キス（１９９３）
羊一
私はモリナガヨウコとカウンター席に並んで食事をしていて、目の前では、誰かの注文したトンカツが音を立てて揚がりつつある。あんなにゴツゴツしたオヤジの手から、どうしてこんなにも芸術品のようなトンカツが生まれるのだろう。その横では、おばちゃんがとんとん・とんとんとリズムに乗ってキャベツをきざむ。昔、映画で見たアメリカのエリートビジネスマンの女性秘書が、ＩＢＭ電動タイプライターを叩くみたいな気持ちのいいリズムだ。店の中の何もかもが、それに合わせて回転しはじめるような。
コの字型のカウンター席には家族連れ二組（うち一組はうるさい子供つき）、あとは私たち二人で店は満員だ。家族連れが二組もいるのは今日が土曜日だからだ。
おばちゃんの威勢のいい声とともに、私たちの「コロッケ定食」が登場する。いちばん安いけれども、皿の上には大きな「いもコロッケ」が三つ。それからシイタケとシシトウとタマネギの串揚げ。味噌汁。大根とキュウリとナスの漬け物。キャベツとご飯おかわり自由。七百八十円。
「お得だ」と改めて感嘆の声を上げつつ、モリナガヨウコはコロッケをほおばる。
私はシイタケを串からはずし、慎重に少しだけ塩をふる。早く食べて、とモリナガヨウコが催促する。
言われなくても食べるってば。
「食べてるところを見て自らの糧（笑）にするんだから」
私がシイタケを食べるのを（完璧な塩加減）、彼女はじっと眺める。そして、「おいしそう」と言う。
ふと思い出すのは、長らく自分が忌み嫌ってきたあの図式だ。
向かい合って食事をしている恋人同士。
どうやら彼の部屋らしい。
彼女がつくった食事。
味噌汁、肉じゃが、野菜炒め、等々。
それを片端から平らげていく男。
ほっぺにごはんつぶなんかをつけている。
それをにこにこと眺めている女。
男、ふと顔を上げ、
男 なに見てるんだ？
女 （クスッと笑って）なんでもない、見ていたかっただけ。
男 変なやつ。
男、再び食事に取りかかる。
――店の入り口のガラス戸を鏡にして、私は頬にご飯つぶがついていないことを確認する。口の周りにご飯つぶをつけながら食べているところを微笑みながら見られるような男にだけはなるまい。
モリナガは味噌汁をすすり、ご飯を食べる。モリナガだって、相当おいしそうだ。
「ヨーイチさんといると太るよ」
というのがモリナガヨウコの口癖だ。以前の私はこんなに食べる人間じゃなかったんだ、という今は説得力を持たない主張も、嘘ではないらしい。
体重計の上から、聞こえよがしに彼女は言う。
「ヨーイチさんとつき合いだしてから、毎年平均一キロの割合で私の体重は増加している」
「毎年一キロ？」
私の目には、彼女が特に太ったようには見えない。しかし、彼女の足の指の間からのぞく目盛は、〈53.5キロ〉を指している。去年の今頃は確か〈52.6キロ〉だったと思う。もっと前には49キロ台だったような。
パジャマに着替えてから、彼女はもう一度体重計に乗った。〈53.1キロ〉だった。
「0.4キロ減少」得意そうに彼女は言う。
私の方はといえば、放っておくとどんどんと体重が減るのだ。病気なわけではなく、親からもらったそういう体質なのだ。彼女をどかせて体重計に乗ってみると、58.5キロだった。去年の今頃は確か60キロはあったはずだ。1.5 キロ減っている。四年前には64キロぐらいあったような。職場の近所の「あずま亭」の「オムライス・チャーシューめんセット、しかも両方ともフルサイズ」という傍若無人な昼定食を毎日食べていた頃だ。これで残業の夜食に「中華丼」を取るものだから、さすがの私の体質もかなわなかった。
「ねえ、今頭の中で折れ線グラフを描いたでしょう」
モリナガが鋭く指摘する。右さがりのグラフ（ヨーイチ）と右あがりのグラフ（モリナガ）が交差する点、数学の苦手な私には、体重の逆転するそのポイントがどのくらい先なのか計算できなかった。モリナガも実は同じグラフを思い浮かべていたようだが、彼女が計算できたのかどうか、私にはわからない。
モリナガヨウコがシャワーを浴びている間、私はこっそりと彼女のパソコンの電源を入れ、エクセルを起動したが、起動するのを待っている間に寝てしまった。
体重問題はともかくとして、深刻な顔つきで体重計に乗っているモリナガヨウコという風景が私はとても好きだ。
太ることを気にせずにたくさん食べる方法。
「そんなものが発明されたらノーベル賞だよ」
でも、次善の策ならある。一日に食べる量は同じでも、朝食をたっぷりと、夜はなるべく軽めに。八時すぎたら食物は口にしない。
したがって、朝は早く起きるべきだ。
日曜の朝、七時半に目覚ましが鳴る。ほとんど意識がないまま止めてしまう。その姿勢のまましばらくじっとしていると、ようやくはっきりしてきた頭で思い出す。そうだ、これは無意識に止めても五分経つとまた鳴るようになっている私の部屋の目覚まし時計ではない。ここはモリナガヨウコの部屋なのだ。
毛布と枕の層の下からモリナガの頭を掘り出す。ちょっとだけ寝顔を鑑賞してから、顔をひっぱたく。
「朝だ、起床」
「まだお腹すいてない」半分寝たままのモリナガは答える。私は納得し、そのまま眠ってしまう。日曜日はだいたい毎週こんなパターンになる。要改善。
パターンといえば、結局先に起きたのが空腹に耐えかねたモリナガヨウコで、それは午後一時過ぎ、というのもいつも通りなのだった。モリナガは私の方をゆさゆさゆさと揺する。
「何か食べに行こうよ、お腹すいたよ」
開かない目をこじ開けながら「うん」と返事をしてよく見れば、彼女はすでに着替えていて出発の準備が整っている。
私はといえば、寝ぐせを直さなければ、ブラシとドライヤー貸して、歯も磨かなきゃ、あ、靴下がどこかにいっちゃった。
「あれ、どうしてパソコンの電源が入ってるんだろう？」とモリナガヨウコは怪訝そうに言った。
駅まで行く途中、近所の公園に寄る。私たちがよく待ち合わせに使う公園だ。小さいけれども、池があってカモとアヒルがいる。カモとアヒルのいない公園など公園ではない、というのが二人の一致した見解だ。春になったら近所の「さかえ寿司」で「ネギトロ巻き」を買ってきて、カモを眺めながら食べよう。それはそうと、
「何を食べようか？」
「デパートを襲撃しよう」
「いいですねえ」
そういうわけで、久しぶりにデパート地下食品売場ツアーにでかけることにする。世界に誇れる日本のデートスポットだ。
デパート地下食品売場襲撃は、私たちの最もすくな遊びのひとつだ。デパートに到着すれば、地上より上には目もくれず、私たちは迅速に地下に向かうのだ。そしてまずオードブルとして、（1）「世界のチーズコーナー」に攻め入るだろう。クラコットに乗せた各種チーズを賞味する。「給食に出てくるあのウィンナーみたいな形をした細長いチーズが、チーズ嫌いの日本人を増やしている」というのはモリナガヨウコの分析だ。「でも、お父さんはあの細長チーズが大好きで、晩酌のときにあれがないと怒るの。それでお前らは俺みたいにチーズを食わんからすぐに風邪ひくんだとか言うの。お父さんに、世の中にはこんなにおいしいチーズがたくさんあるんだって教えてあげたい」でも、そういう彼女も私も、チェダーとかエメンタールとかゴーダとかの食べやすいチーズしか食べられない。実は二人ともそんなにチーズには強くないのだ。でも詳しいふりをしてチーズ売場を通過、都合のいいことに、チーズ売り場のすぐ裏手は（2）洋酒売り場になっている。チーズの後味が消えないうちに、急いで洋酒売り場に移動、運がよければ、駅弁のお茶みたいな小さなカップでワインの試飲ができる。もちろん、試飲できるのはそんなに高いワインではないが、私たちはワインも初心者だから問題はない。赤い顔で右に折れれば、そこは（3）パン売場だ。ここでは黒くて固くてぼそぼそしていてちょっと酸っぱいドイツのパンが小さく切って山盛りかごに入っている。これは二人とも気に入っている。なんだかヨーロッパに行きたくなり、去年丸井の旅行カウンターで見つけた格安チケットでオランダに行ってしまった。再び奥に向かって直進、神戸かどこかのホテルのレストラン直営の（4）ハンバーグの試食コーナー。店で出すハンバーグがそのまま真空パックになっていて、一個500 円、なかなか贅沢な気分にひたれる。モリナガは「ペッパーハンバーグ」、私は「野菜ハンバーグ」がお気に入り。ペッパーはおいしいけれど、以前胡椒の粒がのどにはりついて売場をのたうち回る羽目になったので、避ける。次の角を右折すれば（5）中華お総菜。大きな肉まん、ヤキソバ、野菜と肉の炒めものはガラス越しに覗くだけ、でもときどき気前良く半分に切った春巻きを食べさせてくれたりする。棒棒鶏が食べたい。直進して（6）寿司。私はここのいなり寿司が胡麻がよくきいていて好きなのに、試食できるのはいつも太巻きばかりだ。でもモリナガは太巻きが大好きなのだ。めずらしい、私たちの不一致。穴場は奥の生鮮食料品コーナーの（その他／オプション）肉屋で、ここでは肉に混じってコロッケやフライドチキンを売っているのだが、昼過ぎを狙っていくと、余ったフライドチキンを七本500 円くらいで売ってくれる。春なんかは、これを（ちゃんとお金を払って買って）屋上で食べると最高に幸せな気分になれる。デザートにも抜かりはなく、（7）和菓子で羊羹、ういろう、最中なんでもありだが、試食をやっていることは少ない。試食中はそれに合わせるように隣のお茶屋さんで、日本茶の試飲をやっている。ジェラートくらいはお金を払って食べようか。
というわけで、私たちはデパート地下食品売場が大好きだ。
「デパートっていうのは、ちゃんと私たちみたいな利用の仕方も想定してるのよ」とはモリナガヨウコの主張だ。でなければチーズの横にワインがあり、和菓子の横に日本茶がある理由が説明できない、そうだ。
時に論理を前面に押し出してくるモリナガヨウコ。
とりあえず、今日のターゲットは渋谷東急に決定し、私たちは渋谷を目指すべく駅に向かう。
渋谷に向かう電車の中で、モリナガヨウコはバッグの中から巨大なチョコレートを取り出す。
「ダイエットしないでいいの？」
やっぱり、少しだけ心配になったのだ。
「いっしょにモノを食べなきゃヨーイチさんとつき合ってる意味がないもの」と彼女は言う。
「四分の三、食べて」
「四分の三？」
「私が四分の一以上食べることを防止するために」
「じゃあ、チョコレートなんか食べなければいいのに」
「モリナガという家に生まれた以上、私はチョコレートを愛する運命なの」
言われたとおりに私はそのチョコレートの四分の三をかじる。モリナガは体重が増えているかもしれないが、私は虫歯が増えつつある。それから飲み物が欲しくなったので、急行待ちの間にホームの自動販売機で「ジョージア」を買って飲む。「やすらぎパーカー」をもらって以来、私は努めて「ジョージア」を飲むように心がけている。
「太らない体質、いいな」四分の一チョコレートをぽりぽりとかじりながら、モリナガはうらやましそうに言う。
「同じだけ食べてるのに一方は太ってもう一方は太らないなんて、不公平だよ」
「世の中に禿げる人と禿げない人がいるのと同じだよ」
「禿げたら増毛するなりカツラ作るなりという方法があるでしょう。でも、太ったらやせる以外に方法はない」
いやいや、増毛やカツラだってお金がかかる、月最低でも一万から二万の出費でボーナス月八万で五年ローン、総額では百五十万から二百万近く、車が買えてしまう、ダイエットなら無料だと説いて、増毛とカツラに詳しいことに感心された。
それから私たちは「ジョージア」を交互に飲みながら、寝坊な私たちにはなかなか味わえない、日曜朝食について議論する。
日曜朝食のテーブルには、ギンガムチェックのテーブルクロスがかかっているのが理想で、そこに紺のランチョンマット、音楽をかけ（ニール・ヤングなど良し）、100％オレンジジュースをゆっくり飲みながらクロックムッシュをつくる。パンに薄くバターを塗って、ひとつにはハムとチーズ、もうひとつにはりんごジャムをはさんで焼く。お茶はアールグレイにミルクをたっぷり。まだ八時過ぎだ、今日はどこに出かけようか？ 日曜はまだはじまったばかりさ、と私が言えば、モリナガヨウコはいつもの朝より早く起きだしてお米をていねいに研ぎ、ご飯を炊く。ふっくらした炊きたてのご飯に大根の葉の味噌汁、昨日わざわざ蒲田のおいしい海苔屋さんまで出かけて買っておいた海苔に温泉たまご、めざしなんかがあったら最高、それに納豆。納豆のまぜ方ほど、食卓での個々人の創造性が発揮される場面もない、十人の納豆好きがいれば、十通りのまぜ方があるのね、それで誰もが自分のまぜ方が世界で一番と信じている。私はあんまりまぜ過ぎるのは好きじゃない、醤油控えめ、カラシ多め、ネギたっぷり。最後にかつお節を少々入れるといいです。生卵は私は入れない。最後に思いっきり濃い日本茶。ねえ、食器洗ってくれる？
納豆に圧倒された私は、明日の朝はご飯を炊いて納豆を食べようと心に決める。味噌汁に入れた大根の葉は、納豆の上にちょこっと乗せてもおいしいよ。野沢菜なんかのせてもいい。
「私の勝ちね」と彼女は言う。
私は負けを認めた。私の頭からは、納豆のイメージが離れなくなっていた。
モリナガヨウコは侮れない実力を身につけつつある。
「一生、こんなに風に食べつづけられるといいのに」
「ドトール」でブレンドコーヒー（Ｌ）を飲みながらモリナガヨウコはなんだか元気なくつぶやく。思う存分デパートを襲撃したうえに、「青山カレー倶楽部」でおいしいシーフードカレーを食べてデザートに「あいす亭」で「ゆずシャーベット」までおごったのに。ドトールでいつも流れている「メリー・ポピンズ」の「煙突掃除のテーマ」の正式なタイトルは何だったか？ という話題（めずらしく食べ物を離れた話題だった／「チムチムなんとか」だ）の途中で、突然。
「このままじゃ私はどんどん太るし、ヨーイチさんだって太らない体質だけど、糖尿か何かになってしまうかもしれない。ねえ、夜中に〈カール〉食べながらビール飲んだりするのもよくないよ」
「でも、カールは夜中に食べるのが一番おいしいんだよ、なぜか」
翌朝起きると胃のもたれに必ず後悔するところに最近年齢を感じるけれども。
「夜中といえば、ラーメン……」
言ってしまったな、モリナガヨウコ。
「なぜラーメンは夜中に食べたくなり、ソバはならないのだろう？」
「……ラーメン食べたいねえ」
「今夜、ラーメン食べようか？（笑）」
でも、モリナガは笑ってくれない。
「もし、肥満になったり糖尿病になったりして、このままの生活を続けたらあなたは死にますなんて言われて、いっしょにいろんなものが食べられなくなったら、私たちだめになっちゃうかもしれないよ」
「でも、そうならないために節制をはじめたら、もっと前にだめになるかもしれないよ」
真の悩みとは、他人が聞いたらバカみたいなものである。
という名言を残したのは中学二年のときの英語の先生、タツノオだった。タツノオは夏休みにサンフランシスコで一目惚れしたブロンド女性を追ってアメリカに渡り、そのまま帰ってこなかった。もちろん彼はタツノオトシゴに似ているが、私は彼が好きだった。
ドトールを出て、少し散歩する。細かい雨が降り始めている。宮下公園の街灯に照らされて、モリナガの顔は不思議な色に染まっている。それだけで、まるで知らないどこかの女の人みたいに見える。今までに聞いたことのないような言葉がその口から語られそうで、私はなんだかひどく不安な気持ちになる。自分の顔もこんなふうに見えているのだろうか、と思う。
でも、ガード下をくぐり、反対側に出る頃には彼女の顔はもういつもの色に戻っている。
「カロリーを消費しよう」と私は言った。「とったカロリーは、その日のうちに消費すればいいんだ」
「どうするの？」
「歩いて帰ろう」
「横浜まで？」
「そう」
モリナガの顔がぱっとかがやく。
大丈夫、昔、池袋から代官山まで歩いたことがあるけど、四時間強で着いたから。それは、なんの脈絡もなくふと頭に浮かんだ考えだった。
雨が強くなる。
渋谷駅のキオスクで青いビニール傘を一本買う。二本買おうとする私の手をモリナガヨウコは止める。二本買ったら、一食ごはんが食べられる値段になってしまう。だから、一本に入っていきましょう。
モリナガがなんだかすごく楽しそうだ。さっきまでの不調が嘘のように。
「濡れちゃうよ」
私の声が聞こえたのかどうか、モリナガは黙ってさっさと行ってしまう。仕方なく私は後を追う。
東横線を左に眺めながら、私たちは横浜に向けて歩き始める。
モリナガヨウコとはじめていっしょに食事をしたのは四年前の夏のことで、それは「きしめん」だった。私と彼女は同じ本屋でアルバイトをしていた。飲み会でたまたま彼女の隣に座った私は、「きしめん」の話をはじめた。その日の私は朝からきしめんが食べたくて食べたくて、頭にはきしめんのことしかなかった。本当は飲み会のことなんかどうでもよくて、ただ一刻も早くきしめんが食べたかったのだ。
だから、隣りに座ったモリナガヨウコにきしめんの話をした。いくら私でも飲み会の席でだまって黙々と食べているのはよくないと思ったのだが、きしめん以外の話題を思いつけなかった。特に真剣に話を聞いてくれることを期待したわけではない。
話しているうち、彼女の目つきがだんだん真剣になってきた。目の前にはチキンバスケットやら大根サラダやらサイコロステーキやらジャーマンポテトやらがあったが、それを無視して彼女はきっぱりと言った。
「私もきしめんが食べたい」
「じゃあ食べに行こう」
「こんな時間にきしめん食べられるところ知ってる？」
「知ってる」
それで私たちはその場から消え、ふたりできしめんを食べにいった。
運ばれてきたきしめんの上の山盛りのかつおぶしが、湯気の中で一斉にひらりと踊る。その朝私はそれを夢にまで見たのだ。今日は飲み会だから、明日ひとりで食べに行こう。そう思っていたのに、その日のうちに、それも女の子と向かい合って食べることになるなんて、望外の幸せというべきだろう。
モリナガヨウコのきしめんの食べ方はとても素敵だった。口紅がつかないように、一本一本つまんで箸で順送りにしたりはしなかった。ちゃんといい音を立ててすすった。そしてほとんど噛まずに飲み込んだ。おいしそうだった。そもそも彼女は口紅なんかつけていなかった。化粧もしていなかった。私も負けずに大きな音できしめんをすすり、飲み込んだ。二センチほど残してつゆを飲んでしまうと、彼女は顔を上げ、「ふう」と言って額と鼻の頭の汗をぬぐった。そしてにっこり笑った。ものすごく素敵だった。
私が見とれていると、「きしめんが食べたくて死ぬかと思った」と彼女は言った。
あのね、どういう感じかというとね、頭の中にきしめんが満ちてきてね、他のことなんか何も考えられなくて、今すぐにきしめんを食べないと死ぬと思ったの。この一時間、私はきしめんを食べるために生きていたもの。ねえ、私の彼なんか、こんな食べ方したら『お前女だろう、もう少し上品に食えよ』の一言で帰っちゃうよ。……聞いてる？
聞いていますよ。聞いているだけでなく、中学生のとき、生まれてはじめて女の子に「好き」と言ってもらえたときと同じくらい、その言葉は嬉しかったのでとても不思議に思った。
きしめん屋（いや、うどん屋だったっけ？）が閉まる時間になっても話が終わらなかったので、お茶を飲むことにした。この時間に開いていてお茶が飲める場所といえば、「ミスター・ドーナツ」をおいて他にない。
飲み会帰りの客で混む時間、席なんかないよなあ、と思っていたら、目の前の席がすばらしいタイミングで二人分あいた。今日はなんだかいい日だね、と彼女が言った。
何か食べ物の話をするたびに、彼女は「あ、それ食べたい」「それも食べたい」と言った。そのたびに、私は自分が誉められているような気がした。
「じゃあ、ぜんぶ食べよう」と私は言った。
とんこつスープの中に明太子と角肉とタレで黒くなるまで煮込んだゆで卵の入ったラーメンも、スモークサーモンとケッパーとタマネギも、じゃがいもとトマトのスープも、イカ明太子も、全部食べよう。
「うん」
おかわり自由コーヒーも四杯目にして胃が限界に達し、私たちはミスター・ドーナツを出た。そしてデパートの駐車場に潜り込んで、缶ジュースを飲みながらまだまだ話は続いた。気がつくと、終電車の時間をすぎていた。
「帰れなくなっちゃったよ♪」彼女は私の腕時計を見て言った。
そのとき私たちは「ファミリーレストランでいちばんおいしいもの」の話をしていて、「それはデニーズサラダだ」で意見が一致していた。
「ハムとゆで卵の入ってるやつね」
「ファミリーレストランで飲むビールっていうのもいいよ」
モリナガは叫んだ。
「ねえ、今すぐにデニーズサラダを食べないと、私は死ぬ。朝まで待てない」
私も同じことを考えていたのだった。
私は立ち上がって周囲を見回した。懐中電灯の灯がゆっくりと近づいてくるのが見えた。駐車場の警備員だろう。私は声をかけられる前に先手を打った。
「あのう、この辺りにデニーズはありませんか？」
警備員は私の顔をのぞき込み、次にモリナガの方をちらりと見た。それから、「すかいらーく」ならそこの門を曲がってまっすぐ行くとあるよ、と教えてくれた。
「デニーズでなきゃだめなんです」と彼女は言った。
「そりゃあ、残念だなあ」そう言うと、親切な警備員はゲートを開けてくれた。
「デニーズでもすかいらーくでもいいけど、いつまでもこんなところにいるんじゃないよ。暴走族だって来るんだ」
「はい、デニーズに行きます」
お礼を言って私たちは国道に出た。ちょうどやってきたタクシーを、私は手をあげて止めた。
「いちばん近くのデニーズまでどのくらいあります？」
「デニーズねえ、近くにあったかなあ」と運転手は首をかしげた。「『すかいらーく』なら近くにあるよ」
すいません、「デニーズ」でなきゃダメなんです。「すかいらーく」が嫌いなわけではないけど、今はデニーズでなければ。
「わかりました、どうもありがとうございました」
「いやいやいや」運転者は言うと、ドアを閉めて走り去った。
「ずいぶん親切なタクシーね」タクシーを見送る私に彼女は言った。考えてみれば、私は道を聞いただけだ。普通なら、怒っても不思議はない。それを期待するからこそ、昔タクシーを止めて「今、何時ですか？」と聞いて逃げるという遊びが流行ったのだ。
「これから起こることは全てうまくいくってことだよ」
「そういうことか」と彼女は納得した。
「国道沿いに歩こう。きっとデニーズくらいすぐ見つかるよ」
「うん、行こう行こう」
「歩ける？」
「ぜんぜん平気」
「家に電話しないでいいの？」
「私、ひとり暮らしだもの」
「彼は怒らない？」
彼女は返事をしなかった。
私たちは手をつないだ。手をつないで歩きながら、相変わらず食べ物の話を続けた。話はいつまでも終わらなかった。
話しすぎていつの間にか国道をはずれ、何軒かのホテルが並んだ一角を歩いていた。
「迷っちゃったかもねえ」と彼女は言った。ちっとも困った様子ではないので私は安心した。内心、このホテル街迷いこみは私の陰謀によるものだと誤解されないかと思ったのだが、そんな様子はなかった。
時間は遅かったが、平日のせいかほとんどに「空室」のサインが出ていた。
「こういうホテルって、入ったことある？」突然彼女は訊いた。
「ちょっとだけバイトしてた」と私は言った。「同じゼミの子が教授と入ってきて、すごく困った」
「へえ、やっぱり教授って、ゼミの子に手を出すものなんだ」
「地元のホテルでは自分のところの学生がバイトしてる可能性があるという程度の判断力は働かせてほしいものだ」
「はははは」
「モリナガさんは？」
「ホテル？」
「そう」
「はい、あります（笑）。今の彼とじゃないけど。でも、そのときは何もなかった。ただ、一回入ってみたかっただけなの。ちゃんと『一回入ってみたいだけだから誤解しないでね』ってそいつに断っておいたのに、ドアを閉めたら襲いかかってきやがった」
「きますよ、それは」
「ちゃんと約束したもの」
「絶対なんにもしないから」と言って女の子とホテルに入って、本当になんにもしなかったら嫌われてしまったのは私である。まあいいか。
前からやってきたカップルが親密そうに手をつなぎ、なにごとかささやきながら、植え込みの間からホテルに入っていった。いいな、と私は思った。
「ねえ、あの二人、お菓子をたくさん持ってたね」カップルを目で追いながらモリナガは言った。「夜中にベッドの上でいろいろと話をしながら食べるんだよ、きっと」
「ビール飲みながらね」
「缶一本で四百円くらいするんだよね」
それでも夜中にホテルのベッドでお菓子を食べながら二人で飲むビールにはそのくらいの価値はある、というところで私たちは同意した。
「もしかしたら、私たちすごく気が合うのかもしれないね」とモリナガは言った。
「ここで無理矢理ホテルに連れ込もうとしたらどうする？」と私は訊いた。
「大丈夫、そんなことはないから」
「どうして？」
「今日のテーマはデニーズだから」
きっと、これから長い間彼女といっしょにいることになるんだろうな、と私は思った。だから急ぐことはないよ、今の私たちに重要なのは、ホテルの看板よりも黄色い「デニーズ」の看板だもの、これから朝まで、たっぷり時間はあるし、まだまだたくさんのおいしい話ができるよ。つないだ手から、そんな感触が伝わってきた。
「疲れない？」ぼくは彼女に訊いた。
「大丈夫」
「まだ歩ける？」
「いくらでも歩けるよ」
少しだけ汗ばんだ彼女の手を握りながら、私もそう思っていた。今夜は無限に歩けるような気がした。歩いて歩いて歩いて、デニーズを見つけたら、いっしょにデニーズサラダを食べよう。できれば壁際の角の席がいいな。この時間だからきっと好きな席に座らせてくれるよ。それからサラダについて批評しながら朝までおかわり自由のコーヒーを飲もう。
結局三時間以上歩いて、私たちはデニーズを見つけた。思ったよりも時間がかかったけど、もちろん「十一時閉店」でフェイントをかけてくれるやつではない。ちゃんと朝までやってるやつ。
交差点の向こうに黄色い看板が見えたときには思わず抱き合って喜んだ。
「サラダだサラダだ」
「ビールも飲んでいい？」
「もちろん。それならフライドポテトもつけましょう」
そして黄色い看板をめがけて、交差点を超え、ガードレールを超え、植え込みを超えて手をつないだまま走った。
デニーズの入り口の前で、はじめて私たちはキスをした。
渋谷から横浜に向かって、私たちは歩き続けていた。もう何駅歩いたのかわからない。いったいここはどこでしょう？ そもそも道が合っているのかどうかわからない。ガイドしてくれるはずだった東横線も、いつの間にか見えなくなってしまった。なんでこんな時間にこんな場所を歩いているのだろう。でも、私もモリナガヨウコももういい加減にやめて電車に乗ろう、などとは言わない。ときどきモリナガが口笛を吹く以外は、黙って歩き続ける。だいたいまだ電車は走っているのだろうか？ 腕時計を見ればいいのだが、左手に傘を持っているので見られない。
「ねえ」モリナガヨウコが言う。「今日のテーマ、なんだか知ってる？」
「知ってるよ」
「よかった」
「まだ歩ける？」
モリナガは何も言わない。
手をつなぎたい。でも私の左手には傘がある。すごく手をつなぎたいな。
雨は降り続いていた。私の右半身はぐっしょりと濡れている。でも、寒くはない。もうすぐ春がくるのだ。
気がつくとモリナガは立ち止まって私の方を見ている。彼女の左半身もずぶ濡れだ。
「傘、捨てようか」とモリナガは言う。
私は黙って傘を道路わきに放り捨てる。モリナガヨウコは空に向かって手を広げ、
「雨よ降れ！」
その声に答えて、雨がいちだんと激しさを増す。私もモリナガの真似をして、手を広げて雨に身をまかせてみる。たちまち全身に雨が吸い込まれ、首から入った雨が背中をつたって流れ落ち、足が靴の中で泳ぎ、何もかもが濡れて、濡れているという実感がなくなってくる。
無限に歩けるような気がする。あのときと同じだ、と思う。勇気がわいてくるようなあの感じが戻ってくる。
「映画なんかだと、こういう場合、女の子は靴を脱いで裸足になって雨の中を歩くんだよね」
本当に裸足になりそうだったので、私は慌てて止める。危ないからやめてください、現実の道路にはゲロがあるかもしれないし、ガラスのかけらだって落ちてるかもしれないからね。
それから私たちは手をつなぐ。モリナガの手は冷たい。
カーブを曲がると、はるか前方に黄色い看板が見える。
ほら、やっぱりね。
なんだか途中にデニーズがあるような予感がしていたんだよね。根拠はないけど、なんだかすごくデニーズがありそうな気がしていたんだ、さっきから。
もちろん、ちゃんと朝までやっている、二十四時間営業のやつ。
「デニーズだね」
「うん」
「あの中には〈おかわりはご自由にお申し付けください〉の熱いコーヒーと、デニーズサラダがあるのね」
でも、たぶん私たちはそこには入らない。
服が濡れていて、迷惑だから。
それに、今夜のテーマはデニーズではないから。
「早くどこかで服、脱ごうね」とモリナガは言った。