はじまりはいつも雨
「もう、嫌や」
「え？」
「何でこんな雨の中、歩かんなあかんのん？」
「何でって言われても・・合宿やからとしか・・」
１回生の正木くんは困った顔で答えた。
当たり前すぎる返事だった。
ユースホステル部というと気楽に旅行ばかりしているようなイメージがあるが実はそうではない。もちろん、学校ごとのカラーもあるが、基本的には野外活動を通して健全な体と精神を養うという理念が根底にあるのだ。ボーイスカウトに近いかも知れない。
私の所属していたＳ大のユースホステル部では毎年夏になると合宿と称して山へ登ることになっていた。登山と言ってもワンダーフォーゲル部ではないのでトレッキング程度のものである。それぞれの体力にあわせて５〜６人のパーティを編成し、コースを決める。日程は一定で、山の上で３泊、４泊目は予備日（天候の都合で行程が遅れた時のため）で５泊目は松本で全部員が集合することになっていた。例年北アルプスを中心にコースを取る。登山道が整備されていて安全なところが多いからだ。
この年は槍ヶ岳コース、八ヶ岳コース、常念岳コースそして立山コースの４コース５班が編成されていた。
体力に不自由な私は当然、再弱の立山コースだった。
高原バスが立山駅を出たときは晴れていたのに、標高が上がるにつれて空模様が怪しくなり、目的の天狗平のバス停に降りた時にはどしゃぶりになっていた。ちなみにリゾート地へ向かう高原バスで登山スタイルなのは私たちだけだった。ワンピースにサンダルのようなリゾートスタイルのきらきらした観光客の中、ジャージにトレーナー、厚手の登山靴下と軍手を身につけ首にタオルを巻き付けるという格好はかなり恥ずかしい。一応、ハタチの娘なのである。
さらにとどめを刺してくれるのが約２０キロあるアタックザックである。バスに乗せるだけで別料金を取られる代物だ。
「雨具の用意ができたらいくでー」
リーダーの原さんが言った。
天狗平のバス停の横、ロッジ風の喫茶店の軒先を借りて私たちはそれぞれ雨具を取り出した。傘は手がふさがって危ないので、上に述べた格好にとどめのビニールポンチョである。私はなんだかすごく悲しくなった。
そこで座り込んだまま、持っていき場のない怒りをパーティでたった一人の下級生だった正木くんにぶつけたのである。
ほんの３ヶ月のつきあいなのに、すでに正木くんはこの環境に慣れていた。ようするに私の八つ当たりのかわし方をマスターしたらしい。
「ほら、アメあげますから機嫌なおしてください」
「・・・・・」
「ほな、いこか」
リーダーの声に立山班５名は立ち上がった。
仕方がない。
今日は雷鳥平まで歩かなければならないのだ。雨の中で野宿なんかしたくない。
山道を歩くときには一列になって細長く歩く。
先頭はコースリーダー（地図を読む人）でしんがりがリーダーである。真ん中には一番体力的に問題のある人、後は任意である。パーティーで紅一点であり、体力的にも文句なく最低な私は真ん中を歩いていた。すぐ後ろはすでに『お守り役』をまかされていた正木くんである。
歩き始めるとすぐに嫌になった。霧さえでてきた悪天候、人影も見えない。
シャワーのように細かい雨が降る中、お花畑のはずの沼地を歩くのはつらい。すぐにトレッキングシューズは水浸しになった。汗だか雨だかわからないが、ジャージもトレーナーも湿ってくる。
嫌な気分だったのは皆、同じだったようだ。
突然、リーダーの原さんが言った。
「景気づけに歌おう。歌のしりとりなんかどうや？」
その提案はすぐに採用された。
「それなら、最初は僕から」
と、３回生の小沢さんが歌いだした。小沢さんは今回のコースリーダーである。景気よく、リズミカルに『流星のサドル』。体格に恵まれた小沢さんの声は結構大きい。歌もうまかったりする。
「次、『う』で始まるやつね」
「う、う、ウ・・」
指定された同級生の安藤くんが唸った。うなったあげくに出てきたのは、
「う〜み〜は ひろい〜なおお〜きぃなぁ〜」
調子はずれな大声で。彼はちょっぴり音程が不安定な人なのだった。私はちょっと気持ちが晴れた。何故だろう。
まるで私の気分と同調したように空模様も落ちついてきた。雨がやんで、少し薄日が射してくる。
「雨、やみましたね」
「うん」
正木くんを振り返って私は笑った。登山道はすっかり小川になっている。相変わらず足下は水浸しで不愉快だったけど、雨がやんだぶん、少しはましである。
「ほんなら私の番ですよね？な、で始まる歌ー」
な、かぁ。あ、あれがある。『おどるポンポコリン』やね。
「おお、そう来るかぁ。よーし」
気持ちよく歌のしりとりで盛り上がり、私たちは雷鳥沢を目指した。本来なら立山連峰の大パノラマが広がるはずのコースなのに、霧で何も見えないのが残念だったけど。そんな感じでしばらくは歩いていた。登ったり、下ったりして少しずつ目的地へ近づいていく。
「き、で始まる歌っすか？」
何巡目かのターンで、正木くんはちょっと考えて歌いだした。
「ほんなら、『はじまりはいつも雨』行きましょか」
「おおっ！いいねぇ、私も歌う！」
飛鳥涼のヒット曲を正木くんと私は歌いだした。他の人もつられて歌い出す。結局、うろ覚えの２番まで、みんなで大合唱してしまった。
そうしていると。
ぽつり、ぽつりと。
「わあ」
「また雨！」
「ほら、あそこに見えてるのがヒュッテだから、がんばろう」
コースリーダーの小沢さんは芝居がかった仕草で微かに見える赤い屋根を指した。一同はそれを見る。
でもみんな知っている。見えているあの屋根の下にたどりつくにはあと小一時間はかかるということを。
なんとかヒュッテにたどり着いた頃、雨はやんでいた。
＊ ＊ ＊
翌日は晴れた。
淡い濃い青い空。深い緑のハイマツ。ひんやりとした空気。そう、これが山というもの。
朝６時に私たちは雷鳥沢ヒュッテを後にした。
山歩きをする場合、朝早く動き出し、遅くとも１４時には目的地へ着いているようにコースタイムを設定しておくのだ。不慮のできごとにも対応できるし、気温の問題もある。やはり日中の一番暑い時間帯に歩き回るのは体力的にきついのだ。まして、三千メートル級の山にいる訳なので、紫外線も強い。うっかりしていると、耳の後ろや首なんかの皮膚がぼろぼろに灼けてしまう。
「山はいいね〜」
安藤くんが呑気に言った。今日は雷鳥沢から一旦、乗越まで行き、山小屋に荷物を預けて浄土山、獅子ヶ岳をまわることになっている。なかなかのパノラマコースである。
「ほんまやね〜」
昨日とは違ってご機嫌な私は安藤くんにそう答えた。天気がいいとすぐ暑くなるけど、雨の中でじわじわしんどくなるよりはましである。
それでも歩いていると段々退屈になってくる。それが私の悪い癖なのだ。
「なぁ、正木くん、なんか面白い話してーな」
「ええ、そう言われても・・」
やっぱり私の後ろを歩かされていた正木くんが被害者になる。私が原因だけど、ちょっと可哀想かなとも思ったりしてね。
「うーん、ほんなら歌でも歌いましょう！」
「何の歌？」
「『はじまりはいつも雨』、あれ、僕覚えようと思てるんです。カラオケで歌いたいんですよ」
「いいともさ〜」
私たちは気持ちよく歌い出す。
歌い出して、まもなくである。乗越への登りにかかったところだった。
空は一転かき曇り、ではないが、見る見るうちに太陽が雲に隠れてしまった。青い空はどんよりとした灰色になる。
「なんか、まずい雲行きやね」
原さんが言った。
「あ、あれ見て！」
安藤くんが岩のごろごろした右手の崖の方を見て叫んだ。
「あれ、雷鳥ちゃうん！」
「え、嘘、どこ？」
一同は騒然として安藤くんが言う方へ近づいた。岩が危ないので登ることはできないが、下からでもそれは見えた。
鳩くらいの大きさの、灰色の鳥。思ったよりもずっと小さい。
「これって、滅多に見られへんのでしょ？」
正木くんはカメラを抱えてそう言う。
「そうか、雷鳥は天気が悪いときに出るから雷鳥っていうんやったっけ」
原さんはのんびりと納得していた。
雷を呼ぶ鳥かぁ。そうか、いいもん見たね。今度、正木くんに写真を焼き増ししてもらおう。綺麗に取れてるといいな。
そこで１０分くらいいただろうか。雷鳥がどこかへ姿を消すと、お天気もなんだか持ち直した。
「よかったね、また雨かと思った」
私たちはなんとか無事に乗越の山小屋へたどり着き、予定通りのコースをまわった。次の朝は雄山の頂上の神社まで行き、ご来光を拝むことになっている。朝３時に山小屋を出るのだ。早く寝なくては。
でもその夜。
満天の星。静止衛星まで見えた。少し肌寒いけど、降るような星に感動する。山小屋の外でみんなで星を見た。
「僕、思うんですけど・・」
「何、正木くん」
「あの歌を歌うとお天気が悪くなりませんか？」
「え？」
あの歌って、『はじまりはいつも雨』のこと、やんね。
「うーん、考えすぎとちゃうかなぁ」
「ほんなら試してみますか？」
私は言われるままにその歌を口ずさんでみた。
と、どうだろう。
どこからともなく雲が湧き出した。星が見えなくなる。
「うわあああ、マジかよぉ」
小沢さんが目を丸くした。私もびっくりである。
「・・・どういう因果関係があるのかさっぱりわからんけど、とにかく、山を下りるまでその歌は歌わないことにしよな」
リーダーのまとめの一言にみんな、異存はなかった。
しかし、歌うなと言われると歌いたくなるのが人情というものであったりする。
次の日、山での最終日、日も昇らない登山道を行きながら私の頭の中にはあの歌が流れていた。でも歌えない。歌えないのに歌いたい。これはかなり苦しいものである。
でも本当にこの歌にそんな効果があるんだろうか。不思議で仕方がない。でも今試して、本当に雨が降ってきたら洒落にならない。こんなに苦労して登ってるのに、雨で太陽が見えなかったら意味がない。
「・・歌うたらあきませんよ」
「わ、わかってるってば、正木くん」
我慢に我慢して見たご来光はそれは神々しかった。雲海の果てから姿を現す太陽が、神様になぞらえられて何の不思議があるだろうかと思った。
そして、私たちは無事に山を下りることができた。下りたらこっちのモノである。
「もう、歌ってもいいよね」
黒部まで下りてきた時、ついに私は我慢しきれなくなった。
正木くんも同じ気持ちだったらしい。
「いっちゃいますか？」
「うん」
おもむろに歌い出す。観光客がたくさんいる中で歌を歌うのはかなり勇気がいることだけど、できるだけ小声で私たちは歌った。
そして。
世の中にはなかなか不思議なことがあるものなのだと、私たちは知ったのだった。