いつものように退屈な午後。
山下の向かいの席ではジョニーが左腕に器用に刺青を彫っていた。それをじっと見ていた山下が言った。
『しかし、本当に入墨彫るのがうまいね』
ジョニーの腕の動きがぴたっと止まった。顔には怒りの表情が浮かんでいる。
『入墨？ちがう！これはＴＡＴＴＯＯだ！』
『入墨もタトゥおんなじ意味じゃないか』
『ちっが〜う！入墨じゃない。ＴＡＴＴＯＯだ。たっとぅ〜〜』
『日本語じゃ入墨だよ』
『おまえ、ぶっ殺す！！』
ジョニーがいきり立ったとき、ちょうど課長がやってきた。
『お〜い、山下。取り込んでいる最中悪いがな。劉さんからさっき連絡があって、例の件で今から来てほしいんって言うんだ。悪いがこれから行ってきてくれんか？』
山下は、不服そうな顔をした。
『え？劉さんのところへですか？何で僕が』
『今手が空いているのはおまえとジョニーくらいだし。ジョニーのほうは例の件について、よくわからんだろう』
ジョニ−は山下にたずねた。
『おい、例の件って何だよ？』
『おしえない』
『なんだと！！おい！教えろ！』
『いやだよ。タトゥでなく、入墨だと認めたら教えてあげる』
『おまえ！脅すきか！そんな脅しに乗ると思ってるのか』
『じゃあ、おしえない』
『ちくしょう！俺はまけないぞ。タトゥはタトゥだ。俺は、屈服しない。絶対に。でも例の件ってなんなのかは教えてくれ』
『いやだ』
『殺す！』
ジョニーをさえぎって課長は言った。
『まあ、まあ、おさえて。とにかく山下、言ってくれるな』
『本当に僕しかいないんですか？しょうがないなぁ。あんまりあの人には会いたくないんですけど』
『じゃあたのんたぞ。すぐにでも行くってくれ。新宿のいつもの店で待ち合わせだ。俺はこれから専務と一緒に接待で純和風アフリカ居酒屋にいってくるんでな』
課長はそう言い残して出ていった。
『おい。例の件って何だよ』
『おしえない』
『貴様！』
怒りに震えるジョニーを無視して山下も出ていった。
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新宿――別名不夜城。ここはアジア有数の歓楽街である。しかしその裏には人々の飽くなき欲望が渦巻き、多くの犯罪が横行している。警視庁の発表によると、歌舞伎町一帯だけでも今年の窃盗傷害事件は５２１件、殺人事件で３４５件にも及ぶ。また発見された身元不明死体は２３８体で、東京全体で４３８体であることを考えると、実に半数近くの身元不明死体がここで発見されたことになる。しかし発見されていない遺体を含めると、ゆうに倍以上になるだろう。新宿をよく知る人々は口をそろえてこう言う「警察を当てにするな、死にたくなかったら、一人で新宿に足を踏み入れるな」と。そんな２４時間欲望のうごめく眠らない街。山下はそこに足を踏み入れてしまったのだった。
山下は区役所通りを歩いた。歌舞伎町を貫く通りの左右には、高級クラブ、風俗店などの派手な看板を掲げた雑居ビルが立ち並んでいた。昼間はさえないこれら一群も、夜になればきらびやかなネオンで表情を繕う。その光は人々の心に潜む欲望を象徴しているようにも思える。誰もが心の闇には目を背けたくなるような、醜い欲望が潜んでいるのだ。やがて左側にある風林会館へと入っていく。劉とはここの一階の喫茶店パリジェンヌで午後４時に待ち合わせている。店に入ると劉の姿は見当たらない。まだ来ていないようだ。
山下は彼が来たときに見つかりやすいように、入り口に近い席を選んだ。時計の針は３時５０分をさしていた。店内のきらびやかな装飾と、耳に入ってくる外国語。そしてまわりで響く携帯電話のベル。それら五感に入るすべての音が、今いるのが歌舞伎町であることを実感させた。
やがて劉がやってきた。
『よう。しばらくだな』
劉は山下の向かいの席に腰を下ろした。彼の隣には７．８歳くらいの女の子がいた。山下が彼女に目をやると、劉は気づいてこう言った。
『ああ、山下君は初めてだったね。こいつは娘の鳳玲だ』
『鳳玲ですよろしくお願いします』
劉のしつけによるものなのか、あどけない笑みを浮かべながらもこの年の子供にしてはかなり慇懃な仕草で挨拶をした。劉は珈琲とイチゴタルトを注文すると、ライターでタバコに火をつけた。一見してかなり高価なライターであることがわかる。
『どうだい、仕事のほうは』
劉が尋ねる。劉は上海系のやくざであることは山下も知っていた。本土では有名な流氓(中国マフィア)だったらしい。機嫌を損ねないように勤めた。
『おかげさまで、なんとか順調にいっています』
『そうか、それはよかった。でも油断は禁物だぞ。巷では不況でどんどん会社がつぶれているようだからな。まあ、なんかあったら遠慮せず私のところに相談にきたまえ』
『ありがとうございます。劉先生には本当にいつも助けてもらって感謝しています』
『まあ、君のところとは古くからの付き合いだからね。私のほうとしても他人事ではないのだよ』
劉はやさしい笑みを浮かべていたが、時折見せる鋭利な眼光を山下は見逃さなかった。そして言葉を続けた。
『いいか、山下君。この街では二種類の人間しか存在しない。食うものと食われるものだ。どちらの側に立つかはもちろん天性の資質ももあるのだが、食うものでもちょっとした油断で食われるものに転じてしまう場合も非常に多い。油断はするなよ。常に目を光らせておくことだ。いいか、やらなきゃやられるんだ、新宿では。このとを肝に銘じておくんだな』
山下は劉の言葉に対し、軽く流した。
『でも、僕はただのサラリーマンですし、会社は新宿ではないので。やるとかやられるとかいう話は無縁ですよ』
山下の言葉を聞いた劉は突然表情を変えた。店内の音がぴたっと止まった。静寂の中に緊張が走る。ウエイトレスは動揺してトレンチを落とした。カランという軽い音だけが空しく響く。劉の裏の世界の顔を彷彿させる殺気を皆感じた。
『山下君、君は私の意見に反対だというのかね。私を怒らせないでくれたまえ。私は人を殺したくは無いんだよ』
山下の顔一面に汗が噴出した。いくらハンカチで拭っても汗は止まることが無かった。
『も、もうしわけありません。はい、おっしゃる通りです。劉先生のお言葉ありがく肝に銘じておきます』
劉はいつもの顔に戻った。そして店内は再びもと状態に戻った。
『そうか、わかってくれたか。ところでこの前、娘と二人で映画に行ったのだが、君は映画は好きかね？』
機嫌を直した劉が言った。山下はほっとした。
『そうですね、最近はあまり見てませんけど、好きなことは好きですよ』
すると劉は冷たくつぶやいた。
『私は嫌いだ』
再び店内は静寂に包まれる。
しばしの間。
『あははは。そう言えば僕も嫌いでした。そうですね、映画なんてつまらないですよ』
店内に活気が戻った。
『そうだろ。いや、君は若いのに見所があるよ。まあ、年寄りの説教じみた話はこれくらいにして、そろそろ仕事の話をしようじゃないか』
例の件については３０分くらいで話がついた。その間鳳玲は退屈そうに山下のほうをじっと見ていた。話が終わると、劉は最近の歌舞伎町の事情などを得意げに話していた。しばらくして、店内にアナウンスが流れる。
――お客様の劉様、劉様。ご面会でございます――
『おや、誰だ？なんでここにいることがわかったんだ？すまないがちょっと、失礼するよ』
劉が席をはずした隙を見て鳳玲は山下に言った。
『ねえ。仕事の話が終わったら、いっしょにのみに行かない？昨日、素敵な店見つけたのよ。あ、これお父さんには内緒よ』
それは先ほどまでとは打って変わった、とても子供とは思えない色っぽい表情を見せた。山下はその豹変振りに驚いた。
『いきなりそんなこといわれても。それに劉さんにばれたら殺されるよ』
鳳玲は父親と同じような殺気を見せた。
『あんた、あたしのいうことが聞けないの？』
山下は必死に弁解する。
『いや、そういうわけじゃないんだけど。だいいち鳳玲ちゃんまだ子供じゃないか。飲みに行くなんて』
『あんた、子供だと思ってあたしのことをなめているのね。いいわ、あたしの恐さを思い知らせてあげる』
そのとき、店の入り口付近でパンッという乾いた音が響いた。
『あら、お父さんまたやっちゃったみたい。銃は使わないでってあれほど言っておいたのに』
山下は震えた。寒気が襲ってきた。やがて劉が戻ってきた。
『いやあ、すまない。私の部下だったんだけど、あいつヘマをしたみたいでね。殺しちゃったよ。わっはは。どうも最近の若いやつは、ミスが多くて困るよ。君みたいな人が私の下にもいてくれると助かるんだがね。どうだい、私の下で働いてみる気は無いかね』
山下は背中が泡立った。冗談じゃない。だが、そんなことは口が裂けても言えない。
『そ、そうですね。ありがたい話ですけど、そんなことしたら課長が』
『わっははは。冗談だよ、冗談。でも本当に君のような人間がいたらと思っているんだよ。私は君のことを本当に買っているんだよ。嘘じゃない、本当だ』
『劉先生にそんなことを言ってもらって本当に光栄です』
割り込むように、鳳玲はあどけないしゃべり方で父親にたずねた。
『ねえ、お父さん。聞きたいことがあるんだけど』
『なんだい鳳玲』
『チツガイシャセイってなあに？』
劉の顔から血の気が引いた。
『ち、膣外射精？だれから聞いた、そんな言葉』
『さっき、山下さんが言ってたの。あたしにチツガイシャセイするからやらせろって。顔にかけさせてくれって』
『え？そ、そんな。僕言ってません、信じてください劉先生』
『本当よ、お父さん。それにしゃぶってくれともいっていたわ』
劉の中で何かがはじけた。その音を山下は確かに聞いた。
『山下……君。ちょっと話がある。きたまえ』
そのとき、山下の心の中で声が聞こえた。
やらなきゃやられる。殺せ、殺せ！あいつをころせ！
『うぎゃ〜〜』
山下は悲鳴に似た声をあげた。劉が一瞬ひるむ。その瞬間をのがさず、珈琲カップを手に取り劉の頭を、力いっぱい打ち付けた。カップが割れた。劉の額が割れ、鮮血がほとばしる。うずくまる劉に容赦無く山下はなおも打ち付ける。
『おねがい、やめて！』
鳳玲が涙ながらに訴える。しかし山下の耳には入。ウエイトレスが何事かとばかりにやってくる。山下は彼女にもカップで打ち付ける。ウエイトレスは悲鳴を上げて倒れる。次々と止めに入ろうとするものを山下は倒した。店内は血の海と化し、パニックに陥った。
『ひゃ〜ひゃひゃひゃ。みんなしんじゃえ〜』
やがて警察が駆けつけたが、一人呆然と立ちすくむ山下の形相に誰一人近づけるものはいなかったという。
(すべてフィクションです)
かってに続け