−目次−
１．ヤチダ先生と封じ込めてきた言葉
２．あの夏の日、見知らぬ誰かからの電話
３．ノマ・リュウジについて、ホラ穴の中を裸足でいるという事
４．妊婦からの電話、闇の中の単調な回転
５．ヤマモト・レイカとナガツダ・レイコ
６．ノマ・リュウジからの手紙
７．ヤマモトさんとカワマツさん
８．カサハラ・タケシ登場
９．引継の意味と二人の女
１０．闇の中の単調な大回転
１．ヤチダ先生と封じ込めてきた言葉
この一連の不可思議な出来事を通して、僕は嫌でも自分の「原点」とか「起源」みたいなものについて考えさせられることとなった。一体、僕という人間がどこからやってきたのか、という何だかガラにも無く素人哲学的な発想に基づいて、自分という人間の「なりたち」みたいなもの意識せざるを得なかった。あらゆる手段と方法をもって自らのゲームの駒を前に進めようとしても、気が付けば結局、「ふりだし」に戻ってしまう、何処にも行けずに、何度も同じループを巡り続け、見飽きた風景を何度も見るハメになる。仕方がない。最初っからきまっていたのだから。これから先の人生においても、その教訓を生かし、無駄な抵抗や行動や希望や努力や根回しや検討や対策やお金を積むことや頼み事なんか止めた方がいい。どうやったって何も変わらないんだから。
全ては、１９８３年に始まっていたのだ。そして、そこから一歩だって前進なんかしていなかったのだ。僕が高校の２年生だった年、初めての恋らしい恋は、彼女とキスすらすることもなく一瞬のうちに弾け飛んでしまったけど、粋な彼女の影響で、それまで日本の歌謡曲とかニュー・ミュージックしか知らなかった僕は、いきなりビルボード・ミュージックに傾倒し始めたのだった。
１９８３年といえば、マイケル・ジャクソンが「スリラー」でグラミーを受賞して、ポリスが「見つめていたい」をヒットさせた年だ。マドンナもデビューして、ホール＆オーツ、メン・アット・ワークや「フラッシュダンス」のサントラが流行った年だ。僕は彼女にフられた寂しさと惨めさと空しさを紛らわすため、深夜のＦＭ放送のアメリカン・トップ４０を聞きながら、時折思い出したように涙なんて流していた（ガラにもなく・・・）。
そんな風に、僕がもっとも多感であった時期に遭遇したあの出来事とあの言葉とによって、僕という人間の、将来の方向性は決定づけられ、レールは敷かれたのだった、まるで見えない力によって。
そして、それからの僕はといえば、ただそのレールの上をなめらかに滑っていくだけのことだった。全てが仕組まれていたにも関わらず、そんなこと気付きもしないままに。
結局、小さな箱庭の中で、決められた通りに呼吸をし、決められた通りに手足を動かしているだけだったのだ。言い換えるなら、大昔からすでに決められていた事柄を、それと気付かずに何度も何度もなで回しているだけのことだった。
それは突然の出来事だったし、その時はその意味さえもよく理解していなかったし、だって、まさか、ねえ。そしてその後も、その言葉をずっと引きずりながら生きてきたわけでもなかった。
あの、一連の不可思議な事件が起こるまで、僕は半ば意識的にその言葉を心の片隅に封じ込めてきたのかもしれない。
あれは忘れもしない、僕が確か高校２年生の時だった。それは２学期の『代数幾何』の中間テストの答案を返された時の事だった。僕はたまたま、とても運悪く、「０点」という結果を招いてしまった。試験当日、大変な寝不足だったし、やる気もなかった。寝不足の原因ははっきりとは覚えていないけど、恐らく前日の夜遅くまで「ジミヘン」か「ニール・ヤング」か「ジャニス」とか「ドアーズ」のレコードでも聞き狂っていたのだろう。そういった、まるで「はしか」みたいな熱に浮かされていた季節だった。やる気が無いのは生まれ付きだった。もう、取り返しの着かないことだった。
とにかく０点は初めてだった。誰もが点を出来るだけ多く取ろうと試みている時期だった。誰もが、うっすらと自分の将来の目的みたいなものをイメージし始めていて、それが本当にイイのか悪いのかわからないけれど、とりあえず、それに向かって歩けもしないのに走ろうとしていた時だった。
僕だけは違っていた。ということは、僕だけがそんな時流に乗り遅れていた。先生が一人一人の点数を読み上げながら、答案を手渡しで返却していた。新任の、見た目ガッツ溢れる教師だった。白い歯がキラリと光っていて女生徒にも人気があった。名字は確か「ヤチダ」といった。どういう字を書くのかまでは覚えていないし、名前の方も覚えてはいない。
「ヤチダ」先生が僕の、とっても恥ずかしい点数を、歯切れ良く大きな声で発表し、教室中のみんなが少し戸惑いがちにどよめく中、僕はあえて正々堂々と立ち上がり「ヤチダ」の前に歩み出た。彼はニコリともせず、僕に０点の答案を手渡しながらポツリ、「君は世捨人だからな…」と呟いた。
僕はその時、その言葉自体の意味がわからなかったし、そこにどのような深い意味が込められているのかもワカラナカッタ。
一瞬の沈黙が広い教室に訪れ、その直後に僕の人生の流れみたいなモノが確実に変わったのだ。まず、最前列に座っていた同級生の一人がクスクス笑い出し、そして、そのクスクス笑いが教室中に静かに伝染していった。
やがて、万を辞して「ヤチダ」が大声で笑い出し、同級生達もそれにつられて大声で笑い出した。
僕一人だけが笑っていなかった。
もちろん、笑えやしなかった。そして、その笑い声の洪水の中で僕は漠然と、確か、こう感じていたんだと思う。
「これから先ずっと、僕がこういった笑いの輪の中に入ることはないんだ」と。
そして、「世捨人」。この言葉が僕の心の深部に巣くって隠れた。
忘れもしない、１９８３年のことだった。
２．あの夏の日、見知らぬ誰かからの電話
就職活動には身が入らなかった。あと半年もすれば、ツマラン大学を卒業して、嫌でもやっぱりツマラン社会の一員とならなければならないのだ。
１９８８年、この夏は、のっけからとても暑かった。スーツなど着ていられない、Ｔシャツと短パンで面接が受けれるような会社があれば良いのにと、半ば本気で考えていた。
毎度同じような質問をされ、同じように答えて、今更の学科試験をして、クレペリン検査をして…。ああ、もう、イイ加減にして欲しかった。僕の、こんないい加減な気持ちを察してか、僕たち学生にとっては、かつてないほどの売り手市場でありながらも、どこの会社も僕には良い返事をしてはくれなかった。
そりゃ、仕方がない。当然といえば当然だ。こんな僕、例え僕が試験官であっても、多分、落とすだろう。見るからにやる気がない、覇気がない。何を考えているのかワカラナイ、そんなヤツ。
いわゆる社会に対応する能力を欠いた僕という人間を、世の中がいらないというのならば、それでも結構。僕もこんな世の中に何の未練もない。僕はもう、そんな投げやりな気持ちでいた。
そんなとき、僕のアパートの粗末な郵便受けに１通の封書が舞い込んできた。何の変哲もない茶色の事務封筒にワープロの文字で僕の住所と僕の名前が打ってあった。ちゃんと切手も貼ってあったけれども裏面には差出人の記名が無かった。
この時期、かなり多くの求人ＤＭが郵送されてはくるけれども、こんなに雑で、見るからにチープなＤＭは他には無かった。今時、茶封筒はないだろう。簡単にあっけなく捨てられてしまうような類いの封筒だった。
僕もやはり何も考えず中身も見ずにそのままゴミ箱に捨ててしまった。そして、いつものように冷蔵庫からビールを取り出してグイッと飲みながら、ＴＶで夕方のニュースをみているところだった。
そして、電話がなった。
最近、僕の就職活動状況が気になって仕方がないのか、田舎の両親からの電話が多くなった。僕じゃなくて、まるで親の方が就職するみたいだ。僕は、またか、と思いながら、とっても面倒臭そうに受話器を持ち上げて、耳に当てた。
予想に反して、全く聞き覚えのない年齢不詳の男の声が、ふいに耳に飛び込んできた。恐らく、就職に関するテレホン・アポインターの類いだろうと思った。適当な返事をしてやろう。
「ミズシマ・タカシ君ですね」男が言った。
「ああ、そうですけど…。どちら様ですか」とぼけた声の僕。
「封筒の中身は見て戴けたでしょうか」 中堅どころのあまり売れそうにない舞台俳優サンみたいな、何だかシブいんだけどマニアックな声の持ち主だった。映画の吹き替えの声優にもなれそうだった。中年の刑事とか探偵とかの役どころがイイ感じ。
「今日あたり、お宅に着くと思うのですが。茶色い事務封筒です。届いていませんでしょうか」……なるほどあれか、
「ちょっと、待って下さい」
単なる好奇心で、僕はゴミ箱からさっきの封筒を引っ張り出してきた。
「すいません、差出人が不明だったものですからつい捨ててしまって、まだ中身を拝見していないのですが…」男は僕の言葉を最後まで聞かずに口を挾んできた。
「ええ…あなたの友人のノマ・リュウジさんから御紹介いただきまして、大変失礼とは存じながら、色々とあなたのことを調べさせて戴きました…」
えっ…ノマ・リュウジ？ 色々、調べた？ ちょっと、待って。一体、どういうことだ、何の話だ…。
「…あなたにとっても、私共にとっても大変有益な話だと思われますので、是非とも御協力をお願いしたい。詳しくはこちらの事務所に来ていただいてからと言うことで。その封筒の中に事務所の所在地と面接日時、当会の簡単な解説パンフレットが同封されています。あなたにぴったりのライフ・プランニングを用意したつもりですので、とにかく一度お話だけでも…是非…」
ノマ・リュウジ？ 本当にあの、ノマ・リュウジなのか…。頭が混乱してきた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。中身を見てみないことには何とも…」
既に電話は切れていた。かなり一方的な電話だった。かなり不躾で信憑性もまるで無い、とてもうさん臭い電話だった。普通だったら、こんな電話は気にも留めずに、封筒の中身も見ずに捨ててしまうところだけど、しかし、そういう訳にはいかなかった。そう、…またしても、ノマ・リュウジだ……。
３．ノマ・リュウジについて、ホラ穴の中を裸足でいるという事
ノマ・リュウジは、僕の高校時代の同級生で、高校３年の夏休み明けに転校してきた色白の、とてもおとなしい男だった。僕のクラスに転入してきてから暫くして、彼が同性愛者だという根も葉も節操も無い噂が校内を駆け巡り、しかもその相手がこの僕だという、あまり有難くもないオマケまでくっ付いてしまったのだ。
確かに彼と僕とは音楽の趣味が合ったりして、すぐに仲良くなり、互いの家に行き来もした。が、実際、彼は一度も僕の肉体を要求してきたりしたことはなかった。
しかし、その噂はかなり深刻なものとなり、２人そろって学校の教師にまで呼び出され、事の真偽を問い正されたりもした。何でこんなことで呼び出されたりするのかうまく理解できなかったし、高３のこの時期というやり場のないモヤモヤとした「閉塞感」みたいな空気に、学年の皆がある種の行き詰まりみたいなモノを感じていて、酸欠になるまえに誰かを生け贄えに、身代わりに差し出さなければ、自分がつぶれちゃう、そんな感じで、僕とノマ・リュウジが生け贄にされてしまったのかもしれない。
僕ももちろん少なからずイヤな思いをしたが、彼はその噂に耐えきれずに、ついに自主退学をした。そして、僕はそんな騒ぎに巻き込まれたために、志望校の受験に失敗して新設の名もない大学へと進路を決めることとなった。
もちろん、彼が悪い訳ではない。しかし、正直なところ、心のどこかで彼に責任を押し付けてもいた。また彼も必要以上に責任を感じていたようだった。そういうわけで、彼は僕の前から姿を消していったし、僕もあえて彼を追いかけようともしなかった。全て静かに終わればいいのだと思った。
再びノマ・リュウジが僕の目の前に現れたのは、僕が大学２年生になったばかりの春のことだった。突然、僕のアパートに電話を掛けてきた彼の声は、妙に落ち着きを失っていた。まるで、絶えず周りを気にしながら喋っているようなそんな声だった。
しかし、実際に会ってみると電話で受けた印象とは少し違っていた。でも以前のノマ・リュウジとも違っていた。ヒゲをたっぷりと生やし、髪も伸ばし、目を疑うくらいに真っ黒に日焼けしていて、やけに落ち着いて見えた。いや、落ち着いたと言うよりはむしろ「空白」というような感じだった。少し痩せたようだった。僕達は大学の構内の森の中の休憩の出来る小屋みたいな所で落ち合ったのだが、僕より先に彼はそこのベンチに座っていて、まるで魂が抜けたようにぼんやりとあらぬ方に目をやっていた。
彼は、僕の姿を見つけると突然目を輝かせて駆け寄り、右手を差し出して握手を求めてきた。そして、興奮して少しうわずった声で、ひさしぶりの挨拶もそこそこにいきなり喋り出した。
「僕も、君と同じ生き方をしようと…、い、いや、ようやく見付けたんだ。厳密に言えば君の求めた生き方とは違うかも知れないけど、ぼ、僕はどうやらやっと辿り着いたのかもしれない」
僕には何が何だかよく分からなかった。彼は完全にイッていた。それが、何かの薬物の使用による効果だということは一目瞭然だった。そしてこれは後になってからはっきりと分かった、と、いうかはっきり思い出したのだけど、彼が言うところの「僕と同じ生き方」とは例の「ヤチダ」がいった「世捨人」の事を指していたらしい。 確か昔、あの時の０点の話を彼にはしたかもしれない。しかし、僕は今では名もない学校とはいえ一応大学生でブスな女ばかりとはいえ一応テニス・サークルに所属していて、それなりに平均的な大学生社会の一員として立派にやっていっているのである。そんな「世捨人」の話なんてすっかり忘れていたのだ。いや、忘れたかったのだ。
彼は自分の現在の生活についての詳細を語ってはくれなかった。今は遠い所に住んでいることと、とても安らかな気分だということぐらいしか言わなかった。しかし、彼は僕の現在の生活態度や習慣について根掘り葉掘りと聞いた。朝、何時に起きて、朝食はちゃんと食べるのか、酒の量、煙草の量、平均的な一月の電話料金、愛読書やＴＶ番組など、その質問は細部にまで渡り、２時間近くにも及んだ。僕は途中でもううんざりしていたけれども、彼の真剣な目を見ていると何も言えなかった。それぐらい彼の中には、何だか得体の知れないパワーみたいなものがみなぎっていった。
全てが終わった後、僕は「飲みにでもいこう」とか何とか言って彼を誘ったのだが、彼は躊躇せずにそれを拒んだ。そして眉間に皺を寄せ、厳しい表情でこう語ったのだった。
「僕は君の作ったホラ穴の中で待っている。今は君はそこにはいない。しかし君はきっと帰ってくる。我々は裸足なのだ。完全に裸足なのだ。我々に合った靴はこの世界の中には存在しない。君も気付く時が来る。君がこの下らない大学を卒業する頃に君は本来の自分に気付くのだ」
そして、僕の耳元に顔を近付けて「世を捨てる時が来る…」
彼はそう言い終えると同時に振り返り、そしてすたすたと歩き出していってしまった。言いたいことを全部言い切ってすっきりしたような態度にも見えた。僕は「下らない大学」と言われたことで、過去の例の不快な記憶がまざまざと甦ってくるのを押さえきれなかったし、一体誰のせいでこんな「下らない大学」に来てしまったと思っているんだ、と彼に言ってもやりたかった。言ってもムダだ、あんなアシッド野郎。
僕は彼の後を追い掛けていこうとはしなかったし、それどころか「もう二度と僕の目の前に姿を見せないでくれ」とさえ思ったし、それでいいのだとも思った。その通り彼はもう二度と家に電話を掛けてくることもなかったし、もちろんもう二度と待ち合わせもすることはなかった。彼はまたしても僕の目の前から姿を消してしまった。
４．妊婦からの電話、闇の中の単調な回転
……確かにノマ・リュウジの言う通りかもしれない。あの時、奴が残していったセリフを思い出しながらそう思った。確かにこの世の中に僕が収まるべき器は存在しないのかもしれない。奴が言っていた、靴がどうのという話はそういう意味だったのかもしれない。今にしてみれば「ヤチダ」の言った「世捨人」のたとえもまんざらではなかったのかもしれない。ようやくあの言葉の意味が何となく分かりかけてきた。彼は予言していたのだ。
無意味な就職活動にはもう疲れ果てていた。すがれるモノがあれば、早く楽になるためにも、すがりついてみるのも悪くはない。僕はとりあえず封筒を開けてみることにした。ノマ・リュウジは一体僕をどこへ連れていこうと企んでいるのだろうか。幸福行きか不幸行きか……。ハサミも使わずに指でちぎって封を開いた。３枚のＡ４プリントが入っていた。
１枚目は地図だった。行ったことの無い土地だった。乗ったことのない私鉄に乗って、降りたことのない駅で降りて、見知らぬ町を彷徨わなければならない。面倒臭さと好奇心が入り混じったような複雑な気分が沸き起こった。
２枚目は番号と日付と時間が書いてあった。僕の名前も書いてあった。そして、紹介者の欄にノマ・リュウジの名前が確かに書いてあった。番号は恐らく受験番号とか整理番号とかそういった類いのものだろう。時間は電話の男が言っていた面接時間というヤツだろう。日付を見ると８月２３日となっていた。一体今日は何日だ。慌ててカレンダーを見ると６月のままで、それ以降捲られてはいなかった。今は間違いなく夏休みで、６月な訳がない。恐らく、今が８月であることは確かだ。しかし何日の何曜日なのかがパッとは浮かばなかった。そうか、手帳を見ればいいんだ。予定表に記されているはずの今日面接した会社の名前で分かる…まてよ…ええっと…、しかし今日面接した会社の名前が思い出せなかった。毎日、同じような日々の繰返で、僕は自分の立っている位置さえ分からなくなっていた。コンパスと地図はとっくの昔に捨ててしまっていた。
僕は諦めた。行くかどうかわからない。いや、恐らく僕は行かない。ノマ・リュウジと関わりあうのは二度とごめんだ。だから、こんなものは必要ないのだ。僕は３枚目のプリントを見ようともせずにそれを持ったまま立ち上がってゴミ箱の前まで歩いた。丸めるのも面倒臭いのでそのままゴミ箱の上でプリントを持つ手を放した。１、２枚目のプリントは旨くゴミ箱に収まったけれども、３枚目はひらりと翻りゴミ箱行きを逃れ、うまいぐあいに床の上に落ちた。嫌でもプリントのコピーが目に入ってきた。大きな強調文字で「世捨人求む！！」とあった。それを見たときに僕は、「もはや逃れられない」ような気がした。これは誰かに仕組まれているのではなく、自らが無意識のうちに組んだプログラムが着実に僕をある場所へと移動させようとしているだけに過ぎないのかもしれない。
「ヤチダ」の笑い声が聞こえた。ノマ・リュウジのあの捨てゼリフも。ホラ穴、一体どこにある？ 全てはあの０点の答案から始まったのか？ 僕は考えるのを諦めた。何も見えないからだ。糸口さえも見つからなかった。腹を決めた僕はゴミ箱から２枚のプリントを取り出し、床の上に落ちたプリントを拾い、手早く束ねて机の上に重ねて置いた。
気を静めるためにも、もう１本ビールを飲むことに決めた僕は冷蔵庫の扉を開けた。そして、それとほぼ同時に電話のベルが鳴った。僕はビールを諦め、冷蔵庫の扉を締めてから電話に出た。今度は聞き覚えのない若い女の声だった。
「私、ヤマモト・レイカと申します。ミズシマ・タカシさんですね？」
僕の勘ではこの電話も勿論、就職や、英会話教材のキャッチ・セールスなんかではなく、例の件に関連したメッセージに間違いないだろうと思った。
「ヤマモトは山と本、レイカは『華麗なるギャツビー』の華麗を逆に書きます。初めまして、今晩は」
僕はそこに隠されたメッセージを一つ残らず聞き漏らさないようにと神経を張り詰めていた。だから、キモチに余裕がなくて返事すらうまく出来なかった。
「警戒なさらないで。私はある人に頼まれて、あなたに電話をしています。あなたの事を良く知っている人です。でもあなたはその人の事を良く知りません。あなたに伝言があります。その人は今とても良くない状態にあります。とても暗くて湿っぽくて寒いところにいるそうです。何かのトラブルに巻き込まれたらしいのです…」
「ごとっ」
玄関の郵便受けに何かが投函されたような音がした。それと同時に誰かが階段を駆け降りる音…、しかし、ヤマモトさんはお構いなしに喋り続けた。
「その人の名前は知りません。料理をするのが趣味だそうです。あなたの名前と電話番号と伝言だけを聞きました。メモも残すなと言われましたので、私が記憶しました。他には誰も知る人はありません。そんなに長い伝言ではないのですぐに覚えられました。私、記憶力があまり良くないのです。特に妊娠してからはとても忘れっぽくなってしまって…」
バイクの走り去る音がした。恐らく、この部屋に何かを投函した人物がそれに乗って去っていったのだろう。まさにそういうタイミングだった。
「予定日は９月１日です。初めての子供なんです。今年の夏はとても暑くて参っています。ああ、名前はもう決めてあるんです。男の子だったら、カズキ、女の子だったらシオリ、でもやっぱり、女の子が欲しいんです…」
話が脱線してきたようなので僕は張り詰めていた神経を弛めることにした。郵便受けが気になった。しかし、この電話機はコードレスではないのでこの一見無意味な会話が終わらないかぎりは投函されたものが何なのかを突き止めるのは無理なことだった。僕は会話の途中でこちらから一方的に電話を切ることが出来ない性格なのだ。
「ああ、すいません。私の事ばっかりしゃべっちゃって…最近、夫が出張がちで淋しいものですから。あの人、どうやら他に女を作ったみたいで、怪しいんです。ほら、今、私、身体、こうでしょ、何度か求められて、私、拒み続けていたんです。何だか不潔な気がして。私の赤ちゃん、よごれちゃうような気がして、男のひとって、そんなに我慢できないものなのかしら？ミズシマさん若いから、やっぱり毎日、御自分で、処理とか…ビデオ、それとも、彼女とかいて、…私、今年２３になるの。高校生の頃はもてたワ。大学に行かなかったから、早い結婚して、最近、少しだけ後悔しているの…」
僕はこのときばかりとついに声を出した。
「あのう…僕に伝言があるって言いましたよね…」
「ごめんなさい、そうだったワ、一体、私何をこんなに…本当にごめんなさい」
「いえ、いいんです。元気で可愛いお子さんが生まれるといいですね。生まれたら電話して下さい」
僕は精一杯紳士を装って答えた。僕はこういう時には、概して女性に対して必要以上に丁寧になってしまう。
「ありがとう、やさしいのネ。近頃ちっとも男の人に優しくなんてされなくなっちゃって…うれしいワ。私、出産が終わったらあなたに会いにいきたくなっちゃた。心配しないで。私、ルックスは悪くないから、スタイルも今はこうだけど、昔は悪くなかったの。…今度、写真を送るワ。あなたの住所も知っているの。あなたの顔もちゃんと覚えてるワ、懐かしいくらい。あ、これは内緒ね、喋りすぎちゃった…」
「え、それは一体どういうことかな？ あなたは僕のことを知っているのですか、昔の知り合いか何か…」
「え、ええっとね、そ、そう、伝言があるの。『闇の中の単調な回転には慣れてしまう前に少しだけ気をつけろ』ですって。そ、それじゃ、また、縁があったら…」
「もしもし、それはどういう意味？、ヤマモトさん、何故あなたは僕を知っているのですか…一体いつ、どこで会ったんですか、ねえ、もしもし、もしもし…」
電話は既に切れていた。僕は頭を抱えた。『闇の中の単調な回転には慣れてしまう前に少しだけ気をつけろ』って一体、どういう意味だ。あまりにも抽象的すぎて、無学な僕にはさっぱりワカラナイ。僕はもう一度冷蔵庫の扉を開けてビールを取り出した。ヤマモト・レイカという名に記憶は無い。偽名？ 良く考えてみれば２３歳といえば僕と同じ年だ。僕は大学で１年留年している。さて、どうしたものか？
５．ヤマモト・レイカとナガツダ・レイコ
高校のときの卒業アルバムの一番後ろのページに卒業生の名簿が添付してあるのを思い出して、久しぶりに押し入れから引っ張り出してみた。ヤマモトという女の子は７人いた。ありふれた名字だ。レイカという名の子はいなかった。顔さえ覚えていないような子も何人かいた。しかし、どの娘にも何だか決定的なものがない。自分のクラスの写真のページを開いた。ノマ・リュウジは卒業時の集合写真にも写っていなかった。編集を開始する前に退学してしまったのだ。懐かしい顔、顔、顔、僕も若かった。たった４年前とは思えない。この娘は…ちょっと可愛いな、誰だっけ…レイコ、ん、ナガツダ・レイコ。３年の時の同級生だ。レイコ、レイカ…何か引っ掛かる。２、３度会話を交わした覚えがある。あの喋り方…ナガツダ…そうか、結婚だ。もし仮に、彼女がヤマモトという姓の男と結婚したとしたら、ヤマモト・レイコ、似ている。ヤマモト・レイコがヤマモト・レイカか。もう一度写真を良く見てみる。確かにルックスもスタイルも悪くは無い。彼女は恐らく僕のことを知っている。確か、彼女は大学へは行かなかった。高校の時はもてた。それも間違いない。たしか、当時、噂が…そうだ、「ヤチダ」だ。あの「ヤチダ」と噂があった。手を付けて妊娠させて、堕ろしたって…そういえば彼女、あの頃、学校を長く休んでいた。ノマ・リュウジの次は今度は「ヤチダ」か…。
それから僕は高校時代の友人の何人かに電話を掛けて、ナガツダ・レイコの消息を洗った。僕は昔から人付き合いが下手で友人も少なく、ほとんどが疎遠となっていたのでそれは大変困難な作業ではあった。
色々な噂が残っていた。もうほとんど色褪せているような朽ち果てた噂だった。しかしそれ等を信憑性の高い順番に並べてみて検討を加えてみると、以下のような事柄が浮かび上がってきた。まず第一に、間違いなく結婚はしている。しかし、その相手だが、何と「ヤチダ」と結婚したという説と、勤めていた会社の同僚（名字まではわからなかった）と結婚をしたという説とに分かれていた。そして第二に彼女は何だか訳の分からない宗教にのめり込んでいて、今は静岡の浜松の奥で人知れず暮らしているという噂もかなり有力な説として存在していた。夫婦で山に籠もっているという説と一人でいってしまったという説とに分かれていた。その他にも色々な噂があったが、本件には関連がなさそうなので却下した。もう本人の親に直接聞いてみるより他に手は無さそうだった。とりあえずそれは明日にすることにした。もう少し事実関係を整理しておく必要がある。それに、一体、彼女の両親に何て切り出せばいいのか考えもつかなかった。今、はっきりしているのは、この一件には「ヤチダ」とノマ・リュウジが絡んでいる可能性があるということを、やっと僕がうすうす感じ始めたということぐらいだ。
またビールを飲もうと思った。今日は飲んでも飲んでも全然酔わないような気がした。一口、二口飲み進むうちに、ぼんやりと心の片隅で燻るものがあった…何か重要なことを忘れているような気がする…そうか、郵便受けだ。
僕は急いで郵便受けを開けた。一枚の茶封筒だ。差出人の名を見て息を飲んだ…「ノマ・リュウジ」。
６．ノマ・リュウジからの手紙
「『世捨人相談所』の方から封書がいったと思う。僕の推薦だ。君の悪いようにはしない。この手紙は他人に託した。恐らく８月２２日の夕方、君の元へ届くだろう。つまり、明日が面接だよ。君は相変わらず日付の感覚が鈍いのだろう。信じられないのだったらＴＶのニュースを始めからみていたまえ、アナウンサーが今日の日付を言うはずだ。『８月２２日、今日のニュースをお伝えします』ってな具合に。今、僕はとても穏やかな生活をしている。裸足でホラ穴の中にいるよ。君が来るのを首を長くして待っている。君は明日きっと来る。そういうことに決まっているんだ。君が昔に自ら決めた事なんだ。「ヤチダ」先生も言っていたよ。僕は彼に会った。君の話もした。君もそろそろ自覚しなくてはならない、『世捨人』としての自分の人生をしっかりと見詰めるんだ。大学受験の時に君はまずドロップ・アウトの初期段階を体験した。そして留年、君はまたフェア・ウエイからドロップ・アウトしていった。そして、君は自分で選択しなければならない時期を迎えたんだ。勿論、選ぶのは君だ。僕は何にも言わない。しかし、運命には逆らわないことだ。「ヤチダ」が君に植え付けた。そして、僕が君のために堕ちるべきレールを引いたんだ。後は君が自ら納得して堕ちるのだ。この世に捨てられるのでは無く、君がこの世を捨ててやるのだ。このホラ穴は本来、君の為に用意されたものだ。とても快適だ。君も早く来い。 ＲＹＵＺＩ ＮＯＭＡ 」
机の上に重ねておいたプリントを手にとった。「世捨人相談所、＊世を捨てたい方御一報」、手書きで、「あなたは当会に入会するのに大変適した人物です」と書き添えられていた。「ヤチダ」、ノマ・リュウジ、ヤマモト・レイカ、そして、「世捨人相談所」、何が何だか分からないけど、皆が僕を呼んでいるのは確かだ。気になるのは『闇の中の単調な回転』だが、とにかく行ってみなければ話にならないような気がした。行ってみてから決めればいい。話を聞いてみてから判断すればいいんだ。まさか、命までとりやしないだろう。それに、本当に良い話ならのっかっちゃえばいいんだ。
次の朝、僕は出掛ける前にナガツダ・レイコの実家へ電話を入れてみた。しかし「この電話は現在使われておりません」との事だった。大体予想はしていた。やはり行かなければならないのだ。僕に残された道はそれしかない。迷ったんだけど、一応スーツを着ていくことにした。僕はきちんと話し合いにいくのだから。
７．ヤマモトさんとカワマツさん
普通のオフィス・ビルだった。全然怪しげじゃない。たくさんの人が出入りしていた。ごく普通のビジネスマン達で溢れていた。僕は少し安心した。４階までエレベーターで登って扉が開くと目の前が受付だった。敷き詰められた明るいブルーの絨毯が清潔そうだった。天井の照明も非常に明るく、人々の活気が事務室から漂ってきた。受付には２人の美しい女性がいてとても明るく対応してくれた。僕の好みは右側のショート・カットの方だ。僕は左の女の子が電話で取り次いでいる間にショート・カットの娘の横顔を盗み見していた。僕の熱い視線に気が付いた彼女は僕に少し照れたような笑顔を返してくれた。
可愛い。ときめいた僕は何とかしたくてとりあえず胸の名札を盗み見た。片仮名文字で書いてあった。ヤ、マ、モ、ト、レ、イ、カ…何！、ヤマモト・レイカ！。
僕は彼女の顔をもう一度見た。彼女も僕の顔から視線を逸らそうとしなかった。
本当にヤマモト・レイカは存在したのだ。話し掛けようと思ったその瞬間、左側の彼女が「ミズシマ・タカシ様、３号会議室でお待ち下さいとのことですので、私が御案内申しあげます。こちらへどうぞ」と僕の右手を引っ張った。「あっ」と言っている間も無く、長い廊下を僕はぐいぐいと引っ張られていってしまった。彼女の力はとても強かった。僕はこの娘の名札も盗み見た。カワマツ・メグミと書いてあった。今度は知らない名前だった。勝ち気な横顔……じゃじゃ馬的、確かに悪くはない、年輩に受けそうなちょっとおミズ系。
しかし、あのヤマモトさんは、あの電話のヤマモトさんなのだろうか、全然妊娠なんかしていないじゃないか。僕は又しても頭が混乱してきた。しかし、どうにかなる。彼女に直接話を聞くチャンスはいくらでもある。そんなことを考えているとカワマツさんは突然立ち止まった。彼女の後をぼんやりと歩いていた僕はつんのめりそうになった。
「こちらでございます」彼女は扉を開け、何だかとてもあわてたようすで僕を３号会議室に押し込んだ。そこはシャチョウシツみたいな部屋だった。高級そうな皮のソファーがあって、高そうな壺がおいてあって、高そうな掛け軸が飾ってあった。
僕が茫然と部屋の中を見渡していると、カワマツさんが後ろ手に部屋の鍵を閉める音が聞こえた。振り向くと彼女はじっと僕の顔を見詰めたまま躊躇せずに制服の上着を脱ぎはじめた。僕は声も出せずに息を飲んで立ち尽くすだけだった。上着をあっさりと脱ぎ終えた彼女はブラウスのボタンを上から順々に外していって、さっとスカートを床に落とした。服を脱ぐのが素早かった。下着と靴下さえも脱ぎさって見事なプロポーションを惜しげもなく晒す彼女に目が釘付けになってしまった僕は、どうしたらいいんだろう、声も出せずに身体も動かせなかった。カワマツさんはゆっくりと僕に近付いてきた。やっと笑顔を見せてくれた。彼女は僕の手を取って自分の乳房に押し付けた。弾力性があった。悪くはない。僕は彼女にされるがままだった。彼女は僕のズボンをおろしてトランクスをおろして、すっかり固くなった僕の性器を優しく口に含んでくれた。僕は直ぐにでも爆発しそうだった。僕は夢心地。そして、その短時間のうちに３度射精した。その行為の間、彼女は何も言わなかった。
８．カサハラ・タケシ登場
全てが済んだ後、僕の下半身の身だしなみを整えてくれたカワマツさんは脱ぐよりもさらに記録的な素早さで制服を身に着けて、口紅や髪の毛を直し、まるで何ごとも無かったかのように、暖かく、しかし事務的な口調でこう告げた。
「ただいま、担当の者が参りますので、そちらでお座りになってお待ち下さい」
僕は言われた通りにした。ぐったりしていた。短時間で３度はきつかった。どんな意欲も無かった。一体、何だったんだろう。考える力も無くなっていた。
ま、いいか。得したんだから。あんな、綺麗な娘なんか普通抱けないヨ、全くついている。
ドアをノックする音がして我に返った。今度はヤマモトさんがお茶を持って入ってきた。僕はまた少し期待した。そうとも、僕のタイプはあくまでヤマモトさんなのだ。彼女は少し緊張していた。ドアを閉めると、素早く僕に近付いてきて、眉間に皺を寄せながら早口でこう言った。
「気を付けて、この話にのっちゃダメ。もう二度とここへ来ちゃダメ…」
僕はすっかり俯抜けていた。一瞬、何が何だかわからなくなっていた。また、ドアがノックされ、白髪の長身の４０代位の男が入ってきたときには、もう彼女は事務的な顔と態度に戻っていた。彼女はテーブルの上にお茶を２つ置いて、軽く会釈して部屋を出ていった。そうだ、彼女に聞かなければならない事があったのだ。あの電話の件で。しかし、もう遅かった。男が笑顔で右手を差しだし握手を求めてきた。
「お忙しいところすみません。私はカサハラ・タケシと申します。どうぞ、よろしく」 昨日の電話の声と同じくバリトンだった。感じのよさそうな男だった。少なくとも今まで僕と入社面接試験をしてきた他の企業の人事課の人間なんかと比べてみてもその印象はずば抜けて良かった。若白髪のようで、顔をよく見ると３０代そこそこのようにもみえた。知的な雰囲気と野生的な雰囲気とを合せ持っていた。かなりヤリ手のような印象を受けた。若い男が憬れ、若い女が寝たくなるようなタイプかもしれない。しかし白髪だけはそんな彼の素敵な印象に損害を与えているのじゃないかとも思った。彼はそんな僕の気持ちを素早く読み取ったのか、「ああ、この髪に皆、騙されるのだけれども、僕はこう見えても今年３６だよ。君らと同世代だよ」と、爽やかに語った。笑顔に自信があるようだった。
「君の事は色々と調べさせてもらったよ。なかなかいい人材だ。社内の評判もいい。ところで、就職活動の方はどうかな。景気がいいと言っても、採用活動はどこの会社も慎重だ。君達も辛いところじゃないかな。うん、短刀直入にいこう。僕はまどろっこしいのは嫌いなんだよ。君もノマ・リュウジ君同様、僕達のプロジェクトに参加してみないか。僕は君のような人材を待っていたんだ。まずは登録だけでいい。ネズミ講や、むやみに金を取る会員登録とかじゃない。世捨人、と、いうと大変聞こえが悪いかも知れないけれども、すなわち失うべきものも何もないくらいの大胆でしなやかな若い人材が欲しいんだ。いつでも、通俗的でありきたりな概念や凝り固まった古くさい秩序を超えた決断力、柔軟性と社会に背を向けるような反骨精神を持ち合わせたような、そんなワイルドな人材を集めているんだ。君はノマ君の御墨付だから、僕は非常に期待をしているんだ……」
そんな話はどうでも良かった。半分も聞いていなかった。カワマツさんのしなやかな身体を思い出すと、３度射精したというのにそれでもなお下半身の一部に力が漲ってくるような気がした。薄茶色でソバージュの柔らかな髮の毛の香り、細面で少し吊り上がった目、茶色い瞳、小さな乳首、ピンク色の…ああ…。
カサハラ氏は熱心に語り続けている…断片的に聞きながら頷いたりして、でも、上手だったよな彼女…。カサハラ氏が何か言っている…。「…とにかく、明日もう一度ここに来てくれないかな…」
…もう一度…ここで…彼女と…気付いたときには、反射的に「はい」と返事していた。
性欲。全ては性欲のなすがまま。２３歳の健康な男性にとっての性欲は全ての心理的作用を制す。懐疑的だった好奇心、攻撃的な正義感、執拗な自衛心…いっぺんにどこかへ行ってしまった。ヤマモトさんの警告、あの電話に隠された訳のわからないメッセージ…でも、やっぱり性欲。カワマツさんの乳房の弾力、濡れた唇…性欲と自衛本能の正面衝突…。カサハラ氏曰く…
「明日は簡単な適性検査をやるんで…筆記用具を持ってきて。あとは、住民票、戸籍抄本、あと、免許証ね。忘れないように。今日と同じ時間にここで…。よろしく。あと、これ、少ないけど、今日の交通費ね。今日は御苦労様」
知らないうちに明日の約束をしてしまった僕は、内心、大変大きな期待をしていたのだ。…カワマツさん…。君のためなら僕は何でもできるような気がする…。
カサハラ氏が茶封筒を僕に手渡してから部屋を出ていった。中身を見ると、そこにはピン札５枚×１００００円也が誇らしげに重なっていた。おいし過ぎる。もちろん明日もくるさ。アブナイ事なんて無いさ。本当にヤバくなったら逃げ出せばいいのさ。それまではとことんまで楽しんで吸い尽くしてやる。
一人でソファーに深々と腰掛けながらニヤニヤそんなことを考えていると、ドアを２度ノックする音に続いて、ヤマモトさんがあわてて駆け込んできた。息が上がっていた。僕は期待に胸を膨らませた。彼女の顔を見詰めて再び認識を深めた…この娘、タイプだ…。でも一方の彼女は大変真面目だった。その真面目さが素敵だった。
「ダメよ。絶対ダメ。あなたはもう手を引いて…。もう二度とここに来ないで。…あなたのために言っているの、ね、言うことを聞いてちょうだい」
彼女は型の良い眉毛を可愛らしく吊り上げて低い声だけれども強い語調で言った。でも僕の意思は堅かった。ヤマモトさんには悪いけど、気持ちの良いことには勝てないものなのだ。
「でも、僕にはさっぱり理解できないんだよ。ここは組織的にもしっかりしてそうだし。全然ヤバそうじゃないし、それに君は一体…」
「ダメよ。今はこれ以上言えない。とにかく私はあなたの味方だから…」
「あの電話は君が…」
言い掛けたときにいきなりドアが開いて、そこには仁王立ちのカワマツさんがいた。彼女もまた相変わらず素敵だった。ヤマモトさんの存在を見事に無視するかのように彼女は営業用スマイルを見せ、僕とヤマモトさんの間に割って入った。さっきあんなにやさしく濡れた唇で愛してくれたのに、まるで何事もなかったかのように冷静な態度でこう言った。
「本日は大変お疲れ様でした。お帰りはこちらでございます。御案内させていただきます」
カワマツさんは又しても僕の腕を取り、物凄い力で引っ張っていった。何も語ってはくれなかった。僕とヤマモトさんのことで焼き餅をやいてイライラしているのかもしれない。独占欲の強い娘だ。でも、そこが君の可愛いところさ…。ヤマモトさんは追い掛けてはこなかった。明日また会おうよ、ヤマモトさん、その時に詳しく聞くことにするよ。でも僕のことなら大丈夫。僕だってそんなにバカじゃないから。うまくやるさ…。ねえ、ヤマモトさん、君こそが僕のタイプだから心配しないで…
９．引継の意味と二人の女
次の日、僕は住民票と戸籍謄本と免許証を持ってまたしてもこのエレベーターに乗り込んだ。昨日の不安なんか嘘のように、カワマツさんの肉体への欲望と期待に眼をギラギラさせ、意気揚々としていた。僕は鼻歌さえも歌っていた。４階に到着したエレベーターの扉が開いて、足取りも軽く受付の前へ歩み出る…と…顔面蒼白、思わず「えっ」と声が出てしまった。そこには見知らぬ二人の受付嬢がいた。カワマツさんでもヤマモトさんでもない。僕は正直言って意気消沈した。この２人の女性も確かに美しい。しかし、ヤマモトさんほど僕のタイプじゃないし、カワマツさんとみたいにあんなにうまく事が運ぶのなんてめったに無いことだし、あーあ、僕は帰ろうかと思った。僕の性欲は爆発寸前だったし、いや、そんなことよりも、そうだ、ヤマモトさんは僕に重大な謎を残していったたままなのだ。何一つ分かっていない。彼女らは一体、僕に何を伝えたかったのだろうか…。右の娘が僕に気が付いた…笑顔で「ミズシマ様ですね。承っております。こちらへどうぞ」ここまできたら引き返す訳にはいかないし、この娘、結構いい線いってる…僕はまたしてもけしからん想像と期待に胸を膨らまし始めていた…なんという男だ…とりあえず僕は彼女にくっついていった。僕は歩きながら彼女の背中に何気なく聞いてみた。
「あの…失礼ですが、昨日、受付にいらっしゃったお二人なんですけれども…あの、今日は…」
先を歩いていた彼女は急にビクッと弾かれたように立ち止まり、きっちりと美しく回れ右をした。僕はドキっとした。素敵な笑顔だった。美しい。でも、カワマツさん程ではない…、いや、この娘、名札を見る、キクチ・ノリコさん、ストレートの背中までの長い髪、限り無く真っ黒に近い髪、大きな瞳、鼻と口は小さくて上品、あどけない表情、どう見たって１７歳くらいだよな、セーラー服が似合いそう、可愛いよな、結構、イケる、タイプ違うけどカワマツさんや、ヤマモトさんにも負けない…そうか、そんなことより、ヤマモトさんの消息を…一体、どういう事なんだ、この先どうなるんだ…。取り止めのない考えが浮かんでは消えていき、きっと僕はヌケサクな顔をしていたんだろう、キクチさんは心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか。何か、うちのカワマツとヤマモトが失礼なことでも…」、僕は我に返った。
「いや、そんな、決して、いや、ただちょっとした知り合いだったものですから…」、あながち嘘ではない。ちょっとした知り合いには違いなかった。彼女は少し怪訝そうな顔をしたがすぐに素敵な笑顔を取り戻し、
「そうですか、申し訳ございません、今日は二人とも休暇を戴いていますが、きちんと引継ぎはできておりますのでご心配なく。ちゃんと承っております」と言った。
『引継ぎ』？、何のことだ。ヤマモトさんが僕に何かのメッセージを残してくれたのだろうか…この娘は僕の味方なのだろうか…。昨日とは違う会議室に通されて一人残された。部屋の造りは昨日の３号会議室とほぼ同じだった。僕は落ち着かなかった。ヤマモトさんとカワマツさんの２人がいなくなったことで、とてつもない不安に陥っていた。ヤマモトさんの言う通りここがヤバい場所だったとしよう、僕は一体どうなる。奴等は一体何が目的なんだろう、それにノマ・リュウジは？ 昨日の呑気な強気が体からすっと抜けていったようだ。精神的な支えであったヤマモトさんと、肉体的な支えであったカワマツさんのその両方を失った今、僕は完全なる骨抜きになってしまった。しかし、こうなった以上仕方がない。一人でも闘い抜くのだ。
ドアがノックされて、受付の２人の女の子が音も立てずに部屋に入ってきて、キクチさんがドアの鍵を閉めた。僕は反射的に立ち上がった。もう一人の女の子はとってもグラマーでセクシーなナイスバディー系な大人の女性だった。化粧がとても旨い。キクチさんとは対称的だった。紫のアイシャドーがとってもミステリアスだった。名札にはオオカンダ・シノブとあった。キクチさんが声を低くして事務的に言った。
「カワマツから聞いております。お気持ちを楽にしてください。何か不愉快なことがございましたら何なりとお申付け下さい」
２人は同時に服を脱ぎ始めた。オオカンダさんはガーター・ベルトなんかしていたのでキクチさんよりも少してこずっていた。『引継ぎ』の意味をようやく理解した僕は嬉しさよりもまず疑心暗鬼に陥った。何故？、何か変だ。２人はすっかり裸になって僕に近付いてきた。何だかイケないような気がした、ヤバいよな、コレ、理性がそう言った。キクチさんが僕の前に跪いた。僕のズボンとトランクスを同時にずり下ろした。僕は見事なまでに反応していた。本能は何の危険も感じていなかった。オオカンダさんは僕を背中から抱いてくれた。見事なバストの弾力感が僕の背中に感じられた。オオカンダさんの両手が後ろから伸びてきて、僕の性器を根元の辺りで掴みゆっくりと動かし始めた。キクチさんはそのあどけない唇をそれに近付け、そしてすっぽりと包み込んだ。理性の窓が閉じられていく。時が止まる。性欲。全ては性欲のなすがまま。２３歳の健康な男子にとっての性欲は全ての心理的作用を制す。遠ざかる不安、疑問をあわてて掴もうとしてももう既に遅かった。
１０．闇の中の単調な大回転
７度の射精が僕から奪っていったものをいちいち挙げてもきりが無いので止めにしよう。とにかく、僕にはもう何も残っていなかった。 暫くの間、僕の思考は停止していた。仕方がない。彼女らが去っていって、昨日とは違う男が入ってきて、僕の住民票と戸籍と印鑑を持っていって、それから、昼飯に『まい扇』のトンカツ弁当がでて、そしてまた別の男が変なアンケート用紙をもってきて、両親や友人の住所や電話番号を記入したりして、それからクレペリン検査みたいなものをやって…僕はもう言われるがままされるがままの状態だった。だから奴等が数人でやってきて僕を抱え上げてエレベーターに乗せるときもずっと無抵抗だった。一言も喋れさえもしなかった。間違いない。エレベーターは地下へと降りていった。地下室ではきっと暗闇が待っている。ヤマモトさんの電話のメッセージ、「闇の中の単調な回転」の意味がわかるのかもしれない。でも、注意しなければならないのだ。慣れてしまってはいけないのだ。受付のヤマモトさんはどこへ言ったんだ。闇、ノマ・リュウジ、ヤチダ、答えは全てそこにあるとでもいうのか。そして「単調な回転」。未解決な問題が多すぎる。何もワカラナイ。僕はどうなる。死ぬのか。僕に連れ立っている男達は一様に黒いスーツとサングラスを身につけ、一言も口を聞かなかった。「何を聞いても、言っても無駄だぞ」という気配がそこにはあった。彼等に聞いても無駄だということはよく分かっている。とにかく僕の注意力が足らなすぎた。仕方がない、性欲には勝てなかったんだから。
エレベーターが音も立てずに停った。扉が開くと目の前には予想通りの暗闇が広がっていた。カビ臭くて湿った空気のニオイが僕の鼻腔に流れ込んできた。小さい頃遊びに行った鍾乳洞みたいなニオイだ。「ホラ穴…」と、僕は思った。ノマ・リュウジは裸足のままここにいるのだ。
じきに目が慣れてきた。暗闇に慣れ始めたのだ。天井から鍾乳石が垂れ下がっているのが見える。床と左右両方の壁はむき出しのコンクリートで、上部のフロアよりももっと広くなっているような気がした。先のほうに仄かな明りが見えた。ちらついている。僕は奴等に引き摺られていくように先へと進んだ。相変わらずの脱力感に包まれ、僕は何も感じなかった。恐怖・驚愕・悲壮・憤怒さえもだ。全てがアタリマエのように感じられる。７度の射精がすっかり僕を老人にしてしまった。誰かに支えられていなければ歩くことさえ出来ないのだ。
その明り、ランプのようなものを手にしていたのはカサハラ・タケシだった。彼は上機嫌そうにみえた。この闇の中でさえ彼は自信に満ちて光り輝いていた。彼は言った。
「いちいち解説はしないよ。君も少し感付いていた通り、君はこういう境遇に陥った。今更関係ないとは思うが君の印鑑と筆跡を借りて簡単な契約書みたいなものを作った。読んでみたいのなら何時でも言ってくれ。内容をかい摘まんで説明すれば、つまり君はうちと契約した、終身雇用だ。途中で降りることはそれは『肉体的な死』を意味する。わかるね。あえて『肉体的な死』と呼んだのには当然、理由がある。僕の手の中には君の個人的なデーターが揃っている。つまり、住民票、戸籍、両親や友人の所在、君は僕が睨んだ通り友人が少なくて助かったんだが、とにかく、君という人間の外面的なパーソナルの理解は完了した。君のことを全て知り尽くしているということはどういうことだかわかるかな。君を簡単に変えることができるということなんだよ。具体的に言おう。君を巡る社会的な関係を法的にも実質的にも変えることができるのだよ。回りくどい言い方は止めよう。具体的に僕が君をどうするか、知りたいだろう」
僕は半分しか聞いていなかった。酷く疲れていたし、どうでもよかった、何故か今僕が知りたいのはノマ・リュウジの行方だけだった。
「君は法律的には死んでもらう。戸籍は無くなる。住民票も存在しない。君の御両親には偽の死体を見せて納得してもらう。君は知らないだろうが、そういうことを専門にやっている業者が存在する。君のデータと君の下宿の鍵を渡せばそれだけで全ては終わる。君は生きながらにして法的には死ぬ。君の基本的人権とやらは消滅する。君は晴れて世捨人になった。そうそう、君の数少ない友人にも君と同じ目に遭ってもらう、あるいは金と女をあてがう、口封じのためにもね。両親と一緒に住んでいるとヤリ辛いのだよ。独り暮らしの君の友人を紹介してもらったよ、もう既に動き始めている。こういった友達の輪が我々のビジネスの拡張のカギなんだよ。ノマくんの友人としてこうやって君を迎え入れたように…」
ノマ・リュウジ…ぼんやりと君の姿を思い出してみる…ホラ穴…これが僕の本来のいるべき場所なのか。君が言っていた僕の本当の姿とは…。
「ある組織が君のような国籍も戸籍も持たない世捨人を高く買い取ってくれる。そういった私達のクライアントは幾つかある。そのどこかに君を売る。勿論、今のままじゃいけない。君の商品価値を高めるために数々の研修を受けてもらうことになる。なあに、研修と行っても何も難しいことはないよ、ただ単純な毎日の暮らしに慣れることだ。単調な、ゆったりとした回転の中で、君の反抗的な戦意や、前向きな意欲や、願望とか、そういった類の感情をすっかりと洗い流していただきたい。浄化というやつだ。すっかりフヌケた人間になってほしい。飼い慣らされたイヌみたいにな。その期間の君の養育費用は当社が持つことになっている。君にはこの地下室の部屋と充分な女と酒と食物を与えるつもりだ。昨日も、今日も君は楽しんだろう？」
全ては奴等の思う壺だったのだ。怒る気力も無かった。僕はヤマモトさんの事を思い出した。彼女もそういう役割の娘だったのか。
「君の考えていることはわかる。昨日のヤマモトには参った。彼女は裏切り者だ。気にしないでいい。彼女も大切な商品として、ある組織に売却した。女性も若くないと高くは売れない。彼女くらいでギリギリだ。さて、そろそろ君を部屋に案内する事にしよう。少しここの空気にも馴れてくれ。そうそう、ノマ君が昨日無事に研修を終えて、売却されていったよ。彼が住んでいた部屋が開いたからそこに入ってくれ給え」
絡んでいた糸が少しずつほぐれていくような気がした。
そこは部屋というより地下牢そのものだった。鉄格子の扉の鍵を開けて僕を中へ押しやりながらカサハラ氏は、僕の耳元で囁いた。
「ヤチダが君によろしくと言っていた」
勿論、牢の中ではカワマツさんが全裸で横たわって僕を待っていた。燭台のロウソクの炎に照らし出された彼女の身体は相変わらずスケベだった。彼女は何らかのクスリの効果でハイな状態にあった。クスクス笑っていた。僕も堪えきれずに笑い出した。僕は彼女の上にのしかかってその小振りな胸に顔を埋めた。僕は何故か安堵感に包まれていた。運命、と思った。大方の謎が解けてほっとしたのもある。カサハラ氏が僕の背後で大声で笑い出した。僕は気にしなかった。カワマツさんの性器を右手でまさぐりながら乳首を思い切り吸った。カサハラ氏は笑い続けていた。「ヤチダにはしてやられた」、ノマ・リュウジは僕を待たずに先にホラ穴から出ていってしまった。裸足のまま出ていってしまった。僕はカワマツさんが絶叫するほど思い切り乳首を噛んだ。そう、「全ては決まっていたんだ」…いわゆる『運命』というヤツ。僕はさすがに勃起できなかった。カワマツさんはクスクス笑いながら僕のモノを口に含んだ。でも、ピクリとも反応しなかった。僕も笑うしかなかった。
カサハラ氏もまだ笑い続けていた。やがて白衣に身を包んだ小男が注射器を手にしてやってきて僕の腕を掴んだ。僕は抵抗しなかった。抵抗しても無駄なのだ。チクリ。僕の腕に一瞬の痛みが走り、そして透明の液体が僕の体内に侵入してきた。僕は自分の内側から沸き上がってくる得体の知れない笑いを噛み殺そうとしていた。
「…へへへ…」
僕はおかしくておかしくて仕方がなかった。おかしくて、おかしくて…オカシクテ…。