朝、いつものように会社へ行く途中にある、近くにある行きつけの喫茶店に入っていった。カウンターに腰を下ろすとマスターは、笑みを湛えながら注文をきいてきた。
『おはようございます。ご注文は？』
『とろろコーヒーを頼む』
『かしこまりました』
俺はこの店のとろろコーヒーが大好きだ。とろろコーヒーをつくるのは実に難しい。マスターは手慣れた手つきでとろろをすり、ボールに入れて卵をくわえると、しゃっかしゃっかかき回した。そしてそれを入れたてのコーヒーの上にゆっくりと、流しこむ。一見簡単そうだが、コーヒーととろろの比率で全てが決まる。わずかのミスで、芸術的なこの作品はぶちこわしになる。マスターはこの黄金比率をもう何十年も寸分の違いもなく、やってのけていた。
『はい、おまちどうさま』
こうしてカウンターの上には、ヴィクトリア王朝時代のデザインをあしらったカップが置かれ、中には湯気だったコーヒーの上にとろろが浮かんでいる情緒的な光景を見いだすことが出来た。しかしそのまま飲んではいけない。まずは砂糖を三杯カップに入れる、そしてスプーンでとろろごと勢い良くかき回す。そしてコーヒーの上で螺旋模様を描くとろろの姿を十分に満喫した後、音を立てないように上品に飲む。これがただしい飲み方である。素人はよくウインナーコーヒーのように、そのままの状態で飲みたがるが、それは間違いである。やはりとろろコーヒーはかき回して、コーヒーととろろがごちゃまぜになった状態で飲むのが古来よりの作法であろう。大正時代、とろろコーヒーが貴婦人達の間で流行したことがあったが、その後ぱったりと喫茶店のメニューから姿を消してしまった。しかし最近になって再び流行の兆しが見え始めてきたらしい。やはり良いものは後世にまで残るのであろう。
そして俺はコーヒーの苦さととろろの風味を十分に満喫して後店をでた。