フロイトのことは何にも知らなかったので読んでみた。

　フロイトって人は、あんまり個人的には付き合いたくないような人のようだった。でもまあ、伝記の類を読んでいると、そういう人のなんと多いことか。ウィトゲンシュタインは夜中だったかにラッセルの部屋に来て自殺を仄めかしたりしたというし。

　ずっと寝かしといて今頃読んでる私。

　すごく面白いんだけど、ちょっとだけ何かが足りないような・・・あ、佐藤亜紀としては、ってことだけど。

　少し前に関川夏夫（だったと思うけど）が二葉亭の評伝を書いていたような気がするけど、そのときはなぜか気が乗らなくて手に取りもしなかった。二葉亭はすごく好きなんだけど、その頃はそれほど好きじゃなかったのかもしれない。でもこれを読んだら関川夏夫の二葉亭も読んでみたいなと思った。

　中村光夫は評論家としては知ってたけど後半生では結構小説も書いていたらしい。知らなかった。っていうかその手の知識は端からないのだけど。

　二葉亭の生涯とか印象というのは何となくは知っていたけど（『浮き雲』と「くたばってしまえ」とインド洋上で死去、というのは誰でも知っていることだろう。中学とか高校の教科書に出ているようなことだから。そういえばそのころから『浮き雲』を読んでみたい、なんて思っていたのになぜか読もうともしなかった）、細かく追っていくとそれとはまたずいぶん印象が違うのだった。

　失敗の連続、というか中途半端、というか。そんなのばっかりなのだ。命を奪うことになるロシア行きだってそうだし、『浮き雲』『其面影』『平凡』もみんなそうだ（『其面影』だけは残念ながら未読）。

　もちろんそれだからだめ、ということではない。

　この評伝では、その失敗の意味を究明していくことにより二葉亭の作品を批評をしようとしている。二葉亭の作品は、彼の生活を吟味することなしにはきちんと批評できない、ということなのだ、だいたい。

　で、なるほどなあ、なのだ。二葉亭の生涯を見ていくうちに、資質や偶然が何事かを最後までやり遂げることをことごとく邪魔をしているのだ。それについては、田山花袋の次の言葉がたぶん本質を突いているのだろうと思う。

「『其面影』『平凡』が竟に氏の本質を出さなかつたのは、誰も皆な言ふところであるが、しかし其本領を出さなかつた処に却つて氏の本領を見るやうに思ふ」

　限りない共感と賞賛と羨望と嫉妬を感じないではいられない。

　野溝七生子を知ったのは松岡正剛の『フラジャイル』という本でのこと。「フラジャイル＝こわれもの」ということで、壊れやすいもの、移ろいやすいもの、断片、弱さ、あいまいさ、といったものを、強さとか系列とか、そういうものに対置して論じているのだが、その中で「夕方」という概念が取り扱われている。そこに登場するのが『山梔（くちなし）』。「夕暮がだんだん迫って来た。」とまさに夕方から始まる。不明瞭な領域、トワイライト・ゾーン。

　でも、不明瞭な、朧な小説というわけではない。むしろ極めて理知的に構成された小説だ。構成について私が語っても仕方がないのでそれについては述べないけど。

　何について述べればいいのかな？

　主人公阿字子が、ただ結婚以外はすべて運命に付き従います、という悲しい決心をしたにも関わらず、結婚する以外にはその苦痛に満ちた生活から逃れるすべがない、という出口なしの状況？実際、死のうとしてみたり、家出しようとしてみたりするのだけど、「常識」や家族の想いがそれを妨げるのだ。

　そして結婚したからといって幸せになるとは限らない、いやむしろ、どうしたって幸せになることは出来ない。だって阿字子の母親は阿字子から見て幸福ではない。打擲以外に子供たちを従わせるすべを知らない夫との結婚は幸福であるようには見えない。嫁いだ姉だって、幸福とは見えない――酒飲みの夫を持ち、貧乏ばかりしている。貧乏はいいけど、そういう貧乏は何か違うのではないか。そして姉は密かに思いを寄せていた相手と結ばれなかった。そして、阿字子はほんとうの父母のほかには誰も父母とは呼ぶことが出来ない。だから結婚なんてしたくないのだ。

　頭がよくて本ばかり読んでいる阿字子は天衣無縫ともいえるような少女で、その家族のうちだけで理解される独特のロジックの元に生活してきた。そこに兄嫁の京子がやってきた。京子はいわば「常識」のかたまりだ。そして阿字子のことを嫌っている。京子はいつでも阿字子から軽蔑されているような気になっている。それまで風変わりではあるけど無邪気な阿字子の言葉は家族によく理解されていたのだけど、京子にそれがわかるはずもない。京子はいつでも愚弄されていると感じている。阿字子はそんなことをしているつもりはない。ただ、どうしてもそうなってしまうのだ。やがて阿字子は京子のロジックを理解するのだけど、京子が阿字子のロジックを理解することはない。それは決して起こり得ないことなのだ。そして京子の言っていることはすべて「常識」なので、阿字子の母親も、姉の緑も、うまく反論できないのだ。そもそも阿字子の言葉は反論をするようにできていない。

　そうしたことがどんなに痛ましい結果を生むことか。

　これが１９２５年に書かれたっていうことが驚きだ。ある人たちならすっといまここの自分の話、として読めてしまうのではないだろうか。たとえば自分に違和感を感じ続けている人とか。自分に違和感を感じているとは、つまり社会が自分に振り分けた属性とか役割に違和感を感じることだ。たぶん、それを感じないで一生を終えることができる人がいるなら、その人はとても幸福なのだろう。ただ、願わくば、そういう人ばかりではない、ということを知って欲しいなと思うのだけど、それを知った途端にその人も不幸になってしまうのかもしれない。