Ｉ市の海沿いの家に住んでいた頃は精神的にとても不安定だった。最大の原因は、いうまでもなく同居人の長すぎる不在だ。日曜日の夕方から金曜日の夜までの不在。もはや同居人とは言えないだろう。でも私はその人物をこのまま同居人と呼ぶ。
緊急の場合以外は連絡してこないように、その代わり毎日電話する、と同居人は言った。私から掛かってくる電話は迷惑、ということなのだろう。最初の一週間、同居人は確かに言葉通りにしたが、じきにまったく電話を掛けてこないようになった。したがって同居人と言葉を交わすのは金曜日の夜から日曜日の夕方までだけになった。
そんな状態に耐えられる筈もなく、私から何度も何度も電話するようになった。職場に掛けたこともあった。同居人はその度に掛けてくるなと言った。それでも何度何度も電話した。私の意識とは別に、指先が自動的に電話を掛けてしまうのだ。
そして待ちに待った同居人がやってくると、嬉しいんだかうんざりなんだか自分でもちっともわからなくなってしまう。気持ちが高ぶりすぎて空回りしていたのかもしれない。とんでもなくはしゃいだり、逆にとんでもなく落ち込んだり、の二つの状態の間を行ったり来たりしていた。同居人が行ってしまうと、とんでもない徒労感というか疲労感に襲われ、この世のすべてが呪わしかった。台所や浴室で刃物を弄んだのも、たいていが日曜日の晩のことだった。
そんな私を慰めてくれたのは、以前Ｉ市でいっしょに働いていた人たちだ。仮にＬさんとＭさんとしておこう。Ｌさんはかつての雇用主で、Ｍさんは同僚である。容姿容貌のことを書くのは嫌いだけど、Ｌさんの美しさは格別だ。
Ｌさんは店が休みの月曜日の昼前に人目を引く真っ赤な車でやってくる。おみやげは大量の食料品その他。二人で二時間くらい掛けて準備をし、遅目のお昼を食べる。お昼だけど、ディナー。そのくらいに豪華な食事。ワインも必ず開ける。夕方まで飲んで食べてしゃべって、それからひと眠りする。目が覚めたところでテレビを見ながらお茶をして、だらだらと過ごす。そして午後十時を過ぎた頃に二人でドライブ。日付が変わった頃に帰ってきて、お風呂に入ってから少し飲んで、そのまま眠る。そして翌日、Ｌさんはそのまま店に向かう。それがだいたい月に三回くらい。
Ｍさんは何の前触れもなく軽自動車でやってくる。今は主婦なので、来るのは平日の昼間。ときどきＬさんと一緒になることもあって、そのときはまるで同窓会だ。
もしこの二人との交流がなかったなら、私は台所や浴室で本当にどこかの血管を切ってしまったかもしれない。こういうのは、一度やってしまうと敷居が低くなってしまうものなのかもしれない。
でも手首ならたぶん何度でもできるが、頚動脈は一度きりだ。そのためか研ぎたての包丁や剃刀を首筋に当てるとなんともいえない気持ちになる。「何かの間違えで」、たとえば突然大きな地震が来て思わず刃を引いてしまうとか、電話のベルが鳴って思わず刃を引いてしまうとか、そういうつまらないことで死んでしまうかもしれないという感覚。そうやって死んでしまえたら、どんなにいいだろう、とか。
そういう話を一度だけＬさんにしたことがある。Ｌさんは「もしあなたが死んだら、私は泣きます」と言った。私はありがとうと言った。Ｌさんが本心からそう言ってくれたことはよくわかっていた。だから私は感謝の気持ちでいっぱいだった。しかしそれでも、「狂言」はずっとやめることができなかった。
さて、秋も深まり向こうに見える山の頂上あたりがそろそろ紅葉しはじめたある月曜日、Ｌさんと私は遅いお昼を食べ終わり、ワインも瓶に残っている分を注いでしまうと空になり、グラスを片手にとろんとした視線を部屋の中にさ迷わせながらぼんやりしていた。その日は不思議な心地よい沈黙が私たちを支配していて、作っているときはともかく、食事中はほとんどしゃべらなかった。なんていうか、食べることがすごく幸せで、料理もすごくうまくできたしテーブルセッティングもすごく決まっていたし、初めて飲むワインなのに大当たりで、窓から差し込む光も秋らしくてやわらかく、少し開けた窓から入ってくるそよ風も心地よくて、あたりはしんと静まり返っていて、でもときどき少しだけ潮騒や鳥の囀りが聞こえてきていた。つまり、滅多にないような気持ちのよい秋の午後だった。
お互いにとても満足していることは相手の顔を見ればすぐにわかった。視線が合ってしまったりするとどちらからともなく笑い出したりして。それから少しばかり視線を絡めあって遊んだりしているうちに眠くなってきた。お腹がいっぱいで、気持ちよく酔っ払っていて、気温もちょうどよくて、私たちは寝室──といっても布団が敷いてある畳の部屋だけど──へ行ってひと眠りすることにした。布団は午前中に干してあったのでふかふかで、洗い立てのぱりっとしたシーツを被せて二人で横になった。Ｌさんは同居人の蒲団で寝るのを嫌がったので、いつも二人でひとつの蒲団で寝ていた。本当はそういうのは嫌いだけど、酔っ払っているのとＬさんにはそのくらい気を許しているのとで、あんまり違和感を感じることもなくくっつきあってひとつの蒲団で眠ることができた。
ふと気が付くと、足元に初老の女の人が端座していた。主義に反するけど、この人も美しい人だったと書かざるを得ない。私が起き上がると女の人は会釈をしたので、釣られて会釈を返した。
「驚かれたでしょう？」と女の人は言った。
「ええ、少し」と私は答えたが、実はほとんど驚いてはいなかった。
「今日は、本当によい御日和ですこと」
「ええ、本当に」
「ちょっと、お話してもよろしいかしら」
「ええ、問題ありません」
「ずっと前から、あなたとはお話したかったんですよ」
「はあ」
「わたくしのことを知ってらっしゃいますか？」
「いいえ、存じません」
「それでよろしい」
「はあ」
「あなたの日々の苦しみは、手に取るようにわかります」
「ありがとうございます」
「でも、あれはいけませんね。お台所やお風呂場での、あれ」
「刃物を弄ぶ、あれのことですか？」
「そう、それのことです。あなたはちっとも死ぬ気なんてないと思っていらっしゃるかもしれませんが、そうでもないんですよ。やっぱりあなたは死にたいと思ってらっしゃるの、少なくとも刃物を弄んでいる時は。あれは見るに忍びません」
「見てらしたのですか」
「この家の中でのことなら、なんでも見ることができます。でも、見るべきでないことは見ていません」
「たとえば、私が男の人と戯れているさまとか？」
女の人は、少し困った顔をした。
「あなたの判断が正しいとだけ申し上げておきましょう」
女の人は襟を直して話を続けた。
「あなたの隣に横になってらっしゃる方ですが」
私はＬさんの寝顔を見た。とてもきれい。ちょっと苦しそうにもみえる。
「その方は、あなたのことを好きなのですね」
「そうだと思います」
女の人は、またちょっと困ったような顔をした。
「なんて申し上げたらいいのでしょうね・・・つまり、あなたのことを伴侶にしたいというように好きなのですね」
私はそのことを薄々感づいていたので、「知っています」と答えた。
「でも、私はこの人の気持ちに応えられないとはっきり言うべきなのでしょうか？」
私は思わずそう質問した。何か悪い事をしているような気になっていたのだ。
「いいえ」と女の人は少し強い口調で言った。
「その方はあなたの横で眠るだけで満足しようと努力しているのです。それは、その方があなたを好きなようにあなたがその方を好きではないということをよく知っていらっしゃるからです。そして、あなたの気持ちがその方の望む方向に変わることがないことも、よく知っていらっしゃるのです。
その方は、わたくしやあなたと同じように自尊心が並外れて強いようですが、それはつまり自信がないということ。自信のないのを自尊心でどうにか持ち堪えているのです。そのことはあなたもよく知っているでしょう？」
私は黙って頷いた。
「その方がご自分で言い出さない限り、そのことに触れてはいけません。いいですね？」
「はい」
そして次の瞬間私は目を覚ました。目を覚ますと、私と向き合って寝ていたＬさんも目を開けた。夕闇の中で、私たちはしばらく見詰め合った。にらめっこ状態なのに、二人とも笑い出さなかったし、ひとこともしゃべらなかった。
その晩はなんだか重苦しく過ぎて行った。でもいつものようにお茶を飲んで、テレビを見た。十時になって、Ｌさんはドライブじゃなくて散歩に行かない？と言った。もちろん私は承知した。
家から歩いて数分のところにある堤防には、同居人とは毎週出掛けていた。それも必ず夜中に。夜の闇の中で寄り添って暗い海を見ていると、そのときだけは私の心も落ち着くのだ。同居人が大切そうなことを話すのも、いつもそこだった。
でも、Ｌさんと一緒にそこに行くのは初めてだった。堤防の上に並んで座るとすぐ横にいる誰かが女の人の匂いをさせているのが不思議な感じだった。風はほとんど吹いていないのに波は荒くて、波消しブロックの隙間を私たちの足下までやってきてしぶきを浴びせた。
Ｌさんは、ずっと向こうの漁船の明かりのほうを見ていた。きっと、あの初老の女の人に何か言われてとても傷ついているのだろう。あの女は、私に言ったのと同じようなことを言ったに違いない。そう考えると、あれが誰であろうとも憎らしくてならなかった。
どうしたら私の気持ちをＬさんに伝えられるのかよくわからなかった。私はＬさんに凭れ掛かった。それが自然に感じられたから。Ｌさんの体温が心地よかった。
でも私が凭れ掛かるとＬさんのからだはこわばった。そしてしばらくすると、Ｌさんは左手で私の腰をおそるおそる抱いた。そしてさらに時間が経ってから、少しだけ私を抱き寄せた。そして、小さな声で「ありがとう」と言った。その言葉は耳からではなく、からだの振動として私に伝わってきた。
その晩、というか明け方に近い午前三時頃、浴室のほうで何か物音がした。Ｌさんも気付いたらしく、目を覚ました私をじっと見つめた。実は、そういうことはそれまでに何度もあったのだが、一人だと恐ろしくて確かめることができなかったのだ。でもそのときはＬさんもいたのでちょっとだけ勇気が出たのかもしれない。「見てきます」と立ち上がると、「私も行く」とＬさんも立ち上がった。二人で息を潜めて、足音をさせないようにして浴室に向かうと、ガラス戸の向こうで水音がしていた。思いきって浴室の電気を付けると、水音が止んだ。
「そこに誰かいるんですか？」
浴室をすりガラス越しに覗きこむと、人影らしきものがちらりと、蓋を開けた浴槽の中に見えたような気がした。
「警察を呼ぶ？」とＬさんが言った。私は首を横に振り、ガラス戸を開けた。
浴槽の中の残り湯は真っ赤に染まっていた。壁には勢いよく吹き付けたらしい血が──それは血液にしかみえなかった──べっとりと付いていた。そして洗い場には裸の私が血まみれになって倒れていた。Ｌさんは声も立てずにその場に座り込んでしまった。私はＬさんを抱きしめて、「私はこの通り生きている。あれは私じゃない」と言った。Ｌさんはただ黙って頷いた。
私は浴室の電気を消し、Ｌさんと寝室に戻り、そのまま二人で身を寄せ合って夜が明けるのを待った。あたりが明るくなって日が出るのを待ってから、私はＬさんを寝室に置いて一人で浴室を見に行った。もちろんそこには何も異常はなかった。浴槽の蓋もきちんとしまっていた。
Ｌさんはひどくショックを受けていたので、Ｍさんを呼んでＬさんを家に連れて帰ってもらった。ここにいるのはよくないと思ったから。本当はＬさんについていてあげたかったけど、しなければならないことがあった。