うん、ぜんぜんおっけー、気にしなくていいよ、うん、ほんと、それじゃまたね、と電話を切るわたくしは世界でいちばんのバカ者。だってほんとはぜんぜんおっけーじゃないしすごく気にして欲しいし気にしてくれなきゃヤだし気にしてくれないなら死んでやるだし仕事だろうが両親だろうが友達だろうが裁判所からの呼び出しだろうが英国女王陛下のお召しだろうがなんだろうがそんなもの全部放っておいてわたしに会いに来てくれなきゃヤだ。って思う。でもそんなの単なるわがままで、誰にだって掛け替えのない大切なものはひとつじゃないってことが、三十年以上生きてるけどいまだに世の中の仕組みなんてものがまるでわからない粗忽なわたしにだってわかる。だから、わたしは自分も相手も困らないだろうし恥もかかないだろうことを言ってしまう。でもそれはあんまり正しいことじゃないって気がする。正しいって？決まってるじゃん、失いたくないものはたったひとつだもん、掛け替えのないものはいくつもあっても。困らせたいし、困りたいし、恥をかきたい。でも恥をかかせるのはやっぱりできない。正しくなさそうだ。とかなんとか中身的には激情──わたしにとってはね──に身を任せながら、わたしは電話機を手にしたまま部屋の片隅で立ち尽くす。って客観的に言えちゃうくらいお間抜けなわたしの姿。電話機を両手で握り締めて液晶の表示部分をじっと見つめている。もちろんそんなことに何の意味もないんだけど、動けない。カタレプシーみたいに、動けない。呆然。いつのまにか涙が頬を伝っている──どうやら泣いているらしい。って、こういうのわたしの好きだった歌手がずっと昔に歌ってたな。十代の少年と少女の歌。そしてわたしは歌の中の彼らの倍くらいの歳。恥ずかしいというよりもほとんどばかばかしい。そうは思うんだけど、動けない。手で涙を拭うことさえできない。電話機を両手で握り締めて、じっと見つめる。それだけ。
たぶん五分くらいそうしてじっとしていたと思う。窓からは隣の家の瓦屋根、そのまた向こうの二階屋、そのまた向こうの瓦屋根、その向こうにある公園の木々、その向こうには駅の近くのマンションが見えていて、空はどんよりしていた。朝はあんなに晴れていたのに。それから電話の前までは快方に向かっていた頭痛が、またひどくなり始めていた。まだ薬を飲むほどではなかったけど。たぶん買い物に行かなければならないだろう。一緒に食事をする予定だったから。実際冷蔵庫の中には、調味料やチョコレートなどを除けばしなびたほうれん草と生姜とりんごしか入っていなかった。りんごを見たら食べたくなったので、洗って包丁で半分に切ると種の周りのすきまにカビが生えていた。そこだけ切り取って食べればいいやって思ったのだけど、かつての婚約者がカビが生えた食品を食べるのは危険だ、目に見えるのは一部でも実際には食品全体に菌糸を張り巡らしているんだ、って言ってたのを思い出して、そのまま捨てた。百五十八円もしたのに、もったいない。三角コーナーにうち捨てられたりんごはみずみずしく美味しそうだった。わたしはなんとしてもりんごが食べたくなり、もう誰に会うでもないからどうでもいいや的捨て鉢な気持ちで部屋着のまま近所のスーパーに出かけた。さらばバラの香りの石鹸よ。
日曜の午後という時間のせいか、スーパーは家族連れでごった返していた。普段はなんとも思わないんだけど、なんか妙に堪える。っていうとそろそろ中年で結婚をあせってる、みたいな感じなんだけど、それなら婚約破棄なんてしなかったと思う。わたしのような人でなしは苦しむがよいのだ、っていうのはナルシスティックで絶対に間違っている、というか笑止の沙汰なんだけど、たまには寂しいって思うことだってあるんだよ！
りんごは数種類あって、ひとつは青りんご、あとは赤くてどこが違うのかよくわからない。で、その中にバラ売りしてないちょっと小さめのやつがあって、紅玉、という名前がついていた。たしかこれってアップルパイとかジャムを作るのに使うやつじゃなかったっけ？まだわたしが二十歳になるやならずの頃、下手くそだけどお菓子を作るのが好きだったことがあって、同じ学科の好きな男の子にアップルパイをプレゼントしたことがあった。今思えば恥ずかしいけど懐かしい。そのときは知らなかったんだけど男の子には付き合ってる子がいて、会ったことはないけどすごく可愛い子だったらしくて、きっとわたしはその筋では笑いものになっていたに違いない。
その男の子には手編みのマフラーをあげようって思ったこともあったんだけど、編み物っていうのはどうしても性に合わなくて結局実現しなかったんだけど、実現しなくてよかったなって思う。なにしろあのひと目ひと目に「思い」別名「怨念」が込められているのだから、もし戯れに男の子が首に巻いたりしたものならくびり殺されていたことだろうと思う。
でも、よくアップルパイもらってくれたなあ。誕生日にあげたんだっけ？断ればよかったのに。それとも彼女と一緒に「ブスから貰った」とか言って盛り上がってたのかな？いずれにしても食べなかったんだろうな。食べてたら怨念で死んでたかもしれないし。生ゴミに出されるのがわたしのアップルパイの定め。
で、紅玉を買うことにした。アップルパイでも作るか？でもわたしの部屋にはオーブンがない。それじゃあ、ということでジャムを作ることに。グラニュー糖とレモンもカゴに入れた。
頭痛はあいかわらずだったけど、それ以上ひどくなるようすもなかった。古いホーローの鍋を出し、りんごを小さく刻んで鍋の中に入れ、りんごと同じ重さのグラニュー糖を入れ、さらにレモン汁を振りかけて水を入れずに弱火で加熱。電子レンジでもできるみたいだけど、今日は煮込みたい気分。昔大学院にいた頃、研究室でジャムを煮るの好きなんですよって誰かと話をしていたら、ある男の先輩が、おれも好きだよ、研究が煮詰まった夜中とかにジャムを煮るんだ。すると不思議とインスピレーションが沸いてきて、研究が先に進むんだって話をしていた。そしてなにしろいまわたしが煮ているのはりんごのジャムだ。怨念は籠っていないかもしれないけど、不思議な力が備わっているかもしれない。うまくできたら瓶詰めにしてプレゼントしよっと。