単に過去であるという意味での昔、あるところにひとりのおじいさんが住んでいた。諸般の事情により、おじいさんの住んでいた場所は明かすことができない。また、おじいさんの名前は敢えて伏せることにする。
おばあさん、すなわちおじいさんの配偶者は、おじいさんがまだ若い頃に死んでしまった。おばあさんはおじいさんよりも年下だった。すなわちおばあさんが死んだとき、おばあさんはまだほんの若い娘に過ぎなかった。
でもおじいさんは彼女のことを人に話すとき「ばあさん」と呼んでいた。
おじいさんは晴れていれば毎日川へ洗濯に出掛けた。おじいさんは有機リン系の洗剤を使わないように注意していた。おじいさんは「川を汚してはいけない」と常々考えていたのだ。
その日も洗濯物を籠に入れて川まで出掛けていった。川の水はいつもと変わらずきれいだった。そして洗濯板を使って洗濯を始めて間もなく、川上からおおきな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきた。当然のことながら、おじいさんは桃太郎の話を思い出した。桃の中に赤ちゃんがいて、それを大きく育てると鬼が島から大量の財宝を略奪、もとい持ち帰ってくるという。おじいさんは川のなかにざぶっと、飛び込むと、大きな桃を全身で受け止めた。おじいさんは若い頃学生相撲の横綱だったのだ。
おじいさんは座敷の真ん中にビニールシートを敷き、その上に桃をそっと置いた。そして台所から刃渡り２５センチの文化包丁を持ってきたのだが、もし中に赤ちゃんが入っていたとして、よく笑い話にあるみたいに頭に突き立てては元も子もない。さてどうしたものかと試案していると、昔話のように勝手に桃が割れて中から赤ちゃんがでてきた。おそらく生後六ヶ月は経過しているだろう。
赤ちゃんは桃の中にお座りしたまま次のようなことを言った。
（１）私に桃太郎という名前を付けてはならない。
（２）私の言うことを真に受けてはならない。
おじいさんはその赤ちゃんに桃子という名を付けた。その赤ちゃんは女の子だったので、桃太郎という名を付ける気にはなれなかったのだ。
桃子はほかの子供達と同じような速さで成長した。
桃子ははいつのまにか女子高生になっていた。おじいさんはおじいさんのままだった。
桃子は顔もよければ姿もよかった。ついでにいえば頭もよかった。少なくとも彼女はどの学校でも常に成績はトップだった。もちろん運動神経は抜群だった。しかし、なぜか体操だけは得意ではなかった。
桃子は男の子から人気はあったがぜんぜんもてなかった。桃子は「アイドル＝偶像」だった。
おじいさんはいつか月から桃子を迎えに来るのではないかという心配ばかりしているうちに病気になってしまった。しかし桃子を含めて誰も同情しなかった。桃子は自分が桃から生まれたと固く信じていたのだ。
おじいさんの病気はそれ以上良くも悪くもならなかった。
桃子は「恋人」を探すために夏休みを利用して東京に行くことにした。東京に行くのは中学の修学旅行のとき以来だった。
駅までの１１キロの道を歩いていると、いつのまにやら犬がついてきていた。
犬には名前があったが、敢えてその名は伏せよう。
さらに、猫までついてきた。猫には名前があったが、敢えてその名は伏せよう。
さらに、カタツムリまでついてきた。カタツムリには名前があったが、敢えてその名は伏せよう。
カタツムリは置いてけぼりをくいそうに思えたので、桃子の旅行鞄に張り付いた。
三種類の動物になんらかの寓意を読み取ろうとする読者もいるかもしれないが、それは徒労に終わるだろう。この組み合わせはたんなる偶然である。
これは話者からの忠告である。
桃子が電車に乗ると、犬も猫もカタツムリも電車に乗った。車掌さんは桃子に犬と猫とカタツムリの電車賃を請求した。桃子は彼らは私に勝手に付いてきただけのことで、電車に乗るか乗らないかの判断は私が彼らに強制したものではないと反論した。車掌さんは仕方なく犬と猫とカタツムリにそれぞれ運賃を請求した。犬と猫とカタツムリは犬と猫とカタツムリに適用される運賃など存在しまいと反論した。すると車掌さんはにやりと笑って鞄から「各種動物に適用される運賃表」というのを取り出した。これは運輸大臣に認可されたものなのだ、と車掌さんは言った。それによると、犬と猫は大人運賃の四分の一、カタツムリは大人運賃の十六分の一の運賃を支払うこと、と明記されていた。犬も猫もカタツムリもお金を持っていなかった。犬と猫とカタツムリは桃子に泣き付いた。桃子は運賃を払う代わりに私の家来になれと犬と猫とカタツムリに言った。犬と猫とカタツムリは同意した。
桃子たちはまず「ハラジュク」というところに行った。人がたくさんいて目が回った。
次に桃子たちが行ったのは「シンジュク」というところだった。やはり、人がたくさんいて目が回った。
次に桃子たちが行ったのは「シブヤ」というところだった。やはり、人がたくさんいて目が回った。
その晩はおじいさんの弟の家に泊めてもらった。
その家はものすごく広かった。なのに、住んでいるのはおばけみたいなおじいさんの弟がひとりだけだった。
おじいさんのおとうとは桃子たちを歓迎してくれた。好きなだけいていいとも言ってくれた。桃子たちは夏休みが終わるまで滞在することにした。
三日後、犬がいなくなった。「あなたの家来はもううんざりです」という書き置きがあった。
その三日後、猫がいなくなった。猫なのに、おじいさんの弟と馬が合わなかったのだ。
その三日後、カタツムリがいなくなった。「交尾相手をみつけました。さよなら」という書き置きがあった。
その三日後、おじいさんの弟がいなくなった。出掛けた先で持病の心臓の発作を起こして急死したのだった。
その三日後、おじいさんと桃子でおじいさんの弟のお葬式を出した。その大きな家はとてもとても高い値が付いて、おじいさんはお金持ちになった。でもおじいさんは「お金なんていらない。もう一度弟と話をしたかった」といって、それまで桃子が見た事のないほど大泣きに泣いた。
桃子にはまだ「恋人」が見つからない。