じりりんという目覚ましの音で目が覚めた。午前６時。さっさと着替えを済ませると、足音を忍ばせて静かに玄関を出た。するとそこにおじいちゃんが立っていた。誰もいないって思ってたから、すごく驚いた。おじいちゃんは振り返ると何も言わずに微笑んだ。いつもと同じさわやかな笑顔。わたしは微笑みかえそうとしたけど、顔がこわばってうまく笑えない。何か言わなきゃと思ったけど、口から出たのは「行ってきます」
「気をつけて行って来なさい」
おじいちゃんはいつもと同じでとても優しい。わたしはこっくりと頷くと、駅へ向かって走った。
これまで生きてきていちばん悲しかったのは、ママが死んだって知らされたときのこと。たぶん、今度のが二番目になるはず。でもぜんぜん実感が湧かない。
今朝はなんだかさわやかだ。夕べは熱帯夜じゃなかったのかも。でも走ると汗が出る。あたりまえか。まだ夏だもんね。だから発車間際の電車に飛び乗ったとき、エアコンががんがんにかかっていたのは嬉しかった。でもそれはほんの束の間。三分もすると汗はすっかり引っ込んで、体がどんどん冷えてくる。車内には人がぜんぜんいなかったのに、エアコンはラッシュのときみたいによく効いていた。ああ、肩が寒い。どうしてこんな服着て来ちゃったんだろうって後悔した。わたしは電車に乗ってる二十分のあいだにすっかり冷え込んでしまった。
だから降りる駅に着いたときには心底ほっとした。でもそれも束の間。さっきよりも世の中は確実に暑くなっていた。
わたしは駅前のコンビニでおにぎりと烏龍茶を買った。うーん、なんか若者っぽくない選択。まあいいんだけど。こういうのが好きなんだから。
マンションの入り口に立つと、朝帰りをしてきたような気分。そーいえば一度だけ朝帰りをしたことがあったっけ。わたしは重要な任務を帯びているにもかかわらず、なんだかみょーに浮かれたような気分になっていた。この非現実的な感覚はなんだろう？
見慣れたグレーの鉄の扉。チャイムを鳴らせばママが出てきそうだ。朝帰りしてきた私の顔を見て、ママはいたずらっぽく微笑む。「やるねえ、この娘は」わたしはそのとき一瞬ママがママじゃなくて、きららさんなんじゃないかって思った。だって、まるできららさんみたいなことを言ったから。おとーさんはすごく怒ってた。まだ中学生なのに夜遊びなんてとんでもない！だって。あのときのことはいまでも内緒で、結局永遠に内緒になっちゃったのだけど、きららさんと一緒に夜通し遊んでたんだ。
高校生になったらまた一緒に遊ぼうねっていってたのに。きららさんの嘘つき。
チャイムを鳴らしても誰も出て来ない。もちろん、おとーさん以外の人が出てきたら困っちゃうんだけど。誰もいないのかな。わたしはめげずにチャイムを鳴らし続けた。やっぱり誰も出て来ない。なんだか胸騒ぎがした。わたしはバッグから携帯と鍵を出した。もし何かとんでもないことが起きていたなら、すぐさまおじいちゃんに連絡できるように。
鍵を差し込み、回す。かちりと鍵が開く手応えがする。それから、ゆっくりドアを開ける。ドアチェーンはかかっていなかった。いないのかな？気がつくと息を殺して、抜き足差し足忍び足で歩いていた。静かにリビングのドアを開ける。誰もいない。いつもよりもきれいに片付いている。そしてテーブルの上にはビデオテープがひとつ。「子供の情景」そう書かれていた。それをテーブルの上に戻して、今度は寝室へ。なんだか鼓動が激しくなってきていた。ドアのノブを静かに回し、ゆっくりと手前に引く。
おとーさんはベッドとベッドのあいだに倒れていた。わたしは手に持っていたバッグと携帯を床に落した。でも床には分厚いカーペットが敷いてあったのでほとんど音はしなかった。静かにおとーさんに近づいて、力なく投げ出された右手を握る。まだ暖かい。わたしはその手を自分の頬にあてた。わたしは独りぼっちになってしまった・・・。
とそのとき握っていた右手がわたしの右手を握りかえした。わたしは反射的にその手を払いのけると後ろに飛びすさった。おとーさんはひどい寝ぼけ顔をこちらに向けてこう言った。
「おはよう」
わたしはその顔に向かってその辺に落ちていた布きれを投げ付けた。
「おお、パンツじゃないか」
おとーさんはうつぶせになったままその布きれを検分してそう言った。
「お前のか？」
わたしはバッグを投げ付けた。おとーさんはふたたび眠りにつかれた。
十五分後、わたしたちはリビングで情けない朝食を取っていた。
「ぼくには信じられないな。だって夕べここへ来てご飯を作ってくれたんだぜ」
「夢でも見てたんじゃないの？」
「そんなはずはない。ぼくはたらふく食べたし、ほら、自分で買ってきた覚えのないチリ産のワインの空き瓶がある！」
「たんに買ってきたことを忘れてるんじゃないの？」
「そんなことはない」
「でも、きららさんが亡くなったのは、確かに昨日の午後４時過ぎなのよ。新聞にも出てるわよ」
おとーさんは新聞を受け取ると、きららさんの事故の記事を穴の開くほど眺めた。読んでいたのかどうかはわからない。
「信じられない。でも、やっぱり本当なのかもしれないな」
おとーさんは新聞を置くとはらはらと涙をこぼした。わたしにはその涙が嘘っぽく見えた。
「ねえ、ほんとに悲しんでるの？」
すると、おとーさんはおにぎりを頬張ったまま考え込んでしまった。そしてわたしがイライラし始めた頃になってようやく答えてくれた。
「実はよくわからないんだ。でも、涙が出たってことは悲しいってことなんじゃないのかなあ。ああでもおにぎりはおかかがいちばんおいしいなあ」
「わたしもそう思う」
わたしたちの意見はその点で一致した。
「でもさあ」おとーさんは言った。「じゃあ、昨日ぼくが見たきららはいったいなんだったんだ？夢にしちゃ変なことばかりだ。だって、確かに帰ってきたときにきららはうちにいたし、そのときぼくは全く正気だった。アルコールも、タバコも、マリファナもやってなかった。研究室を出る直前までは確かに眠っていたけど、大学を出て、駅へ向かう途中から実にすっきりと目が覚めてきた。そう、ぼくにしては珍しいほどはっきりと目が覚めていた。留学中にときどきやってた覚醒剤を打ってたときみたいだって思ったほどだ。空はよく晴れていた。それに大学のまわりは割合暗いから、星もよく見えた。あんなに見事な星空を眺めたことはしばらくなかったね。電柱に激突して別な星すら観測するほど、星に見とれていた。それから、清少納言が夏は夜ですね、蛍が飛び交うのを見るのもまた趣き深いものですとかなんとか、そんなことを言ってるのを思い出した。そうだ、ほたるが死んで、まだ二年も経っていないのじゃないか。それなのに、ぼくはすっかりほたるのことなんて忘れて暮らしている、なんてことを考えているうちにバスがやってきたので、星はそれきりになってしまったし、ほたるのこともそれきりになってしまった」
「ママが死んでからまだ二年経ってないんだね」
「ああ、そうなんだよ。おじいちゃんやおばあちゃんは大丈夫かい？ぼくはそれが心配だ。すごく心配だ」
「おじいちゃんは、たぶん夕べ一睡もしてないと思う。けさ、わたしよりも早く外に出てたけど、顔色がすごく悪かった」
「それから、昭彦はどうしてる？」
「夕べは病院。ずっときららさんに付き添ってたはず」
「そうか。でもそれならそうと、どうしてだれも電話してくれなかったんだ？」
「だから、百回くらい電話したっていってるでしょ？ずっと留守電だったけど。ねえ、やっぱりきららさんが家へ来てたってウソなんでしょ？おとーさん、ウソ付くのヘタ過ぎるよ。さあ、怒らないからほんとのこといってごらん」
「だから嘘じゃないって」
「ねえ、好きな人ができたんじゃないの？それならそう言ってよ。怒らないから」
「だから、誤解だって！」
「寝室に下着が落ちてたけど、その人どうやって帰ったの？」
「服を着てればそんなことわからないだろ」
「胸は見ればわかります・・・娘に変なこと答えさせるな！で、その変な女の人ってどこの誰？」
「だから、あれは違うんだって。あの下着は・・・ほたるのだ」
「証拠は」
「んなもんあるわけないだろ」
「じゃあ、ママのだとしても、どうしてあんなとこに落ちてたわけ？」
「それは・・・」
「ねえ、ひとりで住んでいるうちに変な趣味ができちゃったなんてことないわよね」
わたしはとつぜん不安になった。鏡の前でランジェリーを身に付けて微笑む父！ショック！大ショック！
「おいおい、うなだれるな、変なこと考えてるんだろ！あれは・・・つまり・・・お守りのようなものだ・・・」
おとーさんは真っ赤になった。
「あのなあ、どーしてこんなこと説明しなきゃなんないんだよ」
わたしははっきりとはわからなかったけど、これ以上聞いてはいけないような気がしたので、やめた。
それから二人とも話すのをやめて、侘しい朝食を終えた。いつのまにかすごく暑くなっていたのでクーラーを付けた。
「今日も暑くなりそうね」
わたしは家に電話をした。電話に出たのはおじいちゃんだった。お父さんは家にいた、ということを報告した。おじいちゃんは「そうか」と言ったきりだった。わたしはこれからおとーさんを連れていく、と電話を切った。おとーさんは大学に休みの連絡をした。どうせ夏休みなんだけどね。
それから一緒に家を出て、駅に向かった。わたしは歩きながらおとーさんにたずねた。
「ねえ、どーして居留守なんて使ったの？」
「だから、居留守じゃないって！それよりも、お前こそ用事ができたって、いったいなんの用だったんだ？」
「何のこと？」
「だって、用事ができて夕べは家に来れなくなったんだろ？」
「何のこと？」
「だって昨日の朝、家に来るって電話したじゃないか」
「そんな電話してないよ。ねえ、おとーさんこそ大丈夫？すごく疲れてるんじゃないの？」
「たしかに疲れてるみたいだ」
おとーさんはそれきり口を閉ざしてしまった。
電車は来たときと同じように空いていた。わたし達は並んで腰かけた。こういうのって久しぶりだ。またもや冷房が利きすぎて、ちょっと寒い。おとーさんの横顔を盗み見ると、なんだか青ざめていた。きっと、すごくショックなんだろうな。きららさんって、おとーさんのお姉さんみたいだったから。そういえば、わたしもおとーさんも一人っ子。きょうだいってどんなんだろうな。とにかく、わたしがしっかりしなくっちゃ。おとーさんは普段から情けない人だけど、今日はそれにもまして、ずっと情けない。わたしがしっかりして、おとーさんを支えてあげなきゃ。
なんて殊勝なことを考えてたんだけど、わたしも夕べはよく眠れなかったせいか、人前憚らず大きなあくびをする。するとおとーさんが実にらしくないことをいった。
「眠いんなら少し眠りなさい。起こしてあげるから」
わたしは、え？え？って感じに驚いた。どうしちゃったの？あまりのことに「でも、冷房が効きすぎてるから眠ったら風邪を引くかもしれないから、いい」って断った。
そしたら、まるでおとーさまにあるまじきことに、わたしを抱き寄せたではないか！あまりのことにわたしは戸惑ってしまう。おーい、なにがどうなってるんだ？どうしようもなくからだがこわばってしまう。で、おとーさんの顔をそっと見上げると、おとーさんも、なんだか困ったような顔をしていた。で、目が合っちゃったんだ。そしたらどちらからともなく吹き出しちゃった。
「慣れないことはするもんじゃないな」
おとーさんはわざと難しい顔をした。だからわたしはそっとおとーさんにもたれ掛かった。そして「着いたら起こしてね」と言って目を瞑った。
「まかせとけって」
おとーさんの声が耳からじゃなくてからだから伝わってきた。おとーさんのからだは少しだけお酒臭かった。でも、あったかくて気持ちよかった。
電車の揺れが心地よくて、わたしはほんとうに微睡んでいた。ほんの一瞬、ママと、おとーさんとわたしの三人でどこかへ出掛けようとして電車に乗っているような錯覚を覚えた。それから、きららさんと昭彦おじさんも一緒に。それは錯覚以外のなにものでもないのだけど。でも、とても幸せな錯覚。そうしてその幸せな錯覚の中、わたしはいつ知れず眠りに落ちていった。