（２）

Ｌさんを帰すと、私は家の管理者に電話をした。その人が家主ではなく管理者に過ぎないことは、その日はじめて知った。

「この家について聞きたいことがあるのですが」

私がそう言うと、管理者はため息をついた。

「出ましたか・・・」

「幽霊とかその類なら、出ました」

「いつも今頃になると、出るんです・・・前に住んでいた方が出て行ってからお払いしてもらったんですが、駄目だったみたいですね・・・あなたも出て行かれるというのですね。仕方のないことです」

「いいえ、出て行きません」と私は答えた。出て行く気なんて本当にまったくなかったのだ。Ｌさんのことがなければ、管理者に電話することだってしなかったかもしれない。前にも書いたけど、私はその家がとても気に入っていたのだ。

「それよりも、もしご存知ならそのあたりの事情について詳しく聞かせて貰えないでしょうか？」

そう言うと、管理者は電話では話せないのでこちらまで来て貰えないかと言った。

「幽霊に聞かれるのは嫌ですからね・・・いえ、それは冗談ですが、いろいろ込み入った話もあるので、電話ではなく直接お会いして話したほうがよいかと思いまして」

冗談にしては、管理者は少しも笑っていなかった。それどころか幽霊を本当に恐れているようだった。

管理者の家はすぐ近くにあった。つまり同じ集落の中というわけだ。管理者は私を座敷に上げ、奥さんがお茶を入れ終るのを待ってから話し出した。奥さんもその場に留まっていた。

「あの女の人は誰なんですか？」

そう聞くと、管理者は非常に驚いた様子だった。

「そんなにはっきり見たんですか？」

「いえ、夢の中に出てきたんです」

それを聞くと少し安心したようだった。

「そうですか・・・いえ私はてっきりまともにあの人の幽霊が出てきたのだとばっかり・・・」

「あの女の人って、誰なんですか？」

「あなたが見たのは女の人でしたか？」

「はい、初老の、きれいな女の人でした」

「ああ、それならたぶん間違いないでしょう・・・その人は、あの家の最初の住人でした」

管理者の話は次のようなものだった。数十年前、Ｉ市で大きな病院を経営していた人物が自分の病院で働いていた看護婦の一人をとても気に入って、ここに家を建てて住まわせた。病院の経営者のほうはずいぶん昔に亡くなったが、ここに住んでいた女の人のほうは私がそこに住む十年くらい前まで存命だったそうだ。そして死ぬまでこの家でひっそりと暮らしていたのだという。

病院の経営者が死んでからも暮しに困ることがなかったのは、その遺族が経済的に面倒を見てきたからだという。そのあたりのいきさつについて管理者は言葉を濁したが、女の人に子供がなかったことも幸いしたのでしょう、と言った。もしそうでなければ遺産相続に関して面倒な問題が持ち上がり、生活の面倒を見るどころではなかっただろうというのだ。

今ではその孫の代の人が病院経営を取り仕切っていて、この家と土地もその人の所有だという。管理者はかつてその病院で働いていて、定年退職後この家の管理を任されている。それに、管理者はもともとこの土地の出身なのだという。

「もちろんああいういわく付きの家ですから、それなりに手当ても頂いてもいますが」と管理者は付け加えた。

余所者の私にそこまで詳しく話してしまったも構わないのかと聞くと、余所者だからかえって後腐れがなくてよいのだといった。それに、その話はこのあたりでは誰一人知らぬものはないのだという。

「その方はどのように亡くなったのですか」と私は聞いた。人の夢枕に立つくらいだから、あまり穏やかな死に方をしたようには思えなかったのだ。

管理者は奥さんと顔を見合わせてから「自殺だったんです」と言った。

「浴室で亡くなったのですか？」と聞くと、管理者は驚いた。

「そうなんです。私が見つけたんですよ」と奥さんが応えた。

「用事があって訪ねて行ったら返事がなくて。ほとんどいつでも家にいるのでおかしいなと思ったんですよ。一時間くらいしてからもう一度行ったんですけど、やっぱり返事がなくて。お隣に聞いたら、いつもなら朝家の前を掃除しているけど、そういえば今朝は見かけなかった、というので何かあったんじゃないかって。この人は入院してたから、お隣さんと一緒に合鍵を使って入ったんですよ。そうしたら、お風呂場で裸のまま血だらけで死んでたんですよ。そりゃあ、ひどい有様で・・・」

奥さんはなんだか嬉しそうにそう話した。

「でも、どうして自殺されたのでしょうか？」

「さあ、それがよくわからないんです。歳を取ってきてもいたので多少の病気はあったでしょうが、私などより元気そうでしたけどね。私はちょうどあのとき患って入院していましたし。××さんが亡くなってすぐのことなら、後追い、ということもあるのでしょうが。二十年も経ってから、というのは解せません」

ちなみに「××さん」というのは女の人をこの家に住まわせた病院の経営者のことだ。

管理者はそれに続けてあの家がそんな経歴を持っていて、しかも老朽化しているのに今でも取り壊されずに貸家になっている事情について説明した。

老嬢の死後、老朽化しているだけでなく自殺のあった家なんては誰も住みたくないだろうということで、取り壊して更地にして、しかるべく時間を置いてから土地を売却するなり、市街地の拡大に従って賃貸住宅の需要も高まってきてもいたのでアパートを建てるなりすればよい、ということになった。ところがそれから奇怪なことが立て続けに起こったのだ。

取り壊しの下見に来た業者が階段から転落して骨折、取り壊しの当日、パワーショベルが現地に到着する前に交通事故を起こす、先に来ていた作業員の一人が突然腹痛を訴え救急車で運ばれ、検査の結果急性盲腸炎であることがわかりそのまま入院、ということが立て続けに起きた。しかも、それを単なる偶然と笑った病院経営者の息子は、その直後心筋梗塞で急死した。

当然の成り行きとして、一連の出来事は老嬢の祟り、ということになった。当の所有者が死んでしまったこともあり、取り壊しは延期されることになった。

所有者の娘婿が病院経営の後を継ぎ、枝葉の問題としてこの家をどう処分するかが問題になったが、先のこともあるので取り壊すのはひとまず止めて、かといってそのまま放置しておけばあっという間に建物が痛んでそれこそ名実共に幽霊屋敷になってしまう。だからここはひとまず、事情を知らない他地域からの入居者を募って住まわせることで決着した。

ところが、入居してから必ず一年以内に「幽霊が出る」と住人が逃げ出してしまうので、一年毎に住人が入れ替わってきたのだという。それならいい加減取り壊せばよいではないか、という話しも出ているのだが、祟りが怖くてそれもままならない、ということらしい。

「祟りは恐ろしいですからね」と管理者は言った。そして、「あなたもこれだけ聞いたら出て行きたくなったでしょう？」とため息混じりに言った。

でも、私は出て行かない、と言った。管理者はあきれたようだった。

あの家が気に入っていたということもあったけど、私には老嬢が浴室で自殺した、というのが妙に気になっていた。それは私がしてしまいそうになっていたことでもあるからだ。それに、私は老嬢にある種の親近感さえ持ってしまっていた。その頃の私は経済的に自立していないことで「私はどうせ囲われ者」と半ば捨て鉢な気持ちで自嘲していたのである。

管理者の家を辞し家に帰ってから、私はＬさんの店に電話をした。Ｌさんは元気を取り戻していたようだ。管理者から聞いたことはＬさんには話さなかった。そんなことを話したらＬさんは怖がって私のところに来てくれなくなるかもしれないし、そうなったらそれこそ刃物を弄んだついでに頚動脈を切ってしまうかもしれなかったから。

同居人には電話しなかった。意地を張っていたというようなことではない。なぜだかこの問題は私にしか解決できないことのような気がしていたので、同居人に助けを求める必要性を感じなかったのだ。

でももちろん何らかの展望があったわけではない。何があっても私は負けない、くらいのことしか考えていなかった。でもその程度の覚悟があったからといって何かが起きたとき的確な判断や行動をすることができるのかどうかはかなり怪しかった。

そしてその晩お風呂に入っているときに、早速ことは起きた。

浴槽に浸かっていると突然湯が朱に染まり、洗い場に現れた私は剃刀を頚動脈に当てた。「だめ！」と私が叫ぶと、私はこちらを一瞥し、それから剃刀を引いた。鮮血が向こうの壁にざっと吹き付け、洗い場の私は目を開いたままその場に倒れた。

気が付くと、いつもと変わらない浴室がそこにあった。

床についてもなかなか眠れなかった。ふと気が付くと足下に老嬢が端座していた。起き上がろうとすると、「そのままで」と言った。

「どうしてあんなことをするんですか？」と私は聞いた。

「さあ、どうしてかしらね」老嬢の声は笑っていた。

「ところであなたに惚れてるあの方は、お元気になられて？」

「ええ、元気になったようです。でもあなたはあの人に何を言ったんですか？」

「あの方の願いは叶わない、と申し上げたまでのこと。それに、あの方はそのことをよく知っていらしたわ」

「そんなことを言うのはとても残酷なことです」

「あら、あなたのほうが残酷でしょう？あの方の気持ちを知って、あんなことをするなんて」

「私がなにをしたというのですか？」

「同衾していたじゃありませんか」

「でも、何もしていません」

「だから、残酷なのですよ。こころもあげられない。からだもあげられない。それなのに拒むどころか安心しきった無防備な姿をあの方の前に晒すなんて」

「じゃあ、どうすればいいっていうんですか」

「からだだけあげてしまえばいいじゃありませんか」

「そんなことはできません」

「好いた男にからだを与えているじゃありませんか」

「それとこれとは別です。だいいち、好き、の中身が違います」

「違うものですか。あなたは女の人と交わるのが怖いだけ」

「それはそうかもしれません。でも、あの人とはそんなことはできません」

「それなら、しないがよろしい。しないついでに、あの人をここへ呼ぶのもやめてしまいなさい」

「そんなことしたら・・・」

「そんなことしたら？」

老嬢は笑った。

「そんなことしたら、さっきあなたが見たようなことになるとでもおっしゃりたいの？」

老嬢は優しい声音で続けた。

「だいじょうぶ、そんなことにはなりません。わたくしがあの方の代わりになってあげましょう。こんなおばあさんではいや？それなら、あなたのお好み通りに。さあ、起きあがって御覧なさい」

見ると、そこに端座していたのは白装束に身を固めた中年の美しい女だった。

「さあ、これでいかが？なんなら毎晩わたくしが夜伽をしてあげましょう」

女はそう言ってにじり寄ってきた。私は声を出そうとしたが、かすれたような声しか出なかった。

「助けを呼ぼうなんて、そんな必要ないじゃありませんか。わたくしたちはおんなどうし、おんなどうしはおんなどうしらしく、たのしくすればよろしいのです」

女は私を押し倒し、私の顔をしげしげと眺めた。

「あなたはちっとも美しくないわね」

「余計なお世話・・・」

「でもね、自分では気付いていないかもしれないけど、あなたは人を引きつける何かを持っている。あなたにいろいろな人が寄ってくるのは、たぶんそのせい。そして、その何かを引き出したのは、あの男ね」

女はころころと笑った。

「さあ、私のものになってちょうだい。あなたのような人が来るのをずっと待っていたのよ」

女のからだは温かく、重さもあった。臈たけた女の手が、私の肌に触れた。私は思わず身震いした。

「嬉しいの？」

女は嬉々として私の着ているものを脱がそうとした。私はどうにかして女の手から逃れようとしたが、女は見かけよりもずっと力が強かった。私は女に弄ばれ、それから殺されるに違いないと思った。でも、死ぬことは私のずっと願ってきたことではないのか？刃物を弄んでいたとき、女の言ったように本当に死のうとしていたのではなかったのか？明日にでも私の死体が浴室で発見されるかもしれないが、それならそれでよいではないか。そこに行きついたとき、私は抵抗するのを止めた。

「やっということを聞く気になったのね。いい子」

女はそう囁くと、私の髪を撫でた。その仕草は同居人のそれと似ていた。見ていなかった、なんて言っていたけど、嘘だ。同居人に髪を撫でられてうっとりとしていた私のことを見ていたに違いない。でもその女に同じようにされてもうっとりするなんてことは有り得なかった。私は蛇に睨まれた蛙というだけで、女を好いているわけでもましてや恋しているわけでも愛しているわけでもなかった。

こんなふうに私を手篭めにしてしまような女が、どうして自殺なんてするものだろうか？そう考えることはあまり論理的ではなかったが、私にはどうしても納得いかなかった。だからかすれる声で、「どうして自殺したの？」と私は女に言った。

その途端、女は動きを止めた。そして私をじっと見つめた。美しい眉が片方だけ跳ねあがっていた。

私はもう一度「どうして自殺したの？」と言った。すると女は私から身を引き離し、足下に座った。

「あれはわたくしがずいぶん歳をとってしまってからのこと」

女は話し始めた。