焼け付くような真夏の日差し
吹き出る汗は珠となり
やがて滴る花の上
見渡す限りの黄色い花々
今を盛りと咲き誇る
この花はいったい何の花？
弓手に触れた花の茎
これも何かの縁（えにし）でしょう
摘み取る白い爪の先
黄色い花粉が降りかかる
光にかざして眺めれば
春の盛りの菜の花が
「お前は誰？」と訝しむ
私は菜の花を握り潰して捨てた。
馬手に絡んだ菊の花
「私を摘んで」と微笑んだ
「先刻あなたの摘み取った、
花は私の良人（おっと）です。
どうぞあなたのその指で、
良人を殺したその指で、
私を殺してくださいな」
私は菊の望みを叶えてやった。つまり、むしり取ってちぎってばらばらにしてその辺に捨てた。
＊＊＊＊＊
駅前広場の花壇の前、午後二時二十七分。ハンドバッグから手帳を取り出す。ページをめくる。
間違いない。
待ち合わせの場所は「××駅前花壇の前」、時間は「午後二時ジャスト」だ。私の二十七分、じゃなくて、二十八分を返せ！二十八分もあればカップラーメンなら九回くらい作れるんだぞ。
雲ひとつない･･････というわけでもないけれど、すっきりと晴れ渡った空。お盆だからかもしれない。そして、木陰だというのに肌がじりじりする。肩から腕にかけてうっすらと色付き始めているような気もする。もしかしたら都会は海辺と同じくらい紫外線が多いのかもしれない。こんなことなら何か羽織るものでも持ってくればよかった。
さて、あれはおととしの夏のことでございます。その日私は悪い友達に誘われて、梅雨明け間もない相模湾に繰り出したのでございます。空は今日のようによく晴れ渡り、「絶好の海水浴日和」でした。
そこはまさに芋洗いでした。おびただしい裸体がごちゃごちゃと波に洗われていたのです。その光景を見るや否や私は帰りたくなりましたが、友人達は許してくれません。私の手を引いて波打ち際につれて行こうとするのです。私は紅白のパラソルにしがみついて嫌だ嫌だと泣きました。どうあっても私がそこから動こうとしないので、友人達もじきにあきらめて芋洗いの方へと去っていきました。
実は私は泳げません。でも楽しいことは波打ち際にいくらでも転がっています。だから泳げなくてもいいのです。たとえば、貝殻や流木やどこかの国から流れてきた缶詰を拾ったり、寄せては砕ける波を眺めたり。でも、そういうことって夏でなくてもできますよね。
真冬の日本海。打ち寄せる大波を命懸けで避けながら、流木を拾います。その流木で炊事をしたり暖を取ったりするのです。海岸で拾った流木は塩気をたっぷり含んでいるから、炊事に使うと鍋釜が傷むのですが、贅沢はいってられません。私の拾う流木以外に薪になるようなものはないのです。私は両腕で流木を抱え、頭のてっぺんから足先まで波の飛沫にじっとり濡れて、あの人の待っている家へ急ぐのです･･････。「あの人」って誰だ？あいつのことじゃあるまいな。
ええと、そうです、夏の海辺の話です。紅白のパラソルは悪趣味でしたが、波打ち際の芋洗いは醜悪でした。少なくとも私にはそう思えました。そして私には悪趣味よりも醜悪の方が堪え難かったのです。
おそらく、一人一人の人間の裸体はそんなに醜いものではないでしょう。たとえば、私の水着姿をさんざん酷評した友人達や、先程私の横を猫のようにすり抜けていった男の子はいうに及ばず、むこうにマグロのように転がっているお腹の出たおじさんだって、美しいとはいえなくても、醜いとは思えません。私見ではありますが。
ところが、そういったひとつひとつの肉体がいくつも集まってくんずほぐれつしているのを見るのは何ともやり切れないのです。それらは実際にくんずほぐれつしているわけではないのでしょうが、遠目にはそうとしか映らないのです。それが醜悪でたまらないのです。
ではなぜ私はここにいるのでしょう。
いったい、夏の浜辺で素敵な異性との出会いを期待しない若い女や男がどこにいるというのでしょう。少なくとも私は例外ではありませんでした。
水着といえばスクール水着しか持っていなかった私ですが（泳げないのだから当然です）、片瀬海岸であれを着るわけにはいかないでしょう？そこで私は新しい水着を買ったのです。
でも、私は友人達からさんざん馬鹿にされました（「････････････」「何考えてんの？」等々）。それも、私をパラソルの下に引き止めておく原因のひとつだったのです。
それでも、美しい殿方が近くを通るたびに膝を抱えたまま密かに秋波を送ったりしていたのですが、あまりに密かすぎたためか、誰も気付いてくれませんでした。あるいは、単に無視されただけのことかもしれません。
さて、一日中パラソルの下に隠れていたにもかかわらず、私は全身真っ赤に日焼けをしてしまいました。そうです、真っ黒ではありません、真っ赤にです。早い話がやけどですね。私の肌はもともと白い方なのですが、もしかしたらそれが災いしたのかもしれません。帰ってから数日間、熱を出して寝込みました。床上げをする頃には身体中のいたる所の皮膚がべろんと剥けたり、細かい水脹れのようなものができたりして、二目と見られない有様でした。それは二週間くらいで治りましたが、もう日焼けはごめんだ、という気持ちになっていました。だから夏の残りの日々をできるだけ肌を出さないような格好で過ごしたのです。
ちなみに私を海に誘った二人の友人は、こんがり小麦色に日焼けしてそのうえ夏の日の恋まで手に入れたようです。あとで聞いたのですが、彼女達は日焼けどめを塗っていたのです。私はといえば、日焼けどめの存在すら知らなかったのです。
このように、かつては私も夏の海辺に男漁りに繰り出したりしていたわけだが、要するにそれは私の「恋」も人並みに真夏の波打ち際に転がっていると思い込んでいたからだ。だが、そもそもそれが間違っていたのだ。
夏期講習会の初日、私は予備校の食堂の前のディスプレーのガラスに映った自分にキスしていた。それは何もガラスに映ったわが身の美しさに惑っていたわけでも、ガラスそのものに突然愛情を感じてしまったからでもない。コンタクトレンズを忘れたので、サンプルの前に表示されている料理の名前や値段を読み取ろうと、目を細めたりガラスに額を擦り付けたり涙ぐましい努力を続けていて、突然後ろから押されてそうなっただけのことだ。
自分自身の淡い虚像から唇を離したちょうどそのとき、突然誰かに肩を叩かれた。振り返ると私より首ひとつ分は背の高い見知らぬ男がそこに立っていた。
私はそいつが「あ、ごめんなさい、人違いでした」といって照れ笑いを浮かべるであろう様を期待していた。だがそいつはそんなそぶりも見せずにこう言った。
「一緒に昼飯でも食べませんか」
私は頭がくらくらするのを感じた。空腹で殺気立った受験生達が際限ないおしくらまんじゅうを繰り広げているその場所で、見知らぬ男に食事に誘われる。これは夢か幻か。身の危険を感じて咄嗟に逃げ出そうとしたが、おしくらまんじゅうの渦中にいてはそれもできなかった。
私は一応自分の記憶を疑ってみた。とうに忘れてしまった小中学校時代のクラスメートにこんなやつはいなかったかどうか。だが、はなから覚えもしなかった連中の顔などどうして思い出すことができるだろう。私は無駄な努力をやめて素直にたずねた。
「どこかでお会いしましたっけ」
「ええ、さっきの教室で」
「いえ、そういう事じゃなくて、もっと以前にどこかでお目にかかったことがありましたか？」
私はいらいらするのを抑えてもう一度聞き直した。
「いいえ、初対面です。気が付きませんでしたか？さっき通路を隔てて隣に座っていたのですよ」
そいつはガラスに肘をついて私を見下ろした。私はいつのまにかリュックを抱きしめていた。ふたたび頭がくらくらしてそっとガラスに寄り掛かるとガラスが軋んだ。
だが、そいつは私のことなどおかまいなしに急かすのだ。
「さあ一緒にお昼を食べましょう。早くしないと席がなくなりますよ」
私は一刻も早くその場から逃げ出したかった。しかし、そのためには私の視力では到底読めないであろうメニューの文字を読み取り、そいつが近寄れないような、ひとつだけぽつんと空いた座席を確保しなければならないと思い込んでいた。「またの機会にでも」と言い捨てて、近所の弁当屋かコンビニで食料を調達し、教室で食べるなどということには思いも及ばなかったのだ。
私はそいつをちょっと睨みつけてから、再びメニューの文字を読み取ろうとした。だが、いくら目を細めても、文字は滲んだ黒い点にしか見えないのだ。
「何にしましょうか？」
相手にしないにもかかわらず、そいつはまだそこにいた。ええい、うっとうしい！と思った瞬間私はひらめいた。
そうだ、こいつにメニューを読ませよう。
私は笑みを湛えてそいつに向き直ると、「あの、あれは幾らって書いてあるのかわかりますか」とサンプルを指差した。
「合格ラーメン、四百五十円」
そいつはぶっきらぼうに朗読した。私は思わず赤面した。こんな恥ずかしい名前だったとは！注文するときには自分でこの名前を口に出さなければならないのだ。
顔を背け「ありがとう」といったが、小さな声だったのでそいつには聞こえなかったかもしれない。私は満員の通勤電車のドアのような、食堂の入り口に向けて突進した。後ろからそいつの声が追いかけてきた。
「そんなに眼が悪いんですか？それじゃあ黒板なんて全然見えなかったんじゃないんですか」
かなり大きな声だったのでまわりの受験生達はみな振り返ったが、私だけは「大声を出すなよ、バカヤロー」とつぶやいただけだった。その言葉は私のすぐ近くにいた人達には聞こえたかもしれないが、そいつには聞こえなかっただろう。
それはその日私がいちばん気に病んでいたことだった。
コンタクトレンズを忘れたのに気付いたのは電車に乗って中吊り広告を見上げたときのことだ。それはたぶん二つの某女性週刊誌の広告が仲良く並んでいるものだったが、大きな文字で書かれたその雑誌の名前すら判読できなかった。
家に引き返すのは時間的に無理だった。
予備校に着いたときにはすでに教室の前半分が埋まっていて、私は後ろから三分の二くらいの場所にやっと座ることができた、しかしそこからではコンタクトなしでは黒板の文字も、講師の顔も、ほとんどわからないのだ。夏期講習第一日目の不幸にすっかり落胆した私は不真面目な受験生を演出した。テキストだけを開いて筆記用具もノートもしまって、天井のあたりを見つめたり、机に突っ伏したりしていた。それが唯一私の矜持を保つ方法だと思えたのだ。そしてその一方、聴覚だけは砥ぎ済まして、一言も聞き漏らさないようにしていた。でも、たいした役には立たなかった。
私は自分の愚かさを衆目の中で暴露されたことに腹が立った。
私は少しでもそいつから離れたところへ行きたかった。だが、あまりに多くの受験生が入り口に人が殺到したためか、人をかき分けるどころか、囲まれて翻弄されるばかりだった。戻るにも戻れなかった。
ようやくそこから抜け出し、食堂の中に入ったときには空席などどこにもなかった。空席だと思って近寄っても、必ず椅子の上に鞄が置かれていた。あてもなくテーブルとテーブルのあいだをさまよっていたとき突然暖かいものが私の左手をつかんだ。
「ぎゃあ！」
金属的な響きが私の耳に届いた。
あたりは水を打ったように静まり返った。食事をしていた人も、窓際で煙草を吸っていた人も、談笑していた人も、厨房の前に並んでいた人も、厨房の中で働いていた人も、皆私の方を見ていた。
どうしよう。
「ごめんなさい」
私は訳もわからぬままにあちこちを向いて何度も何度も頭を下げた。するとしだいに喧騒が戻ってきた。人々は再びはしを動かし、煙草をふかし、談笑し、働き始めた。
いつのまにか顔が紅潮していた。居たたまれなくなった私はすぐにその場を立ち去ろうとした。すると行く手に誰かがしゃがみこんでいる。
「やあ」
そいつは右手をあげて無邪気に挨拶した。私はすぐに悟った。そいつが、さっき私のことを食事に誘ったそいつが、突然私の手を握ったのに違いなかった。
「あんたがやったのね」
私は抑え難いほどの怒りが込み上げてくるのを感じた。体がわなないていた。
私は爆発寸前だった。
私はそいつを平手打ちにする。「ぱーん」という乾いた音が響き渡り、ふたたびあたりは静まり返る。そいつは打たれた頬を押さえ、涙をたたえた瞳で私のことを見つめる、足元のバッグをひったくるようにしてその場を走り去る。
そして、その場に呆然と立ち尽くす私。人々はときどき私の方を見てひそひそ話をする。翌日教室に入っていくと、私に気付いた学生が隣の学生の肩を叩き、何か耳打ちする。だが、私にはそれが聞き取れない。そのうち、耳打ちやひそひそ話が伝染病のように教室中に広がっていく。不特定の視線が常に私の方をうかがっている。教室に講師が入ってくるとひそひそ話は止む。やがて講師がマイクを持って通路を行き来する。彼は、私のすぐ近くまで来ると、意味ありげな視線を私に投げかける。昼休みに食堂へ行く。厨房の中の人達は私を見るなりトレーを持って並んでいる学生達に何かささやく。そして私はあいつを探すのだが、見つけることはできない･･････。
そこまで考えると少し落ち着いた。そいつの手を取り「ちょっとこっちへ来て」と立ち上がらせて窓際まで連れていった。私はできるだけ自分を抑えていった。
「いったいどういうつもりなのよ」
そいつは滞りなく答えた。
「席も食券も用意したから一緒に食べようよというつもりだったんだ」
私はなぜか拍子抜けした。そして心の中ではそいつのことを許してしまった。しかし追求することはやめなかった。
「それでいきなり私の手を握ったわけ？」
「だって君の名前を呼ぼうにも名前を知らないもの。ほかにどうすればよかったのかなあ」
そいつは本当に困ったようにいった。
「さっきみたいに肩を叩かれた方がまだましよ」
「ああ、なるほど。今度からはそうするよ」
「『今度』はもうないわよ」
時計を見ると午後の講義が始まるまであと十五分しかなかった。あたりをきょろきょろ見回したが、いっこうに席の空く気配はない。そしておなかはぺこぺこだった。そしてそいつは座席も食券も確保してあるという。
「なぜ？」とそいつは聞いた。私はそれには答えずにいった。
「でも今日だけ、今日だけは食事を付き合ってあげる。でもさっきのことは許せないわね」
私はそいつの頬を軽くたたいた。
「気安く人の手を握ったりするんじゃないわよ」
そいつは頬に手をあてて笑った。
時間がなかったのでラーメンのスープの飛沫が当たりに飛び散るのもかまわずにかきこんだ。どんぶりを置くが早いか私はリュックから財布を取り出し、五百円玉を一枚取り出すとそいつの前に置いた。そいつはおいしそうに水を飲んでいたが、静かにコップを置くと、「困ったな」とつぶやいた。
そいつは矢庭に財布を取り出すと中身をテーブルの上に並べた。扇形に広げられた七枚の一万円札、そして五円玉が一枚。
「申し訳ありません。私の財布にあるのはこれだけです。だからお釣りを払えません。どうしましょう」
「私もそれしか持ち合わせがないのよ。困ったわね」
私は財布の中に残されている三枚の一円玉を思い浮かべていった。
「それじゃ、こうしましょう。明日、講義のときにお返しします。大丈夫、踏み倒したりしませんよ。あ、もうこんな時間だ。それじゃまたあした。あ、それから僕、ナカハラといいます。以後お見知りおきを」
私が何もいわないうちに、そいつはさっさと席を立つとぺこりとお辞儀をして行ってしまった。私は呆然とその後ろ姿を見送った･･････。
つまらない追憶に浸っているうちにもう二時三十九分になってしまった。日焼けは着実に進行しているに違いない。だいたいその原因を作ったのは、そいつ、つまりナカハラなのだ。二時四十分！四十分も待たせるとは！遅刻はいつものこととはいえ、もうこれ以上は待てない。
でも、せっかくドレスアップしてきたのにこのまま家に帰るのは情けないよ。買い物でもして帰ろうかな。筋向かいのデパートに「夏物最終処分！！50％off」なんていう垂れ幕が見える。でも、バーゲン会場にいる自分を思い浮かべても少しも楽しくない。
どこかの美術館にでも行こうかなあ。どこの美術館に行けばいいだろう。
ふっと頭に浮かんだのが友達に聞いた文学博物館。入り口のホールでは自動ピアノがモーツァルトを奏でているという。美術館ではないけれど、これに決めた。ナカハラと一緒じゃ、絶対に行かないと思うし。たしか、ここから電車で十分もかからないところにあったはずだ。
そう決心して切符売り場のほうに歩き出そうとしたときになってはじめて、花壇の花がどれもこれもまるで元気がないのに気付いた。葉がだらんとしているもの、花びらが散りかかっているもの、形はそのままで萎れかかっているもの。ここは花にとっても暮らしやすい場所ではないのだ。
花壇の向こうのビルの、大きなスクリーンが、青い空、青い海、白い砂を映し出している。きれいな海が見たいな、テレビの画面でも写真でもなく、本物の海を。熱帯の海を。でも、そこにはきっと都会や湘南の海よりも強力な紫外線が降り注いでいるに違いないのだ。
＊＊＊＊＊
一面の花畑
高い山の上にあるというお花畑もこんな感じ？
斜面を降りたところには
青く澄んだ池が見える
縁に立つと
周囲の花がはなびらや花粉を水中に垂れ流している
まるで
透明水彩の
カドミウムイエローの絵の具を
水中に溶かしこんでいるみたいだ
＊＊＊＊＊
電車は空いている。座席は半分も埋まっていない。やや傾いた太陽光線が向かいの座席の人達を後ろから照らしている。カーテンを閉めればいいのに。でもカーテンが開いているからこそ、私は残暑に疲れた町並みを一望することができるのだ。逆光にかすんだ町並みは晩夏よりも小春日を思わせた。だがもちろん、今は夏だ。日差しを喜ぶべき季節ではない。だが車内は人が少ない上にがんがんにエアコンが利いていて、季節は晩秋、暖かい日差しが嬉しいな、という錯覚に陥ってしまうのだ。
それに、お盆というのは東京を変質させる。空気はきれいになるし、人も少なくなる。東京から大気汚染と人ごみを差し引いたら、いったい何が残るのでしょうか？
電車がプラットホームに滑り込んだので席を立った。停車したドアの前には、ラッキー、かっこいいおじいさんが。司馬遼みたいな白髪、マリオネットのように伸びた背筋、ポケットに手を突っ込んでるあたりが素敵。
でもおじいさんの私を見る目はまんまるでした。ああ、この人は驚いているのだ。おじいさんはドアが開く前に横へ退いた。おそらくは降りる人の邪魔にならないために。あるいは私を避けるために。
その出入り口からは私一人しか降りなかった。視線を感じておじいさんを見ると、さっきとおんなじまんまるおめめで私のことを見つめている。私はちょっと微笑みかける。
発車のベルが鳴る。ドアの閉まる音がする。私はくるりと振り返る。おじいさんはまだ私に見とれている。私はおじいさんに手を振る。電車が動き出す。それでもおじいさんの視線は私に釘付けだ。
私はどうかしています。暑いせいでしょうか。それとも紫外線のせいでしょうか。
駅前の鬱蒼とした木立は金属的な騒音に包まれていた。元凶はアブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシ、といったところだろうか。これらの蝉が一斉に鳴くと節操が感じられなくて嫌だ。お盆の頃にはミンミンゼミに少しばかりツクツクボウシをブレンドしたくらいが美しいと思う。隠し味に遠くで鳴くアブラゼミも悪くない。個人的にはクマゼミはうるさすぎて好きじゃない。
この無節操な自然の騒音をまき散らしているのはナカハラの通う大学だ。
おもむろにパラソルを開いて歩きはじめる。太陽は容赦なくアスファルトの上に照り付けている。でも光化学スモッグはないし、夕立の心配もなさそうだ。その分紫外線は強いのだろう。やっぱり羽織るものを持ってくればよかった。
頭上に広がるまあるいお花畑。青い空と黄色い花、花、花。春爛漫の菜の花畑。ガラスの粉をばらまいたみたいにぎらぎらする。それ以上にぎらぎらするのが真夏の太陽。
＊＊＊＊＊
まるで見通しがきかない
なま暖かい空気が黄色い香りを含んでまとわりつく
花粉？
むしろ黄色い花弁が溶け出しているようだ
甘ったるい空気があたりを満たしていく
花をかき分ける、
息が切れる、
地平の薄明りを目指して、
歩く、歩く。
歩かなければ、
ならないような気がする。
誰かが呼んでいる
大声を上げる
溶け出した花弁が
なにもかも満たしていく
＊＊＊＊＊
門を入る。あたりは鬱蒼とした木々に覆われ、木漏れ日が私のひまわり畑に黄土色の染みをつける。もうパラソルは必要なさそうだ。
音を立てて砂利道を歩く。やがて行く手に古風な洋館が見える。昔は誰かの屋敷だった、と友達にきいた。玄関の扉は閉まっている。大きな取っ手を恐る恐る回してみる。意外にも、たいした手応えもなく回転する。扉を押してみるが開かない。押してだめなら引いてみろ。すると今度は音もなく開いた。
中に入ると外の暑さがうそのようにひんやりとしていた。いっきに汗が引っ込む。見上げると高い天井からごちゃごちゃ装飾のある電灯がひとつぶら下がっている。天井そのものは漆喰で塗り固めたままの色だ。天井と壁の継ぎ目のあたりは曲面でつながっていて、蔦だか花だかよく分からない装飾が趣味の悪くならない程度に施されている。
これぞ大正（かどうか知らないが）ロマンティック！
「どうぞ」
感慨にひたっている私に突然声を掛けるのは誰？びくっとして振り返ると涼しげに白い半袖のシャツを着こなした初老の紳士がパンフレットのようなものを手渡してくれる。私は軽く会釈をして受け取る。その人は駅のおじいさんのように不躾な視線を向けたりはしない。
私は玄関からホールへと足を踏み入れる。すると後ろからその人の声が歌うように、あたりに反響しながら、追いかけてくる。
「順路に沿ってご覧ください。閉館は四時三十分です」
ホールには誰もいなかった。私は窓が開け放たれているのに気付いた。
「涼しいのはエアコンのせいじゃないんだ･･････」
そのつぶやきはほんの少しだけあたりに反響した。しかしその場を支配していた音響はピアノによって作り出されたものだった。そのピアノは友達が「モーツァルトを奏でる」といったものに違いない。
ピアノはその場にあるすべてのものと調和した音色を紡いでいる。それは、引退してもう決してコンサートホールで弾くことはないけれども、友人に頼まれればその人の家の客間でソナタの二、三曲を弾くのはいっこうに厭わない、往年の名ピアニストの音色を髣髴とさせる。
彼は暖炉のそばで、たった五人の聴衆──彼を招いてくれた親友とその妻、彼のパトロンともいえる十五歳も年下の実業家とその妻、そして彼の妻──のためだけにピアノを弾く。彼はもう決して気取って弾かない。また、かつて身を焦がした数々の秘められた恋を思い起こしながら弾くこともない──たとえそのうちの一人が目の前に座り、うっとりと追憶に浸っているのを認めたとしても。
彼は千人を越える聴衆の拍手喝采を期待して弾くこともないし、彼に支払われる莫大な金のために弾くこともない。彼はただピアノを弾く。彼にはもう五人の聴衆すら目の前にいないも同じことだった。
彼のピアノは涙を誘うこともないし、恋の歓喜を呼び覚ますこともない。彼のピアノは愛も恋も感動もすべて拒否する。
やがて彼の前から聴衆は去っていく。あるいは彼のほうが去っていくのかもしれない。親友夫妻、実業家夫妻、そして彼の妻。しかし彼は弾き続ける。弾き続けることができる限り──いや、できなくなっても彼はピアノを弾くのだ･･････。姿も形もなくなった彼はまだピアノを弾き続ける。そのメロディはこのホールに流れ続けていて、そこにたまたま来合わせたのが私なのだ。
ピアノの前には赤いロープが巡らしてあって、その内側には「お手を触れないでください」と書いた立て札がある。ピアノは誰の手も借りず、黒鍵や白鍵を上下させていた。私が近づいたからといって彼は手を休めるようなことはしない。そばに誰がいようといまいと、ただピアノを弾くのだ。
私は目に見えない彼を後にして展示室に向かった。展示してあるのは、古そうな本だとか、へたくそな読めない字で埋まっている原稿などだ。部屋から部屋へと見てまわっても、知っている作家はまるでいない。明治とか大正とか、そんな時代の作家ばかりなのだ。だから、あまり親近感を持ってみることはできない。ただ感心させられるのは、字の下手な作家が多いということだ。
おっと出ました、夏目漱石。さすがの私も千円札のこの方くらいは存じております。でも、作品で読んだことがあるのは「こころ」だけかなあ。高校の授業で取り上げたからね。確かＫっていう人が失恋して自殺しちゃうんだよね。
「先生」って奴が裏切るから悪いんだよ。それで「先生」もせっかく奪った奥さんを残して自殺するなんて、結局「先生」にとって奥さんは何だったのかな。でも、同じ家に住まないと恋愛できないなんてやだな。
ナカハラと始めて会った翌日、私はちょっとそわそわしていた。ナカハラと名乗ったあいつは本当に五十円を返してくれるのだろうか。あのごちゃごちゃした、灰色の、精気を欠いた若い連中であふれ返った教室で、ナカハラは本当に私のことを見つけることができるだろうか。もしかしたら私だって、少しだけ軽蔑している他の受験生達とすっかり同化しているのかもしれないのだ。私だって受験生なのだから。
だから、少し目立つ格好をすることにした。でも、どんな格好なら目立つかな。箪笥を開けるとそこは極彩色イロトリドリ、節操も何もあったもんじゃない。その中ですぐに私の目を射たのは真っ赤なノースリーブのワンピース。前の年に買って日焼けの後遺症で結局着れなかったやつだ。着てみると、私にとっては過激に裾が短い。でもまあいいか。いちばん鮮やかなルージュを引き──とはいっても口紅は二本しか持っていないのだが──お気に入りの真っ赤なリュックにテキストとノートとペンケース、忘れちゃならない受講証、それから少し重くなるけど辞書を放り込んで家を飛び出す。昨日より二十分も早い。
外の風景は昨日とは一変していた。何もかも鮮やかにはっきり見える。コンタクトレンズのせいだ。
教室の前の扉から入ろうとしたが、必要以上に目立ちそうなので止めた。いつもこういう服装をしていると、ケバい女とか、なんか勘違いしてんじゃねーの、とか言われて有名になるのかもしれないな。それは嫌だ。
後ろの扉から教室の中に入ると、まだ前の講義が終わったばかりだというのに既に前半分は埋まっていた。仕方なく半分よりやや後ろの窓際の席に座った。
その前の席も空いていたのだが、コンクリートの柱があって外の光が入らないからやめた。どうせ窓はでこぼこのある針金入りのガラスだから外は見えないが、外の光が入らないとなんかうっとうしくて嫌なのだ。
ガラスは青く染まって見えた。その向こうには青空が広がっているのだろう。頬杖をついてぼんやりと窓を眺めていると、突然誰かが隣に座った。ナカハラだった。「おはようございます」と挨拶をするナカハラの前後一列および隣には誰も座っていなかったが、見回すと教室はもうほとんど満席だった。
「今日はまたずいぶんと目立ちますね、その格好。おかげで探すのは簡単でした。でも近寄るのは少し恐かったですね」
ナカハラが私のとなりに座ると、やっとまわりの空席も埋まりはじめた。
「昨日の五十円返して」
私は早速切り出した。ナカハラは財布から五十円玉を取り出すと机の上に置いた。私はそれをつまんで自分の財布に放り込んだ。
「それからこれ」
ナカハラが差し出したのはＢ５の紙の束。表紙はただの白い紙で、左上をホッチキスで止めてある。ぱらぱらめくると、ワープロで打ったと思しき英文と和文が程よい行間でページを埋めている。私はそれが何だかすぐに解ったが、「なにこれ」と聞いた。
「昨日の講義のノートですよ。それをあなたにさし上げます。もし必要なら、講義を録音したテープもさし上げますが」
ナカハラの言葉に私は目眩を感じた。こいつはなぜこんなに親切なんだろう。もちろんその理由はわかっていた。
「これ貰っとくわ」
私は紙の束をリュックにしまい込んだ。
「お願いがあります」
そらきた。
「何？」
「あなたの名前を教えてください」
私はナカハラの顔をじっと見た。そして自分の名前を告げた。
あのときは、私のためにわざわざワープロを打ってきてくれたのか、と感動したものだった。しかしナカハラはワープロでノートの清書をするのが日課であり、何も恩義を感じる必要などなかったのだ。
だがそれ以上に、どうして私はたかだか五十円にあれほどこだわったのだろう。
その部屋を出ようとすると、向かいの部屋から全身まっ黄色の女が出てきた──だがそれは出掛ける前に鏡でチェックした自分の姿と同じものだ。黄色く染めた髪、ひまわりの花をかたどったピアス、ひまわり柄のサンドレスとバッグ、パラソル、サンダル。何とも紛らわしいことに、部屋の出入り口の正面の壁に大きな姿見が据え付けてあったのだ。
「ナカハラを驚かせてやりたい」私はそれだけを考えてドレスアップしてきた。
ひまわりコーディネートのそもそもの発端は古着屋で見つけた流行遅れのサンドレスだった。ドレスにプリントされたひまわり達が私を手招きする。近づいていくと店員には聞こえないように小さな声で「私達を連れて逃げて」とささやく。私は店員に九百五十円也を支払って、彼女達を連れ出した。
それから彼女達の友達を探してほかの古着屋やデパートのバーゲン会場を奔走し、できあがったのがこのコーディネート。
でも私一人だけ仲間はずれだった。私はひまわりではなかったのだ。というわけで昨日になって髪を染めた。両親は驚いたが何も言わなかった。
驚いたのは両親だけではない。道行く人達も驚いた──たとえば駅で会ったおじいさんみたいに。そぶりは見せなかったけど、ここの受け付けの人だって驚いたのかもしれない。そして自分自身も驚いた。
そして、もしかしたらナカハラも驚いたのかもしれない。驚いて、何も言わずに帰ってしまったのかもしれない。だとすれば今頃は布団の中でうなされていることだろう。そしてもしそれが事実なら、遅刻だ遅刻だといってナカハラのことを責めるのは当たっていない。私は鏡を睨みつけた。
廊下の窓からは日の光がさんさんと降り注いでいる。でも、窓が汚れているためか、夏の勢いは感じられない。光線は向い側の壁にぶつかり、その部分を四角くベージュに染めている。この色彩には見覚えがある。委員会かなにかの仕事で遅くまで学校に残っていたときに見た色彩であり、午睡から目覚めたときシーツの上に認めた色彩であり、友達の家から強風に吹かれて帰ってきたときに路上に見た色彩である。そしてそのたびに風邪を引いた。今回も風邪を引くのだろうか。
感慨に耽りながら壁を眺めていると、先程の部屋からきれいな男の子が出てきた。男の子は鏡を見て一瞬硬直する。だがすぐそれと気付いたのか、今度は息が掛かるほど鏡に近づき一心に髪をいじりはじめる。私は窓側の壁に寄りかかって壁を見つめる振りをして、視界の隅で男の子に注意を集中する。やや長い豊かな髪。脱色又は染めてあるのが惜しい。本来なら烏の濡れ羽色であるだろうに。形のよい眉。切れ長の目。やや低いが整った鼻。薄い唇。尖った顎。細く長い手足。よく引き締まった臀部。
続いて男の子ほどきれいではない女の子が出てくる。女の子は男の子を見てため息をつく。私に聞こえるくらいだから男の子に聞こえないはずがない。だが男の子はいっこうに鏡から離れようとしない。女の子はうんざりしているようにみえる。
「ねえ、早く次ぎ行こうよ」
「ちょっと待った。今日は髪型がうまく決まんなくてさ」
「そんなことないよ、いつもより決まってるよ」
「いや、ここんとこが･･････」
「ねえ、私先行っちゃうよ」
「･･････そんなに急ぐことないじゃん」
この間男の子は鏡から視線を逸らさない。
「一時間も遅刻してきて何いってんのよ！」
女の子が大きな声を出したので廊下に反響する。女の子はそれに驚いたのか、あたりをきょろきょろ見回す。しかし男の子は鏡から目を離さない。女の子の視線は私のところで止まった。目を大きく見開き、こちらを見たまま男の子に近寄り何か耳打ちする。男の子は私を一瞥するが、すぐ鏡に向き直る。私は壁から離れて次の展示室に向かう。
そうか、待つんなら一時間くらいは待たないとだめなのか･･････。
ひととおり展示を見終ると、もう四時を回っていた。見慣れないものを見たせいか、頭ががんがんする。こめかみを押さえるとピアスが掌に触れる。
ホールへ続く広い階段をゆっくり降りていく。ピアノの音色はもう聞こえて来ない。なるほど、ピアノの前の立て札は「本日の演奏は終了しました」に変わっている。お休み、ピアニスト。
来たときには気付かなかったが、ホールの隣には小さなサロンがあって、白い椅子とテーブルがいくつか置いてある。それらはスチールのパイプと薄い鉄板を組み合わせて作った安っぽいもので、およそこの空間には不似合いだった。
椅子の一つに腰掛け、窓の外を眺めた。芝生に差す日はまだ高い。
蝉の声はうるさいほどだ。おや？カナカナゼミの声が聞こえる。今年の夏ももう終わり。そんな気がした。だが、残暑はまだまだ続くのだ。
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息が切れる
汗がにじむ
生あたたく甘ったるい空気
ひまわりはサンドレス、
サンドレスはパラソル、
パラソルはハンドバッグ、
ハンドバッグはサンダル、
サンダルはピアス、
ピアスは私。
空は霞んでミルク色
太陽はどこへいったのだろう？
ピアスを遠くへ、
できるだけ遠くへ、
放り投げる。
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「だからなんだっていうのよ！」
私は吐き捨てるようにいった。はっとしてあたりを見回すと、先程出会った男の子と女の子が、向こうの隅っこに座って怪訝そうにこちらを見ている。私は彼らに向かって微笑む。なんでもないのよ。
なんてばつの悪い。
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「結局私っていつもこうなのよね」と私。
「それはきみがそう思うからさ」とナカハラではない、誰か。
「そうかしら？」
「嘘だと思うんなら目を閉じて三つ数えてごらん」
私は言われたとおりにする･･････１･･････２･･････３。
夏の終わりの青空に黄色い花弁がひとひら舞った。