今日の彩花とぼくはまるでちぐはぐだった。
「ねえ、今度の休みにＴＤＬに行かない？」
彩花はＴＤＬが大好きだったので、彼女を喜ばせようと思ったのだ。
「やだ」
間髪入れずにそう答えたので、ぼくは少しだけむっとした。
「どうして？」
「やだから」
「じゃあ、恵比須ガーデンプレイスの、こないだ行った店にいってビールでも飲もうか」
「やだ」
「どうして？」
「やだから」
「じゃあ、高尾山にハイキングに行くというのは？」
「やだ」
「どうして？」
「やだから」
「じゃあ、渋谷東急の地下食品売り場を襲撃しようか」
「やだ」
「どうして？」
「やだから」
「それじゃあ、上野へ行って、西郷隆盛の銅像を見に行こう」
「やだ」
「どうして？」
「やだから」
「うーん、それじゃあ、『ゆりかもめ』に乗りに行こうか」
「やだ」
「どうして？」
「やだから」
「ゑーとそれじゃあこうしよう、ここから徒歩三分のところにある公園でひなたぼっこをしようやだどうして？やだから」
「ちょっと、どうして先回りするのよ！それに、それならいいなと思ったのに。あそこの公園にはつい最近キルケゴールの銅像ができたって聞いたから、見に行きたいって思ってたのに！」
「どうしてキルケゴールの銅像が･･････」
「ここの市がコペンハーゲンと姉妹都市になった記念なのよ」
「なるほど」
「私、キルケゴールが大好きだって知ってるでしょう？」
「し、しらないよ」
「もういい」
それから彩花はヘッドホンで音楽を聴きはじめた。ぼくはＰＳを引っ張り出すと、「クーロンズ･ゲート」の続きを始めた。
一時間ほどして、彩花がぼくに後ろから抱きついてきて、言った。
「どうしてそれが『クーロンズ・ゲート』なの？」
「意味がよくわからないな」
「だからあ、どうして coulomb's gate つまり、クーロンの門なの？」
彩花はぼくの背中に指で綴りを書いた。ぼくはすぐに彼女の間違いに気付いた。
「『九龍』でクーロン。coulomb じゃないよ」
「なんだ、つまんない。で、夕ご飯何にする？」
「中華」
「やだ」
それから一時間、ぼくたちはまた沈黙した。先に沈黙を破ったのは彩花の方だった。
「ねえ、コーヒー入れようか」
「紅茶がいい」
「どうして？」
「どうしても」
「いま、紅茶切らしちゃってるのよ。やなやつ」
それから一時間、ぼくたちはまた沈黙した。彩花は突然立ち上がると窓をがらっと開けた。冷たい空気が部屋の中にさっと流れ込んできた。
「換気よ」
ぼくは少しだけむっとしたけど、外を見ると今まさに日が暮れようとしているところだった。ぼくは急いでセーブすると、オレンジ色の夕日が畑の向こうの雑木林に沈もうとするところを眺めた。ホルベインの透明水彩みたいな色だ。
日が沈みきってしまったところへ彩花がやってきて、窓をがらがら、ぴしゃ、と閉めた。そのとたんぼくと太陽の間は一枚のガラスで隔てられてしまった。もちろん、これはぼくと彩花についての比喩ではない。それに、ぼくは比喩には興味がない。
彩花は夕日には興味がない。前にはっきりそう言っていた。嫌いというのではない。彩花は「どこにあっても太陽が太陽であることに変りはない」と考えているので、ようするに彼女が必要に迫られたり興味を持ったりしたときにだけ見る、ということだ。彼女は太陽の見える時間に対する彼女が太陽を見る時刻の分布がポアソン分布するように心掛けているわけではないけど、ぼくが以前一週間ほど彼女に密着して調べたときの結果は、たしかにそうなっていた。
「そういえば、あと一週間で poisson d'avril ね。また、サカナの形のケーキを作るね」
「ポアソンさんってよーするに『魚』さんなのかな」
「へんなの。今晩泊まってく？」
ぼくは冷蔵庫の中の塩鱈の賞味期限が今日までなのを思い出してしまった。
「へえ、そう。迷うようなことなわけね」
「いや、そうじゃなくて、冷蔵庫の中の塩鱈の賞味期限が今日までだなってことを思い出したんだ」
「へえ、この私よりも、賞味期限が切れそうな塩鱈の方がいいってわけね、この鱈野郎！」
そろそろ桜も咲こうというのに、北風は身を切るように冷たい。もちろん北風はぼくの精神状態とは何の関係もないし、比喩でもない。マフラーを首のまわりにぐるぐる巻き付けたけど、それでも寒い。西の空には糸のように細い月が出ている。バスはなかなか来ない。時刻を５分も過ぎているのに、一向にやってこない。どうして今日はこうなんだろうか。彩花とのけんかなんて珍しいことではないけど、この寒い日に、独り寝はいやだ。どうしたら彼女の部屋に留まることができただろうか。いや、留まったところで今晩は彼女のぬくもりを期待するのは無理だろう。ソファーで寝ることになるのがおちだ。でも、それでもあの冷たい部屋に帰って冷たい布団を引っ張り出して寝るよりはましだったかも知れない、などと心が勝手に逡巡を始めた頃にバスがやって来た。ぼくはため息をついて乗り込んだ。
バスはがらがらに空いていた。中程の座席に腰掛けて、ヘッドホンを耳の中に押し込んで、ＣＤをランダムプレイさせる。なんてこったい！聞こえて来たのは矢野顕子の「中央線」。くそ、心にしみるぜ。まだ西の空はいくらか明るくて、大きな欅の木がシルエットになってみえる。そして狭い道にバスは入っていく。店が三軒くらいしかないような小さな商店街でバスは停車。二人降りて一人乗車。目の前の八百屋の奥には季節外れのすいかがひとつ。「ひとつだけ」しゃれじゃないって。まもなくバスは大きな通りへ出た。その交差点の角のところにパン屋さんがあって、前に見たときと同じように、通りに面した窓の向こうで一生懸命生地を練っている。あの生地は明日のパンになるのだろうか？大きな通り沿いにはファミリーレストランも自動車のショールームも病院もある。実際、車線の反対側のファミリーレストランの駐車場に一台の乗用車が入っていくところだった。しかし、自動車のショールームはすでに灯を落していたし、病院の正面の明かりも消えていた。バスの暖房はちっとも効かなくて、コートはおろかマフラーを取ることもできなかった。しかしそれでも自分の座っている座席というのは奇妙に暖かくて、それは彩花の温もりとはちがうんだけどあたりまえだ、つまり自分の体温が返ってくるんだ。でもそれよりも彩花の温もりの方がずっといいのはいうまでもない。やがてバスは再び細い道へと入っていく。そのとたんに今まで外の景色を映していた窓ガラスがぼくの顔を映出した。なんて悪趣味な。ああ、こんな顔じゃあだめだ。「いいこいいこ」ほんと、たまにはほめられたいよ。でも窓の下には誰もいないよ「Super Folk Song」。今度の商店街は少し大きい、コンビニもあるし。でも三人降りて、ぼくひとり。あれに見えるはラーメン屋「らーめんたべたい」いや、今はいいです。今晩の夕食はコンビニ弁当にします。なんてことを考えているうちに、バスの揺れが心地好くって、うとうとっとしているうちについ眠りに落ちていったのです。最後に聞こえたのは「New Song」。