Ｑの住む高台へは、いつものだらだら坂じゃなく、すごい急坂を登って行くこともできる。そういう急な坂道はいくつもあって、そのうちのいくつかは途中が階段になっているので、自動車が通ることはできない。車止めの柵もあるし。でも、残りの急坂は滑り止めの目玉みたいな模様やぎざぎざが刻まれていたりするけど、車が通ることができる。でも、冬になると道路が凍ってしまうこともあるので、そういうときはたぶん坂を下ることはできても（どうなるかわかんないけど）、登ることはできないだろうと思う。
何年か前、そういった坂道のひとつをバカな小学生がブレーキを掛けずに下っていって、下りきったところにある小さな交差点で横から出てきた自動車に体当たりして死んだ。なんでもそいつの体は十メートルも宙を飛び、地面に叩きつけられ、その衝撃でろくに入ってなかったろうけど頭の中身をそこらにぶちまけたって話だ。それが本当のことかどうかはわからないけど、そいつが交通事故で死んだというのは事実だし、その交差点で死んだというのも事実だ。ぼくも見に行ったけど、その交差点の隅にはいくつかの花束がおかれていた。ぼくは誰も見ていないのを確認すると、花束をそっと踏み付けた。つぶれない程度に。
そのバカな小学生の葬式にも行ったけど、どんな様子だったかはよく覚えていない。覚えているのは家にはいるときにママが塩をかけてくれたことくらい。
「ねえ、灯台へ行こうよ」
「東大？」
「ボケてる場合じゃないでしょ！」
「そうか？桜は咲いているし、惚けるにはもってこいだ・・・」
Ｑはそういうとビールを一口飲んだ。ぼくたちの頭の上には満開の桜。
「花が終わると毛虫が付くんだろうなあ」
「そうだな」
Ｑはそういうとビールを一口飲んだ。ぼくたちの頭上には満開の桜。ぼくは急にビールが飲んでみたくなって、Ｑの手からビールを略奪するとコマーシャルでよくやっているみたいにごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっとイッキに飲み干そうとしたんだけど、あんまり苦くて途中でやめてしまった。
「苦い」
「おまえにはビールはまだ早い」
「なんだよ、同い年じゃないか！」
Ｑはぼくの手からビールをひったくると残りを飲み干した。見上げると、頭上には満開の桜。ぼくは立ち上がると桜の枝に手を伸ばした。でもとどかない。悔しいからジャンプした。それでも届かないのでまたジャンプした。
「桜に飛び付くカエル」
「誰がカエルだ」
「おまえ」
「ねえ、灯台へ行こうよ」
「どうして」
「どうしても」
「答えになっていない」
「行きたい行きたい行きたい行きたい行きたい行きたい行きたい行きたい行きたい」
「わかったわかった」
二ヶ月ほど前、ぼくたちは自転車で灯台へ向かった。灯台は頑張れば自転車でも一時間ほどで行ける距離にある。でもあのときは、街を出る前に雪が降り始めてしまった。青い空が見えるのに綿みたいな雲が地平からどんどん張り出してきて、そのうちちらちらと白いものが舞い始めたのだ。Ｑは自転車の速度をゆるめるとぼくの横にやってきて、「今日はやめにしよう」と言った。たしかに、Ｑの判断は正しいように思えた。でも、ぼくの気持ちはそれではおさまらなかった。ぼくは自転車を止めた。Ｑも止めた。
「やだ」
「でも行くだけ行って、帰ってこれなくなるかもしれないぞ」
「それでもいいよ」
するとＱは黙った。そして空を見上げた。
「じゃ、お前一人で行け。おれは帰る」
Ｑは言葉通り来た方へと走り去った。一度も振り返らずに。ぼくはＱの去ったほうに向かって「バカヤロー」と怒鳴った。ふん。
で、ぼくは灯台に一人で向かったんだけど、雪は止むどころかますますひどくなってきたのだった。ダッフルコートのフードをかぶって、灯台への一本道を走っていく。右手に広がる海はお約束どおり鉛色で、その上に浮かぶ船も鉛色。鉛色のバス（ウソ。ほんとはスカイブルー）が追い越していく。降りしきる雪のかなたへ去って行くバスを見送って、ぼくは自転車を止めた。どうしようか。
海の上にはひとつだけ鮮やかな物体が動いていた。例の航空母艦だった。どんな用事があるのかしらないけど、雪の降る中、沖へと向かっている。赤錆だらけの船体は、空も海も全部鉛色で塗り潰されているなかで、ひときわ鮮やかだった。
だんだん風も強くなってきていた。寒いなあ、と思った。さっきのバスが行ってしまってからというもの、車は一台も通らない。もちろん自転車も人もバイクも。ぼくは急に恐くなった。そして戻る決心をした。
さっきまで濡れて黒く光っていた道路が、すっかり白くなってきていた。きっと、道路も世の中もすっかり冷えきってしまったのだろう。まっすぐ顔を上げると目に雪が入るので、前方数メートルのところを見ながら走った。
街に戻ってくる頃には、積雪は５センチくらいになっていたと思う。すごい雪だ。やっぱり、Ｑはどこまでも正しかった。
チャイムを鳴らすとママとお姉ちゃんが並んで出てきた。うんざりしたけど、それを口にする元気もなかった。しかし、ママもお姉ちゃんも情け容赦はなかった。
「雪だるまみたい！」
二人はそういうとぼくのことを指差して大笑いしたのだった。ぼくはそのまま後ろを向いて出ていこうかと思ったのだけど、とつぜん目の前が真っ暗になってしまったので、そうもいかなかった。
そして気がつくとベッドに横になっていた。お姉ちゃんのベッドだった。たぶん、ぼくを二段ベッドの上段に押し込むのがたいへんだったからだろう。お姉ちゃんは机に向かって本か何かを読んでいるみたいだった。
「目が覚めた？」
しかしぼくはそれに答えている暇はなかった。ふらふらする足取りでトイレに急行すると思いっきり吐いた。でも、出てきたのはミルク色した胃液だけだった。
ぼくたちは荷物を取りにＱのアパートへ戻った。玄関を入ると、Ｑの隣のくさい女がいた。Ｑは挨拶したが、もちろんぼくは無視した。
「おまえ、Ｄさんに挨拶くらいしろよ」
めずらしくＱがくさい女の前でぼくに説教を垂れた。
「はいはいわかりましたよ。やあこんにちは。お出かけれすか？にしてもどうしていつもそんなにくさいのですか？あ、余計なことをいいましたね。失敬失敬」
するとくさい女は表情も変えずにつかつかとぼくのところへやってくるといきなりその右手でぼくの左の頬を叩いた。ぼくは左の頬が熱を帯びてくるのを感じた。
「おやまあ、左の頬を打つなら、ついでに右の頬もいかがですか？」
ぼくは右の頬を差しだした。すると女は左手でぼくの右の頬を打った。ぼくは両の掌で両の頬を押さえて、「叫び！」ってやってから、その女──Ｄさん──に右手を差し出した。Ｄさんはぼくの右手をしっかり握ると、少し笑って、そのまま何も言わずに玄関を出ていった。Ｑは困ったような顔をしていた──そう、Ｑ君、キミは正しい！
バスは割と空いていた。春休みなのに。小さな子連れの母親が何組かと、何人かのお年寄りと、ぼくたちだけ。バスから見える海はどこまでも青く、あの冬の日が嘘のようだった(笑)。
「ねえ、ひとつ聞いてもいいかなあ」
ぼくはからだをねじって後ろに座っていたＱを見た。うっ、脇腹の筋がつりそうだ。
「何？」
「去年の秋、灯台に行ったでしょう？」
「いいや」
「うそつけ」
「嘘じゃない」
「でも、キミをこのバスの中で見たものがある」
「そんなことは有り得ない」
「で、キミは女の子と一緒だった」
「だったら嬉しいけどね」
「『あなたはいまシアワセですか？』」
「さあね」
「正直に答えなさい。さもないと痛い目にあいますよ」
「痛い目にあったのは、おまえの方じゃないか」
「あれは不慮の事故というものでしょう」
「いいや、あれはおまえが悪いのだ。だいたい、どうしてＤさんがくさいなんて言うんだよ。そんな事実はないじゃないか。いい機会だ。答えてもらおう」
「もう、くさくなくなったから、いい。もう、そのことは言わないで」
ぼくはそういってＱの瞳を見つめた。すると突然気分が悪くなってきた。
「気持ち悪い・・・」
「ばか、後ろ向いてしゃべったりするからだ。前向いて景色でも見てれば直る」
ぼくはＱのいうとおり、前を向いて黙った。もしかすると、ビールのせいかもしれないなと思った。
バスから見える海はどこまでも青く、あの冬の日が嘘のようだった(笑)。ついでにいえば空も青い。抜けるような青じゃないけど。ところどころに雲がぽっかり浮かんでいたりする。ついでに言えば、バスの色もスカイブルーだ。乗ってるからみえないけどね。
そして、青い空と青い海に囲まれた岬の突端に純白の灯台が見えてきた。「ねえねえ灯台だよ」とＱのほうを振り向くと、Ｑは気持ちよさそうにうたた寝していた。さっきしゃべってから五分も経ってないってのに。窓ガラスに頭を凭れて、揺れるたびにがんがん頭がぶつかるのに目が覚めない。なんてやつ。ぼくはいすの上に両膝を乗せ、Ｑの寝顔を見つめた。かわいい。かわいい。かわいい。ぼくは思いっきり首を伸ばすとＱにキスした。するとＱは突然目を見開いた。ぼくはすごくおどろいて、そして同時にバスが大きく揺れたので、脇腹をいやというほど肘掛けにぶつけて、揚げ句の果てに床に転げ落ちた。三才くらいの女の子が上からぼくの顔を覗きこんだ。「あぶないからちゃんと座っててよ！」という運転手さんの怒号が飛んできた。ぼくは小さな声で「すんません」というと、おとなしくもとの座席に腰掛けた。なんだかバスの中は急にしん、としてしまった。
それからすぐにバスは終点に到着したのだが、その２分４７秒はとても長かった。だから、バスから降りたときはほんとのほんとにすごい開放された気分になっちゃったのだった。ぼくは思いっきりＱにべたべたまとわりついてはＱやおそらくは周囲の顰蹙を買った。でもいいのだ。
「おまえ、まだちょっとほっぺたが腫れてるみたいだな」
「いいの。きにしないで」
いまのぼくは無敵だ。Ｑだって、Ｄさんだって、敵じゃない。
灯台に登ると、家族連れとか、若い男女や美少年とナイスミドルのカップルとか、そんな人達がいた。でもぼくは彼らには構わずにＱにべたべたしてべたべたしてべたべたして、ほっぺにキスしてキスしてキスして、周囲の顰蹙を買った。それから海に向かって叫んだ。
「海のバカヤロー」
すると沖の方が突然膨れあがりみるみるこちらへ向かって押し寄せてきた。そしてあっという間にぼくらは逃げる間もなく波に飲み込まれた。波が引くと、みんなびしょ濡れだった。あたりまえか。
「おまえが変なこと言うからだ！」
ぼくはふふんと笑って答えた。
「いまのぼくは無敵だもん」
Ｑは処置なしという顔をした。そしてぼくはＱに抱きついてキスをする。