ふらりと家を出てから二日が経過していた。私はホームに止まっていたディーゼルカーに乗り込んだ。
数年前、この路線では死傷者あわせて百人を越えるという大きな事故があった。死者だけでも三十人を越えたのではなかったかと思う。岬をまわる急なカーブで列車同士が正面衝突して、片方の車両が海に転落したのだった。
その事故が起こった頃、家の中の空気がささくれ立っていて、私の気持ちもささくれ立っていた。その結果、些細なことにも心が過剰反応を起こして苦しい思いをしていた。この事故がニュースのトップで報道されたのを見てすぐに、私はテレビを消してしまった。それは他の家族から顰蹙を買う結果となった。「ニュースくらいは見ておくべきだ」というのが彼らの主張だった。しかし私は人がたくさん死んだという事故についての報道を受け止めることがどうしてもできなかった。それは倫理などの問題ではなく、心のキャパシティー、とでもいうような問題だった。
空は春らしい、はっきりしない天気だった。空全体がうす雲に覆われていた。座席は半分ほどしか埋まっていなかった。私は窓際の座席に腰掛けるとすぐに本を開いた。家を出てからすでに三冊目の本だった。
やがて警笛と共にディーゼルカーは滑らかに走り出した。私は本から目を上げて、プラットホームが後方に置き去りにされていくのを見た。線路沿いには架線を吊る電柱がなく、そのために視界がやけに広かった。
私の読んでいた本には、この鉄道が大きな事故を起こす以前に書き手がここを訪れたときのことが書かれていた。エンジンの振動に身をまかせながら、私はその本を読み進んでいった。「私」がここを訪れたのも今日のようなうす曇りの春の日で、「私」は久しぶりの故郷をめざしていた。
線路は単線で、町の中を走り、漁港のすぐそばを通り抜け、小さな川を鉄橋で渡り、代掻きを終えたばかりの水田の直中の無人駅に停車した。海のそばを走っているのに、海はほとんど見えない。「私」は「この鉄道沿いの町は悉く灰色である」と書いているが、その通りだった。どの町も、灰色だ。あるいはうす曇りのせいかもしれなかった。
やや大きな駅に止まった。すれ違いのために十分ほど止まるという。私はディーゼルカーの外へ出てみようかとも思ったのだが、本から顔を上げて駅名を確認することだけで満足してしまった。どこからともなく魚のにおいが漂ってきていた。近くに漁港があるのかもしれなかった。
向かいの空席に五十くらいの女と高校生くらいの少年が並んで座った。女は手も顔も荒れていた。漁師のおかみさん、という感じの女だ。申し訳ないが、身につけているものが悉く似合わない。妙に洒落たスーツも、ハンドバッグも、靴も。少年は妙にきちんと詰め襟の制服を着ていたが、これもてんで似合っていなかった。私はふたたび本に目を落とした。
「向かいに座った中年の女は、私を認めると、こぼれるような笑みを浮かべた。
『××ちゃん、××ちゃんじゃないの！』
××というのは私の子供の頃の愛称だ。私はその女の顔をじっと見つめた。しかし、それが誰であるのかどうしても分からなかった。
『ほら、○○よ、覚えてない？小学校と中学校で一緒だった』
それを聞いて、私はその女が誰であるのかようやくわかった。○○という私の記憶に残っているところの少女は、人一倍肌のきれいな女の子だった。そして、幼馴染であり、ガールフレンドだった。
いま、私の目の前にいる女にかつての面影はない。表情だけがわずかに面影を残しているといえなくもなかったが、それもそういうつもりで見ればそう見える、というほどのものだった。もし私達に共通の思い出がなかったなら、私には彼女を見分けることができなかっただろう。
彼女は私の身辺の同年代の女性達よりもずっと老けてみえた。だがそれは美しくない、ということではない。
私は彼女のことを思い出したということを伝えた。彼女はとても嬉しそうな顔をした。
『今度、息子が県立高校に入学して』
彼女は傍らの少年の袖を引っ張って私に挨拶させた。
それから彼女は息子の話しばかりした。息子の方はといえば、窓枠にひじをついてずっと窓の外を眺めばかりいた。」
私は、向かいに座っている親子連れらしい二人が本に書かれている親子連れと同一人物なのではないかと訝ったが、それは有り得なかった。本に書かれている親子連れは、もっと年を取っているはずだった。息子はもう働いているかもしれないし、親許を離れてどこかの大学に通っているかもしれなかった。
しかし、私の前に座った女は、私に笑いかけた。ような気がした。それがそうではないということはすぐに知れた。私の背後の座席に座っていた人物に向かって彼女は笑いかけたのだった。その人物はおそらくは中腰で、彼女と顔を見合わせながら話をしていたのだろう──後ろを振り返らなかったので事実がどうであったのかはわからないが。
事故のあった岬をまわる線路はトンネルで短絡されていた。
終点の駅は高台の上にあって、町はそこから海の方へ向かってだらだらと続いていた。私は坂を降りて町の中心部へと向かった。私の前を先程の親子が歩いていた。息子の方がずっと背が高くて、歩くのも早い。ときどき振り返って母親を待つ。「私」は車内で出会った女の家に立ち寄ることになったのだが、私には立ち寄る場所もないし、だいいちこの町は故郷でも何でもない。
町中を歩くうちに、彼らの姿を見失ってしまった──道はやたらに曲がりくねっていて、見通しが利かないのだ。
町の中心に近いところからさらに坂を降り、狭い路地を抜けていくうちに、建物と建物の間から空と防波堤が見えた。そして磯の香りが鼻をついた。海はすぐそこだ。