「仮面の告白」
（六）
徳川が殺されて十日経ったある日、犯行現場となったアパートに四人の男女が姿を現した。宗佑と光、涼子に太田である。畳にはまだどす黒い染みが大きく残っている。光はそこから目をそらすようにして立っている。いつもなら、宗佑はそんな光をからかうのだが、今日ばかりは何も言わずに、その染みを光から隠すようにして立っている。
その時、遠慮がちなノックの音がした。涼子がさっと近づき、ドアを開けると、そこには若い男女二人が立っていた。女は神宮寺霞、男は宗佑もしらない顔だった。これが「悪いアソビにひっかかった友達の兄貴」だろうか。のっぺりとした感じの、いかにも「高貴」といった顔立ちをしている。ひょろりと高い背は、百八十センチを超えているのだろうか。
いわゆる、「高貴」な血筋の人間というものは、顔に現れる。血のなせる業なのか、単に甘やかされるからなのか、はわからないけれど。宗佑には少なくともこの男に関しては後者の理由もかなり大きいと感じられた。
「霞さん、久しぶりですね」
「・・・ええ、本当に」
何とも言えない、苦しげとも見えるような微苦笑を浮かべ、霞は頭を下げた。
「そちらが、お友達のお兄さん・・・ですね」
「ええ」
「どうも」
どうも、とだけ言ってのそっと頭を下げる。名乗りもしないのは、やはり「高貴」な家名に傷がつくようなことを避けるためだろうか。宗佑はあまり気にした様子もなく、涼子と太田を「事件に関わっている刑事」とだけ紹介した。
「今日、こんな所へ来てもらったのは他でもない、この部屋の借り主だった徳川悦夫という男が殺された事件の謎が解けたからです」
「殺された・・・」
霞は息を呑み、ちらりと光に視線を走らせた。光の表情に、変化はなかった。
「一体、誰がそんな恐ろしいことを？」
「ま、時間の経過を追って説明しましょう。・・・徳川が殺された日、光は霞さんから徳川が確実にこの部屋にいない時間を聞いていて、ここへ忍び込もうとした。理由は、・・・おわかりですね」
「そんな・・・」
宗佑が暗に自分を責めていることを感じとったのか、頬を紅くして光と、宗佑をしっかりとした視線で見つめ返す。宗佑は肩をすくめた。
「ところが、光が忍び込もうとして、中の異常な雰囲気を感じとって中へ入ったところ、既に徳川は死んでいた。いや、殺されていた」
「では、光がやったのではないのですね？」
「俺は光の言葉を信じていますから」
「・・・」
「光君の単なる責任のがれの言葉とは言えない証拠も、いくつかあります」
太田が静かに口を挟んだ。全ての情報は頭の中に入っているのか、メモも見ずに、すらすらと話し出す。
「徳川の推定死亡時刻は午後三時半で、光君の到着より一時間程も早い。当日、徳川の情婦が注文した通信販売の商品が宅急便によって二つ、届けられているのですが、三時十五分くらいに到着したものは徳川が受け取りのサインを書いています。筆跡鑑定の結果、確かに徳川本人のものと断定されています。ところがそのほんの三十分ほど後の、三時四十五分到着の荷物は、配達員がいくらチャイムを鳴らして扉を叩いても、誰も出ては来なかった。おそらく殺害されたのはこの三十分の間であると推測されるのですが、これは解剖所見とも一致します・・・ところが光君はこの時間帯に、ほぼ確実といって差し支えないアリバイがあるのです」
「なんです、そりゃ？」
そんなことは、一言も聞いていなかった宗佑が、思わず口を挟む。光はなぜか、ぷいと横を向いた。
「痴漢ですよ」
「光が？」
「おいっ、アンタと一緒にするなよっ」
「失礼なっ、俺がいつ痴漢なんてやらかしたっ」
「東城さん、横道でもめないで下さいよ・・・違いますよ、その逆に、電車の中で痴漢につきまとわれていた少女を助けて、ちょっとした騒ぎを起こして・・・いえ、騒ぎといっても『目立った』と同義語ですがね」
「ははあ、つまり、そいつを駅員に突き出したんですね」
「そうです。駅長室でちょっとした取り調べにも応じています。これは、彼にとっては天の助けとも言えるくらい、しっかりしたアリバイですね」
宗佑はまじまじと光を見つめた。光はこれといって表情を変えてはいないが、ひとに関わることが大嫌いな光がそんな厄介ごとに自分から巻き込まれるなんて。さては、いつぞやの痴漢騒ぎで、痴漢に遭っている女の子は助けようと心に誓ったな。その件については後日からかうことにして、宗佑は太田を振り返った。
「なるほど、それで釈放されてから殆ど光につきまとわなかったのか」
「ええ。それに、真犯人も捕まえましたからね」
「えっ・・・」
霞が声を出すと同時に、「兄」が顔を上げた。どこか怯えたような目で太田と宗佑を見つめている。
「豊田利夫という男です。徳川の、いわば舎弟でしてね。二人で組んだ強請りなんかも何度かしていましたが、・・・最近になって急に徳川の羽振りが良くなり、豊田を邪険に扱い始めたんですよ。それまでは割に合わない役もこなしていたのに、急にお払い箱にするというのはあんまりだっていうんで、もめたらしいんです」
「なるほど・・・それで、部屋にあった花瓶でぶん殴って殺してしまったってわけだ」
「流石に凶器の花瓶の指紋は拭ったようですが、普段からしょっちゅう出入りしていたこともあって、かなりあちこちに指紋が残っていましたから案外素直に白状しましたよ」
「では、もう問題はないわけですね」
ほっとした表情で霞が尋ねる。しかし、宗佑はどこか意地の悪い表情で首を振った。
「ところが、妙なことがあるんだな」
「・・・妙なこと？」
「死体の側に、麻のロープが落ちていました。それと、この奥の部屋に、光君のボールペンがあったんです」
「光の？・・・でも、光は犯人ではないのでしょう？」
「それで済むのなら警察は要らないのよ、お嬢さん」
ずっと黙って控えていた涼子が皮肉な口調で言った。
「ロープは一体誰が、何の目的で持ち込んだのか？光クンのボールペンはいつこの部屋に持ち込まれたのか？また誰の手によって？・・・直接的な関係はないけれど、全く無視できる問題でもないの」
「それが、私たちと一体どういう関係が？」
尖った声で返す霞。だが、涼子の方が場数を踏んでいるし、第一霞は、お嬢様育ちの世間知らずだ。当然、涼子の方が有利だ。直接霞の問いには答えず、涼子は話を始めた。
「豊田は素直に犯行を自供しているわ。どういうきっかけで喧嘩になってしまったのか、どういう状況で犯行に及んだのか・・・その豊田が、ロープなんて見ていないと言っているの」
「じゃあ、光が持ち込んだの？」
「それから、ボールペンの問題。実はね、豊田と徳川が争うことになったきっかけは、このボールペンなのよ」
「光のボールペン？」
「いいえ、純粋に、ボールペン。豊田がメモ帳に覚え書きを記しておこうとしたら、たまたまインクが切れて出なかった。そこで徳川にボールペンを借りようとして、奥の部屋の小物入れのトレーを引っかき回した・・・そこから光クンのボールペンが発見されているのだけれど、もしそこにあったら自分はそれを使っていただろうし、もしかしたら徳川を殺すような諍いに発展することはなかったかもしれない、とまで言っているの」
「それは、どういうことですか」
「つまり、豊田がこの家に入り、徳川を殺して逃げ出すまで、麻のロープなんてものはなかったし、当然光クンのボールペンなんかもなかったってことよ」
「・・・」
「ボールペンはトレーにきちんと入っていたから、光クンが入った時に落としたり、徳川と争ったときに飛んだとは考えられないし、ロープだって、あなたは光クンが持ち込んだ可能性を指摘したけれど、光クンはあなたから徳川が家にいない時間を聞いてここへやってきたのだから、・・・わざわざ、そこにいない人間を殺す準備をしてくる人間なんて、いないわね」
つまり、豊田と光の間にもう一人、もしくは複数の人間がこの家の中に入り込んで、そういう細工をしているのだ。
「ところで、あなた、萬歳さん」
不意に涼子が「兄」に呼びかけ、男はとっさにはい、と返事をしてから狼狽えた。
「あ、あの、なぜ僕の名前を・・・」
「神宮寺家で殺人事件が起こったときに、色々と調べた時に、あなたの姿をお見かけしたのよ。萬歳家の例会の時だったわ」
「あ、・・・そうですか・・・」
「ところであなたは左利き？」
「それが一体何の関係があるっていうんです！義雄さんは関係ないでしょう？！」
剣のある声で霞が涼子に突っかかった。子供扱いされ、皮肉られて、自分とはタイプの違う涼子にかなり不快感を抱いているらしい。
「関係ない？徳川に強請られていたのは萬歳さんなのでしょう、あなたに頼まれて空き巣紛いのことをしようとした光クンよりもずっと動機の点ではクロに近いのよ」
「で、でも・・・もう犯人は捕まっているのでしょう？！義雄さんが犯人じゃないってことははっきりして・・・！」
「光クンのボールペンから、徳川や豊田のものではない左手の指紋がいくつか検出されているの。一度比較させていただけないかしら？」
「お断りします！警察にそこまでする権利はないはずですわね」
「そうね・・・でも霞さん、あなたや萬歳さんにも、光クンに罪を着せる権利はないと思わなかったのかしら？」
「な・・・」
しん、と痛いくらいの静寂があたりを支配する。
その静寂を破ったのは、宗佑だった。
「光のボールペンを手に入れて、あんな小細工をすることが出来たのは、霞さん、あんたくらいしかいないんだよ」
「どうして、私が・・・」
「光が誰かを殴り殺すことが出来ないのは、君もよく知っているじゃないか。だから、萬歳くんにロープを持って行かせたんだろう？たまたま豊田という男が徳川を殴り殺してしまっていたから、君たちも、光も助かったわけだが、もし霞くんの計画が成功していたら、光は絶対に徳川殺害容疑から逃れられなかっただろう。いや、別に光が犯人と認められなくてもよかった。ただ、萬歳くんから捜査陣の目が離れたら、それで良かったんだ」
「伝統と格式のある旧家に警察が弱いというのは、あの事件でとっくにご存じだったんですものね。光クンに疑いがかかっている時間が長ければ長いほど、犯行の証拠も、アリバイも、全てがあやふやになっていくのだから、もうその頃には知らぬ存ぜぬが通せるようになっているっていう計算ね」
涼子は妖しい笑みを浮かべた。ただ、・・・口元が少々強ばっていたのは、宗佑の気のせいだろうか。
「豊田が、奥の部屋の窓から逃げ出す寸前に、尋ねてきた人間の声を聞いているのよ。その背の高い影の男は、『マンザイです』と、小さな声で名乗っていたそうよ」
涼子はバッグからビニールの袋を取りだした。中には、宝石に疎い宗佑でさえも、それがかなり上等で高価なものだと一目で分かるほどの色、艶を放っている真珠の首飾りが入っていた。
「豊田はこれを故買屋に売ろうとして、アシがついたの。・・・これね、あなたが取り戻したがっていたのは」
「返して下さい、それは神宮寺家の・・・！」
「ええ、いずれお返しするわよ。・・・あなた、いえ、あなたたちはこの首飾りのために、光クンを人殺しに仕立てようとしたのね。一体それがどういうことだか、わかっていて？」
「・・・刑事さんにはわかりっこありませんわ。神宮寺の家名、萬歳の家名、それが一体どれほどのものかということが」
「従弟を犯罪者に仕立て上げてでも、守らなければならないものという事ね。・・・そうね、一生わかりたくないわね」
涼子が太田に合図すると、太田は頷いてドアを開けた。
「あなたたちにも、少しお話を聞かせていただきますよ」
入ってきたのは私服の刑事だった。霞と萬歳の腕を取って、出ていこうとした。
「光クンに、なにも言わなくてもいいの？」
涼子が、静かに言ったが、・・・霞は振り向きもしなかった。