妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−５．失われた過去、ピザ屋の謎
山崎ｋはベッドに横たわったまま病室の天井の染みを見つめていた。でも、そこには何の解決の糸口も見つからなかった。そいつはｋに何の啓示も与えてはくれなかった。
そんなの当たり前だ。
ｋが存在するこの世界はあくまでリアルな世界であり、何かの存在が何かを、意味ありげに、象徴、示唆するなんてことはあり得ないのだ。目の前に存在する物体−たとえば天井の染み−は、あくまで実存する物体であり、それ以上の何物でもないのだ。
天井の染みの原因は何らかの色素をもった液体なり物体が接触、または密着したのか、あるいは温度などの影響によるのか、そして期せずしてああいった形になってしまったのは単なる偶然だろう。そこには何の意味もない。
そして、我々が存在するこの社会は、そういった関係性が、ごく当たり前に限定された社会であり、その限定の中での関係性の全ては、当たり前に実証されるべく事象であるにすぎない。
何かと何かが繋がっているのは、あくまで限定された、我々が理解、認識可能な事実に基づいた関係によってのみ繋がりをもっているに過ぎないのだ。
その限定された事実の繋がりを解きほぐして、その「真」へと近づくことが必要なのだ。
それにはまずは行動だ。
足を使え。
素振りを続けるんだ。
ｋは自分に言い聞かせた。
天井の染みなんかには、なにも意味するところなど無いのだ。
ｋは立ち上がった。頭部の包帯が痛々しい自らの姿を病室の鏡に映しだした。
そうだ。オレは名探偵なのだ。
少しめまいがしたけれども歩けないほどでは無かった。おしゃべりをしていた看護婦たちがｋに気づいて言葉を止め近づいてきた。
看護婦の１人が「安静にしていて下さい」と言いながらｋを制止しようとしたけれども、ｋは出来るだけ余裕のニヒルな笑顔を作り、「私は行かなくてはならない」と言いながら、掛け布団をはねのけ、看護婦の腕をふりほどき、自分の靴とお気に入りのコートを探した。それは開け放たれた備え付けの洋服ダンスの中にあった。
「先生に叱られます。言うことを聞いて下さい」
もう１人の看護婦が情けない声を上げた。
ｋは少し可哀想だと思ったけれども、少し怯えた様子の２人を無視して身支度を整えた。きつく巻かれた、多少オーバーな感もある白い包帯もそのままに、ｋは素早く病室を出た。
車椅子に乗った病人や看護婦たちが行き交う廊下を、頭部の白い包帯と黄色いシミ付きのガーゼをかなぐり捨てながら足早に駆け抜け、階段を下り、１Ｆの総合受付の窓口の前に立った。
昼時のためかそこには１人の女性がいるだけだったので、ｋは気安く彼女に声を掛けた。彼女は分厚い眼鏡を掛けたとっても地味な年齢不詳の女の子で、事務員服がやけに似合っていた。まるで彼女のためだけにこの何の変哲もないブルーの事務員服が存在するかのようだった。
「あのさ、こーいうもんだけど」
ｋはとてもぞんざいな口調で彼女に声を掛けながら名刺を差し出した。それはｋがいつも使う手としてのある新聞社の名前の入った小道具としての名刺であった。
ｋはしぶとい記者になりきった。
「こちらの病院で、最近夫が自殺したり行方不明になったりしているワケありの妊婦さんたちが入院中と聞いたんだけど、彼女らの病室を教えていただくワケにはいきませんかね」
そう言うと彼女は慌てふためき、手にしていたボールペンや書類を落としたり、ずり落ちてもいない眼鏡を押し上げたりしながら「や、ちょ、ちょっと、お、お待ち下さい」と、言いながら立ち上がり掛けた。
ｋはその腕を素早く捉えた。
「君が個人的に答えてくれれば、それで済むんだ。あまり大事にはしたくない」と少し凄んで言ってみた。
ｋは１０通りくらいの声色と口調を、血のにじむような厳しい訓練によって身につけていた。
彼女は今にも泣きそうだった。
顔の肌の表面をよく見てみると、その色つや、張り具合から見て、年の頃は２０そこそこといったところか。
ｋは彼女の胸の名札を盗み見た。
「原田美智子」。
「ねえ、原田さん、あんたに迷惑を掛けるつもりは毛頭無いし、あんたが愛しているこの病院の名声も傷つけるつもりは無いんだ。あんたがここで素直に答えてくれれば、僕は何もしないよ。でもね、いっとくけど僕は記者だからね。僕はペンによって多くの人間を扇動することができる。マス・メディアは本当に恐ろしい力を持っているってことは君もじゅうじゅう承知だよね。君の実名と写真を使ってでっち上げの記事を捏造することだってできる。そしたら君はどうなる。君のささやかで幸福な生活は、いとも簡単に根本から壊れてしまう。一度壊れてしまうと、修復するのは１からやり直すよりもムツカシイ。人生とか生活っていうのは君が思うほど自らの手で簡単に修正・再構築できるもんじゃないんだ。わかるネ。もし、君が個人的に僕にそっと耳打ちしてくれたならば、今夜、そのお礼として個人的に君を食事にご招待しよう。会社の交際費を使って、今まで君が行ったことのない様な高級なレストランに連れていって、そこで一番高いフルコースをごちそうしてあげよう。ワインだって付けたっていい。わかるネ。君も得するし僕も得をする。傷つくものはだれもいない。どーだね。悪い話じゃないだろう」
当然、全てはったりだった。
そして、ｋはニヒルに笑った。
彼女は怯えきって、半ば口を開いたまま、その場で固まっていたけれども、やがて小さな声で「わかりました」と言った。そして、恐る恐る「きょ、今日は、私、５：３０に仕事が終わりますから、病院の裏門のところで待ってます。あの〜、私、前から行きたいと思っていたカジュアル・フレンチのレストランが麻布にあるんですけど、１人で行くのもなんだし、あ、そうなんです、私、カレシいないんです。それに、この病院、すごく安月給で、一人暮らしもしていますから、もう、そんなレストランなんて夢のまた夢だったんです。だから、ありがとう、とてもうれしい。誘ってもらって、とてもうれしい」
彼女は本気だった。かなりのしたたかものだ。
ｋは財布の中の所持金を頭の中で勘定し始めた。
彼女は元気に立ち上がり、部屋の奥のパソコンの置いてある机の前に立ち、すばやくキーボードを操作して、プリントアウトしてくれた。時折、こちらを見つめる彼女の表情からは、もう、すでに怯えの陰が消え失せているどころか、微笑んでさえいた。
ｋは完全に気に入られてしまったのだ。ああいうタイプは本気になりやすい。
にっこり笑ってプリントを差し出す彼女の顔はそんなに悪くはなかった。歯並びが恐ろしくきれいだった。でも……。
ｋは身震いしながら、「ありがとう」の一言も言わず、そのプリントを受け取り、逃げるようにしてすばやくその場を離れた。
妊婦専用の病室は北棟の２Ｆにかたまっていた。
原田さんにもらったリストによると、やはり看護婦の噂話通り、行方不明の夫を抱えた妊婦は６人、夫の位牌を抱えた元妊婦は５人いた。
病院側としても、こういったナーバスな妊婦や元妊婦を、手厚く特別扱いしているらしく、こんな専用のリストを作成して管理しているのだろうか、それとも、もっと別な目的、例えば警察やマスコミ対策？
備考欄にそれぞれ「夫行方不明中」とか「夫自殺」とかの注釈が記されていた。
ｋは二段飛ばしで階段を掛け上った。本館から北棟への渡り廊下を通りながら、ｋは今まで自分がたどってきた道筋を整理してみた。
俺はいったい何を探しているんだ？
どこへ向かっていこうとしているのだ？
まず、依頼人の妊婦が、失踪した夫を捜してくれと言った。それは福島の叔父の紹介だった。俺は依頼人が入院している病院で、偶然６人の、もちろん依頼人を含めた、夫が消えてしまった不幸な妊婦たちと、夫を彼ら自らの死によって失ってしまった５人の、更に不幸な元妊婦たちの存在を知った。
これらはもちろん偶然なんかじゃない。全部繋がっているのだ。そう考えて差し支えあるまい。
もちろん、俺は依頼人の夫さえ探し出せばいいのだ。でも、その小さな入り口から入ってみると、その道はとてつもなく大がかりな犯罪に繋がっている。
「これは大規模な組織ぐるみの犯罪なのだ」。一種の職業的な勘だ。
ｋは自分がものすごい歴史的な大犯罪の調査に携わっているんじゃないかと思うと、どきどきと胸が高鳴った。
俺は１人の力でやりとげるんだ。ｋの正義感が、自尊心が、そう言った。
時間帯が悪かったようで、訪ねた妊婦の全てが昼寝か、検査か母親学級の真っ最中で、面会ができなかった。ｋはとりあえず６人の妊婦の病室に名刺を置いて、看護婦とか付き添いの人に伝言を頼んだ。
今日、この病院に運び込まれたばかりの妊婦の病室には、青い顔をした彼女の両親がいた。私立探偵の肩書きの入った名刺は、彼らをさらに深刻な面もちにさせた。
６人＋５人のリストは以下の通り。
（依頼人）高松あずさ、２５歳、妊娠８ヶ月、夫行方不明
杉崎かおる、２７歳、妊娠９ヶ月、夫行方不明
水沢杏子、２７歳、妊娠７ヶ月、夫行方不明
有藤ゆかり、２６歳、妊娠８ヶ月、夫行方不明
木村俊恵、２８歳、妊娠８ヶ月、夫行方不明
大野淳子、２７歳、妊娠７ヶ月、夫行方不明
Ｍ坂Ｈ代、２４歳、出産済、夫自殺
Ｙ原Ｓ子、２３歳、出産済、夫自殺
Ｕ村Ｉ美、２２歳、出産済、夫自殺
Ｏ村Ｔ子、２１歳、出産済、夫自殺
Ｆ沢Ｍ、２２歳、出産済、夫自殺。
こうして並べてみてみると、なるほど、何だか年齢にもそれぞれの特徴がある。そこには何かの規則性が存在するかのようだった。
結局、妊婦元妊婦との面会は実現しなかったが、立ち止まっているわけにはいかない。それでは…ｋは次の駒を進めることにした。依頼人の話の信憑性を確認する意味でも、例のピザ屋をあたってみるより他はないだろうとｋは考えた。
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かおるは大好きなリンゴを食べ終え、ベッドの上で少しだけ落ち着きを取り戻した 私に出来ることはなんだろう？と、自らに問いかけ、これといった答えが見つからずにいた。
整理しなくっちゃ。
今まで、身の周りで起こった、見逃しがちなささいな出来事を一つ一つ掘り起こして、少しでも関連性のありそうなものを列挙し、その意味について考えてみようと思った。
確かに妊娠してから自分のことで手一杯だったし、赤ちゃんの準備とか、あの人のことをもちろん、ないがしろにしていたわけじゃないけど、思い返せばロクに話しもしなかった。
話し？
でも、結婚してから今までの間、どんな話をしてきたのかさえ思い出せなかった。
かおるの中で、何かかけがえもなく大きなものが消失してしまったようだった。
あの激しく長い涙の中で、大切な記憶を失ってしまったかのようだった。
あの人の顔がうまく思い出せない。
あの人の声、体温、肌の感触、全てが幻のようだった。まるで最初っから存在していないような……でも、私は現に、こうしてあの人の子供を孕んでいるんだし、そうだ、写真、いつも大切にしているペンダントのロケットの中に２人で並んで撮った写真がある。
かおるはあわてて胸に手をやった。
かおるがいつも肌身離さず身につけているはずのペンダントが、そこにはなかった。
ない……。かおるはデパートの中の迷子になったような不安な気持ちに包まれながら、あたりを探した。
かおるの父と母が心配そうな顔で、我が娘の動向をだまって伺っていた。
母は涙をこらえていた。
父が「これか……？」と言って、かおるの大切なペンダントを差し出した。父はやけに困惑げな顔をしていた。普通じゃない。何かがおかしい、と直感的にかおるは思った。
かおるは震える手を差し出して、ペンダントを受け取って息を止めた。
そして、深呼吸をしてロケットの蓋を開けた。
いつも見慣れたはずの写真、どこで写したんだっけな、二人の思いでの場所、えっと、私、あの頃、やけに気に入っていて着倒していたクリーム色のカーディガン、今よりうんと長い髪をしていた、そして…
…隣にいるはずの、あの人の顔の部分がきれいに削り取られていた。
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山崎ｋはピザ屋の前に立ち、店の中から流れ出てくる有線放送による音楽に耳を傾けていた。
マイケル・ジャクソン。今年はこればっかりだ。
ｋはこういった「近頃の音楽」には一切興味を抱けなかった。
こういう音楽が街にあふれていると、その音の洪水の中にいる自分が、どこか来てはいけないところにやってきてしまったんじゃないかっていう、そんな疎外感を抱いたものだ。
ｋは古いロックン・ロールが好きだった。
６０〜７０年代のロックン・ロール。
学生時代、ｋは好んでそういった時代遅れの音楽に身も心も焦がしていた。
いったい、何が違うのか、明確な説得力のある解説なんかできなかったけど、今の音楽には何か決定的なものが欠けているような気がした。大ざっぱに言えば、金の匂いがするのだ、何もかも。
多くの頭のいい、金もうけに長けている大人たちが、一生懸命に投資して、それを回収し利益をあげるために、購買層を設定して、お手軽で空っぽなスターを作り上げているような気がしてならなかった。
現在、優れた（バカ売れする）音楽は、清潔で整然とした会議室の中で作り出されるのだと。孤独な雨の夜、恋や人生に疲れ果てた、どん底の暗闇の中のナイーブな若き詩人、時代を変える破壊力が、自らの音楽には存在するのだと信じてやまない、熱く燃えたぎるハートを持った、名も無き、若く、貧乏な芸術家たちが生み出した名曲、名演は、いつしか歴史の流れの中で、古ぼけて粗末な箱に詰め込まれたまま、整理されることもなく、どこかへ置き去りにされてしまった。
そんなことを考えながらｋは、店の扉を押し開け中に入った。
「セブンス・ピザ」。
小さな店だった。
宅配やテイク・アウトが中心で、店内飲食はおまけみたいな店のようだった。テーブル席が３つと、５人も座れないようなカウンターがあるばかりだった。
レジのカウンターの向こうには、ブルーの店のロゴが入った黄色いトレーナーを着た女の子が１人立っていた。長い茶色の髪、くりっとした黒い瞳、肌は良く日に焼けていて一目でサーファーとわかった。大きくなまめかしい唇の右下に大きなほくろがあって、それがやけにセクシーだった。ココナツ系の香水がハナについてとてもトロピカルな気分になった。デーハーなルックスは割とｋの好みだった。
店内にはｋの他には客の姿はなかった。ｋは様子をうかがうために、とりあえずピザと飲み物を注文することにした。まあ、もちろん、腹も減っていた。朝から何も食べていない。
７種類のピザがメニューに記載されていた。だから「セブンス・ピザ」なんだ、とｋはひとり納得した。将来的にこれ以上のメニューを増やすことはないのだろうか、と不思議に思ったけれども、その店その店のくだらんポリシーでもあるのだろう。
シュリンプ・ミックス、チリ・ミート、ベジタブル・チーズ、シーフード・スペシャル、セブンス・ミックス（普通のミックス・ピザだ）、ナスと挽肉、カレー・ピザの７種類だった。
依頼人の失踪した夫が頼んだという、イタリアン・スペシャルはメニューにはなかった。もしかしたら宅配オンリーのメニューなのかもしれない。でも、確認してみる必要がありそうだ。
ｋは白々しく「イタリアン・スペシャルとドクター・ペッパー」と、彼女に言ってみた。女の子の顔が少し曇ったのをｋは見逃さなかった。
「え、あ、あのー、イタリアンですか？ちょ、ちょっとー、あ、無いですよね、無い、う、うちにはおいてないです」
何となく脈がありそうだ。何かにわずかにヒットしたような気がした。
「じゃあチリ・ミートのシングルでいいや」と、言っておいてから、ｋは窓際のテーブル席に着いた。
ｋはポケットからチャンドラーの「かわいい女」の文庫本を取り出し、読みふける振りをしながら彼女の動向をうかがっていた。
彼女は心なしか元気を失った声で「チリ、ワン、プリーズ」と言って、曇った顔のまま、店の奥の厨房の方へ姿を消していった。
ｋの座っている席からも厨房は丸見えで、そこには白いエプロンを身につけた中年の男がいた。顔まではよく見えなかったけれども、どうやら彼女とひそひそ話をしているようだ。
ｋは注意深く観察を続けることにした。今、この時点で踏み込むには、その根拠が希薄すぎた。事をせいてはいけない。とにかく「何か」には確実に近づきつつあるのだから。今はここで待つのが得策である、と直感的に思った。
白いエプロンの中年男とサーファーの彼女は深く話し込んでいるようだった。どうやらｋが注文したピザを焼いている様子はなかった。
空腹だったｋは待ちきれなかったので、サイド・メニューのフライド・ポテトでも頼もうかと考えた。
よし。
「すいませーん、フライド・ポテト１つ、すぐできるかな〜？」
何の裏も策略もないような、できるだけアホそうな声を出して言ってみた。
「は〜い、ただいま」白いエプロンの男が答えた。
男はそそくさとフライド・ポテトをバスケットに盛って、厨房から姿を表した。
男はとても善良そうな顔をしていた。
「善良な人間を思い浮かべてごらん？」と言われたら、１０人中、８人までは迷いもせずに、彼の顔を思い浮かべるだろう。あとの２人はたぶん「善良さ」という言葉の意味をうまく理解できないでいるだけだろう。
彼の目元、ハナ、口元は、それくらい完全なまでに善良であった。善良な人間のほとんどがそうであるように、彼も又、見るからに要領が悪そうであった。そして、おきまりのように、たくさんの汗の粒を額に浮かべていた。
彼は何かに蹴躓いてポテトを床にまきちらばしてしまった。
「すすす、すいません。ただいま新しいものをお持ちします」
ｋは自分の思い違いかもしれないと思った。彼の顔を見ているうちに、ピザ屋はこの事件に何ら関係などないのじゃないかと思えてきてならなかった。改めてバスケットいっぱいのフライド・ポテトを受け取ったｋは、肩すかしをくらったような気分でテーブル席に戻った。
嘘だったのかもしれない。
勘違いだったのかもしれない。
単なる思いこみかもしれない。
そもそも、元からピザ屋の配達人なんて存在していなかったのかもしれない。
玄関先にやってきた男は「ピザ屋でーす」なんて言わなかったのかもしれない。
近所のおばちゃんは訳も分からずに興奮してとんちんかんな証言をしたのかもしれない。
あらゆる可能性はある。
でも、もしかしたらこの失踪劇は夫の単独狂言なのかもしれない。
少しふにゃふにゃしているポテトを頬張りながら、ｋはピザ屋の線はないことにしようと考えはじめていた。
あんな男にこんな大それた悪い事なんてできやしない。
「おまちどうさま」
サーファーの彼女が、ピザを持ってやってきた。焼き上がりがやけに早いんだな、いつのまに焼いていたんだ。
焼きたてで、表面がじゅーじゅー音を立てていた。
ｋはゴクンと唾を飲み込んだ。
ピザのトレーをｋのテーブルに置きながら、急に小声になった彼女がｋの耳元でつぶやくように言った。
「あなたアノ事探ってんでしょ、ね、そうなんでしょ、あの日、私、見ちゃったのよ。店は定休日だったの。私忘れ物しちゃって、店に一人で来たのよ。夜の８：３０頃だったと思う。店の鍵持ってるから、店長にも電話しないで、勝手に、こんばんは、も言わずに、すいすい裏の通用口から入ってきたら、明かりがついていた。だからオカシイなって思って、そこの厨房の冷蔵庫の影から覗いてみたの。ちょうど、あなたが座っているこの席で、見たこともない男の人とそして黒いサングラスをかけた妊婦さんが座っていて、何やらこそこそと話していた。薄暗いダウン・ライトだけだったし、背を向けていたから男の人の顔は良く見えなかったけど、何だか怖くなってすぐ逃げ出しちゃった。でも、そしたら、ほら、その次の日電話があって、ほら、旦那さんがいなくなったっていう……だって、ちょうど、その日のことじゃない。店長に言ったら何も知らないって言うし、店の評判落ちるから、誰にも言うなっていうし、でも、前の日のことは言わなかった。何となく言い出しづらくて……でも、私、気になったから、その電話の奥さん、見にいった、もちろん、半分、野次馬根性だけど、彼女の家の前で隠れていて、そしたら泣きはらした目の奥さんがでてきて、もう、びっくり、彼女も妊娠しているじゃない。アタマこんがらがっちゃったけど、前日、店にいたのは全然違う人で、何というか、サングラスしていたからよく見えなかったんだけど、もっときれいな人だった。そして、もっと若かったような……でもね、それだけじゃないのよ、もっと決定的なこと、私、見ちゃったのよ……あ、店長、こっち見てるから、この事件のことで、彼ものすごくナーバスになっていて、さっきもあなたのこと言ったら、何もいうなって、説教されたけど、あなた、何かソレっぽい人だから、おもしろそうで、その服装、探偵でしょ？だから、話し込んでるとすごく怒るから」彼女はマッチ箱をｋの手のひらに滑り込ませた。
「ね、夜の１０：００頃、ここに来てちょうだい。私この店で夜のお仕事してるから」マッチ箱には店の名前と住所と電話番号が書いてあった。
「クラブ ガーディアン」
そして彼女は何事もなかったかのようにｋの元を離れた。
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かおるは言いしれぬ不安に包まれていた。言葉にできないような、言葉にしてしまったらその場で時限爆弾が破裂して、全てを消し去ってしまうような、でも、言わずにはいれないような……。
「ねえ、母さん」
かおるは恐る恐るかたわらの母に呼びかけてみた。
「ねえ、間違いないよね。私、あの人とちゃんと結婚していて、幸せな生活を送っていて、それで、それで、私のおなかの中にはあの人の赤ちゃん、私とあの人の間に生まれた赤ちゃんが、ね、ねえ、ねえ、何だかワカンナクなっちゃったの……」
涙ながらにそう問いかけるかおるの肩を、母はそっと抱きしめた。
「そうよ、あなたの言う通りよ。大丈夫よ、安心して。すぐに全てが解決するから。あなたは何も考えなくていいから、少し休みなさい……ね」
かおるの父はそっぽを向いたまま、涙をぐっとこらえていた。
「だから、あんな男に娘をやるんじゃなかった」と、でも言いたげだった。
「警察を呼ぼう」
父が突然言った。
かおるはかぶりを振った。
「待ってよ、父さん。何だか、それはイケないような気がする、胸騒ぎがするし、うまくいかないような気がするし、それに、警察だってすぐに動いてはくれないワ、今は長い事情聴取もつらい……だから……」
かおるの脳裏には先ほどの探偵の名刺の白さがやけにちらついていたのだった。