妊婦の冒険 sideＢ
Ｂ−４．妊婦登場！逃亡生活のはじまり
暗闇の中でもう一度目を凝らしてみると、確かにそこにはまぎれもなくあの僕の大好きなヤマモト・レイカさんが立っていた。
あの、受付ではじめて会ったときとちっとも変わらない、涼しげな目元と愛らしい唇、まつげの長さや眉墨で描かれたなめらかなラインだって、鼻の形だって、福耳だって、髪型だって、まるであの時のまんまだった。
でも、目の前の彼女は、そう、決定的に、総論として、あの時と変わっていた。
真っ黒（だと思う）のマタニティー・ウエアに包まれた彼女のお腹は、前に突き出しとても誇らしげだった。
アタマが働かなかった。全然ダメだった。どう見たって、まあ、詳しいところはよくワカンナイけど、妊娠８ヶ月以上の体型だった。僕がここに閉じこめられてから、そんなに月日が経っていたとは思えなかった。しかも、彼女はカサハラ氏の手によってどこかの知らないところへ売却されちゃったはずだし、でも、彼女は僕の目の前で懐中電灯を手にしたまま、静かに立っていて、ああ、僕は口を開いて何か気の利いた歓迎の意を表する言葉でもと思ったけど、実際口を開くことができなかったし、言うべき言葉も見つからなかった。
一体、何を言えば良いのだ。
僕は生まれたての赤ん坊のようにキョトンと彼女の顔とお腹を交互に見つめるばかりだった。
真夜中、だったと思う。もちろん、今が真夜中であるという確信はない。でも、彼女はこんな真夜中にたった一人で僕を救い出しにやってきた。ＩＳＨのいったとおり、彼女は僕を導くためにここに現れたんだろう。
彼女は完璧なるしなやかな仕草で僕のそばにやってきて姿勢を低くして耳元でやさしく確信に満ちた口調で言った。
「静かにして。大声出さないで、できるだけリラックスして。今がチャンスだから、私に着いてきて」
彼女の髪の毛からはとってもいい匂いがした。シャンプーの匂い？
でも、ここの人たちはみんな何処にいっちゃったんだろう。管理体制はどうなってんだ。こんな一介の妊婦がいとも簡単に忍び込めちゃって、そしてあんなにがっちり拘束しているはずの僕の身柄を奪おうとしているというのに。
あたりは完全なる沈黙に包まれていた。物音ひとつしなかった。僕の呼吸と心臓の音とヤマモトさんが発するきぬずれの音だけが断続的に僕の耳に詰め込まれた。でも、そんな些細な音が、単調な生活に慣れきってすっかり感度が弱まってしまった僕の耳を刺激した。
僕の鼓膜はその時点で許容範囲を超えた音波の振動を受け止めるだけで精一杯だった。その許容範囲を超えた振動が直に僕の脳内の中枢に直結して、僕の思考は激しく揺れた。
自制できなかった。こんなところから逃げ出したいのは当然だったけど、うまく身体を動かすことができなかった。
思考だけが激しく揺れ続けた。
脈絡のない連想が揺れ続ける僕の思考に拍車を掛けていた。
受付に座っていた妊娠前のヤマモトさんの神経質そうな笑顔、就職活動中の暑い夏の青い空、カサハラ氏の笑顔、カワマツさんの身体、学園祭の時の出店で食べたやきそばの麺の色、テニス・ボール、地下鉄のホーム、ヤチダ先生、０点の答案用紙、学生服、昔自動販売機で買ったエロ本、子供の頃に買ってもらった鉄道模型、そしてノマ・リュウジの笑顔。
ノマ・リュウジ？
まるで実体のない空気みたいなノマ・リュウジ。
だって、この一連の出来事の中で一度だって顔をだしてないんだぜ、ヤツは。
あいつが始めたことだろう。一体、どうしたことだ。
こんな風に順列も関連性もない思考が続いた。
「さ、早く」ヤマモトさんは僕の手を取り、勢い良く立ち上がった。僕は立ち上がることによって激しいめまいを感じた。
触覚を失った昆虫になったような気がした。でも、僕は、たぶん、まだ今の時点ではれっきとした人間のままであるはずだった。
激しく揺れ続ける思考を抱えたまま、突然生じた目の前の混乱をうまく鎮めることができない新米の交通整理員になったような気分だった。
その混乱は僕の内にあった。たぶん、それはクスリで矯正された、ＩＳＨが言うところの僕の中の単調な回転と、今、目の前に起こりつつある、新規の予定外の出来事との歯車がうまくかみ合わないせいなんだろう。
それでも、ほんのわずかに残された自意識が、別の、新たな回転を起こそうと必死になっていた。
最初は静かに転がし始めるんだ。
新たな回転数と軌道でもって。
ころころころ。
そして次第に加速度が上がってくるような気がした。僕の心臓が必死になって血液を体内に送り出し、僕はヤマモトさんの手をしっかりと握りしめた。
「ついてきて」ヤマモトさんは身を翻して、開け離れた鉄の扉から一足お先にと出ていった。僕も必死になって彼女に着いていった。
とっても長くてまっすぐな暗い廊下をひた走った。非常灯すらなかった。ヤマモトさんの足取りは妊婦状態であるにも関わらず非常に身軽で力強かった。足音を立てないように静かにそして確実なステップで走っていた。
彼女は裸足だった。綺麗で細い理想的な足首に目がいった。
裸足でリノリュームの床の上を走っていた。懐中電灯の明かりだけが頼りだった。
最初は僕はうまく走れなかった。足がもつれるような気がした。でも、遅れないようにと必死に走った。
すぐに息が上がった。当たり前だ。
クスリとフェラチオと菜食主義の日々が、僕の逃走本能と体力と自律神経を奪ってしまったのだ。
でも、この期に及んでそんな甘ったれたことは言っていられない。
少しずつ目が慣れてくると辺りの様子が見えてきた。恐ろしく長い廊下の左右にはいくつもの平凡な扉があった。真夜中の病院のようだった。大きな総合病院。実際、ところどころで薬品と消毒の匂いが僕の鼻をとらえた。
その扉には番号札がついているものと、そうでないものとがあった。走っていたし暗かったので、番号までは読みとれなかったけど、確かに４桁の数字らしきものがそこに記されていたような気がした。
少しずつ思考の揺れが収まってきた。たぶん、走ることによって生じた身体全体の揺れと、思考の揺れが同調して同化したせいだろう。僕は少しだけマトモにモノを考えることができるようになった。だから、走りながら僕の中に淀みのように蓄積されたいくつもの疑問を少しシェイクして分離させて、優先順位をつけて並べ替えてみようとしたけれども、どれもが重要性の高い疑問であるような気がして、うまく順番づけることができなかった。
なぜ？
なぜ？
なぜ？
のクエスチョン・マークでアタマの中が充満しそうになった。とりあえずアット・ランダムに心の中で、ヤマモトさんの後ろ姿に問いかけてみることにした。
Ｑ１：なぜ君は妊娠しているの？
Ｑ２：なぜ君はここに入り込めたの？
Ｑ３：なぜ君は僕を助けるの？
Ｑ４：なぜボクはこんな目に……？と、考えている時に突然、彼女が立ち止まった。
僕は勢い余って彼女にぶつかりそうになったけど、妊婦にぶつかるわけにはいかないってんで、うまくかわして床の上に倒れ込んだ。彼女はそんな僕の使い古されたギャグみたいな仕草をムシして、ある扉の前に立っていた。まるで何かを確かめるような食い入るような視線で５秒ぐらいその扉を見つめた後、意を決してその扉のノブを思いっきり引いて、すっと中に入っていった。
暗かったし、一瞬の出来事だったし、ボッとしていたからその扉の番号札を確認する余裕すらなく、彼女に置いていかれないようにと必死だったから、最初の二桁しか読めなくて、でも、たぶんそのルーム・ナンバーは１９××だったと思う。
でもあまり自信はないし、どーでもいいことだと思っていた。
僕も彼女に続いてその部屋の中に入っていった。その部屋の中も当然の如く真っ暗で、目が慣れていたにも関わらず、そんなの関係ないくらいに、そこはさらに深い闇の世界だった。彼女の持つ懐中電灯の光だけが不確かに揺れていた。そんな深い闇の中では懐中電灯さえも自信なさげだった。その光さえ闇に吸い込まれてしまうような気がした。僕の目が弱りきっていたせいかもしれない。
でも彼女はあたかも全てが見えているかのように確かな足取りでずんずん歩いていった。
その部屋の中の空気は、廊下のものとも僕が閉じこめられていた部屋のものとも明らかに異質のものであった。
うまい言葉が見つからない。具体的にどういったところが違うのか、うまく言えない。でも違うのだ。とても懐かしい空気、安らぎみたいなもの中に包まれているような、でも、彼女はずんずん行ってしまうので、そんな感傷に浸っているヒマはなかった。 感傷？
何で感傷的な気分になるんだ。
ただの部屋の空気だぞ。
しっかりするんだ。
ヤマモトさんは小走りで部屋を横切っていった。どのくらいの広さでどのくらい天井が高いのかすらワカラナカッタが、一般的な部屋特有の圧迫感は全然感じられなかった。ものすごく「開かれた」感じがした。
でも、ここは「外」ではないのだ。それくらいのことはわかる。
「外」の空気、星の光、風とか音、そういったものは全く存在していなかった。ただ暗闇が存在するだけだった。いや、何も存在していないのかも知れない。ただ、通り過ぎるためだけの部屋なのだ。
そうだ、勘違いしてはイケナイ。
僕は、早くここから逃げ出さなくてはならない。闇の中でヤマモトさんが消えていなくなってしまってはいけない。僕には彼女だけが頼りなんだ。僕は手を伸ばして２、３歩前を行くヤマモトさんのマタニティーを掴もうとしたけど、空振りするだけだった。うまく距離感が掴めなかった。
やがて僕らは部屋の反対側の壁に到着した。そこには上に向かって伸びている鉄製の梯子が据え付けてあった。
彼女はためらいもせずに登り始めた。腕を伸ばしてお腹に梯子が当たらないように器用に登り始めた。僕も続いた。
上を見るとヤマモトさんの白いパンティーが闇の中にぽっかり浮かんでいた。むむ。いいながめ。しかしそんな雑念を振り払った。こんなＨだから、こんな奇妙なことに巻き込まれしまったんじゃないか。いいかげんにするんだ。生まれ変わるんだ。
僕はそれをパンティーと意識せずに、ただの、暗闇の中で彼女の姿を確認するための印としてとらえ、見つめながら梯子を登り続けた。
ずいぶん登った。
ふつうの天井の高さでは無かった。腕が抜けそうに痛かった。でも、ヤマモトさんは全然ペースも落とさないで登り続けた。
僕は休憩がてら下を眺めてみた。でも、そこには暗闇が存在するばかりだった。かすかに白いモノが動いたような気がしたけれども、たぶん気のせいだったのだろう。ヤマモトさんのパンティーの残像かも知れない。
さて、彼女はかなり先に行ってしまった、急がなくては。最後の力を振り絞って、右手左手右足左足、交互に持ち上げ、僕は登り続けた。
頂上で彼女は用意してあった自らの靴を履きながら僕を待っていてくれた。そこは比較的小さな部屋だった。さっきの大部屋の真上に位置するこの小部屋にはたくさんの機械が並んでいた。どういう用途の機械かはわからなかったけど、メーター類やバルブやタンクが所狭しと並んでいた。メーターの表示盤のかすかな明かりが部屋の中でたたずむ彼女の横顔に影を作った。
「外に車を停めてあるから」ちいさな部屋にはちいさな扉があって、彼女はそういいながら押し開けた。
「外」だ。
風があり、星が見えた。
「外」だ。
やった。
そこはだだっ広い工場の敷地内の駐車場みたいなところだった。たぶん駐車場だ。白線で仕切られていて、それぞれのスペースの中央に番号が書いてあった。僕らはその駐車場を横切った。
真夜中の工場だ。平たく広い建物が並んでいた。人っ子一人いなかった。常夜灯が僕らの長い影をアスファルトの上に落とした。
僕は深呼吸をしながら、彼女に着いていった。空気が澄んでいた。風が淀みなく流れていた。少し肌寒かった。風はもう秋の香りがしていた。
秋？
ずいぶん長い間閉じこめられていたんだ。
大きな門の横の守衛室のなかでは年老いた守衛さんが眠っていた。通用門から外に出ると広い道路の脇に白い国産の乗用車が寄せてあった。ヤマモトさんはポケットからキーを取り出して、助手席のドアを開けてくれた。
「さあ、追っ手がくる前に、早く」
見るとシートの上に男物の洋服が用意されていた。
「ねえ、とりあえず服を着て」そういわれて気が付いた。
僕は全裸だった。
そこまで感覚がいきとどいていなかった。
はずかしい。僕の大事なモノはすっかりしゅんとしていた。
「さ、早く」
彼女は運転席の方にまわって、ドアをあけシートに座ってエンジンを掛けた。
妊婦に運転させるわけにはいかない。シート・ベルトできないんだから。
でも、すぐに発車した。
真夜中の道路には他の車なんて一台もなかった。工場地帯みたいだった。広い道路が網の目に広がっていた。
彼女はものすごく飛ばした。
すげー。
カーブの度にタイヤがキューキュー鳴ってる。
僕は車の中で洋服を着ながら、辺りの景色を眺めたけど、そこは全然見覚えのないところだった。
いったい、ここはどこなんだ？
彼女は一心に前を見つめアクセルを踏みしめていた。
僕らは逃げているのだ。そうだ。まるで映画みたいだ。
とにかく、と僕は思った。
恐る恐る彼女に話しかけたつもりが久しぶりに言葉を発したもんだから思ったようにコントロールできなくて、大声になってしまった。
「ねえねえねえねえ、どどどどどど、どーして、き、きみは……」
彼女は前を見つめたまま「運転中はだまっててちょうだい。私、５日前に免許とったばかりなんだから」と言った。
一瞬にして背筋が凍った。
「僕が運転代わろうか？」あっさりムシされた。
そりゃそうだ。僕は行く先すら知らない。
首都高速に乗った。ランプの名前を見たけど知らない名前だった。ここもまた現実の世界じゃないみたいだ。
浦島太郎みたいだ。もう、すっかり世界は変わってしまったみたいだった。たぶん、それは僕の方に原因があるのだろう。いろんな事がありすぎた。でも、まだ終わったわけじゃない。まだまだ、おかしな事は続きそうだ。
高速道路にはいるとさすがに他の車がちらほら現れはじめた。現実的な長距離トラックが多かった。
今、何時なんだろう。
ワカラナイ。
彼女はあいかわらず緊張した面もちでアクセルを踏みしめていた。その横顔が素敵だった。やっぱり、ヤマモトさんが一番だ。
前方の表示板を見る限りでは僕たちは空港に向かっているようだった。一体、どこへいくんだろう？
でも、僕はどんなことがあっても彼女についていかなくてはならない。だって、僕の戸籍は抹消されたんだし、僕は社会的には死んでしまったんだろう。カサハラ氏が言っていた。だから、僕はこの社会のどこにも身の置き場がないんだから。
田舎の両親だって、巧妙に似せられた偽りの僕の死体にすがりついて泣いただろうし、僕の葬儀には友達も来てくれて、いいやつだった、とか何とか言って、そうか、僕のお墓があるかもしれない。
でも、あそこでずっと閉じこめられて、売られていくのを待っているよりましだ。
僕にはヤマモトさんがいる。一緒に一生逃げ続ければいいんだ。
世界中を逃げ回るんだ。
ホテルからホテル。ダウンタウンからチャイナタウン。観光地だって良い。名前を変えたり変装したり整形したりしながら。
華麗なる逃避行。
ねえ、僕らは一体どこに行くのかな？
心の中でそうつぶやくと、突然ヤマモトさんが言った。
「バハマよ。これから、バハマへいくのよ。ワシントン、マイアミ経由で」
どうやら本当に海外逃亡をするらしい。