（３）

わたくしは年甲斐もなく恋をしてしまった。それも若い娘に。その娘に恋をして初めて、わたくしは恋などしたことがなかったのだと知った。

おそらくあなたも知っているように、わたくしはずいぶん長い年月をある男の慰み者として過ごしてきた。いいえ、あの男が生きているうちは、慰み者だと思ったことは一度もなかった。わたくしはあの男を愛しているとさえ思っていた。でもそれは違った。

べつにわたくしの人生が惨めなものであった、と言いたいのではない。どんな人生だってきっと惨めだし、同時に幸福でもあるのじゃない？わたくしはあの男に対して愛着を持っていたのであって、それはたとえばこの家に対して持っているのと同じ感情。いえむしろ、この家に対する愛着のほうが大きくて、もしかしたら愛してさえいるのかもしれない。だから、この家が取り壊されることはわたくしには耐え難かった。

もちろんあの男が死んだときは悲しかったし、しばらくは泣き暮らしていた。でも今になって思えば、あれは先行きが不安で泣いていたのね。実際、あの男に二度と会えないと思ってもそんなに悲しくなくて、でもそういう態度を見せればこの家を放り出されるかもしれないし、だからといって殊勝に過ごしていたって放り出されないとは言えないし。

それに、あの男の子供たちはわたくしのことを憎んでいたに違いない、母を泣かせ、命を縮めさせた敵として。だからわたくしは自分の身を守るために戦わなくてはならないと思っていた。そうしなければわたくしは遠からず破滅させられるだろうと。

でも、そんなことにはならなかった。というのも、あの男の長男がわたくしのもとに通うようになったからだ。あの男の長男はわたくしよりも五つ歳下で、ずっと以前から父親の囲っていた女を見てみたいと思っていたとのこと。

あなたの見ている姿が、その頃のわたくし。何度となく通ってくるうちに、あの男の長男とも情を交わしてしまったけど、それはどちらからともなくそうなってしまったこと。わたくしが誘ったと言われれば、そうでないとはいえないけど、それは先方にも言えること。男と女だからそんなこともあるかもしれない。でもそれはむしろ慣習のようなもの、と今では思っている。

わたくしはその男のことも愛したつもりだったけど、結局は一人になるのが怖かっただけかもしれない。その男がもっといい家に住まわせてやる、と言った晩、わたくしは男を拒んだ。そのときはどうしてそういう気持ちになったのかわからなかったけど、きっとわたくしにはその男よりもこの家のほうがずっと大切だったのだ。だから、わたくしが死んだ後でその男がこの家を取り壊すつもりであることを知ったとき、わたくしは心の底から男を憎んだ。そうしたら男は死んでしまったけど。でもそれは偶然。心臓はあの男の持病だった。

男はおよそ十年間わたくしのもとに通ったが、やがてあまり来なくなり、来てもしみじみと父親のことを語り合ったり、わたくしの作る料理を誉めたりするばかりで、もはやわたくしと同衾しようとはしなかった。でもそのことは少しも苦にならなかった。

でもそれもどうしてそんなことになったかを知るまでのこと。男は他に女を作っていたのだ。もはや容色が衰え始めたわたくしとそんなことをするのが嫌になったのかもしれない。悔しくて仕方がなかった。

自尊心の傷つかない程度に誘ってみたことが一度だけあった。男は本当に気付かなかったか、あるいは気付かなかった振りをした。でもわたくしはかえってほっとしていた。自尊心は男を求めていたけど、こころは少しも男を求めていなかったのだ。

そしてわたくしはその男の姉、あるいは母親のような存在になっていった。そうなることはわたくしの気分を軽くしたが、男を奪った女のことを考えると、口惜しくないわけではなかった。

新しい女はかつてのわたくしと同じ、看護婦だった。わたくしは女の居場所を突き止め、非番の日に訪ねていった。女はちょうどあなたみたいに、美しくはなかった。でも不思議と人を惹き付けるところがあった。あなたみたいに。

女はわたくしが名を名乗ると、ぱっと顔を輝かせた。わたくしにはそれが不可解だった。わたくしは女の仇であるはずだったから。でも女は喜んでわたくしを部屋に上げた。

女はその愛人がわたくしを、実の姉のような特別な人、といつも話しているのだと言った。その言葉はわたくしの自尊心を大きく傷つけるはずだったのに、不思議とすんなりと受け入れることができた。

そしてその日のうちに、わたくしと女はとても親しくなった。女はその愛人と同じように成人しないうちに母親をなくしていて、それが女とその愛人とを結びつけたのかもしれなかった。「でもあの人にはあなたのような方がいて羨ましい」と女は言った。わたくしは、もうわたくしたちは友達じゃなくて？と言った。でもわたくしは別な気持ちに気付いていた。

わたくしはその女に恋していた。たとえあの家と引き換えにしても手に入れたいと思った。そんな感情は、それまでどこの誰にも抱いたことがなかったので、覚えず戦慄した。

女、というよりも娘、といったほうがいいくらいの歳だった。あなたよりもまだ若かったから。わたくしと娘とは親子ほど歳が離れていた。わたくしは娘と知り合ってから、その愛人に対しては姉あるいは母親の地位に甘んずることに吝かではなくなった。

娘とは三年間ほど親子みたいに付き合った。娘はわたくしがかつてその愛人の愛人であったことを薄々勘付いていたようで、わたくしの前で愛人の話をあまりしなくなっていった。本当なら娘のそういった気遣いはかえってわたくしの自尊心を傷つけるはずなのに、わたくしは素直にそれを嬉しいと思った。

でも、心の底で欲していることを押し殺しているうちに、わたくしの心は少しずつすさんで行った。そしてついに当の娘にまで辛く当たってしまい、しばらく娘と会うのを止めた。

でも、娘のほうからわたくしを訪ねてきた。娘はわたくしの顔を見るなり、怒られる覚悟で、でも心配で心配で来てしまいました、と言った。わたくしは娘にこの家に訪ねて来ないように言ってあったのだ。この古い家に、年老いていくわたくしが一人で住んでいるのを娘に見られるのが嫌だったのだ。娘のことが好きになればなるほど、わたくしはこの家が疎ましくなっていた。

でも娘はわたくしの恐れていたようなことを口にしないばかりか、そんなことを考えてもいなかったようにみえた。

少し体調を崩していたのだとわたくしは言った。娘は、わたしのことを嫌いになったのではないんですね？と聞いた。わたくしはそんなことがあるはずがないと答えた。すると娘はわたくしの胸に飛び込んで泣いた。娘のからだを我が身に抱きとめることを何度夢に見てきたことだろう？それが現実になった。わたくしはおそるおそる娘の背中に両腕を回し、最初は軽く、それから強く抱きしめた。

わたくしの気持ちがどんなであったか、結局のところ、あなたにはわからないのでしょうね。

その日娘はわたくしのところに泊まっていくことになった。そのとき考えていたことは、ただ、少しでも長く一緒にいたい、ということだけ。それがあんなことになってしまうとはね。情欲とは恐ろしいもの。

わたくしはその日はじめて自分の手料理を娘に食べさせることができた。娘はとてもおいしい、と言ってくれた。わたくしはそれがとても嬉しかったし、それで満足すべきだったのだ。

でも、娘が湯に浸かりに行ってしまうと、その姿をひと目見ようとせずにはいられなかった。わたくしは、背中を流してあげようか、と娘に声を掛けた。娘はもとより警戒することなど何もなかったので、じゃあ、一緒に入りましょうよ、と言った。

わたくしは、浴室がそんなに広くはないのを口実に背中を流すだけに留めた。あの狭い浴槽に二人で一緒に浸かったら、とても自制できないだろうと思ったのだ。

娘のからだはあなたのそれと同じように、必ずしも美しいものではなかった。でもそれがなんだというのでしょう？若いからだは光り輝くようだった。

それからわたくしたちはこの部屋に並んで横になった。雨戸の明り取りから漏れる月明かりの元で、隣で静かに寝息を立てている娘の寝顔を見ているうちに、わたくしはそれに触れずにいられなくなり、唇に触れずにはいられなくなった。そしてわたくしが自らの唇で娘の唇に触れているとき、娘が目を覚ました。大きく見開かれたあの瞳を、今でも忘れることはできない。

あなたが欲しいの、とわたくしは言った。声は覚えず上ずってしまった。娘はしばらく黙ってわたくしの顔を見つめていたが、しまいには、欲しいのなら、差し上げます、と言った。

それが済んだ後で、娘はひとしきり泣いて、そしてそのまま眠ってしまった。

翌朝何もなかったかのように娘は帰って行ったが、それが娘を見た最後だった。その次の日の朝、夜勤明けで家に帰る途中交通事故に会って死んでしまったのだ。

そう考えるのは間違っているとしても、わたくしが娘を殺したように思えてならなかった。娘の後を追って死のうかとも考えた。でもそんなことをしたら、わたくしと娘との関わりをどこの誰だかわからない人たちの不浄な手で暴かれるかもしれないし、暴かれないとしても、何かの関わりがあるという証拠立てをわたくし自らがするようなものだったので、どうしてもそうするわけにはいかなかった。

わたくしは、とりあえず娘の七回忌が済むまで生きていようと決めた。そして決意の通りに七回忌まで生きて、さらにそれから一年ほど生きていた。人に決意を悟られるような死に方をしてはならなかったから、七回忌の命日に死んだりするわけにはいかなかったのだ。

その七年間わたくしがしてきたことは、いつでも死ねると自分に言い聞かせること。つまりあなたと同じように刃物を弄んでいたのだ。あとほんの少しだけ強く刃を引けば死ねる、という思いだけがわたくしを生かしてきた。もしかしたら、死ぬための予行演習をずっとしていたのかもしれない。その予行演習の瞬間に死んでしまってもまったく構わなかったのだ。死ぬわけには行かなかったが。

そして、七回忌の翌年、娘の命日が過ぎてから一月ほど経ったある日、わたくしはそれを実行に移した。

でも、わたくしには娘のほかに心残りがあったのだ。死んでみてから気付くのだから、ほんとうにどうかしていたとしか思えない。まるで忘れてしまっていたけど、この家がわたくしに付き従って、ゆるやかにやさしく見守っていてくれたのだ。娘が死んだ後激情に流されずに決意の通りに生き続けられたのも、この家のおかげだったかもしれない。

浴室で死んだのは、できるだけこの家を汚したくなかったから。もちろんそれでも汚れてしまったのだけど。

そうして、死んでから今日まで、わたくしはこの家とそこに住む人たちを見守って過ごしてきた。生きている人たちにとって、それはありがたいことではなかったかもしれないけど。

そして一年の大半を穏やかに過ごしてきたのだけど、娘の命日からわたくしが死んだ日までのおよそひと月は、どうしてもわたくし自身の気持ちを静かに保つことができなくて、この家に住んで守ってくれているはずの人たちの夢枕に立ち、結果としてどの人も追い出してしまったのだ。それは、まったくわたくしの気持ちとは裏腹のことで、でも自分ではどうすることもできないのだった。

そしてあなたがこの家にやってきた。あなたはあの娘と顔かたちもまるで似ていないけれど、あの娘を思い出させた。

あなたの暮しぶりを見ていて、わたくしはすっかり切なくなってしまった。できればあなたの力になりたい。でもわたくしがあなたの力になることができるとすれば、黙って見守っていることだけ。

信じて欲しいのだけど、わたくしはあの娘の命日まではあなたのことを見守っていたとはいえ、何でも見ていた、というわけではないの。

それが、またそのときがやってきて、わたくしはすっかり変になってしまった。男の人に抱かれたときのあなたの表情を眺めずにはいられなかったし、それまでは浴室であなたが刃物を弄ぶのをほんとうにはらはらしながら見ていたのだけど、何かもっと獰猛な気持ちが首を擡げてきていた。

切ってしまいなさい！とまで思うようになってしまっていた。でもなによりも、あなたを時々訪ねてくるあの美しいおんなのひとが、何よりも妬ましかった。あのひとに取りついて殺してしまえたなら、きっとそうしていただろう。でも、わたくしにできるのはただ見ていることと、夢枕に立つことだけ。あなたとあの方がお風呂場で見たのは、夢。

この家が壊されそうになったとき、怪我をした人や死んだ人が出たけど、あれはわたくしが呪い殺したわけではない。そんな能力はわたくしにはない。わたくしがしたのは悪い夢を見てもらったことだけ。だから、あれはむしろ偶然のなせる技。あるいは、わたくしの願いを聞き届けてくれた、何か別の力のなせる技。

わたくしはあの方をあなたから遠ざけ、その間にあなたの夢の中であなたと交わってしまおうと考えていた。いつのまにか、わたくしはあの娘にしてしまったのと同じことをあなたにしようとしていた。あの方に先を越されそうな気がして怖かったのね。あなたの愛する男の人には少しも嫉妬しないけど、あの方には自分でもどうしようもないほど嫉妬していた。