妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−４．私立探偵「山崎ｋ」登場！！
山崎ｋは数々の職を転々としたあげくの果てに、親戚縁者からかなりの額の借金をしてまでも、半ば無理矢理に私立探偵事務所を開業した。
ｋはさる三流私立大学の法学部を卒業した後に、東証二部上場のさる中堅電機メーカーでクソ退屈な経理の職に就き、薄っぺらな名刺の交換という格式張って大層な儀式にすっかり飽きてしまった頃、すなわち１年と４ヶ月後にあっさりと辞めてしまった。
それから後のｋの職歴は、
１．ファミリー・レストランの店長、
２．サラリーマン金融の営業、
３．電気工事業（職人見習い）、
４．熱帯魚の販売店、
５．求人広告代理店の営業、
６．訪問販売業、
７．パチンコ屋の店長候補
８．ガードマン（バイト）
と、言う具合に、何の脈略も方向性も指針もないまま展開し、最長でも４ヶ月という短いスパンで程良くしなやかに様変わりしていった。
３０歳になった誕生日の夜にｋは、はたと思い立った。そうか、オレにはコレしかない、と。まるで春の雨に打たれながら天界から突然に受けた啓示のごとく。
ｋはかなり気合いの入ったシャーロキアンであって、小学生の頃にはホームズのマネをして２つの野球帽をいっぺんに前後ろにかぶって鹿狩り帽を気取ったり、風呂敷でコート、駄菓子屋で買ったチョコレート入りのパイプをくわえ、「ところで、ワトソン君」なんていっていた時代もあったし、アガサ・クリスティのポワロ探偵にも少し傾倒して「灰色の頭脳」について考えたりしたこともあったが、結局のところ、故レイモンド・チャンドラー氏が生み出したフィリップ・マーロウこそが男の中の男であるという結論に至った。
山崎ｋは何ごとに対しても影響を受けやすい人間だったから、いつでもハード・ボイルドで生きてみようと努力はしていた。しかし、そう簡単にはいかない。
探偵事務所を開いてからの１ヶ月間、まったくといっていいほど仕事がなかった。中古の事務机とシートが破れて黄ばんだスポンジが見えるイスしかない寂しい町外れの古びて埃臭い事務所の中で日がな一日、タバコ（キャメル・マイルド）とウイスキー（メーカーズ・マーク）で時間を潰しているだけだった。夕方の４時頃にはすっかり酔っぱらってゲロを吐いてしまい、やっぱりマーロウにはなれない事を悟った。
そして２ヶ月目にしてようやく初仕事を得ることが出来たが、あこがれの探偵稼業とは全くかけ離れたような依頼であった。それは福島県在住のｋの叔父の娘（すなわち従姉妹だけど、歳が離れているためほとんど会ったこと無い）が大学生になって東京で下宿をはじめる事となったので、彼女のために条件のいいアパートを探すという仕事であった。
駅から近くて日当たりが良くて、男子禁制で、コンビニが近くて、公園が近くて、ガラの悪い人が少ない街で、しかも家賃の安い物件をという条件を与えられ、何か違うな、と思いながらも足を棒にして聞き込み調査に力を入れた。
わざとしわくちゃにしたトレンチ・コートの襟を立て、物腰はダンディに、冷静沈着に、そして、頭脳をフル回転させ、丹念に調査を重ねた結果、三軒茶屋の駅近くに築２年、５万３０００円の部屋を見つけだすことが出来た。
福島の叔父は大変喜んで、破格の謝礼をしてくれた上に、さらにその娘の身辺警護の仕事まで追加発注してくれた。その内容は非常に簡単なモノで、抜き打ちの電話や訪問による門限のチェックと交友関係、特に男関係、の把握、等だった。
月々のきまった収入を得ることができたｋは、スポーツ新聞に広告を出した。やはりローカル・メディアの力は偉大であり、３行広告に釣られて次から次へと仕事が舞い込んできた。
ｋは仕事を選ばなかった。スタイルにこそこだわりはあったものの、仕事に対してのこだわりやプライドは一切なかった。時にはドブの底をさらってまでも、たった１万３６００円の入った（依頼人本人の証言による。真相は明らかではない）財布を探したり、引っ越しの手伝いなんかもした。歳とったお婆さんの代わりに銀行に行って手続きを代行したりもした。
どんな仕事においても、その方法論の隅々にまでもｋは自らの美学を追求した。トレンチ・コートとタバコ、冷静沈着、ニヒルな笑い、かつダンディでハード・ボイルドな男の美学。
どんな複雑で奇々怪々で残忍な犯罪の調査の依頼が突然舞い込んできても慌てないように、ｋはあらゆる歴史的な名作ミステリーを読みふけって勉強を怠らなかった。イメージ・トレーニングが大切なのだ。
ウイスキー（メーカーズ・マーク）＆タバコ（キャメル・マイルド）＆翻訳ミステリー。今はせいぜい便利屋＋浮気調査くらいなもんだけど、いつかきっと、誰も解決できないような前人未踏の難事件を鮮やかに解決してみせる。
ｋはいつでも希望に燃えていた。チャンスさえあれば、オレは自分の能力を遺憾なく発揮できるのだ、と考えていた。
そして、そのチャンスは突然やってきた。
行方不明になった夫を捜してくれ、といった依頼だった。ｋの胸は高鳴った。
これは事件だ。
でも、ハード・ボイルドな男はいちいち驚かないのだ、と自分に言い聞かせて拳を握りしめクールさを保とうとした。しかし、どうしても顔がゆるんでしまうのだ。
依頼人は、実は、これまた例の福島の叔父に紹介された、２５歳の可愛い妊婦さんだった。妊娠８ヶ月の依頼人がミッキー・マウスの柄のハンカチを手に、涙ながらに語ったその不可解な事件のあらましは以下の通りであった。
（事件のあらまし）
夫は突然消えてしまったんです。本当に突然なんです。その日はビデオを見ていました。最初は二人で見ていたんです。スプラッタ・ホラーのものすごいヤツを見てました。いっぱい血が流れる映画でした。たくさんの人がいとも簡単に死んでいきました。夕方の５時くらいから見始めて、日曜日でした、お腹が減ったので、宅配のピザを頼むことにしました。妊娠してからというもの、私の食欲は留まることを知りませんでした。特にピザみたいな味の濃いモノが食べたくて食べたくて仕方がなくなるんです、時々。いつも制限体重をオーバーしてしまい、助産婦さんに怒られてしまうんです。でも、やめられなかった。夫が電話してイタリアン・スペシャルのラージサイズとアップル・パイも頼みました。夫は甘党でした。大福なんて平気で５〜６個平らげてしまいます。で、とにかく私たちは二人並んで仲良くビデオを見てました。久しぶりの穏やかな週末でした。夫は仕事熱心で、休日出勤も残業もバンバンでしたから、いつも私は寂しかった。だから本当に久しぶりに二人でのんびりしていたんです。映画の途中で玄関のチャイムが鳴って、ピザ屋さんが来ました。だいたい６：１５頃だったと思います。映画はまさに一番の盛り上がり時で、目が離せないロングなカットの、息詰まるシーンでした。ハラハラしながら緊張しながら手に汗の握り時でした。私は集中して画面を見入っていて、ごめんね、お願いだから、あなた、出てよ、って、夫は苦笑いしながら、財布を持って、玄関へ、でも…、そう…、私がいけなかったんです。私が、あの時、あの人に…、頼まなければ、行かさなければ良かった。私がピザを受け取りに玄関へ出ていけば良かった。ああ、思い出しただけで、涙が、涙が、うう、確かに私も気が付くのが遅かった。映画が終わって、ほっと一息就いてから、夫の存在がそこにないということに気付いたのです。そういえば……。私は玄関を見に行きました。でも、そこにはピザもあの人の姿も、もうすでに無かったのです。財布だけはありました。だから、とりあえず、私はピザ屋に電話してみたんです。ピザ屋の配達人に聞いてみれば、何か解るかも知れない。でも、驚いたことに店員は「そんな注文はお受けしておりません」って、そんな、そんな、確かにあの人はそこに電話を掛けて、そして、配達に来ました。バイクの音がしました。ピザ屋でーすって男の人が、でも、私はその姿は確認していませんけど、近所の人も見てました。本当にピザ屋でした。単なるピザ屋の制服を着た男が、夫と歩いていたって、でも、そのピザ屋はピザ屋のクセに思いっきり異常なくらいにヒゲを伸ばしていて、何だか不潔だわ、食べ物商売なのに、って気になって、印象深くて、ずっと心に引っかかっていたらしくて、向かいのスギガミさんの奥さんが教えてくれたんです。だから、そのピザ屋に間違いないんです。でも、電話で聞いたんです。注文じゃありません、ちょっとお聞きしたいことが……お宅にヒゲ面の配達人がいませんかって。でも、いないんです。店長に代わりますって、若い子が、でも店長も知らないの一点張り。ヒゲのピザ配達人、そんなの全然いない。どこにも存在しない。ああ、私は気が狂いそうでした。そしたら、その次の日、こんな手紙が来たんです。夫宛でした。差出人の名はありませんでした。
（第１の手紙）
単調なる回転と軸方向への流力とが噛み合わずに／君は離脱せざるを得ない
その又次の日に２通目の手紙が来ました。今度は私宛の手紙でした。「ノマ・リュウジ」っていう男の人からの手紙でした。消印は浜松でした。静岡県の浜松市、何の縁もゆかりもない土地でした。未知の世界。
（第２の手紙）
白い螺旋階段に／入り口はあるけども／出口はない
そして私は極度の不安と緊張のため拒食症になってしまい、お腹の赤ちゃんが心配だからって、この病院に運ばれたんです。入院していれば、とりあえずは点滴で栄養だけは補給することができます。私が精神的に参ってモノが食べれなくとも、お腹の中の赤ちゃんはそれを許してはくれません。でも、夫の失踪は、私を混乱させました。私は、もう一度ピザ屋にいって…今となってはそれも無理なことですが、そうなんです、何だかとっても怪しいと思うのです。まるで何か隠しているみたいなんです。彼らは何か知ってるはずです、私には解るんです。
ｋはまさに水を得た魚のように生き生きと、風を切り胸を張って、調査に取りかかることにした。何故か福島の叔父は警察が嫌いらしくて、警察に届ける前にｋに知らせてきた。
「できれば、あまり表立たしたくないんでな、頼むよ」
叔父の立場を考えれば仕方のないことだ、とｋは納得した。なるほど、と。ああいう職業に就いている人間は、実に隠し事と頼み事がうまい。とても巧妙だ。計画的で破綻がない。でも、決して相手に不快な印象を与えない。適材適所にうまくブレーンを配置して確実に目的を遂げるのだ。そして全てシナリオ通りに丸く収まってしまう。うまく生きてゆくコツを知っている。ツボを心得ている。そして金と力を持っている。だからこそｋにとっては実にありがたい存在であった。
ｋは歌いながらスキップしながら魑魅魍魎が跋扈するこの薄汚れた街に飛び出していった。かつて青かった空は灰色にくすみ、人々が吐く息は黄色かった。路地裏には犬の死骸や生ゴミが放置されてイヤな匂いを放っていた。様々な人が様々な思いを抱えながら様々なステップで様々な目的地へと足を運んでいった。リアルで薄汚れた世界。とらえどころのない大きな流れの中で人はしだいに丸くなって角を落としながら転がっていた。ｋを取り囲むこの社会、抗うことのできないような大きな流れの中で、ｋはいつでも少しだけ違和感を感じていた。でも、いいのだ。足で稼ぐのだ。独自の理論を応用するのだ。素振り。そう、とにかく素振りを続けることだ。いつかヒットする時が来る。流れなんて関係ない。
まずは依頼人の家の家宅捜査から始めることにした。行方不明者の身辺を洗うことが先決だと考えた。
その前に依頼人の入院する総合病院に寄っていって、詳しい話を聞いて、家宅捜査の許可を得ようかと思った。お見舞いには何がいいんだろうと、考えながらとぼとぼ病院へ続くポプラ並木の歩道を歩いていった。背後からやってきた救急車がｋを追い抜いていった。
次々と救急車がやってくるような、とても繁盛している大きな総合病院だった。そこの院長はかなりのやり手と噂されていた。ＴＶにも出演し、何たらの保護団体とか何たらを愛する会とかの理事を掛け持ちでやっていたりと大忙しな男だった。政治家とのつながりもあった。財界にもパイプがあった。
でも、数々の疑惑もささやかれていた。不穏当な金の流れ、おきまりの事だった。力あるものに汚い金は集まり、そして、さらにその汚れた力が倍増されていく。
留まることを知らない、だれも手を着けようとしない、だから、何も変わらない。
ｋはそういったことに興味は無かった。政治にも司法にも何の期待も寄せていなかった。この世の中で「正義」なんて言葉は時代遅れの幻想に過ぎない。そんなものに期待をするから失望するのだ。金が欲しいヤツはせっせと金をあつめりゃいいんだ。ｋはこの薄汚れた街の片隅で、ささやかな幸せを欲している者達にささやかな救いの手をさしのべてあげる、ソレこそがオレのやるべき仕事なんだ、ソレこそがオレにとってのリアルな「正義」というやつだ、と、ソレがオレの宿命さ、と考えながら足早に歩いていたら、病院の入り口の閉まっている透明の自動ドアに気が付かずに思いっきり顔をぶつけてしまい、そこに倒れてしまった。そしてついでに倒れた拍子に地面に後頭部をぶつけてしまった。うう。遠のく意識の中でもｋは自らの美学を失わなかった。気を失いながらニヒルに笑った。
（気絶中のｋの夢）
気絶していても夢は見るんだなって、のんきなことを考えながら、ｋはものすごく大きな部屋の中にいた。そこは、冷たく暗く湿っぽくて埃の匂いがしていた。コンクリートの打ちっ放しの部屋で、家具なんて何一つ無く照明器具もない。四方の壁には２、２、２、１の配置で、７つの扉があった。でも、ｋの手元には鍵は６個しかなかった。なるほど、と思った。一つ足らない。これは福島の叔父の人脈と財源とを利用して、何とかこじ開けてねじ込むしかないな、と、考えていたら、「その鍵束は私のモノだ」と声がして、振り返ると、総合病院の院長がいた。彼が手を差し出して「返せ」という。でも、そこには何だかとっても、取り返しがつかないくらいのイケなさが存在しているような気がして、いやだ、って首を振って拒否をしたら、院長は「お前は無力だ」と言った。「お前には何もできない、扉を開けることすら出来ない、ここから向こうへは行けない、ここで留まるしかない」でも、そういいながら院長の顔が次第にぐちゃぐちゃにぶっ壊れていって、そしてまた別な顔へと形作られていった。壊れてから再生されるまでものすごい時間がかかった。そして、見たこともない顔の男があらわれた、ヒゲ面で、目がイっていた。「これは夢のようで夢ではない。ある種の交信の一種だ。少し混信している、本来はこれは君宛のメッセージではない、しかし、今となってはそれもどうでもいいことだ。君も充分に巻き込まれるといい。私は逃げも隠れもしない。ここで君たちが来るのをじっと待っている」その男はいった。君たち……ってどういう意味だ。白い建物の中で、その男が微笑んでいた。「せいぜい気をつけることだ。生きてここまでたどり着けることを祈るよ」そして男は消えた。そして目が覚めた。
目を覚ますとｋは病室の白いベッド中にいた。天井の染みが目に付いた。
そんなｋに気が付かず看護婦が２人で立ち話をしていた。いつでもどこでも立ち話をしたい年頃なのだ。
「ねえ、ねえ、ねえ、聞いた？これで６人目らしいよ。失踪。夫に逃げられた妊婦さん。可哀想ねー。でもさ、最近の男ってひどく無責任じゃない？妊婦残して家出なんてさ。でもさ、自殺されるよりマシよね。あの時もひどかったね。Ｍ坂さん、奥さんの出産の日に夫が自殺。ひどい話よねえ。あれから続いたね、出産日の夫の自殺。でも、あんまし話題にならなかったね。週刊誌とかワイドショーとか、いいネタなのに。あの頃５人くらい立て続けに死んだのにさー。でもね、院長が動いたって話だよ。いろんな方面に働きかけて圧力かけたって。だって、まずいじゃん。イメージがさ。ウチの病院の患者さんばっかしだもんね。こわいねえ。何かあんのかな。ここ」
笑いながらするような内容の話ではないようだったけど、彼女らは屈託なく笑っていた。
ｋはベッドの中で身を固くしたまま、アタマを働かせ、次に動かすべき駒を選んでいた。院長、ピザ屋、６人の妊婦（うち１人は依頼人）。まずは妊婦だ。ｋは目を閉じ、深呼吸をした。