（６）

今度は東側のドアから外に出た。こちら側のベランダにはうっとうしいビニールシートは掛かっていなかった。さっきもこっちから出ればよかったんだ。ぼくは父が気の毒になった。

そこには暖かな冬の日差しがたっぷり降りそそいでいて、暖かかった。こちら側は家が建て込んでいるので見通しはあまりきかないが、やわらかな日の光に輝く屋並みを眺めるのも悪くなかった。空にはうっすら雲がかかっていた。

ぼく達はもっとよい眺望を得るために屋上に上ることにした。家の北側の階段を昇ると屋上は回廊のようになっていて、両側はかなり高い壁に隔てられて全く見通しがきかない。ただ、わずかに霞んだ空ばかりは飽きるほど眺めることができた。

「あそこに行きましょう」

見ると、今日は回廊の先のほうは下向きにかなりたわんでいた。

「こないだと違う」

「そりゃそうでしょ」

斜面を下っていくとその一番下がったところでは南側の壁が低くなっていて、隣の家の三本の銀杏の木が見えた。そしてその枝の間からは、空と同じようにうっすら霞がかかったぼく達の住む街が一望できた。ぼくはこの眺めがとても好きだ。瑞木もきっと好きだろう。

「来てよかったでしょう」

「そうだね」

ぼく達は暫くのあいだそこからの眺めを楽しんだ。

回廊はその先急な登りになっていて、ちょうど半回転の螺旋になっていた。ぼく達は手すりにつかまってよじ登った。螺旋をよじ登った頂上のところの北側の壁が五十センチくらいの幅で崩れていた。

「ここから川までそれほど遠くないって本当？」

ぼくは瑞木に尋ねた。

「うん、見てごらん。その先のほうに見えるでしょ。あ、その有刺鉄線に気を付けて」

塀の壊れたところには横に三十センチくらいの間隔で有刺鉄線が張ってあった。塀の向こうを覗くと、かなり広い運動場が見えた。運動場の中央のほうにはトラックがあり、高校生くらいの人達がランニングをしていた。運動場の整備はよくないらしく、あちこちに丈の高い草が生えていた。運動場の奥には枯れかかった木が何本か並んでいた。どうやらその向こうに川があるらしい。でも川そのものは見えなかった。

振り返ると、いつのまにか人通りが多くなっていた。向こうから緑色のチェックのパジャマを来た一群がやって来た。それを見てぼくと瑞木は顔を見合わせて笑った。

壁の向い側は公園になっていて、道沿いにプラタナスの木が数本植わっている。夏ともなれば道上に程よい木陰をつくるのだが、今はただ奇妙な枝振りをさらしているばかりだった。

ぼく達はプラタナスの木の下を家路についた。道々、今日くる予定の客のことが気になった。母は来客があることはぼくに告げたが、その人がどんな人で、何をしに来るのか、といったことについては何も話してくれなかった。細かいことは瑞木に話してあるということだった。

「今日くる予定の馬尻さんってどんな人？」

「私もよく知らないんだけど、馬尻さん夫妻と、子供二人の四人で来るらしいわよ」

「どんな用事で来るのか知ってる？」

「知らない」

「おかあさんから何も聞いてないの？」

「おかあさん何も教えてくれないんだもん」

「でもおかあさん、細かいことは瑞木に言いつけてあるって言ってたよ」

「私がおかあさんに言われていることは、馬尻さんのいう通りにすればいいってことだけ。馬尻さんが何もかも御存じなんだって。私が注意すべきことは、決して粗相のないようにってことだけ。あとはお茶でも出してそれで終わりだと思うわ」

「お父さんは馬尻さんっていう人のこと知ってるのかな」

「多分知ってると思うけど。だってそうでなきゃ、変だよ。おかあさんは出掛けちゃっていないし」

ところが家の前まで来てみると玄関の前にすでに誰か来ていた。ぼくは瑞木に耳打ちした。

「あの人達、馬尻さんの御一家じゃないの？」

「多分そうだと思うけど。まだ一時過ぎなのに・・・」

瑞木は眉をしかめた。

「本当は何時に来るはずだったの？」

「一時四十八分」

「へえ、時間に細かい人なんだ」

「ただ単に予定の時間が細かいだけなんじゃないの？だってまだ四十分もあるのよ」

「早過ぎるね」

「ほんとうに」

そう言う瑞木はすでに来客モードに変わっていた。「ほんとうに」と言う声はすでにころころした鈴の音のような声に変わっていた（姉についてこう言う言い方をするのは赤面ものだが、他に何と言ったらいいのか思い付かないのだ）。そして「ようこそいらっしゃいませ」と言わんばかりの笑みを満面にたたえてその人達に近づいていった。

「ようこそいらっしゃいませ」

瑞木は実際そう言った。だが、瑞木の歓待の様子はかなり妙なものであったに違いない。誰かの家を訪問して、玄関の中からではなく、外からやって来た人に「いらっしゃいませ」なんて言われるのは、玄関に鍵を掛ける必要のないほどの田舎ならともかく、都市部ではかなり無気味なものであるに違いない。あるいは間抜けであるに違いない。

でも、馬尻さんは少しもそんなことを気にしていないようだった。

「やあ、始めまして。あなたがお嬢さんの瑞木さん？」

「はい、そうです。こちらに居りますのが弟です」

ぼくは少しはなれたところで様子を見ていたのだが、突然紹介されたので狼狽した。そして取ってつけたように頭を下げた。馬尻さんはぼくに向かってこんにちはといった。他の三人も頭を下げた。ぼくは恐縮してもう一度「どうも」と言ってお辞儀をした。

「お父さんはいらっしゃいますか？」

馬尻さんはまた瑞木のほうを向いた。

「ええ居ります。狭いところですが、どうぞお上がりください」

ぼくは瑞木がそう言ったのを滑稽に感じた。五百坪の土地と、十部屋以上ある我が家のどこが狭いというのだろう。しかし、もしかしたら馬尻さんの家はもっと広いのかもしれないから、もしそうなら滑稽なのは瑞木ではなくぼくのほうだ。

瑞木は鍵を持っていたのですぐに玄関を開けた。父も気配を感じたのか奥から玄関にやって来た。

「や、これはどうも。いつもお世話になっております」

「いや、こちらこそいつもお世話になりっ放しで」

馬尻さんは見事な赤毛で、その見事な顎鬚も真っ赤だ。その瓶底のような丸い眼鏡がいかにも知的で、その恰幅のよさがそれに力強さを加えている。奥さんは紺のスーツを着て楚々とした感じで、あまりに楚々としているのでつい存在を忘れがちだ。

二人の子供はまだ小学生だろうか。女の子のほうはまるでその母のひな型のようで、これも存在感が希薄だ。それに対する少年は父ゆずりの見事な赤毛で、豹を思わせる顔立ちだった。だが、その瞳は豹というよりも猫のようにきらりと光った。

馬尻さんは靴を脱ぐとすぐに用件を切り出した。

「今日は料理をしに来ました。キッチンはどちらですか」

「こちらでございます」

瑞木はいかにも如才なく客を案内した。父は馬尻さんと並んで瑞木の後を付いていった。「いいお嬢さんですね」と馬尻さんが言うのが聞こえた。

玄関にはぼくと男の子だけが残された。少年は玄関の板の間にあぐらをかいて座り込んだ。そしてジャケットのポケットから鞘の付いたナイフを取り出した。彼は実に意地の悪い笑顔をぼくに見せ、ナイフを鞘から抜いた。ナイフの刃は峰のほうに向かってＳ字型にえぐれているという妙なものだった。

次に彼は持っていた小さなアタッシュケースを開けた。蓋をぼくのほうに向けて開けたので中は見えなかった。彼はその中からまずまな板を取り出した。彼の座っているすぐ前の辺りは、今日は一畳くらいの面積でひょうたん型に十五センチくらいの深さに窪んでいて、水が溜まっていた。彼はその水でまな板の表面を濡らすと白身魚の半身を取り出しその上に乗せた。そして不器用ながらも先程の奇妙な形のナイフで白身魚を薄く削ぎはじめた。

ぼくはそれを見ているうちに、なぜだかとてもやってみたくなった。だが、ぼくはその少年が恐かったのでとてもじゃないけど「ぼくにもやらせてくれないかなあ」なんて言えなかった。仕方なく花を生けてあった花瓶の花を抜き取り、花瓶の水をその窪みに空け、それから花瓶を水中に沈めて中に水を入れ、中が水でいっぱいになったら取り出し、再び水を窪みに捨てる、という動作を繰り返した。

その動作も百回に達しようかというとき、水面に糸のように赤く流れるものがあった。ぼくは咄嗟に銛の刺さった鯨を思い出した。

「腹ぼての鯨を殺すなんて、あんまり酷いと思わないか」

少年の前の水面を見ると、そこに赤いしずくが滴っていた。池の水はゆっくり回っていたのでそれが糸を引いたようにぼくのところまで流れて来ていたのだった。

少年は左手の人差し指を握ってそれを茫然と眺めていた。右手の指と指の隙間から血がにじみ出ていた。

ぼくが少年に声をかけるより先に、いつのまにか瑞木が彼の顔をしゃがんで覗き込んでいた。瑞木は少年の手を取って優しく、そう、優しく、声をかけた。

「指、切っちゃったのね」

彼は握っていた右手を開いた。血は指先から手首のほうに伝い、シャツの袖にも血が付いていた。右手の内側は真っ赤に染まっていた。

「あらあら。今手当してあげるから待ってて」

瑞木が救急箱を取りに行くと、少年は少しの間真っ赤に染まった右の手のひらを眺めていた。それからその手を水の中に入れて、窪みの壁に擦り付けて血を洗い落とした。その周りの水はすぐに赤く染まった。瑞木が戻って来た頃にはぼくの目の前まで赤い水が漂って来ていた。

瑞木は手早く少年の手当をした。血を拭き取り消毒し、薬を塗ったガーゼを傷口に当てた。少年は下を向いてされるがままになっていた。ガーゼをテープで止め、人差し指をぐるりと包帯でまき、さらに手首に二三度回してそこで縛った。

「さあ、これでよし。しばらく手を心臓より高くしといてね」

そう言うと瑞木はぼくにウインクした。ぼくは急に嬉しくなってじっとしていられなかった。少年を連れて二階へ、そして東側のドアからベランダへ、さらに北側の階段を通って屋上へ駆け上がった。日はだいぶ傾いていてが、まだ暮れるほどではなかった。街は黄土色に輝いていた。ぼくは彼の手を引いて回廊を回って降りていった。さっき瑞木と散歩に出たときは反時計回りだったから今度は時計回りに。降りていく途中からだんだん回廊を歩く人の数が増して来た。そしていつのまにかそれは大きな流れとなって、ぼく達はその流れに飲まれてしまった。彼ともいつかはぐれてしまった。

人の波をかき分けて手すりのところまで行くと、港を埋め尽くしているヨットが夕日を受けて黄金色に輝いていた。足下の海水は対照的に黒く穏やかだった。

「ああ、やっと出港したんだな」

そうつぶやいて左舷を歩いていると船が一度だけ大きく揺れた。防波堤から外海に出たのかもしれない。ぼくはそのデッキを一周した後、海を間近に見ることのできる、さらに下のデッキへ降りていった。そして左舷の手すりにもたれて離れゆく港を、暮れなずむぼく達の街を眺めた。

そのとき船内放送があった。

「間もなく亜疾土船長による英会話教室が始まります。座席についてお待ちください。なお、四列目の座席は火災の危険がありますので御注意ください」

こんなところで夢にまで見た亜疾土船長に会えるなんて！ぼくはすぐに船室に入った。一番前の座席は足が窮屈だったので、三列目の海側の席に腰掛けた。船室は寒かったのでコートは脱がなかった。そして、窓越しに冬の海を眺めながら亜疾土船長の来るのを待った。