんな魚しかいなかったのだが、どういうわけだか大きな緋鯉を釣り上げたのだ。太郎ひとりでは小川の中に引きずり込まれていたに違いないほど大きな緋鯉だった。
太郎たちがその鯉を家に持ち帰ると、普段は優しい母親が、恐ろしいほどの剣幕で怒り、すぐに川に放してきなさい、と言った。
だが太郎たちはせっかくの獲物を逃がすなんてとてもできないと思ったので、下女に捌いてもらおうとしたのだが、下女は鯉を見るなり恐れて、申し訳ありません、勘弁してください、というのだった。
今夜は鯉こくだと思っていた太郎たちは悔し紛れに鯉を生きたまま小川のすぐ側に埋めてしまった。
息子が三歳になったとき太郎はそのことを思い出し、どうしてあんなむごいことをしたのかと後悔し、供養のためにと鯉を埋めたあたりに小さな祠を建て、他のものとははっきり違う、見事な緋鯉の鯉幟を作らせたのだ。
緋鯉は、祠の方を向いて泳いでいた。太郎は悪い予感がして、次郎と三郎を呼び寄せたのだった。
しかしその日は何事もなく過ぎた。けれどもその翌日、太郎の姿が見えなくなった。まもなく鯉の祠の前で倒れて事切れているのが見つかった。
次郎と三郎は、鯉の祟りだろうかと恐れ、祠に日参し、供物も絶やさなかった。しかし間もなく次郎は床に伏せるようになり、医師も首をひねるばかりで、そのうちにやせ衰え、骨と皮ばかりになった。
ある朝、骨と皮ばかりの次郎が三郎を訪ねてきて言うには、祠を壊してその下から鯉を掘り出してくれ、というのだった。最初何を馬鹿なことを、と三郎は取り合わなかったが、次郎の顔つきは尋常ではなく、何かに取り憑かれたかのようだったので、恐ろしくなってしぶしぶ承諾した。
神主を呼んでお祓いをしてもらってから村人に手伝ってもらって祠を壊し、地面を掘り返そうと鍬を地面に振り下ろすと、そこから地割れが走って水が噴き出し、目にも鮮やかな緋色の大きな鯉が地面の割れ目から飛び出し、そのまま小川に飛び込んで姿を消した。次郎はそれを見届けるとその場で息絶えた。
三郎はそれからずっと長らえたが、還暦を過ぎた頃、ある朝、緋鯉の夢を見た、というとそのまま畳の上に倒れ、息絶えた。
久しぶりにその街に出掛けた。並木はすっかり葉を落とし、強い北風が吹いていた。以前馴染んでいたカフェに入ると記憶にあるよりも店内が明るくなっているようだった。窓際のテーブルに席を取り、メニューも見ずにエスプレッソを注文しようとして、それが以前の習慣のであることに気付いて内心苦笑した。気持を切り替えようとメニューを開いてはみたが、結局エスプレッソを注文した。
どの店員にも見覚えがなかった。以前の店員はみなどこかへ行ってしまったのだろう。そういえば客よりも店員の方が居着かない店だったような記憶がある。
窓から見える街並みはそれほど変わっていないようだった。でも街を歩く人たちの姿は以前よりも華やかになっていたかもしれない。
時計は午後三時を指していた。手帳を取り出し、約束の時刻を確認し、もう一度現在の時刻を確認した。
エスプレッソは以前よりも美味しくなっていた。店も、以前より混雑しているようにみえた。ほとんどの席が埋まっていた。以前なら考えられないことだ。窓際のこの席がたまたま空いていたのは幸運なことなのかもしれなかった。窓際の席がよい席であるという価値観が存在するか、または以前の習慣を反復することが何かよいことであるなら。
三十分経っても彼は現われなかった。約束は果たした。勘定を払い店を出た。北風は相変わらずだった。そろそろ日が落ちようとしていた。ぐっと冷え込んできているように思えた。地下鉄の入り口は目の前にあった。そこを降りていけば寒風を避けることができるのに、通り過ぎた。そのまま地下鉄に乗る気がしなかったのだ。気持はすでに決まっていた。そのまま次の地下鉄の駅まで歩く。せいぜい十五分の道のりだ。
それはたんなる気まぐれとは少し違っていた。以前、彼と一緒にカフェを出た後いつもそうしていたのだ。会話の余韻を楽しむというのもあったが、途中に彼の好きな古い建物があって、それを歩きながら眺めるのが彼の気に入っていた。やがてわたしもそうすること好きになっていた。
その建物が近付いて来るにつれて、様子がおかしいのに気が付いた。道路に面した部分がフェンスに囲まれ、しかも建物の大半が消滅していた。隣のビルの壁が見えていた。
すぐ近まで来ると、階段部分を残して後はすべて消滅していることがわかった。思わずその場に立ちすくんだ。予期せぬ事態。わたしの思惑は宙に浮いてしまった。
遮光カーテンを閉めベッドに横たわりグラストロンとヘッドホンを装着し毛布を肩まで掛け右手でそっとコントローラーを握る。グラストロン、ヘッドホン、コントローラーはＰＳ２に接続されている。
グラストロンのようなフェイスマウントディスプレイで寝ながら映画を見たりある種のゲームをするととてもよいというのを２ちゃんねるで見てすぐにグラストロンを手に入れた。すでに製造中止になっていたので見つけるのは大変だった。
ＰＳ２に入っているのはＲｅｚ。専用のバイブレーションユニットをＰＳ２に接続し、背中の窪みの下に入れてある。
グラストロンとヘッドホンによって外界からの視覚と聴覚をほぼ完全に遮断できる。触覚の一部はコントローラーとバイブレーションユニットの振動で外界から引き離すことができるだろう。
味覚と嗅覚は未対策だが、何か口に入れたり予期しないにおいがするということがなければ忘れていられるだろう。
リリィ博士のタンクに入って同じことをしたら、いったいどんな体験をすることができるだろう。そんな機会はありそうもないが、捨てきれない望みでもある。
エリア１から。コントローラーを両手で握り直す。ジョイスティックと×ボタンのコンビネーション。レイヤーを降りるときのバイブレーション……レイヤー１０からファイヤーウォールへ。ファイヤーウォール破壊。振動。そしてエリア２へ――。
エリア３へは行かずにビヨンドモードへ。トランスミッションモード。エンドレス、攻略性皆無。ＢＧＭ。浮遊感。ときどき×ボタンを押すだけ。何もしなくてもいい。むしろ何もしない方がいいかもしれない。エリア攻略でヒートアップしていた脳がアイドリング状態に。いつまででもそうしていたい。いつまでもそこにいたい。エクスタシーはない。目の前に広がるすべての光と音が目をつぶっても耳を塞いでも見えるし聞こえる。
毛布の下からＩＣレコーダーを手探りし、それに書くべきことをしゃべる。
もしこの文が誰かの目に止まることがあるなら、それはこうして録音されたものが書き起こされたものだ（編集されているだろうが）。
時刻は……午前十一時頃だろうか。時計を見ることはできない。見る必要性も感じない。木曜日。みんな働いているのだろう。今頃。きっと。でもわたしはずっとこの場所に留まるだろう。