（２）

レインボーブリッジに向かったはずなのに、ぼくたちは千葉県のとある海岸にいた。

なかなか暮れないはずの夏の日ももういい加減傾いて、房総の山並みに落ちかかっていた。ママとぼくはミニが作る日陰に隠れて並んで座っていた。お尻の下のコンクリートはまだ熱っぽくて、それがなんだか悩ましかった。ぐったりとして眺める対岸は東京、ぼくたちの住む街。空が不健康な虹色に染まっていた。

「疲れたね」

「うん」

「眠いね」

「寝たら帰れなくなるよ」

「あんたが運転して」

「東京まで運転する自信ないよ。まだ初心者なんだから」

「それもそうね」

「暑いよね」

「うん」

「喉乾かない？」

「乾いた」

「どっかにファミレスでもないかな」

「そういえばお昼食べてないよね」

「あたし、おなかぺこぺこ」

「いわれてみれば、ぼくもそうかもしれない」

「しかたない、車出すか」

「どっか食べるとこが見つかるまでぼくが運転しようか？」

「そうしてくれるなら嬉しい」

ぼくたちはお尻の砂を払って立ち上がった。

窓を開けておいたから車内はそんなに暑くなっていなかったし、走り出すと窓から風が入ってきて、それが湿ったなま暖かい空気の流れに過ぎないとしても気持ちがよかった。エアコンを掛けたいという気持ちにならないくらいに。海水浴をしたあとのなまめいた倦怠感と似ていた。ママはそれに抗しきれずに微睡んでいた。風邪を引かないといいけど、と思うけど、そんなふうに注意が散漫になった瞬間に限って大型のタンクローリーがパッシングを掛けてきたりする。でもこちらは制限速度オーバー気味で走っているのだからどうすることもできないじゃないかと思っていると、タンクローリーは黄色いセンターラインを無視してぼくたちを追い越していった。後ろには「毒」のプレートが掲げられていた。なるほどね。

二十分も走った頃に反対車線にファミレスを発見、でも結局どこかでＵターンしなきゃならないと思うとめんどくさくてそのまま通過。このまま食べるところが見つからなかったらどうしようと思っているところへラーメン屋が。ぼくはＯＫだけどママはああいう店は駄目だ。どんなに空腹でも首を縦には振らないだろう。

でも数分後にこちら側の車線にファミレスを発見。駐車場に乗り入れるとほんの数台しか車はいない。駐車スペースに慎重に車を入れ、エンジンを切るとほっとした。肩がぱんぱんに張っている。もっと運転になれないと駄目かも知れない。それには自分の車が必要なのかもしれない。

日も暮れて、あたりは薄暗くなってきていた。ママを起こすと、思いきり伸びをして天井に両手が支えたと文句を言った。

「もっと大きい車借りてくればよかったのに」

「ママのために借りてきたわけじゃないよ」ぼくはむっとして言い返した。

「そういえばそうか」

「そうだよ。今日の不始末はママの不始末。もちろん夕食はママのおごり」

「まだ扶養家族のくせに態度でかいぞ」

ママはぼくを殴る真似をした。のに本当に拳がぼくの鼻に当たってしまい、当たり所が悪かったのか鼻血が出た。ママは「ごめん」というとハンドバッグからティッシュペーパーを出して丸めるとぼくの鼻に詰めた。それから座席を倒してしばらく横になっているようにといった。

鼻血はなかなか止まらなかった。ファミレスから出て来たカップルの女の方と目が合った。女は男に何かささやきかけた。男はぼくの方を見て、それから女の方を見て笑った。なんかむかつく。ママもそれを見ていて、「カップルなんて見てるとのぼせちゃうよん。鼻血止まんなくても知らないから」と言った。

「余計なお世話」

「あらあら汗かいちゃって」

ママはハンカチでぼくの顔の汗をそっとおさえた。赤ん坊の世話でもするみたいに。でもそうされるのもまんざらでもないし、そうやって汗を拭いてもらっていると変に眠くなるのだった。ママは「これから夕食なんだから眠っちゃだめだよ」とぼくを揺り動かすのだが、それさえも眠気を催させるのだった。

鼻血が止まる頃にはすっかり暗くなっていた。駐車場の車はだいぶ増えた。車から降りてくる人たちのすべてではないにしろ、幾人かは鼻にティッシュを突っ込んで仰向けに寝ていたぼくの姿を目撃したはずだ。そのうちの一人とは三秒ほど見つめ合った。真っ赤な服を着た三十くらいの女。

その女は、ぼくたちの案内された席と仕切を隔てた隣に座っていた。席に向かう途中でそのことに気付いた。女は食べるのを中断してこちらを見た。真っ赤な口紅、テーブルの上にはトマトソースのパスタ。ママは小声で「ああいう人好み？」と聞いた。ぼくは「さあね」とだけ答えた。

ぼくはメニューを見るなり海鮮丼に決めた。ママはどれにするか決めかねていた。二人とも生ビールを飲みたいと切実に感じていたが、車なのでやめた。ママは、今度はあたしが運転するからあんたは飲んでもいいよと言ったけど、ぼくが運転することも可能性としてはないわけじゃないと判断してあきらめた。結局ママはシーフードスパゲッティを頼んだ。

料理が出てくるまで、どうしてレインボーブリッジに行くはずだったのが房総半島に来る羽目になったのか、ということについて議論した。というか言い合いをした。ママは嬉しそうに煙草を燻らせながら、「そりゃ、あんたのナビが悪かったからよ」と言った。

「いやそうじゃなくて、ママがぼくのナビに従わなかいのが悪いんだ」

「だってあんたのナビ、タイミングが悪いんだもん」

「そうじゃなくて、ママの状況判断が悪すぎるんだ」

そのとき、「あんたたち親子でしょ？」という声が聞こえた。真っ赤な女が仕切の向こう側に立っていた。

「公共の場で、親子でいちゃつかないでくれる？」

ぼくとママは顔を見合わせた。いちゃついてる？

「あら、ごめんなさい。うるさかったかしら？」とママが言った。

「そうじゃなくて」

女はいらいらしたように言った。

「親子でいちゃいちゃしないでくれない？」

「あらごめんなさい。でも別にいちゃいちゃしてないわよ」

「いちゃいちゃしているわよ」

「してないっつーに」

「してるわよ」

ママは立ち上がって真っ赤な女を睨み付けた。いつの間にか店内の喧噪が止んでいた。周囲の客は、まず真っ赤な女を見、それからママを見、そして最後にぼくを見て顔をしかめた。

「ねえ、ママ、ぼくら注目の的だよ」

小さな声で言ったつもりだったのに、周囲が静かだったので周囲に響き渡った。店員の一人がおずおずと近付いてきて、ぼくたちの誰にともなく「他のお客様の迷惑になりますので」と言った。真っ赤な女は辺りを見回し、それから店員を一瞥すると、伝票を持って黙ってレジに向かった。

まもなく料理が運ばれてきたが、ぼくたちはひとことも交わさずに黙々と食べた。ママの注文したシーフードスパゲッティは真っ赤な女が食べていたのと同じものだった。

気持ちはいたたまれなかったのに、海鮮丼は美味しかった。困るほどに。空腹だったせいかもしれない。店を出てからママにそう言うと、ママもスパゲッティが美味しくて困った、と言った。二人で顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑って車のところに戻ると隣に停めてあった真っ赤なユーノスロードスターにあの真っ赤な女が寄りかかっていた。ぼくたちが緊張して立ち止まると、真っ赤な女は車体から身を離して「さっきはごめんなさい」と頭を下げた。

ぼくが「全然気にしてません」というよりも先に、ママが真っ赤な女に食ってかかった。

「いったいなんのつもりなのよ！？あたしたちになんの恨みがあるっていうの！？」

真っ赤な女はもう一度頭を下げた。

「ほんとうにごめんなさい。いちゃいちゃしている異性の親子を見ると、たまらなくなるんです」

「いちゃいちゃしてないっつーに」とママが言った。

「いえ、仲睦まじく、でもいいんです」

「それならそうかもしれないわね」

「見ず知らずのあなた方にこんなこと言うのは間違ってると思うけど」

「じゃあ言わなきゃいいじゃない」

「聞いてください」

「じゃあしゃべれば？」

「……あたし、実の父親と深い仲だったことがあるんです」

「へえ。でもあたしたちは違うわよ」

「そうなんですか？」

「こいつは単なるマザコン」

ママはぼくの首根っこを掴むとそう言った。

「あたし、見ず知らずのあなたたちにとんでもないことを……」

真っ赤な女は両手を口に当てた。それからあわてて真っ赤なユーノスロードスターに乗り込むと猛スピードで走り去った。

「どこかにぶつけないといいけど」

「突然告白されてもねぇ」

ママは肩を竦めた。

「でもちょっと羨ましいかも」

「ちょっと、やめてよ」

「やめとくか……にしても星がきれいだね！やっぱり東京とは違うね」

でも、駐車場の明かりのせいか、そんなとも思えなかった。

「もっと建物とかの少ないところにいかないと駄目なんじゃないの？外房とか……」

「そっか。じゃ、外房に行こう」

「これから？」

「うん」

「マジ？」

「だって、帰らなきゃならない理由なんてある？」

「彼女に電話しなきゃ」

「そんなの携帯ですればいいじゃん」

「でもママは明日仕事なんじゃないの？」

「明日も夏休み。それにあんたと遊びに来るなんてもう二度とないかもしれないでしょ？」

そう言われて、思わずしんみりしてしまった。「二度とない」って言葉に負けたのだ。

「わかったよ。今晩はとことんまで付き合うよ」

「そうこなくっちゃ」

そしてぼくたちは夜道を外房へ向かった、房総半島を突っ切って。途中道に迷ったりどうにも眠くなって仮眠を取ったりしたので、海の見えるところに着いたときには午後十一時を回っていた。どこか民宿にでも泊まるはずだったのに、この時間じゃどこも泊めてくれないよ、というママの一言で野宿ということになった。つまりは無計画ゆえの野宿。

海岸沿いの駐車場に車を停めて夜の海岸に出ると、恐ろしいほどたくさんの星が見えた。

「ああ、きれい。あたしさあ、星を見るのって大好きなんだ。ああ、夏の大三角形があんなところに……天の川もちゃんと見えるね」

天の川を見るのは初めてだった。怖ろしくて足ががくがく震えた。

「寒い？」

ママはぼくの肩を抱いてくれた。といってもぼくの方が背が高いので、もたれ掛かっているようにしか見えなかったかもしれないけど。

「怖いんだ」とぼくは答えた。「天の川が、怖いんだ」

「うん、それはあたしにもよくわかるよ。あたしも、子供の頃天の川が怖かったから」

そうやって一時間ほど体を寄せ合って夜空を見上げていたのだけど、目が慣れてくるとあちらこちらに二人連れが肩寄せ合っているのがわかった。それは、若い男と女だったり、年老いた女と男だったり、女同士だったり、男同士だったり、歳がうんと離れていたり、若すぎたり、いろいろだった。どのカップルも、周囲を見回して、でも結局自分たちの世界に戻っていくのだった。ぼくたちのように。

車の中で仮眠を取ることにした。夜になっても暑いくらいだから、それなら風邪を引くこともないだろうと。駐車場には他にもそういう車が停まっていて、中には不自然に揺れ動いているものもあった。

「あらまあ、お盛んなこと」とママは言った。「あんた、車の中でしたことってある？」

「それは父親が息子に聞くことであっても、母親が息子に聞くことではないと思う」

「あらそう？でもさ、うちの場合、あたしが父親でもあるわけだし」

「ノーコメント」

「けち。ちなみにあたしはしたことがあーる」

はっとしてママの顔を見つめると、ママは舌を出した。

「なんだ、嘘なんだ」

「いや、嘘じゃない。照れくさかっただけ」

ぼくはなんと言っていいかわからなかった。

目が覚めたのは朝の六時前だった。いや、日が昇って一度目が覚めて、そのあともう一度眠ったのだけど、車内の温度が耐え難いほどに上昇してきて寝てられなくなったのだ。ママもそうみたいで、目の下に隈ができていた。

「しかたない、起きるか」

駐車場の近くにはトイレはあったけど、水飲み場も自動販売機もなかった。ぼくはおそろしく喉が渇いていたし、できれば顔くらい洗いたかった。ママは煙草を切らしていらついていた。

頭の中に霞が掛かったみたいだったけど、隈ができて苛立っているママよりはマシかとぼくが運転することにした。

煙草の自動販売機を見つけるまで、ママは一言も口を利かなかった。

とりあえず渇きを癒したけど、ぼくもママも眠くてどうにもしようがなかった。

「あたしやっぱり布団かベッドの上でないと眠れないのかも。このまま東京まで運転する自信ないよ。どこかで一休みしたい……そうだ、いいところがある」

そういうと、ママはアクセルを踏み込んだ。あっという間に制限速度をオーバーする。

で、二時間後にママが乗り付けたのがある市街のはずれのラブホテル。まだ朝の九時にもならないのに「休憩」ということでチェックインできるのだ。もちろん偽名で。親子じゃいくらなんでも怪しすぎる。

「ね、便利でしょ？ここ、昔来たことがあるのよ。まだあったとはね。二十年以上昔のことなのに」

「父さんと？」

「ノーコメント。それよりもシャワーでも浴びたら？」

「ママが先に浴びれば？眠くて仕方ないんでしょ？」

「うん、でもちょっと目が覚めてきたから、あんたが先でいいよ」

シャワーを浴びて出てくると、ママはベッドの上に倒れ込むようにして眠っていた。疲れているせいか、いつもよりずっと歳を取って見えた。でも寝顔は妙にあどけなかった。そして目の回りに涙の後があった。結構派手に泣いたのかもしれない。化粧が崩れていた。

ぼくはママの靴を脱がせ、ベッドに寝かせた。同じベッドに横たわってママの寝顔を眺めているうちに、いつしか眠りに落ちていった。