妊婦の冒険 sideＢ
Ｂ−５．バハマの休日
僕らが乗るべき飛行機を待っている間、僕とヤマモトさんは空港のレストランで食事をすることにした。僕は久しぶりにどうしても肉料理が食べたくて仕方なかったので朝っぱらからパインの輪切りをのっけたハンバーグとシーフード・フライのセットを注文した。
ヤマモトさんが用意してくれたパスポートに貼り付けてある僕の写真を眺めながら、どうやってこのパスポートを取得したんだろう？と考えていた。
僕の戸籍が消滅しているんだから、このパスポートは偽造なのかそれとも僕の戸籍が消滅する前に取得されたものなのか？
もし、それが僕の戸籍が消滅する前に取得されていたものだとすれば、この一連の奇怪なシナリオが、もうとっくに僕があそこに囚われる前から用意されていたという事になる。記載されている発行日は半年以上も前の日付だった。
ワケワカラン。
僕はその頃パスポートをとった覚えなんてなかった。
黒いサングラスをかけてメニューに熱中しているヤマモトさんは「何も話しかけるな」というような顔をしていたし、その堂々たる妊婦姿はそれだけで何だかとっても話しかけづらいような雰囲気を醸し出していた。聞きたいことが山ほどあるのに何一つ聞くことができない、というジレンマと戦いながら、僕は仕方がなく空港内を行き交う人々の様子をあてどなく眺めていた。
追っ手は来ないのだろうか？
こんなにのんびりかまえていていいのだろうか？
でも僕の食欲に負けず劣らず彼女の方もすごかった。彼女は無言で悩み続けたあげくに朝から味噌ラーメンとエビシューマイのセットを注文した。
妊娠しているからな〜。食欲も旺盛なんだろうな。一睡もしていないというのにすごい体力だ。
そんなたくましい彼女を見ながらしみじみと、妊娠しちゃったんだね、僕の知らないうちに知らないところで、なんて考えたりして。
だって、妊娠したっていうことは、僕の知らない男とアレをしちゃったってことで、しかも生出しってことだよね。でも、全然嫉妬しないんだな、これが。こんなに愛しているのに、なぜだろう？むしろシンパシーみたいなものすら感じている。どーかしちゃったんだろうか、ボク？
だって、昔はひどく嫉妬深くて、つきあっていた女の子をあきれさせたりもしていたのに。
なぜだ？
ヤマモトさんは何も言わず、サングラス越しに僕の方をぼんやり見てるだけ。僕も負けじと見つめ返す。
２人で迎える初めての朝は、こんな感じ。何となくロマンチックでスリリングで映画の１シーンみたい。
そんなに熱く見つめられると困っちゃうな照れちゃうな、なんて一人で赤くなっていたら、「ひげ」と突然、彼女が言った。
「え？」
「ひげを剃るのよ。きれいに、そり残しのないように」
そういえば、あそこに囚われているうちには一度もひげを剃らなかった。僕は慌てて口元に手をやると、確かにひげがのびきっていた。
でも、面倒くさいし、お腹減っているし、後でいいじゃん、なんて思っていたら、ヤマモトさんがびっくりするくらいに大きな厳しい声で、「早く。今すぐに剃るのよ！！」と言って、カミソリとシェービング・クリームを差し出した。
何でそんなにひげなんかにこだわるのかよくワカンナイけど、あまりもの迫力に押されて「わ、わかりました」と立ち上がった。
レストランのはす向かいのトイレにでも行こうかと思って、座っている彼女の横を通り過ぎようとしたときに、彼女のひとりごとのようなつぶやきを耳にした。
「ひげをそり残していると、良くない事が起こるわ……」
僕は彼女から与えられたひげ剃りセットを手にしてあたりをきょろきょろうかがいながらトイレへと急いだ。とにかく、ワケワカラナイけど、今ここで彼女に嫌われて見捨てられるわけにはいかない。きっと、不潔な男がきらいなんだろ。昔、つきあっていた男がひげをそり残したためにバナナの皮にでもすべって転んで腰でもいためちゃったんだろ、なんて考えながらトイレの洗面台の鏡の前に立ち、なつかしの僕の顔をのぞき込んで、驚いた。
これが、僕……？
ひどい、あまりにも酷い顔。
頬と首の肉はみにくく弛み、肌の表面が汚らしくかさついて、乱れた髪の毛は汚れきってフケさえ浮かんでいたし、白髪も増えていたし、ひげはきたならしく伸び放題、目の色はまるで腐った魚のそれのようだった。とても、２２歳の溌剌とした若者には見えなかったし、ああ、ひどい匂いだ、僕のカラダから発している。そういえばフロにも入っていない、性器だけが清潔なんだ、女の子らが口でする前に消毒していたから。
後からトイレに入ってきた人が僕の方をじろじろ見ているのが鏡に映った。
「何で、浮浪者が空港にいるんだ」みたいな視線がぐさぐさ背中に刺さって痛かった。
なんと、なんと変わり果ててしまった僕……。
家族や友人やその他の僕のアイデンティティーの全てを失い、こんなに情けないなれの果ての姿。
ああ、確かに、まさに、これこそが「世捨人」そのもの。
奴らの策略にまんまとはまっちまった。
でも、でも、僕はひげを剃るのだ。剃らなくてはならない。こんな僕に残されたたったひとつの希望の道しるべなのだ。ヤマモトさんというわずかな光を頼りに、この暗くて湿った道を行くしかないのだ。
僕は涙を流しながらひげを剃った。
「世捨人」なんて都合のいい言葉だ。僕は世を捨てたんじゃなくて世に捨てられたんだ。こんなに惨めで汚らしい姿で捨てられた。本来なら社会への旅立ちの第一歩を踏み出しはじめるこの時期、僕はもう既にその入口の前ではじき出されてしまった。もう、再生不能なような気がした。
そうだよ、泣くしかないだろう。
泣きながらひげを剃っているうちに僕の頭の中で様々なシーンがよみがえってきた。ものすごい早さで。まるでどこかに吸収されていくような、そんな感覚。
体内に鬱積した全ての感情を涙と、激しい嗚咽と共に吐き出し続けていると、自分の意識がだんだん時間を逆行していくような感覚に襲われはじめた。実際に僕は急速に自分の成長を逆行して第三者の目で辿っていった。
僕の頭の中では「いつか見た情景」が時代順に逆回転していって、ビデオ・テープのように簡単に巻き戻っていった。成人式〜初体験〜高校の卒業式〜高校受験〜中学時代〜小学生〜幼稚園〜幼児〜乳児〜出産……そして、僕の混沌とした意識、思考、感覚、と、僕の内部の、例の得体の知れない何かの意識、思考、感覚と呼ばれるようなモノが一体化した瞬間に、突然涙が止まった。
お腹の中でその得体の知れないモノがその短い手と足でまるで起きがけに思いっきり伸びをしたみたいに、僕の胃の内壁あたりを押しのけようとしたのだ。
そして僕の中の何かが笑った。満面の笑みを浮かべて。僕には手に取るようにわかった。そしてその笑みはなぜか僕に勇気と力を与えてくれた。
よし、がんばって最後までひげを剃るのだ。
すっかりひげを剃り終え、気を取り直して僕はヤマモトさんの待つレストランへと戻った。レジの前を通り抜け、２人が座っていた窓際の席に目をやると、そこにいるはずのヤマモトさんの姿がなかった。
僕は慌てた。
一体どこに行ったんだ。僕を置いてとっとと海外へ逃げていってしまったのだろうか？
僕はレストランを飛び出して、空港内を走り回って彼女の姿を探した。知らず知らずのうちに大声でヤマモトさんの名前を呼んでいた。
どこに行ったんだ。
両親に取り残された迷子の子供が抱えているような不安と恐怖の中、涙を流しながら、狂ったように、あらゆる店を覗いたり人々の顔を眺め倒したりした。
１５分くらい探し回ったあげく、疲れ果ててロビーのベンチに腰を下ろしていると、背後から声がした。
「何してんのよ」
ああ、ヤマモトさん。
振り向くと彼女は両手にソフト・クリームをもってたたずんでいた。
「どうしてもソフト・クリームが食べたくなって、むこうのウイングの地下までいっちゃったワ」
おお、僕のヤマモトさん。
僕は手を伸ばして強く彼女を抱きしめた。
「ちょっと、やめてよ。大げさね。ソフトクリームが服についちゃうじゃない」
彼女の言葉通り、ソフト・クリームが僕と彼女の胸に挟まれてつぶれちゃって、とっても冷たかったけど、でも、いいんだ、そんなの。もう、絶対に離さないぞ。
君がいなくちゃ、僕はもう、おしまいだ。
目的のＡＮＡ５０２便ワシントン経由マイアミ行きは定刻通りの出航で、飛行機に乗り込んで窓辺の席に座り込んだとたんにヤマモトさんは居眠りを始めた。
旅慣れしているって感じで格好いいんだけれども、妊婦が飛行機なんか乗ったりして良いんだろうか、なんて野暮なことを考えたりもした。
端から見ると奇妙な姿なんだろう、サングラスを掛けた妊婦が飛行機の中でぐーぐー眠っているし、その横には年若き浮浪者もどきが座っている。スチュワーデスさんさえも近寄ってきてくれはしない。僕は飛行機に乗るのは初めてだったから落ち着かなくて妙にそわそわしていてますます怪しさは増すばかりだった。
でも、いいんだ。
これからどうなっていくのかわからないけど、とりあえず一世一代の冒険が始まったわけだ。
僕はこの機会にいままで僕の身の周りで起こった奇妙な出来事を整理して、その意味を探ろうと思った。じっくり考えて見ればきっと、何か鍵みたいなものが見えてくるかもしれない。そしてその鍵をどうやって使えばいいのかみたいな、これからの身の振り方がわかってくるかもしれない、そんな期待。
だって、あまりにも不可解だけど、世の中のあらゆる現象には原因があって、そして結果があるはずだから。
まず、高校２年の時にさかのぼる。始まりはあのヤチダの言葉。そしてノマ・リュウジの登場と失踪、そして再び僕の目の前に現れて意味不明な言葉を残していった。そして、「世捨人相談所」からの手紙、カサハラ・タケシからの電話、ヤマモト・レイカと名乗る自称妊婦からの電話、そしてノマ・リュウジからの手紙。
そして僕はその運命に逆らうことなく「世捨人相談所」へ赴き、そして、このヤマモトさんと出会い、次の日彼女は消え、僕は囚われの身になった。
そこにはノマ・リュウジの姿はなかったが、カサハラの口からノマの名前とヤチダの名前を聞いた。
それから奇妙な生活パターンを強いられ、僕の社会的なアイデンティティーは全て消されて、そして僕の身が売却される前に、突如妊婦となったヤマモトさんが現れ、僕を救い出してくれた上に、バハマへ逃げようと言った。
そして、今、飛行機に乗っている。
今の時点ではノマ・リュウジもヤチダも姿を見せてはいない。
電話のヤマモトさんと今ここにいるヤマモトさん、いや、あの受付にいたヤマモトさんとここにいる妊婦姿のヤマモトさん、電話のヤマモトさんは妊婦だと言い、受付にいたヤマモトさんは違った。でも、再び僕の前に現れたときには、ヤマモトさんは妊婦だった。順番が入り乱れている。時系列がおかしくなっている。
で、結局、何が何だかわからなかった。
傍らで眠るヤマモトさんの寝顔を見る。彼女が語ってくれなければ何もわからないのだ。結局、今手持ちの鍵はこのヤマモトさんだけなのだ。だから、考えてみても仕方がないのかも知れない。
僕は何だか少し落ち着いた気分になった。
僕も少し眠ろうかと思ったとたんに、例の習慣的な勃起がやってきた。僕はヤマモトさんの腕時計を盗み見た。１４：３０。ああ、確かにいつも通りの時間だった。
習慣というのはすごいもんだ。僕はＨな想像もすることなく時間通りに勃起するのだ。なんと、まあ、良くできた装置みたいなもんだ。一生、この習慣から逃れられないのだろうか？
やれやれ。
とりあえず僕はヤマモトさんを起こさないように静かに席を立ち、狭い通路を通ってトイレへ行った。中に入ってしっかり施錠してから、僕はすっかり堅くなった自分の性器を取り出して、便器に向けて少しこすったらすぐに射精した。
おそらく、これまた、だいたい時間通りなのだろう。腹時計より正確だ。便利と言えば便利だ。トイレット・ペーパーで先っぽをきれいに拭き取ってからトイレを出て、席に戻った。
ヤマモトさんはまだ大きないびきをかいて眠っていた。きっと疲れたんだ。そう思うと、とても彼女が愛しく感じられた。
こんな僕のために重いからだにむち打って、そしてこんなに疲れ切ってしまっているなんて。
僕は眠る彼女の頬に軽く口付けして、僕もやっぱり眠ることにした。ふーっとため息ついてシートに深く身を沈め、目を閉じた。約１０秒後に眠りについた。
マイアミ空港でもう一度勃起したけれども、空港内のトイレで処理をした。日付変更線を越えちゃったから良くわからないけど、これまたいつもの時間なんだろう。やっぱり不便だな。夢精するわけにはいかないしな、いい歳こいて。
まいったな、やっぱり。
待ち時間もほとんどなく、バハマ行きの国内線に乗った。
ヤマモトさんは英語がぺらぺらでツアコンなしでも自分で搭乗手続きから何やらをやっていた。すごいな。彼女、結構注目のまとで、やっぱ妊婦は目立つし、なんかほほえましい。
僕もなんだか慣れてきて、彼女がずーと妊婦だったような気もしてきた。確かに妊婦姿がよく似合っていた。
小さな国内線に乗り込んだ僕らは後方の自由席に陣取った。他に日本人の姿はなかった。ビジネスマン風の黒人や白人の老夫婦ばかりがぺちゃくちゃ訳のわかんない英語をくっちゃべりながら座っていた。
本当に外国に来たんだな、と実感した。
やはりここでもヤマモトさんは座席に座るやいなや眠り込んでしまった。
よく眠る女だ。
僕はものめずらしい周りの光景にきょろきょろしながらも少しずつこの奇妙な冒険を楽しみ始めていた。気持ちに余裕ができてきたのかもしれない。多様な人種に囲まれて、この自分の特異な境遇の濃度が薄れたような気になったのかもしれない。
だって誰も僕らを知るものもいないし、世界は広いのだ。日本では僕は社会的に完全に死んでしまった人間だけれども、ここではそんなの関係ない。いろんな人間が生きて呼吸をしているのだ。そう、僕も確かに生きているのだ。誰がなんといおうとも、社会的な存在がどうのこうのなんて気にする人間はここには誰もいない。そう、僕は間違いなく確実に生きているんだ。
僕はすっかり救われた気分になった。
よし。
気分が落ち着いたら急に腹が減ってきた。僕はスチュワーデスを呼んで「フード・プリーズ」とかなんとか言ってみた。黒人のスチュワーデスは「オー」とか何とか言ってサンドイッチとオレンジ・ジュースをすぐに持ってきてくれた。
いいぞ。
調子いい。
これでいいんだ。
とにかく元気出さなくちゃ。
新しい自分に生まれ変わるのだ。
昔の戸籍なんていらない。そんなのただの登録ナンバーにすぎないじゃないか。ただの情報だ。僕という人間はそんな数字や文字だけで表すことなんてできないんだ。それは単なる便宜的な管理上の問題だ。
そうだ、僕は死んでなんかいないんだ。こうしてサンドイッチ食べてオレンジジュースを飲んでいる。
僕は生きているんだ。
４時間足らずの飛行で僕たちの飛行機は目的地に着いた。
バハマだ。
カリブ海だ。
灼熱の太陽と南国の熱い風。空港の外にでたとたんに圧倒的な暑さと存在感のある空気に包まれた。まぶしい太陽の光が斜め上方から僕の目を射った。
ヤマモトさんは眠たげな目をサングラスに隠し、僕の方を見ていた。僕はあまりのうれしさに彼女に向かってピースサインを送ってみた。
「あんまし調子にのらないで。調子に乗りすぎるとロクなことないでしょ、あなたの場合」
わかってまっせ、ヤマモトさん。大丈夫さ、僕はもうすっかり生まれ変わったのだから。
両側に等間隔にそそり立つパームツリーの間の、どこまでも続くまっすぐな一本道を、僕らを乗せたおんぼろタクシーはひたすら突っ走った。
窓の外に流れゆく田園風景は僕をリラックスさせた。ヤマモトさんもリラックスしたみたいでやっぱりすぐに眠ってしまった。クーラーが壊れててこんなにクソ暑いのによくも眠れるもんだと感心しながら、僕は青い空を見上げていた。
ヤッホー。
世界は美しい。
大きな交差点にさしかかり、通りの向こうに青い海が見えてきた。パステル・カラーの建物と乱立するパームツリーと白い波。僕の気分はすっかり高揚してしまった。道ばたのたくさんの店先には椰子の実やら色とりどりの果物がつるされていて、やる気のないような黒人の売り子がぼんやり座っているのが見えた。ひさしの大きな麦わら帽子をかぶり、裸同然の粗末な服に身を包んでいた。
裸んぼの子供たちが軒先ではしゃぎ回り、白い服を着た観光客の姿も見えた。
バハマ。
南の楽園。
そして傍らには大好きなヤマモトさん。
この間までの惨めな境遇が嘘のようだった。
復活。
完全復活。
浮かれた気分でうーんとのびをした瞬間に、突然勃起してすぐに射精してしまった。
いかん。
忘れてた。
ああ気分が台無し。
あれ？でも、なんか、タイム・スケヂュールが狂ってないか？
なんか不順？
僕らが泊まるホテルは「クリスタル・パレス」という名の、バハマでも屈指の有名豪華ホテルで、１Ｆにはこの辺では最大級のカジノがあり、地上３０階建ての極彩色の客室棟のその目の前には青い海が広がり、そして完全に外界から遮断されたプライベートな砂浜にはビーチバーや大きなプールもあった。
彼女がチェック・インしている間に僕は背が僕よりも５０センチ・メートルはでっかいホテル・ウーマンから歓迎のキスを受けた。天井の高いロビーには陽気なカリビアン・サウンドが鳴り渡り、カジノの方からじゃらじゃらした音とか人々のざわめきが聞こえてきた。たくさんの多国籍の人々が行き交い、みな楽しそうだった。もう夕食の時間らしくて、目の前の大きなレストランにたくさんの人が流れ込んでいた。
「行くわよ」
黒人のベル・ボーイとヤマモトさんの後について長くて広い廊下を抜け、エレベーターに乗って２６Ｆまで上った。行き交う人々みんなに「ハロー」と挨拶したいような気分だった。
部屋に案内されてヤマモトさんがベル・ボーイにチップをあげて、僕は広い部屋の中を眺め回して、大きなダブルのベッドを目にしたときに思わず歓声を上げてしまった。
でも、彼女は妊婦。
そんな鬼畜まがいのことなんて僕にはできません。
でも、ちょっとうれしかった。ヤマモトさん、君の気持ちはよくわかった。おなかの中の子供ともどもまとめて面倒見ましょう。もう大丈夫。僕はすっかり生まれ変わったのだから。君たち二人の将来を僕に預けてくれ。僕はこのバハマで仕事を見つけて、まじめに働いてちゃんと君たちを養って行くから。今なら何でもできるような気がするんだよ。
ヤマモトさんが僕の方にやってきて、よし、ここは熱い抱擁だな、と思った瞬間、「あなたはあのソファに眠るのよ」。
そうだよね。
そりゃそうだよね。
わかってますって。
彼女が窓を開け放つと強烈な潮の香りが部屋の中に一気に入り込んできた。僕はベランダにでて、目の前に広がる海原の果てに沈み始めた夕日を見つめた。
すばらしい。
何人かの海水浴客が波間で戯れていた。浜辺に設置された大きなスピーカーからはロマンチックなムード音楽が流れ始めた。
「とにかくさ」と彼女が言った。
「しばらくなにもかも忘れて、ここでのんびりして疲れを癒すのよ」
そうだよね。
いろんな事あったからね。
「まずは」と彼女が続けた。「シャワーを浴びてくれない？」
そうだ。僕のパンツの中はひどい状態になっているんだった。
僕は全てをアタマの中から放り出し、毎日朝から浜へでて、いやと言うほど海水浴を楽しんだ。陽気な人々にまじって、ビーチーバーでフローズン・ダイキリを飲んだり、木陰で昼寝したり、特産のコンク貝のフリッターを摘んだり、カリビアン・レストランで大味なシーフード料理を楽しんだりした。
ヤマモトさんは「ちょっとやることがあるから」と言って、毎日、朝早くからホテルの部屋を出ていったきり、何処へ行っているんだか、夕方まで帰ってこなかった。そして、ルームサービスで夕食を済ませてからすぐにぐっすりと眠ってしまう。
だから、僕はほとんど一日中ひとりぼっち。
ヤマモトさんは毎日、何処へ行って何をしているんだかちゃんと教えてくれない。妊娠しているんだからあまりムリしちゃダメダよって言っても「調べモノがあるから」としか答えようとはしない。
う〜む。
あまり深いところまで追求して「しつこいわね」といわれて見捨てられたくは無いので、それ以上は聞かないことにした。
とにかく海だ。
きわどい水着のナイスバディのネエちゃん、しかもパツキン。
それしかない。
例の定期的な射精だって海の中だから平気、平気。ばんばん出しちゃう。ひとりぼっちで遊ぶのも悪くないな、やっぱり海はすばらしい。僕は子供に帰ってビーチを駆け回った。そして、僕も人のことは言えない、夜になるとすぐに眠たくなって、ソファの中で丸くなって寝た。あまりにも昼間遊びすぎて疲れ切って、ヤマモトさんをどうこうしてやろうなんて気分も起こらなかった。
健康的な肉体と精神。
僕は日に日に若々しさを取り戻し始めた。鏡に映る僕の顔は、例の日本の空港のトイレの鏡に映ったあの疲れ切って薄汚れた浮浪者のその顔ではなかった。
日に焼けた肌。目の輝きも蘇り、とても健康そうな白い歯がきらりと光っていた。まさにナイス・ガイ。これならヤマモトさんも「いいわよ」って言って、一緒のベッドに寝かせてくれるかも知れない。
今はヤマモトさんは全然僕を構ってくれないけど、でも平気。いつか振り向かせるから。
僕は肉体的にも精神的にも年相応に、そして完全に復活した。
バハマの休日は大成功だった。
ところで追っ手はどうしたのだろう？
こんな生活の中で、例の僕の中の回転はどうなってしまったのだろう？
あのすけべじじいはどうしたんだろう？任期を終えて新しいヤツがやってきたんだろうか？
そして、僕の中で生まれ育っている例の得体の知れないモノはどうなってしまったのだろう？
そんないろんなものを抱えながら、僕は生きている。こうしてそんなものなんか知らん振りしながら、何もないような顔して、生きている。
僕も大人になったもんだ。
ある日の真夜中、あまりにも激しい吐き気に襲われて目が覚めた。
ガマンできなくてトイレに駆け込もうとしたときに、ヤマモトさんの姿がベッドにないのに気付いていたんだけど余裕無くて、とにかくトイレと洗面所とバス・ルームが一緒になったレストルームのドアを思い切り開けて、白い便器めがけて駆け込んで、あ、シャワー・カーテンがしまっていて、誰かがシャワーを浴びていて、もちろんヤマモトさんしかいないでしょ、でも、余裕無くて、便器にかがみこんで、げーーーー。今日の夕飯に食べたエビとか海草とかたことかイカなんか未消化のママでてきて、それでも吐き気が止まらなくて、胃液まででてきて、吐き続けながら横目でシャワー・カーテンに浮かび上がったヤマモトさんのシルエットを……アタマから首、型よく張り出した乳房、そして、その下の……お腹が、お腹が、お腹が、すっきりしていて、スリムなウエスト、え？どーして？もう、生まれちゃったの？まさか……だって、今日寝る前、いつも通りの妊婦だったよ。
でも、吐き気が止まらずにゲーゲー。
脱衣かごを横目で盗み見してみたらそこにはきちっと畳まれた白いブラとパンティー、そしてマタニティー、そして、これ、張りぼての肌色の良くできたお腹？
何だ、こりゃ。
どうなってんだ。
でも、げーげー。
異変に気付いたヤマモトさんがシャワー・カーテンの隙間から驚いたような顔を覗かせた。そして、しばらくの沈黙の後にヤマモトさんがしみじみとした口調でこう言った。
「やっぱり、本当だったんだわ」
え？
何のこと？
そんなことより、あなた妊婦じゃなかったの？
でも、僕は何も言えずにげーげー胃液を吐いているだけで、そしたら、ヤマモトさんが引き続きこう言った。
「あなた、妊娠しているのよ…………」
え？？？？？？？？？？
ニンシン？
それは君の事じゃなくて？
あ、でもヤマモトさんのお腹は張りぼてで、僕？僕はその、生物学上はオスだから、その……だから、そんなことは映画や小説やドラマとか、マンガの中の話で、だから僕は、その、だから……何が何だかワカラン。
そんな僕の混乱した気持ちを察したのかヤマモトさんが静かにこう言った。
「で、何から聞きたい？」
全部。
最初っから最後まで全部聞きたいよ。