妊婦の冒険 sideＢ
Ｂ−３．ＩＳＨ登場！
そいつはイカにも好色そうな顔つきをしていた。
ムクんだ顔、たるんだ頬、イヤらしそうにギラつく瞳、分厚い唇、とってつけたようにデカい鼻、つるっぱげのアタマ、どれをとってみても、まったくもってスケベそうだった。金色のいかがわしい法衣を身にまとい、少しだけ、多分、半ば意識的にはだけた胸元には黒くて元気そうな胸毛があふれ出ていた。
奴はすっかり冷め切って固くなったフライド・チキンを食べていた。油まみれの指先と唇がギラギラしていた。
勝手に人の夢の中にでてきて、しかもそんな下品な姿で、僕に見せつけるようにしてフライド・チキンを食べたりするなんて、何て失礼な奴なんだ。
それにしても最近、変な夢ばかりを見るのは、あの注射のせいだろうか？それとも運動不足のせいかな、そんなようなことを脈略もなくダラダラ考えていると、その好色そうな聖職者はチキンの骨を舐めながら口を開いた。
「ワシだって好きこのんでこんな格好をしているわけじゃない」
だったら着替えてから出直してきたらいいじゃないか。
「バカもの。服装のことを言っているわけじゃない。私自身、本来ならば姿形を持たないものなのだ。お前が勝手に具現化しているだけのことだ。何だってよりによってこんな姿形にこしらえるのだ。それと、お前は何でも『夢』で片づけてしまうけど、それは一種の逃げだな。もっと前向きに現実を現実として受け止める習慣を身につけた方がいい。言っておくけど、これは『夢』なんかじゃない、一種のイクスチェインジじゃ。すなわち『交感』じゃよ。『交信』と呼んでもいいだろう。まったく、柔軟性のない思考回路がショートしかかっておるぞ」
余計なお世話だ。このクソ坊主。訳のわかんないオカルトじみたことなんて言いやがって、交感？交信？何で僕がお前みたいなスケベ坊主と交信なんかしなくちゃいけないんだ。僕は今それどころじゃないんだし……。
「それどころじゃないから、このワシがついに登場したんじゃないか、このワカラズやめ。ふん」
彼は今度はいつのまにかスコッチ・エッグを手づかみで食べていた。
「ふん、ワシを誰だと思っているんだ。ワシはな、ワシはお前のＩＳＨじゃー」
何？ＩＳＨ？なんだそりゃ。
「お前、大学の心理学の講義で習ったろう。単位とったじゃないか、あのとき。もうわすれちまったのか、このバカものめが。つまりじゃ、ワシはいつでもお前の中で待機していて、お前がマズイ方向へ向かったときや悩んでいるときに登場して、それを修正修復し、正しい道へもどしてやる、いわゆる『内なる声』じゃ。いんなーのｉ（アイ）、せるふのｓ（エス）、へるぱーのｈ（エッチ）の略じゃ。これでひとつ利口になったろ。このおーばかものめが。だいたいだ、お前がスケベだから、こんなことになっちまうんだ。少しは反省しろ」
しかられまくっても全然気になんない。もうどうでもいいんだ。
「今、お前の中でいろんな変化がおこっている。まずは、お前の中の回転。人は誰しも体の中に特有の回転を有しているんじゃが、その軌跡や周期、回転数のチガイによって、それぞれ個々の特性を持ち得ているのじゃ。子供の頃はかなり直線的な運動をしていたものが、しだいにゆっくりと弧を描きだし、大学を卒業する頃には、乱れていて定まることのない、かなり大ざっぱな円形運動をするようになるのじゃ。ワシらは遺伝子のつぶつぶの中から選び出された管理者で、その内なる回転の監視をしているのじゃが、最近、おかしいなと思って出てきて見ればこのありさまだ。２２歳にしてこの単調な回転はなんだ。完全にできあがってしまっている。飼い慣らされている。あのクイズの解答は何だ。お前はただひたすら同じところで単調な回転を繰り返しているんだぞ。このままではいかん。年齢と回転のスタイルがマッチしていないとヒート・アップしてポシャってしまう。だから、種族保存のタメにもワシ等遺伝子同盟が総動員でお前を救済しようと動き始めたのじゃ。耳をすまして内なる声に従うのじゃ。ワシ等はお前の過去から現在、そして未来へとつながっている、すなわち遺伝子の記憶とはつまり未来をも含んでいて、ワシの言葉は予言であって予言ではない、それは単なる記憶でしかない。時間軸のプラス・マイナス方向への向きの違いだけの問題じゃ。ワシ等の声に従い導かれてこそ、お前はまともな世界へと帰ることができるのじゃ」
むむ、何だか話がムツカシクなってきた。
「何も難しいことはない。具体的にいってやろう。もうすぐお前の元にひとりの女性が現れる。彼女こそがお前を救い出すことのできる唯一の救済者であり、女神なのだ。彼女に従い、導かれればよいのじゃ。他に何か質問はないか？」
えーと、そうだ、それで僕は助かるの？未来がわかるんでしょう？おせーておせーて……
「残念ながらＩＳＨにも任期があってな、今日でちょうどワシの任期は終了するのじゃ。あしたからは別な遺伝子のつぶがお前を守り、導いてくれるから安心せい。したがって、ワシは今日一日までのことしかワカランのであしからず。とりあえず今日はお前は死なないからだいじょーぶ」
何だかいいかげんだな。それと、最近、僕の体内でさ、そんなムツカシイもんじゃなくて、もっと単純に物理的な変化が起こってない？
「そーじゃ、そーじゃ、その事を言うのを忘れておった。ワシにもよくワカランのだが、お前はお前自身の中にトンデモナイものを宿してしまったようじゃな。正体はワカラン。ワシだって全知全能の神じゃないのだ。過度な期待は失望を生む。その正体不明な物体は今はとりあえず眠ってる。このままではそいつがどんどん成長していって、やがてお前の表皮を破って飛び出してしまいそうな勢いがあるぞ。このままではいけない。何とか手を打たなくてはいかんぞ」
それがあんたの仕事だろう、僕を守るってのがさ。何とかしてよ。
「しかし、ワシも今日で任期が終わりだから退職金をもらってのんびりした余生を送らせてもらうよ、あまりムツカシイことは考えたくない」
なんだかやけにサラリーマン的だな、おい、おい、まて、消えるな、こら、こら……。何だかやけに無責任だな。おーい。
突然、好色じじいが消えてしまった。そして夢の中の画面が真っ暗になった。
真っ暗？
夢の中が真っ暗になるということは、それって、夢の終わりか？
でも、なんだろこの満ち足りたような気分は？
それに……こう、なまなましい感触が脳の内側にこびりついている。
よくワカンナイ。
思考停止。
ストップ。
しかし、こうやって夢の中でモノゴトを考えるっていうのも何か変な感じ。僕がモノゴトを考えている、というこのシーン自体が夢みたい。夢。ユメ。ゆめ。
あ〜あ。女か。女。女が現れて僕を導くだって？救済者？
女は毎日来るよ。すっぱだかで無口だけどさ。もう、何の感動もないな。でも、感動がなくても勃起だけするところが何とも僕らしいな。一体、どの娘が僕を導いてくれるんだろう？
それにしても……。女もそうだけど、僕の中に何か得体の知れないものが生まれているだって？しかも、それが成長していって僕をぶち破るってか？
何だよソレ。
脅しだよ脅し。
もうこんな非現実な出来事の連続なんてまっぴらゴメンだよ。何が交信だ。何がＩＳＨだ。何が……。
むにゃむにゃ。
目を覚ましてみると、自分の目を疑った。
暗闇の中、懐中電灯の光に浮かび上がる顔−え、もしかして、ヤ、マ、モ、ト、さん−？
そ、そんなバカな、ヤマモト・レイカさんがいるー。
え、しかも、何？そのお腹？え、妊婦？
目の前に妊婦姿のヤマモト・レイカさんが立っていた。