妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−３．白い螺旋階段
次の日の朝、かおるの元にまたしても奇妙な一通の手紙が届いた。今度は何の躊躇もせず、差出人や宛名さえも見ずに封を開けて中身を見た。
「白い螺旋階段を昇っている自分を想像してごらん？」
ひどくぞんざいな文字で、その一言だけが書き記してあった。筆跡に見覚えもなかったし、昨日の手紙とはあきらかに共通項がまったくなかった。便せんも筆跡もインクの色もことごとく違っていたし、それに、何と言っても、その手紙が持つエネルギーというか、文面に潜む「意志」みたいなものが、違っているような気がしたのだ。
昨日の手紙には明らかに、悪意、敵意みたいなモノが感じられたのだが、今日の手紙には、何というか、同情とか憐れみ、というか、救いの手、みたいなものが感じられるのだ。理由は説明できない、けど、かおるには敏感に感じ取れることができた。
しかし、意味がまったくわからない。かおるは必死になって考えてみたけれども、どうしてもよくワカラナかった。なぞなぞ、それとも何かの暗号なのかしら？
かおるは昨日の晩から今朝にかけて、夫の行方を探すために方々に電話しまくってひんしゅくと同情を同時に買いながらも（身重の彼女にはそれくらいのことしかできなかった）、何の手がかりも見つからなかった。そして、ただ、深刻な、悲しみとあせりだけが募っていった。そんなときにまた妙な手紙が来たものだから、杉崎かおるは、藁をもすがりつくような気持ちで、この手紙にすがりついたのだった。この手紙をポストで見つけたときには、胸がどきどきした。
よくわからない本文をあきらめて、我に返ったかおるは、封筒の裏側を確認してみた。昨日の手紙と違って今度の手紙には差出人の名前だけが書いてあった。
「ノマ・リュウジ」
見たことも聞いたこともない名前だった。かおるの夫は、そんなに交友関係が広い方じゃなかったので、ほとんどの知り合いの顔と名前は一致する。
でも、考えてみると、これは「私宛に書かれた手紙」なのだ。過去をさかのぼって考えてみても、かおるの知り合いにそんな名を持つ男は一人もいなかった。単なるイタズラにしてはタイミングが良すぎる。
きっとこれは何らかの意味を持つ手紙なのだ、それも夫の失踪に関係のある何らかの意味を。
かおるは直感的にそう感じた。
かおるは混乱するアタマで、言われたとおりにするしかないな、と考え、「白い螺旋階段」を想像してみたけれども、うまくイメージが掴めなかった。
昨晩は一睡もできなかったし、何もノドに通らなかった。お腹の中の赤ちゃんのために、と思ってみても、すっかりこわばってしまった胃は人肌に温めた牛乳さえも受け入れてはくれなかった。
どうすればいいんだろう？
そんなことを考えながら悲しみに沈んでいると、突然、鈍い痛みがかおるの下腹部を襲った。
ああ、私の赤ちゃん、パパが、パパが、ああ、あなた、お願い、帰ってきて。
何か私に至らないところがあったのなら誠心誠意謝りますから。何でも話し合って、２人で解決しましょうヨ。私たち、「夫婦」なんだし、もうすぐ赤ちゃんが産まれ、３人になって、「家族」になるんだから。
かおるが痛みをこらえ歯を食いしばりながらも意を決して、警察へ電話しようと立ち上がりかけたところへ、タイミング良く、けたたましい電話のベルが鳴った。
その不快な音を耳にしたとたん、かおるは息が詰まりそうになって、アタマがクラクラした。受話器に手を伸ばそうとしても、うまくいかない。
ああ、私は気を失いかけている、だけど、この電話を取らなければ、あの人は、あの人は、一生私の元へは帰ってこないような、そんな気がして、手を……。
杉崎かおるは自分のお腹をかばうようにしながらその場で気を失ってしまった。不快な、正体不明の電話の呼び出し音は１５回鳴ったところで前触れもなく突然に途切れてしまった。
そして、家の中にかってないほどの静寂が訪れた。
（かおるの気絶中の夢）
気絶しても夢をみるんだわ、なんてのんきなことを考えながら、かおるは白い螺旋階段をぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる一段一段、確実に一歩一歩、ひとりきりで登っていた。ここはどこかしら、なんてことは考えはしなかったけど、最初からわかっているのだ、と、でも、今はただ単に忘れてしまっているだけなんだワ、そうよ、そうなのよ。てっぺんにいけば、楽になれるんだ、でもかおるは全裸で、お腹は実際よりももっと大きくでっぱっていたし、性器の辺りが少し熱を帯びていた。もうすぐ産まれるのだから、ね、私の赤ちゃん、パパはね、パパは、もうすぐ死んでしまうから、え、死んでしまう？そんなバカな、何をいってんだろ、ワタシ。あの人はちゃんと生きています。私は知っています。この螺旋階段の頂点には、アノヒトがいるということを。いつものやさしい笑顔で迎えてくれるということを。螺旋階段をのぼっていると、そのうち気付き出す、白い壁面に１回転に１文字ずつの割合で、かおる宛のメッセージが黒いペンキ書いてあって、こういう風に「そ、の、カ、ギ、は、７、つ……」そしてその後に……。
かおるが眼を覚ますとそこは病室だった。
傍らにはかおるの両親がいた。かおるは母親の顔を見た途端に、今までたまっていたモノが勢いよく流れ出ていくかのように突然激しく泣き出した。とても深いところから、全ての悲しみや怒りを吐き出すかのように泣いた。
かおるの母は、彼女のアタマを優しくなでてくれた。
体内に鬱積した全ての感情を涙と、激しい嗚咽と共に吐き出し続けていると、自分の意識がだんだん時間を逆行していくような感覚に襲われはじめた。実際にかおるは急速に自分の成長を逆行して第三者の目で辿っていった。
かおるの脳裏では「いつか見た情景」が時代順に逆回転していって、ビデオ・テープのように簡単に巻き戻っていった。結婚〜成人式〜初体験〜高校の卒業式〜高校受験〜中学時代〜小学生〜幼稚園〜幼児〜乳児〜出産……そして、かおるの意識、思考、感覚、と、胎児の意識、思考、感覚が一体化した瞬間に、突然涙が止まった。
お腹の中の赤ん坊がその短い手と足で、まるで起きがけに思いっきり伸びをしたみたいに、ナイーブでナーバスな子宮の壁を押しのけようとしたのだ。
そして赤ん坊が笑った。満面の笑みを浮かべて。かおるには手に取るようにわかった。
泣いてなんていられない。かおるはそう思った。涙でびしょびしょに濡れたほほをスヌーピーのパジャマの袖できれいにぬぐい取って、かおるは背筋を伸ばして顔をしゃんとあげた。かおるの母は少し安心した表情で、大丈夫だから、あなたは何も悩まないでいいから、と、根拠の希薄な慰めの言葉をかけた。
かおるは頷いた。
今はとにかくそうするしかないのだ。
かおるの母が林檎の皮を剥いてくれた。甘酸っぱい匂いが病室に立ちこめた。そういえばお腹が空いた。
かおるはお腹の赤ん坊に、ごめんね、と、謝った。突き出たお腹を優しくなでながら、ママがしっかりしなくちゃネ、と呟いた。
林檎の皮を剥く手を止めて母がぽつりと言った。
「そういえば」
かおるの父は病室の窓際に立ち、外の風景を、これといった目的もなしに眺めていた。
「あなたが眠っている間に、こういう人が訪ねてきたのよ」
鋭利な果物ナイフを右手に持ちながらかおるの母は白いよそ行きのブラウスの胸のポケットから一枚の名刺を左手で取り出して、かおるの前に差し出した。
「私立探偵 山崎ｋ」
「あなたが落ち着いた頃に又来るって言っていたわ」
かおるの父は心配そうな表情でかおるの方に向き直った。
私立探偵……。
かおるはポツリと呟いた。まるでＴＶドラマみたいだわ、と思った。又少しだけ不安になったけれども、あれだけ泣いた後だったから、それほどの動揺とか衝撃とかはなかった。もう、何が起こったって不思議じゃないわ、と、半ばあきらめにも似た感情が、彼女の全身−お腹の中の赤ん坊を含めて−を包み込んだ。
母は何も聞いてこなかったし何も言わなかった。父は「Ｔ助君は……」と、夫の名を言いかけて、止めた。両親にはわかっていた。何も言わなくても、自分たちの大事な娘と、まだ見ぬ孫が、何らかのトラブルに巻き込まれたのだということを悟っていた。父は病院に来る前にかおるの夫の会社に電話を入れていたのだった。
かおるの家に訪れる予定であった友人が（かおるはすっかり忘れていたのだが）事前に電話を入れた際、電話口にだれも出てこないのを不審がり（時期が時期だけにと友人は後に語っていた）かおるの実家に電話を入れてから駆けつけてみると、案の定、かおるは居間のソファの上でぶっ倒れていたので、ひとりできゃあきゃあ言いながら救急車を呼んだのだった。
友人はかおるの夫の電話番号を知らなかったので（母子手帳に書き記してあったのに気付かなかった）、かおるの父親が代行したのだった。
なぜ、私立探偵が、どこから、どういう風にそうなったのか、アタマの中の整理がつかなかった。とても長い眠りから覚めたら、いままでよく知っていたはずの世界が、すっかり変わってしまったような錯覚に陥った。
母が「ケーサツには……」と、言いかけて止めた。
皮を剥ぎ取られて、素っ裸になったリンゴが、母親の左手の中で寒そうにたたずんでいた。かおるはそんな光景を見るとはなしに眺めながら、さっき見た夢の中の光景を思い出そうと必死になっていたけれども、涙と一緒に全てが流れ去っていってしまったようで、どうにもうまくいかなかった。
何だかとても重要な夢だったような気がしてならないんだけど……。