吉田侯爵(*1)が大のワサビ好きで知られていることはあまり知られていない事実である。彼は毎朝７時になると決まって赤坂にあるわさび喫茶(*2)に通っていた。ここはおいしいワサビを出すことで有名な店で、二年前ここのワサビを食べて以来病みつきになってしまったのだった。
ルネッサンス時代の様式美的ドア(*3)を開けると、さっそく香ばしい香りが漂ってきた。侯爵が席に座ると、タキシード姿のウエイターが慇懃に頭を下げた。
『おはやうございます侯爵様。そろそろお越しになる頃だと思っておりました』
『ふむ、今日はなにかお勧めがあるかね？』
『はい、露西亜産のとれたてのワサビが入っております』
『露西亜かね……たしか近江伯爵(*4)から以前、露西亜にはすばらしいワサビ職人が大勢いると聴ひたことがあったが』
『ええ、それはもう日本とは比べられないくらい沢山おります。今回のはそのなかでもクワエルノスキィ(*5)という名人が取った逸品中の逸品でございます』
『さうか……では一つそれをもらおうかな』
『ありがたうございます』
深々と頭を下げるとウエイターはテーブルを離れた。
五分後。皿に盛られたワサビが侯爵の前に置かれた。侯爵はうれしそうな気持ちを押さえながら、皿の上に顔を近づけ香りを楽しんだ。
『ふむ、この香り……やはり露西亜産は違ふな』
『左様で。日本も早くここまでになってほしいものですね』
『まったくだよ、きみ。だが、それには政府の支援が必要だ。なのになかなか日本の政府は腰を上げようとしない。そんなことだから、つねに世界から置いてきぼりを食らうのだよ。まったくもって日本といふ国は文化に対して……おっと、朝から説教じみたことを言ってしまったな。失敬、ではいただくとしやうか』
侯爵はてんと盛られたわさびの上にソースをふりかけ(*6)、スプーンですくった。スプーンからこぼれ落ちそうなほどすくって口の前に持っていった侯爵は一瞬口に入れるのをためらった。
『いかがなされました？』
『いやなに……いつものことなんだがちょっと口に入れる勇気が無くてね。さうだ、よかったらどうだい。君がまず食べてみないかね？』
その言葉を聞いたとたんウエイターの顔が青ざめた。
『い、いえ……お気持ちはうれしいのですが……次回と言うことでご遠慮させていただきます……』
『まあ、そういわずに。私の気持ちだ、遠慮せず食べてくれたまえ』
『いえ……お、お許しください侯爵様！』
許しを許しを乞うウエーターを無視して侯爵はわさびを彼の口の中に無理矢理つっこんだ。
『ひぃ〜〜〜〜〜！』
ウエイターはその場で倒れた。
『この馬鹿者が』
そう吐き捨てて店を出た。こうして侯爵のいつも通りの一日が始まった。
おしまい
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註釈