今年のバレンタインデーの過ごし方は木曜日に会社を休んだときに決めた。昼まで寝ていること。ただし朝一度起きて雨戸を開けて明るくして、カーテンを閉めてからもう一度寝直す。土曜だから可能なこと。
そういうことを木曜日に会社をさぼったときにしたら、ものすごく気持ちよくて、それなら元々空白の聖なるバレンタインデーをそうやって過ごすことはどんなに素敵なことだろうか、というわけ。
木曜日に会社をさぼったのは風邪を引いたので休ませて貰ったということなのだが、時給なのでそのぶん給料も少なくなる。ちっとも得をしない。損するだけ。風邪を引いたといっても微熱があるだけで働きに行こうと思えば行けないこともなかったのだけど、わたしが自分で決めている微熱のほとんど上限ラインを体温計が示しているのを見たとたんに気持ちが萎えてしまったのだ。
パンとヨーグルトだけの簡単な朝食を取り（というかいつもと同じ朝食）、薬を飲んでから（風邪薬ではない）、カーテンを閉めて寝間着に着替え（というのも一度は出かけようかと思っていたので）、ベッドに潜り込むと、暖房のおかげで部屋の中はぽかぽかに暖まっていて、ベッドの中も電気毛布のおかげで生ぬるくて、あまりの心地よさに程なく意識を失った。
目が覚めると部屋の中はベッドに潜り込んだときと同じように薄明るかった。浅い海の底みたい。もっとも、海の中に潜ったことはないから本当にそんな感じなのかどうかは分からない。そもそも海で泳いだことはないし、それ以前に泳げないのだから。
目覚ましを手に取ると、十一時半を少し過ぎたところだった。目が覚めたというのに、眠くて仕方がなかった。目覚ましを置くと、もう一度目を閉じた。寝付くまでには少し時間が掛かったけど、そのときの時間の心地よさといったら！溶けていくようにして再び意識を失った。
どうせ予定は白紙のバレンタインデー。映画を見に行ってもいいのかもしれないし、予定が白紙の友達と遊びに行ってもいいのかもいいのかもしれないけど、微熱はましになったとはいえ相変わらず続いているし、天気予報では午後から天気は荒れ気味でしょうなんて言っていたから、ますます家から出るのが嫌になってしまう。それに、木曜日の至福体験があろうとなかろうと最近眠くて仕方がないのだ。一時期に比べればずいぶんマシになってはいるのだが。
半年くらい前から抗鬱剤（リタリンじゃないよ）をずっと飲んでいて、その副作用というか、薬に慣れるまでいろいろ大変だったのだけど、お正月を過ぎてから少しすると体が、あるいは脳が、突然薬に慣れてしまった。時々ハイになり過ぎるくらいだ。こないだの仕事が忙しい時期もそうだったし、少し前に友達の苦労話を集中して聞いたときもそうだった。あることに集中するというか、普段以上の力を発揮しなければならない状況に置かれると、突然クスリが効き始めるような気がする。実際にシナプスでどんなことが起こっているかなんてわかりようもないけど、そういうときは、クスリががんがんに効いている、という感じがする。
そこで思うんだけど（もちろん素人考えだけど）、そういうときに脳や体がものすごくエネルギーを消耗して、そのあと思わぬ時に眠くて仕方がなくなるのではなかろうか。なんか、そんな気がしてならない。電車の中で眠気に襲われたときは素直に眠ることにしているが、実はそれで何度か電車を乗り過ごした。電車で寝てしまう時ってどこか神経の一部が覚醒しているような感覚があるのだけど、それさえも眠ってしまうらしいのだ。
始めて電車を乗り過ごしたときは、本当に呆然としてしまった。これまでそこそこ長く生きてきたわけだけど、本当にそれが始めてのことだったから。どんなに眠くても、疲れていても、泥酔していても、決して乗り過ごしたことなどなかったのだ。
バレンタインデーの日の朝目が覚めたら十時を回っていた。ものすごく眠くて体がだるくてそのまま雨戸を閉めたまま眠り続けようと思ったが、木曜日の快感を思い出して無理に起きて服を着替えて雨戸を開けて（雨戸を開けるためだけに寝間着から着替えた）、暖房を付けて抗鬱剤と精神安定剤を水で胃の中に流し込み、カーテンを閉め、再びベッドに潜り込んだ。でも、木曜日は起きてすぐに暖房を付け、その後朝食を取ったので部屋も体も十分に暖まっていたが、暖房は付けたばかりだったし空腹だったので部屋の中も体も寒かった。ベッドに潜り込んでも布団や毛布の隙間から冷たい空気が入ってきて、薄ら寒いばかりで、気持ちよくない。仰向けになって部屋の中を見回すと薄明るくて気持ちよさそうなのに。天気予報でも気温は四月みたいに暖かくなるでしょうって言ってたのに、部屋の中は早春程度にしか暖かくなかった。
でもベッドの中で震えているうちに部屋の中も少しずつ暖まってきて、いつの間にか意識を失ってしまった。
目が覚めたとき、部屋の中は同じように薄明るかった。部屋の中はすっかり暖房で暖まっていた。でもあまりいい気持ちではなかった。軽い悪寒がして、また微熱か、と思った。
目覚ましは十一時半を指していた。起きようかもう少し眠ろうかと思いながら、ベッドの中でお昼過ぎまで微睡んでいた。
お腹もすいてきたのでベッドから這いずり出て、ぼんやりした頭のまま着替えて、お茶を入れて木曜日と同じような朝食を取った。でも時刻はすでに正午を回っていたからその意味ではお昼。ブランチでさえない。
食べ終わったときにはそれなりに空腹は収まっていたような気がするけど、どんな味がしたか、美味しかったかまずかったかもよく覚えていなかった。紅茶はほんのひとくち口を付けただけ。あとは精神安定剤を水で流し込む。抗鬱剤は朝と夜の一日二回だけで、昼は飲まない。
それからネットに接続して友人知己の掲示板を一巡する。書き込みがちっともない。みんな忙しいか、気持ちがネットに向いていないかのどちらかなんだろう。
それからやっと、顔を洗ったり歯を磨いたり。
たったそれだけのことをしているうちに二時になってしまう。それから『マイ・スリーピー・バレンタイン』という題で小説らしきものを書き始める。以前に『バレンタイン・ブルー』というヒステリックな女がヒステリックな日を送るというような小説らしきものを書いたことがあるのだけど、気分的にはその続編に当たる。主人公の神経症病みの馬鹿女がバレンタインデーにすることがないものだから一日不貞寝してやる、というような話だ。
それを書いているうちに三時になってしまう。天気予報は午後から強風が吹きますと言っていたから、飛ばされてきた看板の角に頭をぶっつけて死ぬのも嫌だと思ったので書きかけのファイルをセーブしてパソコンの電源を落とす。
コートを着て出かけようと外に出たらものすごく暖かいので一度部屋に戻ってコートを脱いだ。ところがアパートの出口は北側にあるので気付かなかったが、建物の西側に回り込むと、すでにかなり強い風が吹き始めていたのである。セーター一枚では寒すぎるし春物はまだ出していなかったので、セーターを脱いでシャツの上にコートを着て出かけた。風が止むと暑いけど風が吹き始めるとちょうどよかった。
最初にパン屋に行きお昼と翌日の朝食の分のパンを買う。スーパーでももちろんパンは売っているが、スーパーのいわゆる焼きたてパンはあまり美味しくないので、多少でも美味しいパンを食べたいときにはこちらに買いにくる。
次にスーパーに行き、フロアを野菜売り場から見て歩くが、なんだか値段が高騰気味だし家にまだ多少野菜があったはずだったのでとりあえずパス。それから鮮魚売り場に寄って何か食べたい魚はあるか、面倒なら干物でもいいかと思いながら眺めているうちに、干物さえ焼く気力がないことに気付いた。情けないと思いながら総菜売り場へ。ニラレバ炒めとか揚げ物ばかりで気分に沿わないものばかりだったが、やはり気分に沿わないカレイの揚げ物を買う。だいたいカレイという魚自体嫌いなのだ。いや、泳いでいる、海に生きた状態で生活しているカレイ自体はどちらかというと好きだ。でもあれを丸ごと煮付けにしたりすると、とたんに食欲が失せてしまうのである。カレイ自身は生きるのに必死で自分がユーモラスだとは思っていないだろうが（それはわたしもおんなじことさ）、あの、砂の中から目だけ出して必要とあればひらひらと泳いでいってしまうあの魚のことは、好きだ。とても。
ところでカレイは眠るのだろうか。魚たちの多くは眠るようだから、カレイも砂に埋もれて神経を完全には弛緩させることなく眠るのかもしれない。それとも一瞬でもすべての感覚が遮断されて、深い眠りについてしまうことがあるのだろうか。
かつて幕張の遠浅の海でカレイ取りの名人がいた、という話を母親から聞いたことがある。
母親は東京出身で、子供の頃小児喘息で転地療養を勧められた。母親の両親は東京に勤めていたので通える範囲、ということで幕張に住むことになった。転地して一週間も経たないうちに、喘息は良くなったそうである。
喘息が良くなったものだから、地元の子供たちのようには行かなくとも、遠浅の海に出かけることもあったようで、そこでカレイ取りの名人に出会ったか、話を聞いたかしたらしい。
名人は、足先で砂の中を探るんだか浅い水面の上から見つけるのだかは忘れたが、カレイがいると、ぐっと踵で踏んづけて捕まえるのだそうである。あの体型ゆえの弱点を突かれる、というわけである。
そういうところも魚としてのカレイが好きな所以だ。ちなみに幕張の遠浅の海は今ではすべて埋め立てられて幕張メッセとかああいう建物がそこに建っている。カレイはみんな逃げることができただろうか。逃げたとしても、遠浅の海なんてあの近くに残っていたのだろうか。
そのカレイを食べるのは、どうにも苦手なのだ。それは魚としてのカレイが好きだからではなくその体型のせいなのだが、総菜売り場のカレイは長方形の揚げ物の物体としか見えなかったので、カレイに関する感情を引っ込めてカゴの中に入れた。
そのあと、どうしてもトマトが食べたく思われたので、野菜売り場に引き返してトマトをカゴに入れる。ちょっと高い。けど食べたかったしきっと栄養バランスも少しはましになるだろうと思って。
店内放送では盛んに「今日はバレンタインデーです」という文句を垂れ流していた。チョコレートなんて家に腐るほどあるっつーの。わたしの場合。チョコレート売り場の前に集まっている人たちを見ると、家族の中でやりとりするか、どういう訳か今日にずれ込んで買いに来た小学生の女の子だったりした。中学生くらいでもスーパーでチョコレートを買ってプレゼントをするものなのだろうか。それとハートの型にでも溶かしたチョコレートを流し込むといういささか猟奇的な行為に走るのだろうか。だってハートって心臓をかたどった物なんだよ。
そういえばわたしは義理チョコというものすらほとんど誰にもあげたことがないのであった。子供の頃、父親にさえ。そりゃもてないわな。精神的不細工。
他にもいくつか買い物をしてスーパーを後にする。風は家を出たときよりも強くなっていた。風が強すぎると目にゴミが入ってすごく嫌だし、スーパーの袋はばさばさ鳴るし、髪の毛もばさばさになるし、何よりも砂埃が舞い上がるのが嫌だ。
家に帰るとすぐにお湯を沸かしてお昼を食べる。お昼というよりもおやつかもしれない。でも量としては少な目のお昼並み。菓子パンが二つ。小さめのカレーパンとイチゴを挟んだクロワッサン。このくらい食べないと夕食まで持たないのだ。イチゴはひとつを二つに割った物だけど、最低限のビタミンＣの補給はできたかなと。だめかな。
お茶を飲みながらパソコンを起動して、さっきの続きを書こうとするのだけど、どうしてもすぐには書く気になれない。さっき見たばかりの友達の掲示板とかニュースとかそのほか関心のあるところとかそこからリンクするところとかをだらだらと見続ける。そんなことをしているとあっという間に時間が経ってしまうのでいい加減続きを書き始める。でも一時間もしないうちに眠くなって、もう五時を過ぎたからいいだろうと雨戸を閉めて、電灯とパソコンは付けっぱなしでベッドに潜り込む。暗くしてしまうと夜中の十時とかまで眠ってしまいそうで不安なのだ。目覚ましを掛けてもいいけど、せっかくの休日に目覚ましは似合わない、というか鬱陶しい。パソコンの電源を落とさないのは、何となく不安だからだ。世界と繋がっていないと不安、というのではない。ただ、目が覚めたときにパソコンがスリープ状態に入っていると、何となく安心するのだ。
眠くなったはずなのに、なかなか眠りに入っていかない。別に眠らなくても困ることは何もないのだが、先ほどまで書いていた小説のこととか、小説を書くよりも前にしなければならないことがあるだろ？たとえば確定申告書を書き上げるとか、仕事のあの書類を書き上げるとか。そんなことが頭を過ぎっているうちに意識を失ってしまうのだからできの悪い頭脳である。
目が覚めると七時少し前。本当は六時半に目を覚まして米を水に浸けて置くはずだったのが、三十分近く遅れた。テレビを付けると、春一番が吹いたと言っていた。しかし明日は強い北風が吹くという。それもまた鬱陶しい。あさっての朝の食材まで買ってきておけば良かったと一瞬後悔したが、結局翌日の夕食のおかずも自力で作る気力がないことは疑いなかったから、出かけるのは仕方のないことなのだ。
遅い時間の午睡はシエスタとは言えない、なんというかもう少し陰惨な感じのする眠りである。むしろ、木曜日のお昼前の睡眠のほうがずっとシエスタに近いものだったろう。何よりもシエスタは心地よい眠りでなければならないはず。そういえば職場とかでもお昼休みに十五分から二十分くらい眠るとそのあと気持ちの良い目覚めがあり、午後の仕事の効率もアップするという話を聞いたことがあるが、うちの職場じゃ無理だな……。
こうしてバレンタインデーが始まってから十九時間くらいが過ぎたのだが、たぶん十三時間から十四時間くらい眠っていたことになる。眠っていた時間が少なすぎる！！寝倒すはずではなかったのか。きっと小説らしきものを書くという自慰行為に耽っていたのがいけないのだ。精神安定剤を飲んでいると、いわゆる性欲は著しく減退もしくは消滅してしまうのだが、文章を書くということで、それの代償としての自慰行為を可能にしているのだ。って書くと普段からそんなことばかりしているみたいに聞こえるけど、それは一般論。わたしはもともとあんまり性欲ないから。今はまったく性欲ないし。クスリのせいで。文章は結構書いてるけどね。精神的自慰行為。人知れずハードディスクの中に沈積していく。誰にも見せないから。見せられるようなものが書けないから。
で、時々こういうのを書いてみたりするわけだが、たぶんこういう文章がいちばん恥ずかしい文章で、同時にいちばん恥ずかしくない文章だ。そもそもこういう小説だかなんだかよく分からない文章を書くに至った経緯はチョコレートと風邪だ。
風邪はたぶん二週間くらい微熱が上がったままで、下がる気配がない。こんなの書いてるともっと悪化するかもしれないけど、体に悪いことをすると、心にはとても優しい、と、ずっと昔友人が言っていた。その友人とはわたしが原因で仲違いしてしまったが（一方的にわたしが悪かったのだ。でも過ぎてしまったことは仕方のないこと。さよならだけが人生だ）。
でも、小説ってそういうのがもとで書き始めたとしてもできあがったものは全然違うものでなければならないはずでしょう？
みそ汁を作りながらそういうことを考えていたら、せっかくのほうれん草を煮すぎたばかりか、出汁を取るのを忘れてしまっていた……料理をするときは料理に専念すること（メモメモ）。対症療法としてはパックに入った鰹節を振りかけることだ。でも煮すぎたほうれん草からはあの独特の甘さは出てこない。悲しい。食べたらやっぱりそうだった。悲しい。
そして、おそるおそるカレイの揚げ物に箸を付ける。冷蔵庫に入れてあったので軽く電子レンジで温めてある。表面の衣を剥いでいくと、背骨が長方形にたいして斜めに入っていた。ということは、このカレイは斜めにぶつ切りにされて揚げられた、ということか。微妙に猟奇的なものを感じながらもできるだけその感覚を押し殺して、骨に沿って箸を入れていく。するとあっけなく身が剥がれ、食べてみると揚げ物であるにも関わらずあっさりして美味しいのだった。もちろん美味しいといってもスーパーの総菜売り場においてあるものとしては、というレベルだが。
トマトはプチトマトと普通のトマトの中間くらいの大きさで、ひとつでは寂しいし三つでは多いので二つ食べた。包丁を入れるのには小さすぎるような気がしたので（サラダにするわけでもないし）、そのまま。結構美味しかった。
食べ終わると食休みを兼ねて検温。結構高めで推移。どうしよう。どうしようもない。また暖かくしてたっぷり寝るだけだ。明日はバレンタインデーではないけど。
洗い物を終え、カモミールティーを入れてチョコレートを食べる。だってバレンタインデーだもん。二週間ほど前に某デパートの某イベントでそこそこの量のチョコレートを買い込んできていて、バレンタインデーの頃には食べ終わるはずだった。
だが、風邪を引いてしかもその風邪がお腹に来て、胃腸がチョコレートを拒否するのだ。だから本当に少しずつしか食べて来れなくて、今日も一粒しか食べられなかったのだけど、美味しいチョコレートを食べているときの至福といったら！後で少しくらいお腹が痛くなっても構わないって思う。でも調子に乗ると少しくらいでは済まなくなってしまうので控えめに。幸いほとんどのチョコレートがバレンタインデー当日かその前日に渡されても問題ないくらい日持ちがするので、チョコレートが傷んでしまう、という心配はあまりなかった。
三十半ば過ぎの、バレンタインデーの予定がここ数年白紙のわたしの一日なんてこんなもんさ。寿命は勝手に六十歳と決めているので、人生後半に入りつつあるわけだ。両親ともに六十をちょっと過ぎたところで死んだので、それよりも先の人生というのは想像もつかない。もっと生きるのかもしれないし、もっと早く死ぬのかもしれない。それはどちらでもよいが、できれば後者のほうがありがたい。
まあそれはそれとして、『マイ・スリーピー・バレンタイン』というタイトルで書き始めたのに、料理しながら『眠り姫』に変えてしまった。三十半ば過ぎの眠り姫！だけど第一次世界大戦勃発の原因となったオーストリアの皇太子夫妻は五十代ではなかったか。皇太子が五十代でもいいのだから、姫が三十代ならまだまだ若い方である。滅茶苦茶な理屈ではあるが。四十代の姫、五十代の姫、……百歳を越しても姫。結婚していない限り。
グリムの『眠り姫』の話では王子がやってくるまで、城中のあらゆるものが眠っていたのではなかったか。人だけじゃなくて物までもが。王子が城に入っていくとそういうものがみんな目を覚ましていく。そういう場面は好きだけど、姫には目を覚ましてほしくなかった。ずっと眠っていれば、永遠に若さを保つことができるし、もし姫が夢さえ見ないで眠っていたのだったら、姫を煩わせる物は何一つ存在しない。
でも王子がやってきて、すべては瓦解してしまった。姫は王子と結婚し、子を設け、やがては王妃となるだろう。それは勝ち組にはちがいないが、やがて老いていき、病気にもなるかもしれないし、悪夢だってみるかもしれない。そして眠っているうちにはあり得なかった死と対面しなければならない。王子は眠り姫に死の接吻を贈ったのである。もっとも、眠り姫にとってはそれこそが望んでいたことであったのかもしれないが。
わたしならば、永遠に眠り続けたい。夢も見ないで。永遠に眠り続けることと死ぬこととは違う。永遠に眠り続けることは永遠にそこに留まり続けることであり、死とは永遠に立ち去ることだからである。
そう考えてみると、眠りながら死んでしまう、というのもかなり心惹かれる物があるな。
別にバレンタインデーに片恋だろうと男がいないことを嘆いているわけではない。それとこれとは全く別物だ。男なんて、自分が必要とするときだけ側にいてくれればいい。デーとしたいときとかセックスしたいときとか。あとはどこかで勝手に過ごしてくれていればいいと思う。
でもそんな都合のいい男なんてこの世に存在しないし、存在したらすべてのロマンスは崩壊するだろうし（「スワンの恋」はそういうい話かもしれないな）、だいいち、もう贅沢言わないからとりあえずそこそこの男が欲しい、とさえ口が裂けても言えないけど文章には書けてしまうわたしに、そんなことを言う資格があるだろうか。あるだろうな。
去年「キル・ビル」という映画（去年わたしが見た映画の中でのベスト！といっても映画なんてろくに見てないんだけど）を見に行った帰りに男友達とお茶した。そのとき男友達は、昔ショーペンハウエルという哲学者がいて（今でも哲学者っているんですか？）、その人はかなり醜い部類に入る人で、女の人から全く相手にされなかたった、というよりも男の数に入らなかったのだとかいう話をしてくれた。わたしはまったく女の数に入らないほど醜い、とは少なくとも自分では思っていないけど（……）、もしショーペンハウエルが自分の醜さを悟りきっていなかったとしたら、その気持ちを少しだけ共有できるような気がした。ショーペンハウエルが今生きていたらわたしと同じように空白のバレンタインを不貞寝してやるなんて思ったりはしなかったろうけど、静かにいつもと同じように思索に耽っていたに違いない。
そんなことを考えながらお風呂から出てきたら、バレンタインデーは終わってしまっていた。とても不毛な二十四時間を過ごしたような気がしてならない。最初に決めたとおりに不貞寝に徹するか、読みかけの本やまだ読んでない本を読むとか、ブライスさまと戯れるとか、大好きなＣＤを聴くとか、まだ聴いてないＣＤを聴くとか、そういう普通の室内の休日の過ごし方をすれば良かったのだ。
……精神安定剤と眠剤あわせて三錠を飲んだ。じきにいい気持ちになれるだろう。薬を飲み始める前、よく寝酒をしていたのだが、あれは医者に止められた。薬との飲み合わせだけでなく不眠には良くないのだそうだ。でも悪癖ほど心に優しい物はないのだ。ウイスキーとかジンとかをストレートで飲みながら眠くなるのを待つのは、やはり至福の時間だった。
男友達の友人某は、眠剤とアルコールを合わせて味わっているそうだ。よく知られていることだが、これは御法度だ。医者に眠剤を処方されるとき「絶対にするな」と必ず言われる。友人はこれで至福を味わっているそうだが、かなり危険な行為なのでできればやめて欲しい。少なくとも家族のいる人間の場合、倫理的にもどうかと思う。もっとも、わたしのような独り身の場合、何かあったとき誰も気付かないので、よりリスキーだともいえるのだが。
でも、今のところこれをやってみようという気持ちはあまりない。というのも、とりあえず眠剤＋精神安定剤の味わいが素晴らしいからだ。暖かいベッドに潜り込んで少しすると、この世の不幸がすべて消滅したような気持ちがやってくる。
まもなく午前一時。そろそろベッドに入ります。お休みなさい。