Ｋさんは線路脇の泥濘に手を突っ込むと、ぐるぐるとかき回して、それからにっ、と笑うと灰色の泥の中からそれを取り出し、「ほら」とぼくに手渡した。なんだか薄気味悪くて、ぼくは受け取るのを一瞬ためらった。でも、Ｋさんに「ほら」と言われたら受け取らないわけにはいかなかった。それはなにもＫさんが押し付けがましかったり暴力的だったりするからではない。ただ、Ｋさんには誰もが抗いがたかったのだ。
それは直径が１０センチほどで、手に持つとずしりと重かった。Ｋさんはまだ泥をかき回していたが、またもやにっ、と笑うとそれを引きずり出した。
「これで終わりみたいだな。こんなとこにいたらそのうち死んでしまうというのに、こいつらときたらのんきなものだよ」
Ｋさんはそいつの泥で汚れて灰色になった殻をぽんぽんと軽く叩いた。すると出口のところで軟体動物特有の肌理を見せていたそいつは、うにょ〜んとその体を外に出し始めた。
「こらこら、まだ出てくるんじゃない」
Ｋさんはそういってそいつの先端をちょんと指でつついた。するとそいつは再び自分の殻に閉じこもったのだった。Ｋさんは指先で優しくそいつの殻についた泥を拭ってやると、拭った泥を泥濘の中に捨てた。ぼくもそれにならって指で泥を拭って泥濘の中に捨てた。
中からそいつが出てくるんじゃないかって思うと、ちょっと嫌だった。
「さあ、行こうか」
Ｋさんは早足で線路に沿って歩き始めた。ぼくもそのあとに続いた。巨大なカタツムリはぼくの手の中で身動きせずにいた。
新しくきれいになったばかりの駅の階段を上った。駅は以前とは似ても似つかない巨大な駅ビルに、つい最近変身を遂げたのだった。
Ｋさんにもぼくにも泥がたくさんついていて、やたらにきれいになった駅ビルに入るのはなんだか気後れがしたのだけど、Ｋさんはぜんぜん気にならないのか、すたすたと、時速八キロくらいで歩いていく。ぼくは友達に会わなきゃいいけど、バイトで知り合ったばかりのあの娘に会わなきゃいいけど、なんてことばっかり考えて、時速八キロでＫさんの後を追った。なにしろ時速八キロなので、駅ビルはあっというまに通り抜けてしまったし、駅ビルに続く、何十本もある線路を跨いでいる陸橋も、あっというまに越えてしまった。
反対側の階段を降りれば、もうこちらのものだ。北口には人はあんまり来ないのだった。なにしろ、人待ち顔のタクシーがいつも三台とまっているくらいのものなのだ。そのときも三台がタクシー乗り場のところにいて、どのタクシーもエンジンを切って、運転手は昼寝をしていた。
Ｋさんとぼくは人っ子一人いない、しんと静まり返った駅前広場を通り抜け、並木道へと歩いていった。いや、歩いているというよりも、小走りだった。いつの間にかカタツムリは殻から頭を出していて、うにょ〜ん、とゆっくり身をよじらせながら周囲の様子を眺めているようだった。それからぼくの手に狙いを定めて、ぴたっ、とその腹というか足の部分をくっつけた。ぼくは冷たい感触を予期していたのだけど、そいつは決して冷たくもなく、かといって生暖かくもなかった。ちょうど空気と同じくらいの温度だった。
そいつはぼくの右手の甲を親指の方から小指の方へと向けて伸び始めた。そして小指のあたりまで伸びたあたりでぼくの手の甲を齧った。
「いてっ」
思わず声をあげると、Ｋさんは初めて歩みを止めて、その場に立ち止まったぼくのところへ戻ってきたきた。
「やあ、こまったなあ。まだ先は長いんだ」
Ｋさんのカタツムリも、殻から頭を出して周囲を眺めていた。
「そうだ、近くに叔父が住んでいるから、ちょっとそこへ寄ることにしよう」
そういうと、Ｋさんは再びすたすたと歩き始めた。ぼくもそのあとを小走りについていく。ときどきカタツムリがぼくの手を噛む。そのたびにぼくはカタツムリの頭を小突く。そうするとカタツムリはきゅっと触覚を縮めて、それからにょ〜っと伸ばして、触覚の先の小さな目でぼくの顔を怪訝そうに眺めるのだった。
まもなく行く手に見事な屋敷森が現れて、道路は屋敷森に続いた林に飲み込まれていた。ただでさえどんよりと曇っていて暗かったのに、林の中はさらに暗かった。
屋敷は生け垣で囲まれていて、道路に面したところには小さな木戸があった。Ｋさんはその木戸を少しのためらいもなく開き、庭の中にずんずん入っていった。ぼくはおっかなびっくりＫさんの後を追って庭に入った。
母屋をまわり込んでいくと広く明るい庭が現れた。Ｋさんは縁側から家の中に向かって「誰かいませんか」と何度も声を掛けるのだけど、返事はなかった。やがてＫさんはしびれを切らしたのか、縁石に靴を脱ぎ、カタツムリを持ったまま母屋に上がり込んで、障子を少しだけ開くとその向こうへ消えていった。障子の隙間から中を覗いたのだけど、暗くて何も見えなかった。
まもなくＫさんは塩の入った瓶を片手に戻ってきた。そして縁側にどっかと胡床をかくと、殻から頭を出していたカタツムリに振り掛けた。するとカタツムリはきゅっと殻の中に引っ込んでしまった。それからぼくのカタツムリにも塩をひと振りした。するとやっぱりきゅっと殻の中に引っ込んだ。Ｋさんはカタツムリを縁側にそっと置くと、塩の瓶を持って再び母屋の中に消えたが、すぐに戻ってくるとカタツムリを小脇に抱え、「さあ、出発しよう」と靴を履ききらないうちに歩き始めたのだった。
それからさらに三十分ほど、ぼくたちは人っ子ひとり通らないその道路を歩き続けた。もうあたりに住宅はなくて、畑の中を突っ切ったり、林の中を突っ切ったり、という感じだった。今頃の季節ならまだじゅうぶんに明るいはずなのだけど、厚い雲のせいか、あたりはすっかり薄暗くなっていた。
そして再び林の中に入ると、もう、足元も覚束ないほど暗いのだった。でも、その林の中を歩き始めて百メートルも行かないうちに、所々にある街灯がつき始めた。でも、そのライトがまたところどころで木の葉に隠れていたりしたので、なんだか薄暗いのだった。
その、薄暗い明かりに照らし出されて、小さな沼が行く手に現れた。周囲を鬱蒼とした木々に囲まれていて、きっとよく晴れた昼間でも薄暗いのだろう。
「さあ、着いた」
沼は道路のすぐそばまで迫っていて、特に柵などはなかった。Ｋさんは沼の岸に注意深く近づくと、カタツムリを水の中に一度浸けて、それから岸のそばに置いた。するとそいつは殻の中からうにょ〜んと這い出してきて、ぼくたちの前に全身をさらしたのだった。体の長さは４０センチくらいだろうか。そいつは触覚を動かしてあたりの様子を窺うと、まっすぐ沼へと向かい、水中に消えた。
Ｋさんの指示に従って、ぼくもそいつを水に浸けてから岸に置いた。するとやっぱり同じように沼の中に消えた。
「こいつらは、沼の中で生活しているんだ」
Ｋさんは満足そうに沼を見つめていた。ぼくもなんとなく沼を眺めていたのだが、すると水面で何かが跳ねていた。イカのようだった。
「淡水イカだ。このあたりじゃ珍しくはないよ」
その淡水イカは何かに触手を絡み付かせていた。よく見ると、カタツムリの殻だ。
「あのイカは、カタツムリを食べるんですか？」
「いや、そういうわけじゃないのだけどね。なぜ、ああいう行動を取るのか、まだよくわかっていないらしいんだ」
イカに絡み付かれたカタツムリは、殻の中から出てくると気持ちよさそうに水面に身体を伸ばした。そしてイカを絡み付かせたまま、静かに漂っているのだった。
沼を見ていたぼくたちの背後を誰かが歩いていった。
「一杯やっていこうか？」
突然Ｋさんがそう言った。ぼくは「ええ」と答えた。
「この近くに、いい店があるんだ」
さっきとは打って変わって、Ｋさんはまだるっこしいほどゆっくりと歩いた。そして沼から二百メートルほど戻ったところ、つまり林を出たところに小さな交差点があって、それを右に曲がって少し行くと、閉鎖されたファミリーレストランがあって、その隣にはこれもやはり閉鎖されたショッピングセンターがあった。Ｋさんはその二つの建物の間を歩いていく。その奥には閉鎖されたショッピングモールがあって、そのいちばん奥の、シャッターの閉まった店と店のあいだの細い路地、というよりも隙間を入っていった。あたりはこんどこそすっかり暗くなっていたので、ぼくは得体の知れないものにつまずきながらＫさんの後に従った。
隙間を抜けたところは中庭みたいに広くなっていて、その広場の隅に裸電球を点けた屋台があって、そのまわりには十数人がたむろしていた。みんな、手に手に茶碗を持っていて、陽気に談笑していた。
「あれを」
Ｋさんが屋台のおやじにそういうと、おやじは「あいよ」といって、大衆食堂なんかでよく見かける安物の茶碗を巨大なタンクの蛇口の下のところに持っていくと、注意深く蛇口を開き、八分目まで静かに中身を注いだ。Ｋさんはそれを受け取るとぼくに渡した。
ぼくはそれを少し口の中に含んで、舌先で転がし、香りを鼻に抜けさせた。それから、ゆっくり喉の奥の方へと流し込んだ。それから今度はもう少したくさん口に入れ、一気に飲んだ。
「おいしい」
自然に口元がほころびて、それから頬もゆるんでしまった。そうしたらＫさんもにっと笑ったし、おやじも顔に似合わないほど素敵な笑顔を見せてくれたのだった。
「だろ？」
おやじは得意そうだった。
「なんか、ものすごく自然で、水やスポーツドリンクよりもずっと、口に入れたときの違和感がないですね」
おやじは腕を組んでうんうん、と頷いた。Ｋさんも嬉しそうだった。きょろきょろあたりを見回すと、周囲の見知らぬ人達も、みんな楽しそうだった。いいお酒はみんなを幸福にするのかな、なんて、ちょっとだけ酔いのまわった頭で思ったのだった。