……はい。うん。……風邪引いちゃって。今七度台だけど、いちばん高いときは八度越えて九度近かった。会社に電話するのがやっとで、あとはずっと寝てた。トイレに行くのと水を飲むのを別にして。
熱が下がってきたんでついさっき起きて、今ビスケット食べてる。何か栄養をとった方がいいかと思って。ビスケットはお湯に浸して。がりがり固いままだと食べる気がしなくて。ミルクはなんか胃に重たい感じがするからパスしてる。お茶は刺激が強すぎるような気がする。
まだ七度台半ばなんだけど、いちばん高熱出してたときと比べると妙に爽やかで。体が軽いっていうか。でもふらふらなんだけどね。高熱出たときは、ただもうどうしようもなく横になっていただけ。それ以外何もできない。たぶんそれが原因で腰が痛くなったりはしたけど関節が痛んだりはしていないから、たぶんインフルエンザじゃないと思う。明日の朝熱がなければ会社行こうかとも思うんだけど、どうかな……うん、場合によってはもう一日休むよ。でも仕事溜まってそうだなあ。
うん、誰かにうつされたかもしれないし、昨日の散歩のせいかもしれない。昨日寒かったじゃない？それなのに夕方散歩に出てさ。ベッドに入ってから気管支のあたりが嫌な感じになってきて、それから熱の上がってくる感じがして、でもひと晩寝れば治るかなと思ったんだけど、甘かった。誰かにうつされて、その上で無茶をしたってところかな。風邪流行ってるみたいだし。
……それがね、昨日風が強かったでしょう？風の強い日って鬱陶しいんだけど、すごく深みのあるきれいな空の色とか思わず見とれてしまうような形の雲が現われたりするんだよね。それで、デジカメ持って。
日曜日の夕方には季節を問わずよく散歩するんだけど、昨日は本当に寒かったね。雲の輪郭がぼやけていて、水滴じゃなくて氷の粒からできた雲だってわかるんだ。え？誰かにそういう話を聞いたことがあってさ。
分厚いセーター着込んでその上からダッフルコートを着て、首には毛糸のマフラーをぐるぐる巻き付けてね。頭には毛糸の帽子を深く被って、ドアを開けたらそれこそ頬を刺すような冷たーい風が吹き付けてくるわけ。それでも空を見上げたら、いい感じの雲が出ていて、その間から、傾きかけた太陽が顔を出してるの。思わずそこで一枚。
散歩のルートにはいくつかあるんだけど、昨日は結果からすれば最悪のルートを選んでしまったわけ。片道一時間弱のルート。バスでも駅前から十数分掛かるくらいの距離。多くのルートはひとまわり三十分から一時間くらいのが多いんだけど。
どうしてそのルートを選んだかっていうと、ルートの終点に公園があって、その公園の中に丘みたいに高くなっている場所があって、そこから、周囲の街や雑木林やなんかがみんな見渡せるからなんだ。そしてそれ以上に、地平線がぐっと低くなるから空がすごく広くなるんだ！
そこには散歩だけじゃなくて自転車やバスでも何度か出掛けているんだけど、いつ行っても素晴らしい眺めで。東京って、多少坂道とかあってもほとんど平らでしょ？だから、高いマンションとか欅の雑木林なんかを除けば、本当に街中を、かなり遠いところまでながめることができるんだ。でも富士山は見たことないから何かの影になっているか、気象条件がよくなかったかしたんだろうね。
最初にそこに行ったのは夏のことなんだけど、自転車で適当に走っているときにその公園を発見して。丘の下に自転車を置いて、急な斜面を登っていくと、斜面の向こうには空しか見えないわけ。それってものすごく当たり前のことなんだけど、そういうのってものすごくわくわくしちゃうんだ。ほら、防波堤の向こうに海が見えたりすると、「海だ！」って声に出さなくてもなんとなく嬉しくなったりするでしょ？あんな感じ。
丘全体は芝生に覆われていて、てっぺんは割と平らで、そのときは犬を連れたおじさん一人しかそこにいなかった。おじさんがいなければ、芝生の上に寝転がって空を眺めたかもしれない。とにかく空がぱーっと広がっていて、太陽はもうだいぶ傾いていて、薄雲の影に半ば隠れていた。あたりには木もたくさんあるから蝉も嫌になるほど鳴いていたかもしれないんだけど、それはちっとも記憶にないんだ。ただ、東京にしてはどこまでも空が広くて、頭のてっぺんあたりは真っ青な空が広がっていて。
ごちゃごちゃした住宅地が見えたり資材置き場が見えたりマンションの工事現場が見えたり雑木林が見えたり学校が見えたり、そこら辺にあるものがなんでも見えるんだけど、でもそういったものよりも、とにかく空を眺めていた。空を独り占めって感じで。ずいぶん長い間そこで空を見ていたんだ。
……ごめん、つい興奮して。他の人には詰まんない話だよね。……ううん、平気。夜、熱が出てきたりするとき、ひとりぼっちでいるわけでしょう？そういうときってすごく怖かったりしない？そのまま死んでしまうんじゃないか、とまでは思わなくても、そんな状態にある自分を誰も助けてくれない。隣に誰か寝ていたとしても、助けてはもらえないんだけどね。でも、ひとりでそうしていることがとても怖いんだ。でも、今こういう話をしておけば、夜になって熱が上がってきても、きっと少しは怖くなくなると思うんだ。ごめん、迷惑ばっかりかけて。
そのルートの途中には好きな道もあったりしてね。ゆるくカーブした登り坂で、車もあんまり来ない二車線の、ちょっとゆったりした道路なんだけどね、道の両側には別に豪邸というわけじゃないけどちょっとゆったりした住宅が並んでいて、そう、そういう住宅を眺めるのはとても好きなんだ。
その中に一件、どういうわけか誰も住んでいないと思われる家があって、幽霊屋敷というほどじゃないけど、なんとなく傷んできているの。それを見ると、前に住んでいた家のことを思い出してしまうね。
登り坂なので、坂の向こうにいい感じに空が見えて、でも風が強いものだから電線がびゅうびゅう鳴っているんだ。
その坂道を上り詰めてしまったところに大きな木があって、そこから先は狭くて車の抜け道になっているような道路を歩いていくんだ。抜け道といってもそんなにひっきりなしに車が通りわけじゃないからそんなに歩きにくいわけじゃない。昨日は風の通り道にもなっていなかったからそんなに寒くもなかったし。ただ、道路の両側に同じような感じの家がずっと建ち並んでいて――もちろん建物ひとつひとつに個性がないわけじゃないんだけど――なんていうか、リズムが一定なんだよね。たぶん。それで、なんとなく退屈してしまう。少し疲れも感じてきてしまう。
でも、その道を抜けたあたりがこのルートのほぼ半ばで、こちらは必ずしも歩きやすいとはいえない。
間もなく信号のある交差点にぶつかるとそこはバス通りで、あとはずっとそこをあるいていけばいい。道幅もそこそこで、バスも少し速度をゆるめるくらいですれ違うことができる。車の通行量も多い。
それなのに、歩行者の歩くところ、なんて呼ぶんだろう？あの、白線の内側のゾーンは決して広くはないし、しかも電柱や立木があったりして、そういう場所を通るときはどうしても車道にはみ出してしまうので、気を付けなくてはならない。でないと後ろからバスが迫っていたりするからね。バスが五十センチも離れていないところを追い越していくのはあまり気持のいいものではないよ。
その辺で、目的地までのだいたい三分の二歩いたことになるんだけど、ずっと強い風に吹かれていたせいか、歩いていてもちっともからだが暖まってこなくて。それどころか、ちょっと熱っぽくなってきたような気さえしてきたんだ。寒くて体温を奪われて、疲れてきていたんだと思う。
もし気の利いた喫茶店の類とか、ファミレスでもあったら、すぐにでも飛び込んでココアでも注文するところだったけど、雑木林とか、資材置き場とか、畑とか、農家とか、廃業してしまったらしい雑貨屋さんとか、道の両側、そんなのばかりなんだ。
ざらざらした細かい砂混じりの強い風がざっと吹いてくると、どうしてこんな散歩なんてしているんだろう、という気になったね。
そんなところをしばらく歩いていくと、バス通りよりももう少し広い道路にぶつかる。その道路の向こう側には未整備の公園が広がっていて、バス道路はその真ん中を通っていく。そして未整備の公園が途切れたところに、目指す丘のある公園がある。
信号を渡ると、真冬の夕方のせいか犬の散歩をしている人さえまれで、でもそこから先は鋪道がガードレールに囲われているので安心して歩くことができる。写真を撮る気持の余裕も生まれてくる。それに、目的地まではあとほんの少しなのだ。そうしたら、あの丘のてっぺんに登って、日が沈むのを見届けてやるんだ――。
でもね、日が沈むのを見届けるどころか、その丘の上に立つことさえできなかったんだよ。丘のまわりには柵が巡らせてあって、芝生保全のため立ち入り禁止、なんて書いてあるんだ。柵を越えてまで丘を登る気分にはなれなかった。立ち入り禁止、みたいなところに入っていくのは好きじゃないんだ。たとえ丘の上から素晴らしい夕日を眺めることができることが保証されていたとしても。芝生を保全しなければならないのは納得の行くことだったし、そうしなければならないことだとも思った。小心というならそうかもしれない。でも、規則をやたらに破ったりするのは好きじゃないんだ。
仕方ないので落ち葉を踏みしめながら公園の中をぶらぶらしながら空の写真を撮ったよ。公園の中には散歩している人もいたし、自転車に乗っている人もいた。でも、遊具で子どもが遊んでいたりはしなかったな。
枯れ枝の向こうに透けて見える空だって、負け惜しみじゃなくてそんなに悪いものじゃなかった。ひこうき雲が夕日を反射してきらきら光って見えた。でもあっという間に強い風のせいで形が崩れていってしまったのだけど、それも悪くはなかったね。
そこからもう少し先のバス停まで歩いていって、バスで帰ってきたんだ。もうなんだかすっかり疲れてしまっていてね。
夕方のバスに乗るのはなんとなく好きなんだけど、それは夕日に染まった街を少し高いところから移動しながら見ているとき、それらの世界とはどこか途切れた気がするからだという気がするのだけど、いつもならそういう気持ちを好ましく思うのだろうけど、昨日はバスに乗った途端に頭痛がして、とてもそんなことを感じている余裕はなかった。一刻も早く駅に着かないかとそればかり考えてた。少し酔ったのか、吐き気もしてきていたし。
で、夕食を作る気力がなかったので、スーパーでお弁当を買ったんだけど、いつも以上に美味しく感じられなくて、半分くらいしか食べられなかった。
テレビを見るのもネットを見るのもしんどくて、軽くシャワーを浴びてベッドに入ったら、このざま、というわけ。
……くだらない話聞いてくれてありがとう。何か用事があったんじゃないの？……そう。……残念だけど、こういう状態なので、ちょっと無理。みんなによろしく。じゃね。お休みなさい。