梅雨明け間もない夏の日の朝、友達を拝み倒して借りた紺色のミニに、少し後ろめたい気持ちで青葉マークをぺたり。
「ぶつけるなよ」
と言った友達の心配そうな顔。もちろんぼくのことじゃなくて車のことを心配してたのだ。それでも貸してくれた友達に千のキッスを。喜ばないだろうけど。確実に嫌がるだろうけど。
家に車がないわけじゃない。ＢＭＷの５ナンバー。とてもじゃないけどぼくには扱えない。電柱やガードレールならまだしも他の車や人にぶつけるのは避けられそうになかったし、同時にどうしても避けたいことでもあった。当たり前だけど。そういうわけで小さい車を借りたのだけど、ミニはミニでまた別の癖があるのだった。
でもふと見上げる空はよく晴れていて、そういうちょっとした不安など気にならなくなるのだった。それで問題が解決するわけではないけど。
朝だというのにとても暑い。でも時折吹いてくる風が気持ちよかった。絶好のドライブ日和！……だろうか？天気予報は今日の予想最高気温が三十八度であると告げていた。ちょっとうんざり。考えただけで頭がくらくらする。でも彼女のことを考えれば平気さ。そう、今日は彼女との初めてのドライブ、四回目のデート。でもまだ彼女とはキスもしてない、手も握ってない、もちろん寝てもいない。今日は……キスくらいまで行くといいけど。いや、手を握るだけでもいいや。いや、一緒にいてくれるだけでいいや……。
家を出て程なく国道××号線に合流、意外な混雑。時間通りに着けるだろうか？ちょっと焦る。早速赤信号で停車。でもなにしろ免許を取って三ヶ月という未熟者のゆえ、あるいはドライバーとしての適性がないゆえ、やたらに緊張する。だから信号停車はちょうどよい小休止だったりする。
ふとバックミラーに目をやると後部座席に見慣れた顔が！少しも悪びれずに「おっはよう！」とママ。
「ちょっと、どういうつもり？」
思いっきり振り返ったので脇腹が引きつって激痛。
「あんたの彼女がどんな子なのかちょっと見てみたくて」
「じゃまする気？」
「とんでもない！ひと目見ればそれでいいの」
ママはハンドバッグから煙草を取り出して火を付けようとした。
「この車は禁煙！」
「え、そうなの？」
「持ち主がぼく同様煙草を吸わないのでね」
悔しそうに煙草をしまうのを見て、してやったり！と思った。でもそのとき鋭いクラクションが後ろからぼくを威嚇。信号が青になっていたのだ。急いで車を発進させようとしてエンスト。最悪！幸先が悪い。
ぼくはどうやってママを車から降ろそうかと思案した。コンビニに寄ってママが車から降りたところで車を出せばいいか。運転しながらではそれ以上の妙案は浮かばなかった。
コンビニはすぐに現われた。駐車場に車を入れ、ママもコンビニに寄らない？とさりげなく誘う。先ほどからなんかそわそわしていたので、きっとトイレに行きたいんじゃないかと踏んでいたのだ。チャンス。
でもママは体をもじもじさせながらも誘いを断った。
「だって車から降りたらあたしのことを捨ててくに決まってるもん」
ママはぼくの考えることなどとっくにお見通しだった。となればその拙い計画は放棄せざるを得なかった。したがってママを彼女に会わせることも覚悟しなくちゃならなかった。
駅に通じる道は渋滞していて、ぼくもママも真っ青になった。ぼくは彼女を待たせるということで、ママはそれまではトイレに行けないということで。最初はなんとなくそわそわしているように見える、というくらいだったのに、駅に着く頃にはそれを隠そうとさえしなかった。「ねえ、まだ着かないの？もれちゃうよ〜〜〜」という具合に。
彼女は駅前の大きな木の下で待っていた。ところどころＴシャツが汗で濡れているのが色っぽい。
「ごめん、待った？」
さりげない風を装って、声を掛けた。
「待った」
彼女は広場の真ん中の大きな時計を指差した。
「三十分の遅刻」
彼女は表情ひとつ変えずに答えた。怒っているらしかった。
「ちょっと道路が混んでたんだ。ごめん」
「私、すぐに謝る男ってキライ」
思わずもう一度謝りそうになったが、どうにかこらえた。それからさりげなく「どこに行こうか」と聞いた。
「そういうこと女の子に聞くわけ？」
彼女は表情も変えなければ声を荒げることもなかったが、かなり怒っているらしかった。でもぼくはしくじった。なにしろまだ四回目のデートなのだ。彼女と、ではなくぼくの生涯において。
「こないだは『なんでもひとりで決める男はキライ』って言わなかったっけ」
一瞬の沈黙の後、彼女はぼくのことを睨め付けた。
「こないだの私と今日の私は違う」
そのとき背後から声がした。
「こんにちは、初めましてー」
背筋を冷たいものが走った。彼女は視線をぼくの斜め後ろに移した。
「まあ、可愛い娘さんじゃない！」
でも彼女はそれには答えずにぼくに聞いた。
「この女、誰？」
「……母親」
彼女は「サイアク」と言い捨て、くるりと背中を向けると駅の方へ歩き出した。あわてて後を追う。
「ねえ、ちょっと待ってよ！」
行く手に立ちふさがると彼女はぼくの顔をしげしげと見つめて、それから「マザコン」と吐き捨てるように言った。
身動きもできなかった。彼女は広場を横切って駅の中に消えた。太陽が頭にかんかん照りつけていた。脳みそが煮えたぎるような気がした。そう、はらわたではなく脳みそが。呆然自失。
どのくらい時間が経ったろう？誰かがぽん、と肩を叩いた。ママだった。すっきりした顔をしていた。トイレに行ったのだろう。
「ちゃんと手洗った？」
ママの一瞬の狼狽を見逃しはしなかった。
「トイレに行ったらちゃんと手を洗うようにっていつも言ってるじゃない」
「だいじょうぶ、そのくらいで死んだりしないから」
ふう、とため息が出た。なかなか気持ちが上向いてこない。じゅうぶんに自覚できてはいないけど、結構ショックだったに違いない。
「太陽のせいよ」
ママは煙草に火を付けた。
「そうよ、太陽のせいよ、あの子が帰っちゃったのは」
気持ちよさげに煙草を吸うママ。どこまでも責任逃れ、責任転嫁をするつもりらしかった。
「いいや、ママのせいだ。断じて太陽のせいなんかではない」
ぼくはむきになってそう言った。
「そういう細かいことばっかり言うから振られるのよ……どうしたの？」
「ひとの傷口に塩を塗りつけるようなことを……」
「傷口に塗るならカラシの方がいいかも」
もう、反論する気力もなかった。心の内で密かに中指を突き立てたが、それだとマザーファッカー的で嫌だなと思って取り消した。
「それよりさあ、もう予定ないんでしょ？」
「見ての通りね」
「じゃあ、どっか行かない？車もあることだしさ」
「仕事は？」
「夏休みだもん。海の見えるところがいいな。とりあえずレインボーブリッジにでも行ってみない？じゃあ決まりね。今度はあたしが運転するからさ」
そう言うが早いかママはミニに乗り込んだ。仕方ないか、彼女とは少し時間をおいた方がいいかもしれないし、とそのときは思ったのだ。それがあんなことになろうとは。