（４）

女はそれだけ話すと黙ってしまった。私も何を言ったらいいのかわからなくて、黙っていた。月の光の差し込む部屋の中で、私たちはそのまま見詰め合っていた。

先に沈黙を破ったのは女のほうだった。

「あなたのあの人は、鉋祭のあの村の出身だそうね。実はわたくしも、あの村の出身なのよ。

鉋屑をあなたも持っているでしょ？わたくしもあの村に住んでいた頃は毎年新しい鉋屑を拾って大切にしていたもの。

でもあれはね、ただ拾って持っているだけじゃ駄目なの。鉋屑はつまり占いなの。拾った鉋屑から吉凶を占ってくれる人がいて、それが吉なら肌身離さず身に付け、もし凶ならあの神社の神主さんにお払いをしてもらって鉋屑も奉納してしまうの。そうしてやっと幸運がやってくる、というわけ。

でも、あの人の話だと、そういう習慣はなくなってしまったみたいね。それだとしたら、凶運をそのまま持ち運んでしまっている人もいるかもしれない。もしかしたら、あなたの持っているのも凶運の鉋屑かもしれないわね」

私は鉋屑のことを言われてなんだか妙に腹が立ったので、自分でも訳のわからないことをまくし立てた。

「私はあなたの知っている娘さんとは何の関係もないし、凶運でも構わない。だいたい、あなたが自死するのはあなたの勝手だけど、その娘さんが死んだから自死したなんて、娘さんが可哀想だ。可哀想過ぎる。

私がその娘さんならあなたを殺すことはあっても自殺するなんて有り得ないし、裏切られたとかからだを弄ばれたとか心が砕け散ったとかそんなことでぼんやりしていて事故に合ったのならそれはそれでしかたのないことで、あなたに責任とって欲しいなんて思わない。それに、そんなこと考えるくらいなら、最初から最後まであなたを拒み通す。さっきどうでもよくなっちゃったのはどうせあなたに殺されるのなら、そのくらいのことがどうだというのだ、と思ったから拒むのを止めただけで、そうでなければ、私が元気いっぱいでそれがいわゆる不倫であろうとなんだろうと好きな人がいるなら絶対に死んだりはしない」

そこまで言って、私は自分の言ってることとそれまでしてきたことがどうもしっくりこないばかりか、論理的にも捻れているような気がして何も言えなくなってしまった。

「どうして私に殺されるなら何をされてもいいって思ったの？」

女は不思議そうに私に聞いた。

「さあ・・・なんか捨て鉢な気分っていうか・・・」

「そう・・・言い古されて、すっかり輝きを失ってしまった言い方だけど、力ずくではこころまでは奪えないのね。いったいわたくしはあなたの何を奪おうとしていたのでしょう。からだを奪えば、こころも奪えるとでも思っていたのでしょうか。

男の人のことはよくわかりませんが、おんなのからだは不幸にもこころに深く根ざしてしてしまっていることが多くて、からだを奪えばこころまで付いて来るどころか、たいていは壊してしまうかそっぽを向いてしまうかするのですね。誰もがそうだとは言いませんが、あの娘もあなたもそんなふうにできているのですね」

そして女は私に向かってごめんなさいと頭を下げた。

「わたくしはあなたにあの娘の面影を見てしまったのですが、それも詮無いこと。わたくしは死ぬ前も死んだ後も、あの娘のことをずっと想い続けてきましたが、何時の間にか身の回りの様々なことをあの娘と結びつけて考えるようになっていました。だから、あなたがここにやってきたときは、それが馬鹿馬鹿しい考えであることもよくわかっていましたが、あの娘の生まれ変わりがわたくしに会いに来たのだと考えたのです。それも、ただ会いに来ただけでなく、復讐しに帰ってきたのだと考えたのです。その考えはわたくしを夢中にさせました。わたくしは昂ぶる気持ちを抑えかねつつ、ずっとあなたを見守り続けて来たのです。

でも、あの娘の命日が過ぎて変になってしまってからは、あなたが欲しくてたまらなくなって、しまいにはずいぶんひどいことをしてしまったのですが、でも結局のところ、わたくしは、あなたの手に掛かって死にたいのです。

さあ、わたくしを殺してください」

女は私に剃刀を手渡した。

「それで、わたくしの息の根を止めてください。あなたに殺されるなんて、そんなに嬉しいことがほかにあるでしょうか」

剃刀はどことなく頼りなげだったが、やわらかいおんなの首を掻ききるにはじゅうぶんそうだった。私は女ににじり寄り、首に剃刀を当てた。目を閉じた女の顔は、とても穏やかだった。私は右手で剃刀を女の首に当て、女の顔をじっと見つめた。左手で女の頬に触れると、雪のようにやわらかく、でも仄かに暖かかった。

私は刃物を捨て、女を抱擁した。暖かくてやわらかい女のからだは、私自身が生きていることを実感させた。

「・・・どうして？」

女は驚いたように言った。

「どうして私があなたを殺さなければならないのですか。私にはその理由を見つけることができません。なぜなら、さっきも言ったことですが、私はその娘さんと何の関わりもないし、あなたを恨むとしたらＬさんに酷いことを言ったということだけですが、それはあなたを殺しても何の解決にもならないことだし、あなたの命で購うようなことでもないからです。それに、私はなんだかあなたのことが好きになりました。でもそれは、あなたに私のからだを好きにしてもらいたい、ということではなくて、あなたと話をしたりあなたが側にいてくれたりすると嬉しいという、そういう、好き、です。だから、私はいつまででもこの家に住んでいたいし、一年のうちの一箇月くらい、あなたが自分自身を見失って夜な夜な私に悪夢を見させるとしても、それはつまり私への好意の裏返しだとわかっているから、少しも苦になりません。それに私は悪夢なんて少しも怖くないんです」

私がそれだけ言うと、女は「・・・ありがとう」と言った。声としてではなく、体を通して伝わってくる振動として、私はそれを聞いた。

女は少し身を引き離すと、私の顔をじっと見つめた。それから「さようなら・・・」と言うと、私の腕の中で溶けるように消えてしまった。

ふと気が付いて時計を見ると、先に見たときから五分と経っていなかった。

翌日、私は管理者に聞いて女の墓を訪れた。荒れていないのは、管理者が掃除をしているからかもしれない。私は花と線香を供え、一時間あまりもその前にいた。でも女は現れなかった。

その後、正月過ぎに気管支炎をこじらせて寝込んでいたとき、一度だけ女は現れた。姿は現さずに、声だけ。

「お墓参りしてくれて、どうもありがとう」と女は言った。それから、「この家はあなたが冬を越すには寒すぎる。あの人の言うように、どこかもう少し暖かい家に越したほうがいい」と言った。

「そして、この家はもうおしまいにするの。あなたが最後の住人、というわけ。悪いけど、そう××さんに伝えてもらえる？」

私は必ず伝えると約束した。

女はそう言ったきり、二度と何も言わなかった。

Ｏ市に越して行く直前に、女に言われたことを管理者に伝えた。管理者は気味悪がっていたが、私が越して行って間もなく、丹念にお払いをしてもらってからその家を取り壊した。もちろん怪我人も病人も死人も出なかった。

その後Ｌさんから聞いたところによると、その古い家には昔住んでいた妾の幽霊出たが、他所からやってきた別の妾が幽霊を退治した、という話になっているらしい。

・・・せめて愛人くらいにして欲しかったな。妾じゃなくて。