昔々あるところにラピッド・ラビットという名前のうさぎが住んでいました。ラピッド・ラビットは真っ白な毛皮を持った美しいうさぎでした。でも、心の中は真っ黒というほどではありませんでしたけども、灰色くらいでした。
ラピッド・ラビットが道端で鼻をひくひくさせてたたずんでいたりすると、通りがかりの娘さんが「ああ、なんて愛らしい」などと声を掛けていくことがよくありましたが、そんなとき、ラピッド・ラビットの胸の中は邪な心で満たされていたのでした。
ラピッド・ラビットは人知れず大きな屋敷を持っていました。人々から《月の砂漠》と呼ばれていた黒々とした森の中に、その屋敷はありました。屋敷の名前は森の名前と同じく《月の砂漠》でした。
さて、どうしてその森が《月の砂漠》と呼ばれるようになったかといいますと、あるときラピッド・ラビットが「月の砂漠」という日本の歌を歌っていたのですが、それを森に迷い込んだ木こりが聞いたのです。木こりは「あんなに恐ろしい思いをしたのは生まれて初めてだ」と仲間の木こりに話しました。それがなんとなく森のまわりの村々に広まっていき、いつしか森そのものが《月の砂漠》と呼ばれるようになったのです。
木こりはその歌を歌っていたのがラピッド・ラビットだとは思いもよらなかったのでした。何か、森に住む精霊のしわざだと思ったのです。
さて、ラピッド・ラビットが《月の砂漠》の中を散歩していたとき、ひとりの女の子がコケモモを摘んでいるのに出会いました。女の子はコケモモを摘み取りながら歌を歌っていました。
いりへりんうおで なはぼじゅてちく
がぽれてうりゃす めめめすとれとき
おぱおいいえいれ きれみつででんと
はななはからかせ しめれげもうえい
ラピッド・ラビットには何を歌っているのかまるでわかりませんでした。そこで、女の子の側に寄ると、「お嬢さん、あなたが歌っているのは何の歌ですか？」と訪ねました。
女の子はラピッド・ラビットを見ると「まあ、なんて愛らしい」といいました。ラピッド・ラビットは心の中では当然だと思っていたのですが、そういうかわりににっこりと微笑んでみせました。
「いまの歌はね」女の子はいいました。
「『おゃんて』っていうの。みつででがてうりゃすだってことを歌ってるの」
ラピッド・ラビットには何がなんだかさっぱりわかりませんでした。そして、なんだかわけのわからないことばっかりいってるその女の子のことが憎らしくなりました。ラピッド・ラビットは屋敷に地下室を持っていたのですが、その女の子を拉致してそこに閉じ込めてやれ、と思いました。そして、あんなことやこんなことをしてやるのだと思ったのですが、それはとてもじゃありませんが皆さんに聞かせできるようなことではありません。
「あの、ぼくの家でお茶でもいかがですか？焼きたてのスコーンとおいしいスグリのジャムをごちそうしましょう」
ラピッド・ラビットは鼻をひくひくさせながらのお得意のポーズで女の子をさそいました。
「まあ、嬉しい。ぜひ、お言葉に甘えさせていただくわ」
女の子はそういうと、ラピッド・ラビットの後についていきました。
ラピッド・ラビットは屋敷の応接間に女の子を招き入れ、自慢のスコーンやジャムと一緒に眠り薬入りのお茶を出しました。そして女の子が眠ってしまうのを待ちました。ところが、眠くなってきたのはラピッド・ラビットのほうでした。しまった、と思ったときにはもう遅かったのでした。さっきスコーンを取りに行っている隙にカップをすり替えられたのだ、ということに気付きました。
女の子はラピッド・ラビットが眠りに落ちる直前にこういいました。
「あなたの美しい毛皮は頂くわね」
ラピッド・ラビットは身体中の堪え難い痛みで目を覚ましました。そこは屋敷の地下室で、手足を縛られて天井から吊るされていました。さっきの女の子が鼻歌を歌いながら、かみそりでラピッド・ラビットの毛皮を剥いでいたのでした。ラピッド・ラビットはあまりのことに失神してしまいました。
次に気がついたとき、ラピッド・ラビットは冷たい床の上に倒れていました。体をさわってみるとつるつるして、毛皮がどこにも残っていないことがわかりました。全身が焼けるように痛みます。あまりの痛みに歩くことも身動きすることもできませんでした。ラピッド・ラビットはこのままここで死んでしまうのかと思うと、悲しくなりました。
そのとき、誰かが地下室へ降りてくる足音がしました。ラピッド・ラビットは震えあがりました。もしあの女の子なら、今度こそパイか何かにされてしまうのではないかと思ったのです。
でも、地下室に降りてきたのは《月の砂漠》のまわりの村で《ルナ》と呼ばれて恐れられていた青年でした。噂ですけど、《ルナ》と関って命を落とした人が何人もいる、というのです。でも、《ルナ》は色白の華奢な体つきで、とても人をあやめるようには見えませんでした。
「やあ、ラピッド・ラビット、ずいぶんひどい格好だね」
《ルナ》はラピッド・ラビットとは友達でした。《ルナ》は冷たい笑顔を見せました。それはなにもひどいことを考えているからではなく、そんなふうにしか笑うことができないからなのです。もしかしたら、その笑顔が人々を恐れさせていたのかもしれません。
ラピッド・ラビットはわずかに耳を動かしてそれに答えました。耳だけが、なんとか動かせたのです。
「何年か前、《イズモ》へ行ったときにある人に教えてもらった方法で何とかなるかもしれないな」
《ルナ》はそういうと外へ出て、しばらくすると蒲の穂をたくさん抱えて戻ってきました。そしてそれを床の上に広げると、ラピッド・ラビットをその上に載せてごろごろ転がしました。
それから一昼夜、ラピッド・ラビットの体はもとの美しい毛皮に覆われました。
「《ルナ》、どうもありがとう。まさか、あの純情そうな女の子にこんな目にあわされるとは思わなかったよ」
「それはきみがなにかその子によからぬことをしようとしたからだろう？」
「ど、どうしてそのことを？」
「きみの考えることなんてみんなお見通しさ」
そういって《ルナ》は氷のような笑みを浮かべるのでした。