妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−２．杉崎かおるの悩み
杉崎かおる（２７歳）は、臨月を迎えて更に重たくなったお腹に辟易しつつも、普通だったら初めての子供をお腹の中に宿しているといった充実感、満足感、そんな平穏で平凡な幸福を充分にかみしめていてもいいはずの頃に、ワケあって、独りきりで言いしれぬ不安を抱いていたのだった。
お腹の中の子供の成長は順調だし、夫の両親もうざったくならない程度にやってきては適度に優しくしてくれたし、長く苦しかったＯＬ時代にも別れを告げてからの８ヶ月間、激しい悪阻に負けそうになった期間はあるものの、全般的にとてもおだやかでのんびりとした時を過ごしてきた。
妊娠してからというものの夫はいつもよりも更にやさしくなって、洗い物とか、掃除とか、夕飯の支度とかを積極的にやってくれるし、いつでも彼女を気遣ってくれた。
でも、以前と比べて、夫が、何だか少し、変わってしまったような気がしていた。
何かが違うのだ。
最初は夫が性交渉の断絶状態に耐えかねて、若い女と浮気でもしているんじゃないかと勘ぐってもみた。
しかし、あの人に限って・・・あり得ない。
そんなに器用な人間じゃないって事は、彼女が一番知っていた。２つも３つもの顔を使い分けるなんてことはできない。すぐに顔に現れる質だから。それに、お小遣いだって一ヶ月に１万円ぽっきりだからホテルにさえいけないし、食事にだって誘えない。ルックスでもてるタイプじゃないから、ある程度のお金をつぎこまなきゃ今時の女の子は着いてなんかこない。まず、浮気って事はあり得ない。
でも、時折見せるあの表情、何か遠くを見ているような定まらない視点、これまでの５年間、一緒に暮らしてきたけれども、一度だって見たことの無かった表情、ものすごくぼんやりしていて、何を話しかけてもすぐには答えが返ってこなかったり……仕事の失敗、それとも借金とか、何らかのトラブルに巻き込まれたのかもしれない。それとも、単に「父親」になるという事実にたいする戸惑いとか。
いや、何かが違う。
全ては謎に包まれていて、杉崎かおるは何だかとっても怖かった。そう、何だか怖くって、夫に向かって直接問いただすことができなかった。こんな時に、そう、何かとんでもないことが露呈したら、それ故の精神的な動揺が胎児に悪影響を及ぼすに違いない、できるなら……、このまま……、こたえを……、さきおくりに……、と考えていた矢先のことだった。
ある日の午後、杉崎かおるはポストの中に一通の奇妙な封書が他の郵便物に紛れ込んでいることに気付いた。夫あての、差出人名の記載のない粗末で薄っぺらな茶封筒だった。
かおるは少しためらった。前に一度、夫あての手紙を勝手に開封して、ひどく怒られた事があったからだ。その時の手紙は本当に何でもない、かおるもよく知っている夫の友人からのもので、内容も単なる近況報告に過ぎなかったのに、ヤケにムキになって、かおるの事を思いっきり怒鳴ったりした。
その時は確かに自分も悪かったと思ったけれども、夫婦なんだからいいじゃない、という甘えもあった。だから、そんな夫の態度にひどく驚き、それからというもの、彼宛の封書には一切手を触れずにいた。それが例えどんなに明らかにツマンないダイレクト・メールの類であったとしても。
でも今日ばかりは、と思った。胸騒ぎがするし、この中にきっと、最近の夫に対する疑問や、彼が抱えているトラブルとか、とにかく現在、彼の置かれている状態を把握し理解し、その手助けをするための、何らかのカギみたいなものが隠されているかもしれない、と思った。これは、興味本位の行動なのではなく、夫を愛するが故の勇気ある行動なのだ、と自分に言い聞かせた。
昼下がりの家の中にはかおる以外に誰もいるわけないのに、開封するときに何故かあたりを見回してしまった。そんな自分をかおるは「ちょっとかわいい」と思ったりもした。胸がドキドキして、お腹の中の子供も少し動いたような気がした。
震える指先で封を破って、中から一枚の便せんを取り出した。
白い上質な香り付きの便せんの中央に書き殴ったような雑で大きな文字で
「単調な回転からの離脱」
とだけ書いてあった。青い水性のサインペンで書いてあって、端っこの方が少しだけ滲んでいた。
かおるは何が何だか解らなかったけれども、妙な、得体の知れない不安と恐怖とが入り混じったような感情が彼女の全身を襲い、真っ直ぐに立っていられないような気がしてきて、実際にその場に座り込んでしまった。
「何かある」
汗をかき始めたかおるはお腹を右手で優しくなでながら、不安におののく自分自身を落ち着かせるため擬似的にお腹の中の胎児に言い聞かせていた。
しかし意識はそこからうんと遠いところへと離れていき、彼女は視線を宙に泳がしていた。
かおるの不安は的中した。
その夜、夫は家に帰ってこなかった。