部屋の明かりを付けずにカーテンを静かに開けると月が出ていた。ガラス戸を開け、裸足のまま地面に降りる。夏だというのに地面はひんやりとしていた。
足音を忍ばせて、今は主のいない離れまで移動する。離れの向こう側まで行けば誰にも見つかる気遣いはない。
離れの向こう側には小さな庭があり、祖母が生きていた頃は小さな花園といった趣だった。だが今ではすっかり雑草に覆い尽くされ、祖母が自慢にしていた紫陽花でさえ、蔓草の絡み付くままになっていた。
夏休みに帰って来て紫陽花の変わり果てた姿を見たときには呆然とせずにいられなかった。梅雨も空けていたからまともな姿の花を見ることはあきらめていたが、まさか株全体が蔓草に巻き付かれ、カタツムリが這っていた緑色の美しい葉さえもほとんど見えない有り様だとは想像すらしていなかった。
つまり祖母ほど暇のある人間など誰もいなかったということだ。
帰ってきて間もない頃、祖母の生きていた頃のようにとはいかなくとも少しでも見られるようにしたいと思って草むしりをしたこともあった。しかし一時間ほど作業をして、その猫の額ほどと思われた庭のほんの一部しか地面が見えるようにならなかったのですっかりやめてしまった。庭仕事というのは私のように堪え性のない人間には向かなようだった。
離れの雨戸は一週間に一度だけ開け放たれ、風通しされた。夏休みの間、それは私の仕事だった。雨戸を開け、ガラス戸も開け放し、そろそろ黄ばんできた畳の上に寝転んで煙草を吸うのが何よりの楽しみだった。父親は私が煙草を吸うのを嫌っていた。それは私が未成年であるからというよりも女であるかららしかった。父親はそういう男なのだ。教師、という父親の職業を考えたとき、それはまるであべこべだと言わざるを得ない。
寝転んで煙草を吸いながら、祖母のことを思い出すなどという辛気臭いことをしていたわけではない。いまのところ、死んでしまった人よりも生きている人のほうが正直言って好きだ。普段、友人達には逆のことばかり言っているのだが、どうも、そうではないらしい。それは恋をしているとかそういったこととは何の関係もない。だいたい、私は恋などしていなかった。かつてしたことはないし、これからもすることはないだろうと思われた。
寝転んで考えていたのは性愛のことだった。性愛のことばかり考えて、煙草を吸って、蝉の声を聞いていた。それは祖母のことを思い出すよりもずっと辛気臭いことだったと、夏休みもそろそろ終わる今頃になって気付いた。でもそれはそれでいいと思う。
離れの濡れ縁に腰掛け、月を眺めた。でもこれはむしろ枯淡の境地ではないか。性愛を云々、というのとは相当掛け離れているように思われた。そう思うと可笑しくなって、声を出して笑ってしまった。
紫陽花の横に小さな木戸があり、そこを出ると隣家の樹園地に出る。そこではいろいろな植木を作っていた。その、樹園地の横に人一人がやっと通れるような道ともいえないような道があり、そこは隣家の敷地なのかそれとも我が家のものなのか誰もよく知らなかったが、実際にはほとんど公道のように使われていた。その道をずっと行くと裏山にぶつかる。「裏山」とはいってもそう呼ばれているだけで、木の茂った高まり、といったところだ。
その裏山の麓に墓地がある。私は裸足のまま木戸を開け、短い草の草の生えた細い道を通り、そこへ向かった。
もちろん墓地には誰もいなかったし、途中でも誰にも会わなかった。ここに住んでいた頃には、夜中に墓地にやって来ようなんて考えたこともなかったと思う。
夏休みに帰ってみると、ここはもう私の家ではなかったし、故郷でもなかった。客観的に変化したことは、五月の連休の少し後に祖母が死んだというそのことだけなのだが。父も母も、数ヶ月では何も変わらない。弟だって、何も変わらない。だが、家の有り様は確実に変わっていた。ついこないだまではろくに口も利かなかった弟が妙に纏わりつくし、母親も以前と変わらないように振るまおうとすればするほど、なにか空々しい感じがした。そういったものが、私に対する羞恥だとか愛情だとかであることは分かっていたが、それだからこそいっそう鬱陶しかった。
たぶん、父だけがまったく変わっていなかった。私も、変わってしまっていた。
こないだまで枯れた花や、干からびたり烏に食べ散らかされた供え物が散乱していた墓地も、今日はすっかりきれいになっていた。ある墓にはまだ萎れていない菊の花があった。あるいは今日の夕方にでも供えられたのかもしれない。
私はその墓の向かいの墓石に腰掛け、煙草を吸った。罰当たりかもしれないが、罰くらいあたっても構わない、とも思う。空には雲ひとつなく、月が浩々と照っていた。墓地は奇妙に明るかった。
煙草を墓石でもみ消し、それから寄り掛かっている墓石を撫でた。もう昼のぬくもりは残っていなくて、地面と同じようにひんやりとしていた。墓石の表面を撫でまわすと全体につるつるしているのだが、ときどき窪んだ部分があった。傷なのかもしれない。そしてそういった傷のひとつに触れたとき、中学生の頃は墓守になりたいと願っていたことを思い出した。
それは信心深さとは関係がなかった。生きている人間はうるさい、死んだ人間となら静かな会話できるのではないか、と思ってのことだった。それが、今では性愛についてばかり考えている。しかし、性愛について考えるということと性愛を生きるということの間には大きな隔たりがあるということに、一昨日になってようやく気付いた。それはかなり迂闊なことであるに違いなかった。
性愛が誰かを巻き込むものであるなら、いったい誰がそれに相応しいかということについてもずっと考えていた。大学の友人も教官も、一種冗談として考えるのでないならば、まるで話にもならないのだった、男も女も。
私の性愛の対象となり得るのは父親をおいて他には誰もいなかった。ただしそれは父親が理想の男である、ということではない。
私が最後に父親と一緒に風呂に入ったのは小学六年生のときのことだった。毛深くて弛緩した体と、同じく弛緩したペニスを、今でもよく覚えている。しかし私の体がどんなであったのかはまったく覚えていない。
私は、父親のペニスに触ってみたい、とそのとき思った。でも、実行はしなかった。実行していたら、今の私はなかったかもしれない。
墓地で三本目の煙草を吸い終わり、私は来た道を引き返した。そして泥足のまま自分の部屋に上がった。足を拭くのは面倒だった。そしてまっすぐ父親の寝ている部屋に向かった。
その晩母親と弟は家にいなかった。母親はなんだか知らないがサークル活動で大挙して温泉に出かけて留守だった。そういう感覚は、私にはまったく理解できなかった。弟は部活の合宿ということだった。サッカーだったか野球だったか、そういう健全なスポーツだったような気がするが、何度聞いても忘れてしまうのだ。
襖を開けると、汗とアルコールのに嫌なにおいがした。私は心身を弛緩させる酒が大嫌いだ。父親は夕食のときに缶ビールを二本ほど飲んだ。私の作った夕食にはうまいともまずいとも言わなかった。しかし、黒焦げの塩鮭やべとべとした野菜炒めが美味いはずはない。父親はそういうことにはまるで無頓着なのだ。「食えればなんでもいい」それが父親の口癖だ。母親はその言葉に傷つけられたとよくいっていたが、私は父親のいうことのほうが正しいとずっと感じていた。
夕食後、父親はウイスキーを飲み始めた。それと同時に私は自分の部屋に引き上げたので、そのあとどうやって過ごしていたのかはわからない。風呂嫌いだから、たぶん風呂には入らなかったと思う。
障子だけで雨戸は立てていなかったので、部屋の中は薄明るかった。父親は鼾をかいて眠っていた。浴衣はすっかり前がはだけていた。私は着ているものを全部脱ぐと、父親のうえに覆い被さった。父親はしばらく目を覚まさなかったが、自分の上にいるのが私だと知ると、滅多に見せない驚愕の表情を見せた。
その顔が見たかったのかもしれない。父親の唇に人差し指を当てて、「しっ」といった。もっとも、叫び声を上げようとも誰も来る気遣いはなかったが。
私はおそらく十六年ぶりで父親に口付けした。それから、何もできないでいる父親に変わって、帯を解いてやり、下着を引きずり降ろした。ペニスは、以前見たのとはまったく違って、弛緩したところがなかった。よく考えてみれば、そういうペニスを見るのは始めてのことだった。
それから、私たちは性交した。初めてだったのは私の方であるにも関らず、父親は私のいいなりだった。父親は私の腹の上に射精した。あるいはそれは、母親以外の女を相手にするときの癖のようなものだったかもしれない。そんなことでは避妊は覚束ないということを、父親は知っているのだろうか。
私は父親の精液を手に取って眺めた。それとは別の、やはり父親の体から迸った精液で、私ができた。よく考えてみれば、精液を見るのもそれが初めてのことだった。
父親は裸のまま、布団の上に呆然と座っていた。私は服を着ると、父親の肩に浴衣を掛けた。
「おやすみ」
父親は何もいわなかったし、私の方を見ようともしなかった。部屋に戻ると服を着たまま敷きっぱなしの布団の上に寝転がった。突然、どうしようもないほど切ない気持ちになって、枕を抱きしめて「馬鹿野郎」といった。なぜ、誰が「馬鹿野郎」なのかは考えることもできなかったが、「馬鹿野郎」と何度も何度もくり返した。
カーテンの隙間から月の光がシーツの上に差していた。明日、東京に帰ろう、そして父親が死ぬまで二度とここには戻るまい、と思った。