妊婦の冒険 sideＡ
Ａ−１．事の始まり
とても寒い冬のある朝の出来事。
Ｍ坂Ｋ太郎（２７歳）は、自分の初めての子供が病院の分娩室で元気のいい産声を上げた頃、営団地下鉄Ｍ駅上り線のプラットホームに入ってきた電車に勢いよく飛び込んで、あっさりと自らの命を絶ってしまった。
時は８：０６：３４、まさに通勤ラッシュ・アワーの真っ最中、この事故の影響により、約３５００人程の従順なるサラリーマン連は完全なる足止めをくらい、立ち往生をしてしまった。
Ｍ駅以北の各駅に停車中の電車の客は、すぐに車両を飛び出し、切符を精算したり、駅前のタクシー乗り場に殺到したり、または営団側が特別にチャーターした移送バスなどを利用して、なんとしても絶対的な「通勤」を続行しようとした。
しかし、悲惨なのは駅と駅との間の線路の上で緊急停車を余儀なくされてしまった車両に残された人々だった。
彼らはひたすら車内のアナウンスに耳をかたむけ、落ち着こうとしながらも、次第に落ち着きを失っていき、さらには少しずつじわじわと狂気めいた混乱をいらっしゃいませとばかりに招き入れ、爆発の臨界点ぎりぎり一杯のところで何とか持ちこたえようと必死になっていた。
満員電車の中はその日もやっぱり超スシ詰めで、２２０％以上の乗車率で詰め込まれた車両のそこいらじゅうで、しがない中年男の哀愁のためいきやら、内向的な苛立ちの一表現としての舌打ち、堪え性のない衝動的な罵声、より原始的な本能に基づく口げんかなんかが雨後のたけのこ、いや、じめじめ湿気の中の森のキノコのごとく自然発生しはじめ、ワケもなく大声を挙げる人や誰彼構わず因縁を付ける人、ダンマリをきめこむ人から、笑い出す人までもいた。
やがて、ものすごく短気で、会社に対する忠誠心の厚い人が窓から線路に飛び降り、うすぐらい蛍光灯の光をたよりに躓きながらも、半分手探り状態で、歩いてまでもそれでも通勤先へ向かって行こうとする、その姿はまさに感動的ですらあった。
混乱が混乱を招き、各駅の窓口には、商談に遅れてせっかくの大きな契約がフイになってしまったので、その責任をとってくれとやけに真剣な眼差しで、責任の所在を他の場所へ求めようとしながらもはっきりした態度を決めかねているあやふやな受け答えしかできない定年間近の駅長につめよるセールス・マンや、今日もこのまま遅刻したら陰険でカマキリみたいな数学教師に折檻されるといって取り付く島もないくらいに泣きじゃくる女子高生や、イヤミな鼻毛ハミダシ上司がこの遅刻を理由に世にもイヤらしい顔でベッドを強要するから何とかしてとあわてるＯＬたちでごった返していた。
営団側の被害は、もちろん臨時バスや乗客への払い戻し、苦情処理の人件費、それに、死体の処理、もちろん、単なる肉片と化してしまったＭ坂氏のもの、その他清掃費用、朝の見込み収入分等、総額にして２３００万円にも達し、係員は酔っぱらい以上に質の悪い数限りない被害者たちの対応に追われ、乗客の誰もが自分の身を守るため、自分の遅刻の穴埋めの方法と上司や教師への言い訳のシナリオ・チェックに追われていた。
そんな風に、誰もが「Ｍ坂Ｋ太郎の死」という客観的事実、実に重たい人命という概念、そんなものを、完全に意識の外へと放り出し、単なる「はためーわくな事件」に運悪く巻き込まれてしまった己の運命を哀れんでいるだけだった。
混乱も多少落ち着いた事件発生から１時間３２分経った頃、ようやく現場に警察官やら検死官やらが数名やってきて、Ｍ坂Ｋ太郎の遺留品や死体のかけらなんかを丹念にいじくり回しては、彼の死に、公表してもそれらしくでっち上げれるような、ある程度の意味をもたせようとしていたみたいだけれども、それは完全に失敗におわった。遺書すら発見されなかった。もちろん、電車に飛び込んで自殺するのに遺書を身につけるモノもいないだろう。後に彼の自宅からもそれらしきものは出てはこなかったけれども、状況から判断しても、何一つ怪しむ余地もない単なる衝動的な「自殺」であると考えても差し支えないように思われた。全ての証人の証言は見事に一致したし、絵に描いたように平凡な彼を殺したとしても何のメリットもなさそうであったので、殺人事件とは考えにくかったし、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性もなきにしもあらずだったけど、たぶんその線も薄そうだった。
そんな風に、彼が残したモノなんてほとんどなかったけれども、ヒゲのそり残しだけはひどかった。顎の部分の肉片が完全な形で残されていたのでそんなことが注目の的となった。後の調査で判明したことだけども、同僚や会社の上司は「彼は会社に来るときにはいつだってヒゲをそり残す事なんてありえなかった」と口をそろえて証言していた。
何故、Ｍ坂Ｋ太郎はその日の朝に限ってヒゲをそり残したのか？当然の事ながら、警察当局はそんなことには全然気にも留めてはいなかったみたいだ。
誰かがささやいた。
「ただ単にあわてていただけなんだろう」
別の誰かがささやいた。
「でも、一体、何故、そんなにあわてていたんだろう？」
「いつもとちっとも変わらぬ朝に」
いや、いつもと変わらぬ朝だったからこそ誰もが皆あわてていたのかも知れない。
彼も又そうだっただけなのかもしれない。
でも、それ以前になぜ、そんな日を選んで死んだのか。本来だったら苦しむ妻に付き添い、我が子が生まれる感動的な体験を味わうべき特別な思い出に変わるであろう貴重な日の朝に限って。
当然のことながら、警察はそんな些細でナイーブな問題に触れることもなく、特に思い切って突っ込んだ調査もせずに、簡単にオーバーワークによるノイローゼが原因の「自殺」という烙印をおしただけだった。
出産を終えた彼の妻の元へとその悲しい知らせが届いたのは、事件発生から既に１２時間が経過した夜の８：１５だった。
彼女は３０７号病室で横たわったまま、長かったお産の苦しみを乗り越えたという満足感と疲労感と、我が子の誕生という事実への感動の中で静かにまどろんでいる時だった。
青い顔をした看護婦が彼女の共同病室の白い仕切カーテンをためらいがちに開いた瞬間、彼女は「何か大変なことが起きたのだ」と悟った。
新生児室にいる自分の赤ん坊の身の上にとんでもないことが起こったんだと考えた彼女は、産後の局部のイタみも忘れ、無理に身を起こして看護婦の次の言葉を待った。
しかし、意外な、あまりにも意外なその知らせに彼女は一瞬空白になった。
もういちどあまり回転しない鈍いアタマの中で、看護婦の言葉をくりかえしてみた。
「アノヒトガシンダ」
全然実感できなかった。
リアルさがどこにも無かった。
分娩室での出来事、激しかった陣痛、赤ん坊の産声、夫の顔、いくつものイメージの断片が交互にアタマの中に現れては消えていった。
彼女はそのまま意識を失ってしまった。
新生児室で横たわっている彼らの赤ん坊は静かに眠っていた。
男の子だったから、「哲太」という名前に決められていたけれども、当然ながらまだ出生届けは出されてはいないから法的には名無しのままの彼は、何か夢みたいなモノでも見ていたのかも知れない、まるで何事もなかったかのように、静かに寝言めいた柔らかなうめき声を何度も上げていた。
病院の中は、いつもと変わりなく、おだやかで見るからに清潔そうな静けさに包まれていた。
そう、いつもと変わらぬ夜の中で、全ての妊婦と、新生児と、出産を終えた母親達は平凡な眠りに導かれていった。
これからこの幸せに満ちた妊婦達の身の上に突如ふりかかる一連の事件を予想し得るモノは、もちろん誰一人としていなかった。
Ｍ坂Ｋ太郎の自殺は、こうして新聞にもＴＶのワイドショーにも取り上げられることもなく、たぶんそのまま時と共に風化されていくだろうと予想される類の出来事であった。
「ある若きサラリーマンのノイローゼによる自殺」。
しかし、このありきたりでオーソドックスなスタイルの小さな惨事は、単なる「事の始まり」でしかなかったのだ。
次の日の朝にまた、一人の男が薬物による自殺を遂げた。