妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−６．ダブル・ブッキング・デート、妊婦集結、そして一つ目の死体
私立探偵・山崎ｋは今風じゃないくらいに割と義理堅い男であった。両親が共働きだった幼い頃のｋは、近所に住んでいた母方のおばあちゃんに面倒を見てもらっていた。そう、いわゆる一般的に言うところの「おばあちゃん子」だったｋは、「人との約束を破ることはイケナイ事だ」と、徹底的におばあちゃんに仕込まれたのだった。
今でも、どんなにつまらない約束でも、それを破るとおばあちゃんに怒られる、と一瞬怯えてしまうほどだった。
しかし、実際はもう、そうやって優しくｋを叱ってくれたおばあちゃんはとっくに死んでしまった。ｋが２３歳の時だった。雪の降る日の告別式で見たあのおばあちゃんの最後の顔を思い出すと、今でも胸が苦しくなるのだ。
ｋはそのおばあちゃんから教わったことは山ほどあった。変な話、両親や、学校の先生なんかに教わったことよりも、より深くｋの心の中にしがみついていたのだった。
どんな約束でも、約束は約束だ。ｋは時間よりも早めに待ち合わせ場所である病院の正門へと向かった。もちろん、ｋは原田さん自体に個人的な興味を持ち始めていたし、いや、それだけじゃない、と自分に言い聞かせている部分もあった。
これは調査の一環なのだ。
ヒアリングだ。
この病院と院長の実状を知るためのひとつの手段なのだ。だから、今日のディナーは経費で落ちるのだ。
ｋは割とマメな男で、金銭感覚も独身の男にしちゃ珍しくしっかりしていた。衝動買いや無駄遣いはせずに、しっかりこつこつと計画的にやっていた。もちろん、ものすごく収入があるわけじゃないし、でも、かといって、タバコとバーボンとミステリー以外に特別欲しいものなどもなかった。住んでいるアパートだって決して贅沢なものではないし、雨風しのげればそれでいいとさえ思っていた。
不必要な贅沢は人間を弱くするものだと、ｋは思っていた。ツけ入るスキが増えるのだ。ｋは職業柄、弱点を少なくする必要があった。ルーズになればなるほど金銭面での弱みが増えていくものだと考えたｋは、こまめに領収証を集め、帳簿を付け、確定申告もきっちりやった。収入と支出のバランスをにらみ、常に計画的な出費を行っていた。金を浪費することに喜びを見いだすと、人間はろくでもないことをしだすのだと、これも死んだおばあちゃんの教えのひとつだった。
そのおかげで、転職を何度も繰り返した割にｋにはある程度の蓄えもあった。足元がしっかりしているからこそオレは走れるのだ。跳べるのだ。ｋはそう考えていた。
正門の前で原田さんがやってくるのを待ちながら、ｋは少しうきうきしている自分に気がついた。
ある意味でこれはデートだ。そして原田嬢とのデートの後で、今度は例のピザ屋のサーファー・ガールの勤める店へ行くのだ。もちろん、それも調査の一環で、遊びなんかではない。しかし、サーファー・ガールと一緒に飲むことも実は密かに楽しみにしていたのも正直なところだった。
ｋは決して女にだらしないわけではなかったし、風俗店や女の子がつくお店なんかにも足を運んだことはなかった。仕事上、やむを得なく顔を出したことはあっても、ただの客として自分のお金をつかって遊んだことは一度もなかった。ｋはクロートの女性は嫌いではないが、苦手としているのだ。
しかし、たまに街ゆく女の子の姿を目で追ったり、「素人出演」のロゴ入りのＨビデオを見たりもした。クロートよりもやっぱ素人がいいな、とｋはいつでも心の底で思っていた。ｋはたぶん、女好きには違いない。しかし、その感情をもろに行動に出すには、例のハード・ボイルドな男としての美学が許さなかったのだ。
それでも、今日は、はっきり態度に出ちゃうほど、うきうきしていた。
ｋは原田さんのように地味でナチュラルだけど歯並びが良くて笑顔が素敵な女の子も好きだったし、例のサーファー・ガールのような茶髪の遊び人風イケイケ・ガールの女の子も好きだった。特に、あの口元の黒子がたまんないと思っていた。しかし、これらはあくまで仕事なのだと、再度自分に言い聞かせた。
ｋはまだまだ修行が足らないなと思った。探偵は非情でクールでなくちゃならないのだ。だって、彼女たちだって容疑者と考えられないこともない。犯人を愛してしまったらどうするのだ？それは悲劇だ。オレは……情に流されて、罪を許してしまうような人間にはなりたくない。
様々な思いと果敢に戦いながら、ｋはタバコをひっきりなしに吸いながら、原田さんを待った。
彼女が指定してきた時間の２分前に原田さんは現れた。
息を切らして現れた彼女の姿を見てｋは思わずごくりと唾を飲み込んだ。青い地味な事務員服を脱ぎ捨てた彼女は、ｋを魅了するに充分なほど、清楚に美しかった。まるで、今夜のデートのためにわざわざ着替えてきたのかと思われるくらいにドレッシーだった。薄いピンク色の、少々ボディ・コンシャスなスーツに身をくるんだ彼女のボディの曲線は、独り身のｋの感情を官能的にくすぐった。
ｋの中にはある理想的な女性像が存在していて、それを一言で表現するならばすなわちロリ顔ナイス・バディ系というタイプだった。青い事務員服を脱ぎ捨てた原田さんは、まさにそれであった。
おお。
ｋは体中の血液が熱くたぎるのを感じた。サーファー・ガールなんてやっぱくそくらえだ、なんてｋは極端に路線を確定し限定してしまった。
やっぱり女はこうでなくちゃ。
ｋは高校時代に熱愛しこっぴどく振られてしまってナイーブな心を傷つけられた、ある女の子のことを思い出した。その娘はｋの決してあかるくさわやかとは言い切れない青春時代における、決して手の届くことのない偶像としての女神であった。ｋはいつまでもその娘の影をトラウマとして引きずり続けていたのだ。
ロリ顔ナイス・バディ系、禁断のあの果実が今、目の前に、手の触れることのできる……しかも、彼女はオレに惚れているのかも知れないのだ。
ああ。
ｋは全てのバランスと辻褄を失いそうになってしまった。そして妄想だけが多くのものを背負ったまま進んでいった。
このまま、彼女とどこか遠い海の向こうの無人島にでも行って、楽しくしっぽりやりたい、等ととんでもないことまで考え始めていた。
「お待たせしました。ごめんなさい、お忙しいところ」
原田さんは少し緊張気味の声で言った。ｋは緩みまくりそうな頬を引き締めるのに必死になりながら「いいんだ」と精一杯クールな声で言ったつもりが、声が裏返ってしまった。
何とも情けない。
わかってはいてもｋにはどうすることもできなかった。
口をあんぐり開けたまま、ぼけっと突っ立っているとｋを促すように原田さんは笑顔で言った。
「さ、行きましょう、探偵さん」
え？
「探偵さん」？
その一言でｋは我に返った。
何でオレの素性を知っているのだ？
ｋは原田さんの顔を見つめ返した。原田さんはただ笑顔を浮かべながら、ｋの情けない顔を眺めているだけだった。
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杉崎かおるはベッドの上で身を起こし、だまって窓の外を見つめていた。
確かに今は何も考えない方がいいに決まっている。こんな身重じゃ、私自身何もできないし、お腹の中の赤ちゃんにも悪影響を及ぼす。生まれ来る、何も知らない我が子には何の罪もないのだから、いらぬ迷惑や心配をかけることはできない。
でも、やはり冷静ではいられない。
当たり前だ。
だって、これは「普通」じゃないからだ。何かが非常におかしいのだ。誰かが「これはフィクションです」と言ってくれれば、それで終わる。その役は「ｋ」と名乗る探偵さんがお似合いだわ。「はははー」とか笑いながら、「これはバカバカしいほど完全なるフィクションです」なんて言ってくれないかしら、と、まだ顔さえ見たことのない名刺だけの探偵ｋに期待を寄せたりして、バカね。かおるはちょっとだけ笑った。
その笑顔を見て、付き添いの両親は少しだけほっと胸を撫で下ろした。
「ねえ、かおる……」
母は優しくかおるに話しかけた。
「私たちにしてほしいことがあれば言ってちょうだい。父さんはしばらく会社を休むって言うし……父さんは昔っからあなたに何かあると、会社休むって、まったくしょうがないんだから……」
かおるはそれを聞いて、少し照れたような顔をしている父を見た。
目頭が熱くなった。
父は昔っから私に良くしてくれた。でも、持ち前の不器用さから、心にも無いことを言ったりして、口べたな父の心も知らずに、私はずいぶんと酷いこともしたりした。
近頃、やっと、わかってきた……やさしい父……。
かおるは精一杯の元気な声で答えた。
「ううん。心配ないから。私は大丈夫だから。お父さん、会社へ行って。お母さんも家に帰ってもらっても平気よ。待ってみるわ。待ってみるしかないと思うの。きっと大丈夫よ。私、あの人のこと信じてるし、後は……あの探偵さんの話を聞いてみようかと……」
そう、かおるが言いかけた時に一人の妊婦が病室の入り口に姿を現した。
「すいません。あの……杉崎かおるさんですよね……」
お腹の大きさから判断するに、やはりかおると同じくらいの月齢の子を有する妊婦さんのようだった。
「私、高松あずさと申します。ちょっと、ご相談したいことがありまして、あの……おじゃましてもよろしいでしょうか？」
かおるはピンときた。
その妊婦の顔を見たときに、これは夫の失踪に関わる話なのだということがわかった。その憂鬱そうな顔が、無言のままかおるにそう告げていた。
「どうぞ……」と、かおるは不安げな声で言った。
「すいません」と、かおるとかおるの両親に軽く会釈しながら入ってきた彼女に引き続いて、何と、１人、２人、３人……全部で５人の妊婦が現れたのだった。
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ｋと原田嬢はタクシーの後部座席に並んで座っていた。押し黙っていたｋとは対照的に原田嬢はひっきりなしに、のべつまくなしにしゃべりまくっていた。どれをとっても全く意味を成さない類の話だった。ヤマなし、オチなし、意味なしの、ＴＶドラマや音楽の話や映画、血液型や、星座の話、洋服の話や盛り場情報、とにかく、そんな話はｋの耳には全く入らなかった。
ｋは原田さんのさっきのアノ一言が引っかかってはいたものの、こちらから追求することができずにいた。
「なぜ、この女は知っているのだ？」
原田さんへのほのかな想いや下心はすっかりと消え失せ、その代わりに、彼女に対する疑惑や疑念がｋの中でふくらし粉のように膨らんでいった。
関係者だ。
間違いない。
この女、こんな可愛い顔をしてて、オレをハメようとしているんだ。こいつは全てを、いや、何かを知っているんだ。これは注意して事を運ばねばならない。
原田嬢はさっきのあの一言について全然触れようともしない。ｋは用心深く彼女の横顔を見た。その視線に気がついた原田嬢はｋの方に向き直り、そして、ひまわりのように笑った。
これだ。
この笑顔だ。この笑顔にオレはすっかりだまされてしまうのだ。畜生。小娘のくせにちょこざいな。よし、わかった。こっちの方が一枚上手だっていうことを見せてやらにゃ、いかん。
ｋは動揺なんてしていないんだよんと言わんばかりに努めて冷静な声で言った。
「さあ、そろそろいいだろう。いかにもオレは探偵だ。無く子も黙る名探偵山崎ｋだ。君には聞きたい事が山ほどある。オレは君とただデートをするためだけにここにいるわけじゃないんだ。わかってるネ。さあ、肝心なことをしゃべってもらおうか、洗いざらい……」
原田嬢は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻して言った。
「そうはいかないわ、探偵さん。物事には順序というものがあるのよ。まずは、私と楽しくディナーを共にする。約束通りね。そして、話が盛り上がって、そして、あなたは私のアパートに来る。そこで少しお酒を飲みながら身の上話をする。それくらい仲良くなってから、ようやく核心に触れてゆくことができるのよ。あなた、全然、女心わかってないわ。別にいいのよ。そんな事務的に来るんであれば、ここでさよならよ。私は何も話さない。あなたの調査は何も進展しない……」
ｋはグーの音もでなかった。
彼女の方が全然上手だった。
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６人の妊婦が集結したことでかおるの病室は文字通り満腹、いや満杯になった。
かおるの両親はただ訳も分からず部屋の片隅に追いやられて小さくなって座っていた。
看護婦さんにパイプ椅子を持ってきてもらって、彼女たちはベッドの上のかおるを囲んで車座になって座った。
誰かが何かを口にすることを皆が互いに期待し合っていた。まさにそんな感じだった。その沈黙は彼女達のお腹のごとくとても重たく、そして今にも破裂しそうだった。
かおるはその沈黙に耐えきれなくなって意を決して自ら口を開いた。
「私の夫の失踪に関するお話でしょうか？」
その声をきっかけにして、数人の妊婦がすすり泣きを始めた。そのリアクションだけで、かおるはすべてを了解したような気がした。
高松あずささんは半べそをかきながら言った。
「ここにいる私たちの全員の夫も、ひっく、あなたの旦那様同様、ひっく、消えてしまったのです、ひっく、それで、ひっく、その、みんな同じような手紙が、ひっく」
手紙？
そうか、かおるも思い出したのだった。文面までよく覚えていなかったけど、確か、変な意味の分からない手紙が……。
「だから、これは事件だと思うんです。ここにいるみんなの夫が、全く同じような状況で消えてしまったのは、偶然じゃないと思うのです。だから、もしや、あなたも」
彼女が差し出した手紙の束を見たかおるの背筋に冷たいものが走った。
まるで同じだわ……たぶん……みんな、この人達の夫も消えてしまったの……？そんなことが……？ただごとじゃない……たんてい……？そうだ、探偵はどこ？
「お父さん、あの、あの探偵さんに連絡をとって、ここに来てもらって……」
かおるは毅然とした声でそう言った。高松あずささんが言った。
「そうなんです。私たちも、探偵さんを呼ぼうって、そう思って、ひっく、警察には連絡しないでって、言うんですよ、あの、院長先生が……」
え……？
かおるはとっさに母の顔を見た。
「あ、あなたには言わなかったけど、あなたが気を失っているときに、院長先生がいらして、娘さんやお孫さんにとって精神的な負担になるから、くれぐれも警察には連絡しないようにって、とにかく今は娘さんとお孫さんの様態のほうが最優先だからって……」
「なんでそんな大切なこと俺に言わないんだ、なんだお前、院長にまでしゃべったのか、このおしゃべりめ」かおるの父が母の言葉を遮った。
「だって、かおるや赤ちゃんに何かあったら大変じゃない。偉いお医者さんにそう言われれば……そうなんだワって思っちゃうじゃない。私はかおるが……」かおるの母はさめざめと泣き出した。
「そうじゃなくて、何でぺらぺら娘の夫がでていったなんて話をするんだ？」
母が怪訝そうな顔をした。
「そんなことは一言も言っていないわ。院長先生が知っていたのは、お父さんが言ったからなのかと思っていたワ」
「お母さん、いいのよ。私だって今はまだ警察には届けない方がいいって思ってたし、いいのよ。ただ、でも、何かおかしいわ。なんで、院長がそんなこと言うのよ。オカシイわ……院長は元から知っていたんじゃないの……」
かおるの中で何かが勇気を弾けさせた。それはたぶん、お腹の中の赤ん坊が手足を激しく動かし、かおるの目を覚まさせたのだ。まだ見ぬ世の中の理不尽に対して怒ったのだ。この世の中の汚らしさに拒否反応を示したのだ。胎児はかおるを促した。
「わかったわ。みんな、泣いてばかりいたってしょうがないじゃない。考えましょう。みんなでこの状況を打破するために、力を合わせて、行動を起こしましょうよ。誰かが何かを企んでいるのよ。それは間違いない。それに私たちの夫が巻き込まれた。だから……そう、そうよ。妊婦だからってナメられたらたまらない。お腹の中の子供のためにもがんばりましょう。お父さん、私の家に行って、手紙を取ってきてちょうだい。テーブルの上に２通あるから。さあ、このまま黙っているわけにはいかないわ」
かおるはお腹に手を当てて静かに言った。
「ねえ、あなたのためにもママはがんばるから。ねえ、あなたもママを応援して」
そのかおるの勇気はみるみるうちに他の妊婦にも伝播していった。彼女らの顔つきが変わった。
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麻布の交差点の近くにしゃれたたたずまいを見せている「ラ・パレット」は今夜も大盛況だった。先々週号のある女性向けの情報誌に掲載されてからと言うもの、平日、週末に関わらず連日連夜の満員御礼で、時には長い行列までできた。
ｋと原田さんは約３０分くらい待たされ、ようやく窓際の席に着くことが出来た。ｋは相変わらず憮然とした表情で押し黙ったままだったが原田さんは見るからにとてもうきうきした様子だった。
ｋはメニューを開いてみても気分的に何も決められない状態だった。原田さんにしてやられたのがとても悔しかったのだろう。しかし、仕方がない。今は完全に彼女の術中にあるのだ。
原田さんはそんなｋにお構いなく、さっさとオーダーを済ませてしまった。そして見るに見かねてついでにｋの分も頼んでくれた。
「さあ、乾杯」
気がつくとｋの目の前にはグラス・ワインが用意されていた。ｋは渋々原田さんと乾杯した。
オレは一体何をやっているんだ、こんなところでこんな風に……と、赤ワインを一口すすると、思いの外、これがウマかった。ｋは実はとても酒好きだった。例のハード・ボイルドなこだわりを捨てれば、本当はバーボン以外の酒も大好きだった。
ま、いっか。
そのワインの味は、ｋの張りつめた怒りや屈辱感をいとも簡単に和らげた。
「おいしいでしょ、このワイン。本当はスペインのワインなのに、この店のカジュアル・フレンチにも良く合うらしいの。雑誌で見たわ。ここに来たら絶対このワインを頼もうって思ってたの」
ｋは静かに頷いた。少し余裕が出てきたのだ。
料理はどれも素晴らしかった。ｋは特に美食家というほどでは無かったけれども、モノの善し悪しぐらいはわかるつもりだった。
ｋは情報に惑わされて本質を見抜く力を持ち合わせていない、近頃の日本人の風潮に半ばあきれ果ててもいたのだ。雑誌やＴＶで紹介されただけで行列が出来る店に限ってクソまずい手抜き料理を食わせるもんだが、それに気付かずに「ああ、やっぱ違うね」なんて言っている奴らの気が知れない。ましてや、そんな最低な店の宣伝の肩代わりをしている料理評論家なんて、もっとひどい。ｋはもともとどんな類のでも評論家が大嫌いだった。たぶん、単なる偏見だろう。
メイン・ディッシュはシーフードだった。エビやホタテのグリル。彼女のは子羊のソテーだった。ｋは素晴らしい料理にすっかり気をよくしていたし、ワインの酔いも彼を寛容な人間に仕立て上げる手伝いをしていた。
ｋは知らず知らずのうちに原田さんのたわいもない世間話を聞き、ちゃんと受け答えなんてしているうちに、また原田さんに対する単なる興味を超えた愛着が、ふつふつと復活しつつあるのを感じた。
だから、誘われるがままに彼女のアパートへ行くことにした。
そう、その目的が単に調査のためだけとは、ほろ酔い加減のｋには言い切ることが出来なかった。
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ぷるるるる
ぷるるるる
私立探偵 山崎ｋの事務所に何度電話しても繋がらなかった。
今日はノー残業デーかなんかなのかと、かおるの父はあきらめた。
かおるの父は娘のアパートから例の名刺の探偵の事務所に電話をしてみたのだった。
さて、仕方がない。また、明日にでも電話してみるか。
父は娘の指示通り、テーブルの上の２通の手紙を背広の胸ポケットに突っ込んでからふと部屋の中を見渡した。
ここに来るのも久しぶりだな、そう言えば。
父は何気なく飾り棚の上に置いてある写真立てに目をやった。これは新婚旅行の時の写真かな？
ん……。父はその写真立てに手を伸ばし、そして、ぎょっとした。
その写真に写るかおるの……夫の顔の部分が綺麗に削り取られていた。あのロケットの写真と一緒だ。
父は慌てて、他の写真を探した。
ああ、何と言うことだ……父は絶句した。
部屋の中に飾られている写真の全ての中の、かおるの夫の顔が削り取られていた。
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「女の子らしい部屋」というものがどういうものなのか、その標準的なサンプルがよくわからなかったｋにとって、この原田さんの部屋が女の子らしいのかどうかの判断には困ったものの、彼女の部屋に招かれ、こうしてふたりっきりで酒なんて飲んでいる状況だけでｋは少しだけ興奮し、あの自分のムサかった高校生時代に果たせなかった甘い夢の残り火がわずかにくすぶりだし、うずくような鈍く甘い痛みがｋの胸の内を浸食し始めているのを押さえきれずにいた。
一人暮らしの女の子の部屋。
それは、甘くて酸っぱい香りに満ちた夢精を伴った夢の中でしか見たことのない乙女の花園のような空間であった。
家具は全てピンク。カーテンもピンク。ベッド・カバーやソファ・カバー、テーブル・クロスだって、みんなピンク。
ピンク・ピンク・ピンクの波があっという間にｋを丸ごと飲み込んでしまった。
ｋはそのピンクと原田嬢に酔っていた。彼女はよく飲んだ。冷蔵庫にストックしておいた赤ワインはなかなかなもので、やはりピンクのタッパー・ウエアの中のピスタチオを摘みながら陽気に飲んで、そして、歌った。ｋはなぜか彼女の歌にあわせて、手拍子なんて打ったりしていた。まるで、サラリー・マン時代に体験した例の馬鹿馬鹿しい接待でもしているような気分だった。そしてｋはと言えば、身体や内臓は結構酔ってはいたりしたけれども、頭の芯だけはわずかに冷めていて、探偵としてのプライドや例のスタイリッシュなこだわりが、アルコールの浸入を妨害しようと必死になっていた。
しかし、そのプライドやこだわりもいささか疲れ始めていて、その最後の牙城がもろくも崩れ去ってしまうのも時間の問題であった。
原田嬢はいい気持ちで歌っていた。最近の歌謡ポップスを連チャンで歌いまくっていたけれども、ｋはどの曲も知らなかった。彼女はキッチンのお玉をマイク代わりにしていた。
このままじゃマズいな〜。完全に彼女のペースだよな〜。しかし、ｋにはもう、この状況を打破しようなんていう力も根性も残ってはいなかった。
あ〜あ、もう、いいや、明日にでも……大きなあくびをしているときに、ちょうど最後のナンバーを歌い終えた原田さんがメガネを取りながら言った。
「ねえ。ベッドで、寝物語として、あなたの知りたいことにお答えするワ。ねえ、探偵さん？」
ｋはごくりと唾を飲み込んだ。
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「ねえ、みんな。まずは消えてしまった私たちの夫の間に何らかの共通項がないか、探し出しましょう。例えば……そうね……まずはみなさんの旦那さんの年齢とか、勤め先とか、趣味とか、血液型とか、星座とか、なんか特別な団体に所属していたとか、スポーツとか、良く行く飲み屋さんとか、あとは、この手紙の他に何か、そういった証拠物件みたいなものはないか……？」
いつのまにかこの場を仕切ることとなったかおるが皆に呼びかけた。
先ほどのかおるの決意表明によって皆の顔色が見る見るうちに良くなって、それぞれがそれぞれの色に瞳を輝かせていた。かおるの赤ん坊の勇気が他の赤ちゃんにも伝播したのだ。６人はいとも簡単に一致団結した。置かれた境遇がそうさせた以上に何らかの力が作用した。
「それから、思い出しましょう。何らかの兆候があったのかもしれないし、もしかしたら、ここにいる私たち自身にも何か共通項があるのかもしれない……例えば……妊娠……？」
言いかけて、かおるは慄然とした。
そうだ、今まで、なんだか当たり前に見過ごしていたけど……私たち、みんな、妊婦なのだ。そんな単純な、共通項が……そんな、だって……。妊娠したためにこういうことになったのか？
ああ、思わずかおるは自分のお腹に手を当ててうつむいた。
「あ、あの〜出産と同時に自殺していった旦那さんの話……聞いていますか？」
妊婦の一人が、震える声でかおるに言った。
え……？
自殺……？
かおるは、その妊婦が語る話を聞くにつれ、言いしれぬ不安と恐怖に包まれ、気が遠くなりそうになった。
夫が……出産と同時に……自殺？
誰もがかおると同じ不安を抱いていたに違いない。考えただけでも恐ろしい。
部屋の片隅でたくさんのリンゴの皮をむき続けていたかおるの母の手が止まった。沈黙……。まさか……。早く、探し出さなくちゃ……この子が生まれるまでに、早く探し出さなくちゃ……。…もう、あまり時間がない……。
かおるも、このときばかりは、お腹の中の赤ん坊の順調な成長を少し恨めしく思った。
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久しぶりに女を抱いた。 ｋは永い間タメていたものを一気に吐き出し、ぐったりとベッドの上で横たわったままタバコをふかしていた。原田さんは少し汗ばんだ頭をｋの裸の胸の上にちょこんとのせて、ｋの茶色い乳首をいじったりしていた。その得もいえぬくすぐったさを我慢しながらｋはぼんやりと天井を見つめ、なぜか不思議な喪失感を抱いていたのだった。
高校生時代のイノセントな想い出、パステル・カラーの忘られぬ風景を、場違いでそぐわない色、生々しい原色の絵の具で汚してしまったような、そんなセンチで切ない気分だった。ｋの瞳に少しだけ涙が滲んだ。「思えば遠くへきたもんだ」なんて言葉が頭に浮かんで消えていった。
しばらくして、部屋の空気が少し寒々としてきたころ、原田嬢が静かに語り始めた。ｋは襲い来る睡魔と戦いながら身じろぎも返事もせずに聞いていた。
「私がその能力を身につけ始めたのは中学生の頃だった。突然、他人のウソが読みとれるようになったの。あ、この人ウソついてるなって。そして『本当』が文字として読みとれちゃうの、まるで映画の字幕みたいに。例えば、あなたが『新聞記者』だって私の前に立ったとき、あなたの横には『オレはしりつたんていなのだ』っていう白い文字が浮かびあがっていたのよ……」
嘘だ。
ｋは直感的にそう思った。そんなバカげた話は信じない。この世の中に超能力も超自然現象もあるわけないじゃない、と思っているｋには当然のことだった。
この娘は何かを隠している。ｋは睡魔と戦いながら、それでも黙って彼女の話を聞き続けていた。
「……で、すぐわかった、あなたの知りたいことの一部は、たぶんこの私が知っているって。だから、私は好奇心半分であなたの誘いに応じて、そしてこうして仕方が無しに身体まで捧げた……」
それって、ちょっと違うんじゃない？
でもｋは反発するのすら面倒くさくなっていた。
……眠い。原田嬢はしゃべり続けていたけれども、ｋはあまりの眠さに彼女の話を所々しか聞き取れなかった。
「……妙なクスリを投与してるって……院長が自ら単独で……妊婦……どこかの国の薬剤メーカーの試薬……臨床試験……人体実験……」
だめだ……このままでは……。ｋは必死に睡魔を払いのけようとしていたけれども、それは全く無駄な抵抗だった。原田さんのしゃべり続ける声がとても心地よくて……。
「……たくさんのお金が動いて……ある組織……サングラスをかけた妊婦……院長が慌てて……へんてこな名前の男から何度も電話……マスコミには手を打った……夫の自殺には、ある疑問が……宗教団体……宅配ピザ屋が何度も配達に……買春まがいの……妊婦の研究……あるバイブル……」
……おやすみなさい、原田さん……ごめんね……話の途中なのに……ｋは前後不覚に眠り込んでしまった。
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〈ｋの夢〉
「じじじじっと音がしている。電気的な音。画像が揺れる。何の画像？オレが見ているのはＴＶか？とても大きな画面だ。でも、こんな近くでＴＶを見ていると目が疲れるし、目が悪くなっちゃうぜ、まったく、もうちょいと後ろに下がろう……でも、おかしい……すぐ後ろには壁がある。これ以上下がれない。何だって言うんだ、畜生。ぶれ続ける画像の中で誰かが笑っている。声からすると女だ。この声には聞き覚えがある。誰だっけな〜？でも、ぼんやりとその姿を映しだしてはいても、相変わらず画像は乱れまくっていて……悲鳴……悲鳴だ。女が悲鳴を上げている。とても高い声で、悲鳴を……。助けて……確かにそう聞こえる。畜生、イライラする。お前は誰なんだと、ＴＶに問いかける。アンテナ、アンテナはどこだ？きっとアンテナの接続が悪いんだ。接続不良。『だから、繋がらないんだ』こんどは男の声だ。『接続が悪いから繋がらないんだ。全てがうまく繋がらない。雨も降ってるからアースが良くない』夢の中のｋは思い切って声を出して、ＴＶに話しかけてみる。『お前は誰だ』さっきの女がそれに答える。『私はただ＊繋ぎたいだけの女＊です』画像が激しく乱れだし、それと同時に男も答える。何と答えたかは聞こえない。完全に混信している。もうぐちゃぐちゃだ。男が再び話しかける。『お前は一体何者だ？』誰に話しかけてるのだろう？オレか？それともそこの＊繋ぎたいだけの女＊にか？そもそも、そいつはオレが聞きたいぜ。ｋはイライラして、その辺にある固くて重たい棒状のものを手にして、そして闇雲に振り回す。手応えがあった。バキッ。ＴＶはものの見事に破壊される。そして再び暗闇が訪れる」
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かおるの父が持ち帰ってきた手紙と、そして他の妊婦達が持参していた手紙をベッドの上に並べていた。
計１２枚の手紙。筆跡や内容や宛名や消印や使用している便せん等によって、それらは大きく２グループに大別できた。
仮にＡグループ、それぞれの夫に宛てた手紙、差出人不明、消印は都内各地、キーワードは「回転」だった。
１．単調なる回転からの離脱
２．単調なる回転と軸方向への流力が噛み合わずに／君は離脱せざるを得ない
３．次第に回転数が落ちるのでは無い／それは突然に止まる
４．君の中の単調なる回転は君が思ったように調整できるモノではない
５．君の回転は我々の求めるそれとはかけ離れている
６．君がその回転を司れると思うこと自体が間違いである
そしてＢグループ、妊婦本人に宛てた手紙、差出人は「ノマ・リュウジ」消印は静岡県の浜松市、キーワードは「白い螺旋階段」だった。
１．白い螺旋階段を昇っている自分を想像してごらん？
２．白い螺旋階段に／入り口はあるけども／出口はない
３．白い螺旋階段には／決して交わることのないルートが二つ
４．白い螺旋階段の頂上には／寝台が７つ
５．白い螺旋階段は／時間を逆流してゆく
６．白い螺旋階段の／その回転は／決して単純なモノではない
「やっぱり、良くわからないわ。何を意味するんだろ？誰か、何か思いついたこと無いかしら？」
議長かおるが皆に意見を求めた。しかし、他の妊婦達は皆一様にムツカシイ顔をして腕を組んで、その並べられた手紙をにらんでいるだけだった。
「ねえ、お父さん。例の探偵さんは？」
かおるは父に声を掛けた。
父は例の写真のことが言い出せずにどうしたものかと困り果てて黙り込んでいたので、その突然の問いかけに年甲斐もなく狼狽えてしまった。父はどもりながら言った。
「で、で、電話したけど、ふ、ふ、不在だった」
かおるはそんな父のおかしな態度を気にも留めずに、悔しそうに非難めいた口調で言った。
「まったく、こんなときに、その、探偵さんはナニをやっているのかしら。全く、必要なときに連絡が取れないんじゃ、意味ないじゃない……」
かおるはじっと手紙を見つめた。……白い螺旋階段……？……夢……そうだ……夢……そういえば……。
「みんな、最近、妙な夢を見なかったかしら？」
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目が覚めたとき、ｋは今自分が何処にいるのか見当もつかなかった。頭が重たかった。しばらく身動き一ツせず、暗闇の中で目が慣れてきた頃に、やっとこさ思い出した。
そうだ、オ、オレは……がばっと跳ね起きて原田さんの姿を探した。いない、どこにも。隣で寝ていたはずの原田さんは……いずこ？
ｋはベッドサイドのスタンドのスイッチを捜したけれどもなかなか見つからずにあきらめ、全裸のままベッドから降りて、恐る恐る手探り忍び足で、でもそこいらじゅうに膝とかすねとかぶつけて、やっぱり勝手知らない女の家で暗闇で全裸で取り残されるほど情けなくも哀しいことはない、なんてぼやきながら、何とか、ソファーの脇のピンクのフロアスタンドにたどり着いて、スイッチをひねった。
原田さんの姿はそこにはなかった。
ｋは全裸のまま辺りを捜索した。トイレット、バス・ルーム、クローゼットの中、ベッドの下、カーテンの影やバルコニー、でも、原田さんは何処にもいなかった。
あれは夢だったのか？
そんなわけはない。いくらｋが性的欲求不満者であったとしても、こんなピンクだらけの女の部屋に忍び込んで出張オナニーなんてするわきゃないし、だって、二人でさんざん飲んで散らかしたあとだって残っているし、おかしい、とｋは思った。
だいたい、始めっからオカシかったんだ。
あの女は何かを知っていて、そしてそれを故意に隠しているのだ。
それで、えっと……確か、寝しなに……何か大切な事を言っていたような……テレビの夢……？
ああ、頭が「混信」している？いや、「混乱」しているんだ。
ｋはいろんな事をいっぺんに思い出そうとしてムリして、そして、さらに自分の頭の中の混乱に拍車を掛けた。
待てよ、待てよ……どうなってんだ……彼女は何処に行ったんだ……彼女は何を握っているんだ……とにかく、ｋは時計を捜した。壁掛けの時計もやはりピンクだったが、デザインは悪くはなかった。
ややっ、時間がない。
ｋは慌てた。
例のサーファー・ガールとの約束の時間が近づいていたのだった。タクシーぶっ飛ばせばなんとかなるけど、でも、それにしても、原田さんは、ヤリ逃げか？
ｋは素早く洋服を身につけながら考えた。もう一度、原田嬢に会って、また、アレを、じゃなくて、話を聞かなくちゃ、とｋは思った。
着替え終わったｋは、少しだけ喉が乾いたので、主人不在のピンクの冷凍冷蔵庫から飲み物を失敬しようと思ってキッチンに入った。
こじんまりとして綺麗に片づいていたかわいらしい、やはりピンクでまとめられたキッチンだった。ｋは冷蔵庫の取っ手に手を伸ばした途端に、オヤ、と気がついた。
冷蔵庫の扉にマグネットで一枚の写真が貼ってあったのだ。どこかの広い砂浜に一本の白い塔がそびえ立っている、美しいけど、何と言うことはない風景写真だった。
ん？
何か書いてある、建造中、って印刷されているし、１９８３年１２月竣工予定ともある、何だろ、ん？
その横に丸文字手書き文字で「内部に白い螺旋階段」と走り書きされてあった。 「白い螺旋階段」？
ｋはその聞き覚えのある言葉に首をひねった。
んん？
確か……そうか、依頼人、高松あずさの夫が失踪したときに送られてきた手紙だ。確か、そんなことが書いてあったような……やはり、原田嬢は何かをつかんでいるのは間違いない、ｋはそう思った。
何となくヒットしたな、やはり、この２本の足と真ん中のアシで稼いだ成果だ、と一人満足げだった。
よし、こいつを証拠物件として、原田嬢を激しく追求してやる。明日も病院通いだ。
ｋはその写真を胸ポケットに忍ばせて、冷蔵庫の中の乳酸菌飲料の紙パックをいっちょう失敬した。
よし行くぞ、次はサーファー・ガールだ。
ｋはなんだかちょっとうきうきしていた。また、オイシイ事はないかな？なんて、ちょっとだけ期待していたのだ。
ｋはちゅーっと付属のストローで酸味の効いた乳酸菌飲料を飲み干して、一応書き置きでも書こうかと思って辺りを少し物色した。ピンクの書き物机の上に白紙のメモ用紙があったので、さらさらっと「帰ります。今日はヨカッタ」なんて書こうかと思ってペンを捜しているとそのメモパッドの横に一枚の写真が置いてあった。
こ、これは……な、なんと……ｋはその場で立ちつくしてしまった。
それは、なんと、完全に妊娠している原田嬢の写真だった。
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「夢……？」
そうよ、私、見たわ……
変な夢だった。
私はぐるぐる登っていったの……螺旋？
そうよ、あれは螺旋階段……？
白い螺旋階段……？
見たわ、私も見た。
登っていった。ぐるぐる。
私も。
私も。
私も。
そういえば、７っていう数字が……７つの鍵だが、７つの扉だか、７つの謎だか……？
不思議ね。
なんで、みんな同じ夢を……？
夢、なのかしら？
それとも、何かの……？
かおると他の妊婦がある種のシンパシーの中で思惑にふけっていると、かおるの父が娘に近づいていって、いきなり例の報告をした。不器用なかおるの父はタイミングを見計らって報告をしたつもりが、それは最悪なタイミングだったらしい。
かおるは、少し大きな声を上げてしまった。
「写真の全部が？」
かおるの一声で妊婦たちのイマジネーション・セッションは中断されてしまった。
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ｋはタクシーに乗って六本木に向かった。
例のクラブへ行って例のサーファーガールと遊ぶ、じゃなかった、事情聴取だ、と自分に言い聞かせていた。ポケットの中に例の白い塔の写真と原田嬢の妊婦写真を忍ばせていた。
窓の外を流れゆくけばけばしいネオンに彩られた夜の街を見るとはなしに眺めながら、ｋはダイア・ブロックでも組み立てるようにして、事のあらましを積み上げて、何かカタチのあるものを組み上げようと試みていた。
でも、土台が思ったよりもしっかりしていないし、組み上げる順番もあやふやなままではどーにもこーにもいかずに、結局はバラバラのブロックが薄汚い床に散乱している有様をただ指をくわえて見ているだけという有様であった。
まだ、早い。
時を急いてはいけない。
ガラス窓の向こうの街はとても虚ろなものに見えた。ｋはため息ひとつついて頭の中のブロック積み上げ作業を中断した。
ｋは夜の街が嫌いだった。正確に言えば夜の街に生息する人々が嫌いだった。そこに彷徨う人々はさながら幽霊のように見えて仕方がなかった。
魂が無いのだ。
彼らは魂を失っているのだ。
出来損ないの人形のような無表情でこわばって疲れ果てた顔を脂ぎらせて、箱庭のような街の中の出来合いの光の中で所在なげに彷徨っている、ｋにはそう思えてしかたがなかったのだ。
健全じゃないな、それとも、そう考えてしまうこのオレが健全じゃないのか？
ｋは自らにそう問うてみたけれども、「健全」という言葉の定義付けがうまくいかずに途中で止めてしまった。
ｋは悲しみにも似た空しさでもって、そんな人々の顔を見つめていた。この街はどうしてしまったのだろう？
いや、やはり、この街にとけ込めないオレがどうかしているのだろう。
ｋはコートの襟を立てて首を埋めた。
タクシーを降りたｋはマッチ箱に記されている住所を頼りに目的の店を探した。六本木の交差点から防衛庁の前を通り過ぎて、暫く進んでから乃木坂の手前で路地を右に折れていった。
たぶん、この辺だ。
準備の良いｋは原田嬢とのデートの前に本屋で５００分の１地図帳を立ち読みして、だいたいアタリをつけておいたのだった。
寝静まった住宅街にさしかかる少し手前の一角で、電柱に記されている住所を確認した。もう、目的地は近い。
ｋは無造作に立ち並ぶ古い雑居ビルの入り口の郵便受けの名前を確認してまわった。通りを挟んだ向こうは、もう、閑静な住宅街で、ここはちょうど、まるで何かと何かの境界線のようだった。この通りを挟んだこちらとあちら側では、まったく世界が違うようだった。こちらの雑居ビル群はどれもこれも薄汚く、人の気配もなく、ところどころ「入居者募集」とか「テナント募集」のチラシが貼りだされた空室が目に付いた。
魂が無いのだ。再びｋは思った。そこは……死の香りがしているのだ。近未来を描いた映画に出てくるような廃墟となった都市のように、見捨てられて忘れ去られた、使い古しの箱庭……。
それに比べて、通りの向こう側の世界には、それぞれの家の窓に暖かいあかりが灯り、そこには確実に小市民的でささやかな生活の香りがあった。食器ががちゃがちゃと音を立てていたり、テレビやラジオからの音楽や、人々の笑い声も、みな生の香りに満ちていた。
ｋはまるで何かを決めかねているかのように、ふらふらと通りを横切り、そのアヤウいバランスを保ち続けている境界線上を行ったり来たりしながら目的の店を探し続けた。
湿った空気が辺りに立ちこめてきて、ｋは夜空を見上げた。来るな……星一つ見えない空は厚ぼったい雲に完全に覆われていて、そのもっと上からの清潔でわずかな光を遮っていた。
ｋは意を決して、あちらがわの世界に完全に背を向け、こちら側の「死の匂い」に満ちた世界の歩道を小走りに走り、路地に入り込んで迷宮の中に身を投じ、ブルーでいて埃っぽく、濃密で湿っぽい空気の中に深く沈み込んで息を潜めた。
オレはあちら側の世界をとっくのとうに捨てた人間なんだ、と、ｋは心の中でつぶやいた。まっとうなサラリーマンのまま単調な日々をやり過ごし、さほどパッとしない女と結婚して子供をもうけて、ちっぽけな家の長期ローンを抱えながら、あの暖かで小市民的でささやかな灯りの中で暮らすことを自ら拒否したのだ。
そしてあのネオンライトに彩られた出来合いの光に満ち、わざとらしくショーアップされた箱庭的世界も捨てた。
オレにはこんな廃墟のような世界だけがお似合いさ。死と危険の香りに満ちていてゴミが散らばり、野良猫やネズミやゴキブリが我が物顔でそこいらじゅうに這い回っているバックストリート。
オレは……ｋは半ばやけっぱちになって、そんなことを考えていた。
一際古びたビルの地下に目的の店はあった。
外には看板も何もなく、入り口の雑居ビル特有のスチールの郵便受けのネームプレートの代わりに、ｋがピザ屋のサーファー・ガールからもらったものと同じマッチの箱が潰されて無理矢理に押し込まれ固定されているだけだった。
いかにも「いちげんさん、お断り」という感じだった。
ｋは息を殺しながら薄暗い階段を下りていった。
アヤしい……この店は……直感したｋは武者震いをしてからコートの襟を立てた。
埃っぽい地下室で「クラブ ガーディアン」の文字がブルーのチューブ・ネオンの光の中で浮かび上がり、アヤしげに輝いていた。
「ガーディアン」、たしか昔、そんなタイトルの小説を読んだことがあるな、とｋは思い出しながら、重い扉を押し開けて、店の中に入っていった。扉についているカウ・ベルがからんからんと間抜けな音を立てた。
とても小さな店だった。
カウンターにスツールが７つ、テーブル席が３つ、店内にもブルーの光が満ちていて、音楽も何もなく、店の奥に赤いカーテンに隠されたスペースがあるように見えた。客はひとりもいなかった。
ｋは例のサーファー・ガールを探した。そのｋの視線をさえぎるように目つきの悪い一人の男がこちらに近づいてきた。髪の毛が青く輝いて見えたのは照明のせいで、実は完全なる総白髪状態で、おきまりのように黒い蝶ネクタイをしたバーテンダー・スタイルの男は、一目見ただけで、マトモじゃないとわかった。
目が違うのだ。
目が、完全にイっていた。ｋは反射的に身構えた。
その男の目が「ここはお前なんかの来るところじゃねえ」とでも言っているかのようだった。
ｋはポケットの中の拳を固く握りしめて、その男を待った。男はｋの頭からつま先までじろりと眺め回してから、予想に反してやけに人当たりの良い気さくな口調で言った。
「お客さん、ご指名は？」
揉み手なんてしていた。
ｋは張りつめていた気分をへなへなと緩ませて、気の抜けた声でどもりながら「あ、あの〜、そ、その〜」と言葉を詰まらせてしまった。ｋは例のサーファー・ガールの名前を知らなかったのだ。
「あ、そうか。お客さん、初めてかい？誰の紹介でいらっしゃったんですかね」
男は表情一つ崩さないまま、声だけの愛想の良さでそう訊ねた。ｋは例のサーファー・ガールの容姿を事細かに説明して、実は、と言った感じで、彼女に誘われてここに来た旨を男に伝え、店のマッチを差し出して見せた。もちろん、事件のことは口にはしなかったし、彼女が昼、ピザ屋でバイトしていることも、一応伏せておいた。
男は相変わらず表情一つ変えず、ｋを値踏みでもするような目で見つめていた。ｋは黙って、その男の顔を見つめかえした。
「ハツミのことだね、それ。でもね、今日は彼女、休んでるよ」
何と……ここまできて……休みとは。くそ……あんな思わせぶりな事、言っておいて……何てこった、気になるじゃない。ショックを隠せないｋに、追い打ちを掛けるように、男は少しきつい口調で言った。
「あまり、首を突っ込まない方が身のためだな。本来だったら、ここはね、あんたなんかが来る場所じゃないんだ」
どういう意味だ？単なるはったりの脅しには思えなかった。
男はそれ以上何も言わなかったし、ｋも何も聞けなかった。ｋは返す言葉も居座る理由もなく、半ば無理矢理追い出されるように、店の外へ出た。正直言ってやり返す気力も残っていなかった。
あやしい……この店も、あの男も……しかし、こうなった以上は仕方がないだろう、彼女がいないんじゃ話にならない。ｋはがくんと肩を落としてつぶやいた。今日は……疲れたな。いろんなことがあったし、原田嬢との思いがけない情事がきいていた。ｋはあきらめて、家に帰ってぐっすりと眠ろうと思った。また、明日、仕切直しだ。
階段を上って外へ出たときに、背後から声を掛けられてｋは振り返った。そこには見知らぬ女が立っていた。ややつり上がり気味の切れ長の目元に、ソバージュ＆茶髪、細面で全体的に華奢な感じの若い女の子だった。派手な服装とどぎつい香水の匂いからして「ガーディアン」で働いている女の子なのだろう。彼女は恐る恐る声を出した。
「あ、あの……ピ、ピザ屋の……」
勝ち気そうな顔のワリに控えめで弱々しい声だった。ｋは黙ったまま次の言葉を待った。彼女は少し間を置いてからぼそぼそとしゃべり始めた。
「あ、あの……彼女に頼まれたんですけど……彼女、ちょっとだけ店に来てからすぐ帰っちゃって……あの……自宅にいるから……住所を……」
そう言って彼女は小さなメモを差し出した。そのメモを受け取りながら、ｋはその女の子に聞いてみた。
「ねえ、この店はどういう類の店なんだ。会員制か何かなのか？ただのクラブじゃなさそうだな。さっきの男だって……」
そう言いかけたときに彼女はｋの言葉を遮り、急に怯えたような表情で取り乱して言った。
「わ、私は、な、何も知りません、何も……」
「知らないって、君、君はそこで勤めているんじゃないのか？」
「いやーーーーーーーーーーー！」
彼女は顔面蒼白になって絶叫しながら階段を駆け降りて行ってしまった。虚ろな街に、その黄色い声が響きわたった。その合図を待っていたかのように、どす黒い空から大粒の雨が降りだした。ｋは突然の事にあぜんとして立ち尽くすだけだった。
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父の言葉を聞いたかおるはまたしてもあの言いしれぬ大きな不安を抱え直すこととなった。
かおるは完全に言葉を失ってしまった。迷子になってしまったような気がした。自分が、というより、自分のこのお腹の中の子供の存在が不確かなものになってしまったような気がした。自分が今立っている場所が確認できないでいる、そんな類の不安だった。
私の結婚生活って……一体……？
議長が言葉を失ってしまったことで、会議は中断され、その不安は全員の妊婦にあっと言う間に伝染してしまった。
たぶん、私たちの夫の写真も……皆、そう考えていた。
かおるは怖くて仕方がなかった。誰が……何のために……こんなこと……誰かが私の家に侵入したのよ。もしかしたら私が気絶している間に……？
かおるの背筋にものすごく冷たいものが走った。
かおるの父は自分が悪いワケじゃないのに、まるで叱られている子供のように頭を低く垂れたまま身じろぎもしなかった。
誰かがしくしく泣き始めた。かおるの母は妊婦全員分のりんごを剥き終えたにも関わらず、ふるまうタイミングを逸してしまい、皿と楊枝を手にしたまま突っ立っていた。
この部屋の中の全ての人間の動きが止まってしまった。
妊婦の一人がぽつりと言った。
「大丈夫よ、きっと。だって、まだ、私たちは妊婦なのよ……出産していない……だから、あの人は、大丈夫……」
尻つぼみの力無い慰めの言葉はかおるの耳には届かなかった。かおるは昔の、夫と一緒で楽しかった頃の事を思い出そうとしていた。でも、顔が、あの人の顔だけがどうしても思い出せなかった。
「も、もう遅いから、明日出直しましょう。明日、また、みんなで考えましょう」
高松あずさ副議長が閉会の宣言をした。力のない宣言だった。かおるは頷くしかなかった。
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土砂降りの雨は廃墟の街を駆け抜けるｋの下着までもあっと言う間にずぶ濡れにしてしまった。ｋは人っ子一人いない通りを駆け抜け、真夜中の迷宮の街を当てずっぽうに走った。
さっきのソバージュの女がくれたメモの住所には見覚えがあった。何故だか分からない。とにかく見覚えがあったのだ。
ｋはタクシーを拾うこともせずにひたすら走った。路地から路地、大きな通りへ出ても走る車さえ見当たらない。誰も見ることもない信号機が観客のいないスタンド・プレーで点滅をし続けていた。
オレは今、どこを走っているのだ。
そして、どこへ行こうとしているのだ。
雨はさらに激しさを増し、着ているものすべてにタップリ染み込んで、急ごしらえの重荷をｋに背負わせた。
ざーっという雨の音しか聞こえなかった。自分の靴音さえも聞こえないほどの激しい雨。ｋはまたしても、さっきとは別の境界線を越えたような気がした。また、別の得体の知れない匂いが満ちている、生でも死でもない、又別の何かの匂いが満ちている世界。
ここはどんな世界だ……。
ｋは顔面に打ちつける雨によってぼやけた視界の中で、必死に前を見据えて、些細などんなものでも見失うことのないように、気をつけていたつもりだった。でも、それらはｋの視界を通り過ぎていくだけで、なにものも残してはくれなかった。
走り続けているうちに、頭の中が真っ白になっていった。把握しうる意識の表面下の意識が、さらにｋを走らせていった。
どこへ……。
導かれるままにｋはとあるマンションの前で立ち止まった。
ここだ。
知っている。オレはここを知っている。
見覚えがある、なんてもんじゃない。カラダ全体がはっきりとここを記憶している。
ｋは必死に思い出そうとしてみた。
……わからない……思い出せない……いつ、オレは何のためにここに来たんだ？
その問いに答えることもなくｋのカラダが勝手に動いていった。
右に行けば……エレベーターがあって、そしてあの時も、確か、自然に、オレを待っていたかのようにすーっと扉が開いて、中に入って……４Ｆ……ボタンを押して、そのとき……オレは……。
エレベーターの扉が静かに閉ざされ、そして、ｋを乗せたハコは、ゆるやかに音も立てずに昇っていった。
全てが、前もって、決められていたことなのだ。
……繋がっていないだけだ……繋げるのが私の役目……あんたなんかが来る場所じゃないんだ……わ、私は何も知りません……言葉が勝手にｋの中で生まれて、そして弾けた。
扉は開かれた。
ｋは目を閉じて歩き始めた。一歩、二歩……１８歩歩いてから目を開いて、目の前のドアのノブに手を掛けた。
表札は出ていなかった。４Ｆだというのに、ドアに記されたこの部屋のルーム・ナンバーは１９８８号だった。
そのドアの鍵は掛かっていなかった。カチャリと音を立てて、いとも簡単にそれは開いた。
ｋは息を殺して中へ入っていった。ずぶぬれのカラダから滴を垂らしながら、ｋは薄暗いカーペット敷きの短い廊下を進んでいった。
覚えている……オレは……確かにここへ来たことがある。でも、ｋにはその理由や細かいシュチュエーションが思い出せなかった。
部屋の間取りまでわかっている。ここがトイレで、こっちがバス・ルームで、そして、キッチン。そして、その奥にはベッド・ルーム……ブルーのシーツ、写真がいくつか飾られている壁紙の色は確か……そして、音楽……？
確かに、そのベッド・ルームの方からは音楽がこぼれていた。
この曲は……ｋが日頃から愛して止まないビーチ・ボーイズの、編集テープ……そうだ、オレが大学生の頃に作った編集テープ、バラード・コレクション……「サーファー・ガール」……その日も……ここで、これを聴いた……この次は、たぶん、「ドント・ウォーリー・ベイビー」……。
確かに、その通りだった。なじみの曲順で、そのテープの音楽が流れ続けていた。部屋の灯りが消えている……ｋは、恐る恐る辺りを見渡しながら、忍び足で歩みを進めた。
薄明かり……わずかな光が揺れていた。ダイニングにさしかかる。テーブルの上の光景……どう見たって、ついさっきまで、誰かがソコにいたのだ……彼女は誰かと一緒に食事を愉しんだのだ。
白い器に残された料理からは暖かなぬくもりが感じられたし、二組のグラス、二組のフォーク＆ナイフ、ボトルの赤ワインはまだ半分くらい残されていて、食卓に備えつけれたキャンドルの明かりが心細げに揺れていた。ｋはさらに歩みを進めた。
ｋはこの先に何があるのか、知っているような気がした。音楽に満ちたベッド・ルーム、そこに何があるのか知っているような気がするけども、そこに何があるのかはワカラナイ……そんな感じだった。
頭痛がした。
頭の奥の方でうずくような痛みが少しずつ広がっていった。
この部屋の中の……匂い……懐かしいような……胸をくすぐる甘い匂い……これは……。
ｋはダイニングを横切り、思い切ってそのドアを押し開いた。
ビーチ・ボーイズ、そしてさらに深い「甘い香り」、ベッド・サイドのスタンドの光がｋの影を部屋の外へと押し出した。
女は静かに横たわっていた。
そして、完全に死んでいた。
＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠
面会時間も終わり、父と母が帰って行ってから、ひとりになったかおるはベッドに横たわり、わけもなく白い天井にこびりついている黒い染みをじっと見つめていた。
でも、そんなことにもすぐに飽きてしまい、眠らなくっちゃ、と独り言を言ってから目を閉じてみても、その天井の染みの残像だけが、かおるの仮想視界のなかで鮮明に残った。
あ〜あ、目を閉じてみても、見えるものがあるんだわ、今まで、しっかりと見つめてさえいれば……こうやって、それははっきりと……でも、どうしてあの人の顔の残像は、見えないんだろう？
わ、私は……あの人の何を見ていたんだろう？
残像さえ残さないあの人は、一体……？
わ、私は……何も見ていなかったのかもしれない。かおるはもう一度目を開いて天井の染みを改めて見た。
ああ……実際の染みと……目を閉じてみていた染みの、残像としてのその形が……違う……。
かおるは今更ながら驚いた。そして、思った。
あの人は……もしかして、単なる残像だったのかしら……それとも、実像だったのかしら？
私はもしかしたら、ある時点からずっと、目を閉じていたのかもしれない。目を閉じている間に、形を変えてしまったのかもしれない。
私は何を見せられていたんだろう？
とにかく……明日は探偵さんを呼んで、もう一度みんなで……今日は、もう、眠らなくっちゃ、と部屋の明かりを静かに落とした。
そのとき、ノックもなく、かおるの病室のドアが小さな音を立てて、ゆっくりと開いていったのに、かおるは気づかなかった。
＠＠＠＠＠＠＠
日焼けによる水着の跡がくっきりと刻まれた美しいその肉体は一糸もまとわず、両の乳房の中心にジャック・ナイフのようなものが突き立てられていた。思ったほど血が出ていないようにも見えるのは、誰かが丁寧にぬぐい去ってしまったのかもしれない。まるで小学校の朝礼のときの「気をつけ」のような姿勢のまま目を閉じて横たわっていた。
魅力的なカラダだった。ｋはその場で立ちつくしたまま、生前の彼女の表情なんかを思い出そうとしていたが、目の前のそれと何ら変わりのないような気がした。
死んでしまった……わ、私は何も知りません……繋げることができない……助けて……ここはね、あんたなんかが来る場所じゃないんだ……。
よく見ると、彼女のその美しい死体の周りにはたくさんの白い紙切れが無秩序にちりばめられていた。ｋは近寄って、その一枚を手にとって見た。
写真……？
その白い紙切れを裏返しにしてみて、そして、ｋは驚いた。
これは……オレだ……。
その写真は、ｋの顔以外の部分が器用に削り取られているのだった。
ｋは慌ててそのほかの写真を掴んでは、それをいちいち確認した。
全て、同じ写真だった。
完全なる複写。
その全てが、まるで神経衰弱のトランプのように裏返しにされていたのだった。
ｋはこの状況をうまく把握しようと必死になっていた。しかし、混乱が混乱を招いていた。
音楽……甘い香り……美しき死体……そしてｋの写真……眠たくなるほどの混乱の中、ｋの背後に誰かが忍び寄ってきたのさえ気がつかなかったのは、いたしかたなかった。無防備であったのだ、完全に。
ガツン！！
後頭部に衝撃が走り、ｋの視界がきゅーーーっと狭くなり、そして真っ暗になった。
オレは……気絶するぞ……。
ｋはそうつぶやいて、その宣言通り、その場でぶっ倒れてノビてしまった。