土曜の朝、ホットミルクの入ったマグカップで両手を暖めながら考えた（アチチ！）──今日も京都て天気がいい。ぼくはとってもご機嫌だ。朝から晩まで何をしよう。この世でいちばん好きなこと？
窓から見える小さな公園。ベンチの上の小さなひだまり。ベンチの向こうのなんて名前かわからないけど三本の木は全部葉っぱがない。それはいかにも冬らしいけど、あの日だまりだけは特別。小春日和。あ、でも小春日和って言い方は正しいのかな？とにかくあそこだけ春だ。ぽかぽか。にゃんとも魅力的。猫でにゃくてもひなたぼっこしたくなるようにゃ、そんな日だまり。
とりあえずあのひだまりへ。空になったカップをテーブルの上に置く。ことり、っていうか、こつり、っていうか、なんだかあったかい音がする。それから玄関ですっかり踵のつぶれたスニーカーを突っかけて外へ。
ところが外はすごく寒い。まだ二月なんだもん、当たり前だね。とそこへ現れたのが前田さんのおばさん。
「あら、そんな格好で寒くないの？かぜひくわよ」
おばさん贅肉質の体をゆすって汗をかきかき階段を上ってくる。そういえば今日は可燃ごみの日だ。
ぼくは金属製のドアを静かに閉めると階段を駆けおりた。そしてベンチの日だまりへ。ところがぼくがその場に到着したときにはどういう運命のいたずらか、さっとねずみ色の雲が太陽とベンチの間に割ってはいって、北風がぴゅうぴゅう吹いているばかりで寒々としていて、ぼくはコートはおろかセーターさえ着て来なかったことを猛烈に後悔したのだった。
「ああ、かみさま。これも試練ですか」
ぼくは太陽を隠した雲を見あげて呟いた（北風：「外がこんなに寒いのは当たり前だのクラッカー」←古過ぎるぜ）
キッチンに戻ると、さっきは影も形もなかったママが、許可もないのにぼくのマグでロイヤルミルクティーを飲んでいた。寝間着のままで。ママが飲んでいたのがロイヤルミルクティーだってなぜわかったかって？簡単な推理だよワトスン君。一見清潔そうだが実はそれほどでもないシンクにはミルクパンが一見無造作に投げ込まれているし、室内にはロイヤルミルクティー特有の芳香が満ちている。一目瞭然、いや、一嗅瞭然だ。なに、ロイヤルミルクティーの芳香を御存じない？ミルクパンにミルクとダージリンティーをぶち込んで煮込んでみたまえ。えもいわれぬ芳香が・・・吐き気を催しそうな臭気だって？君とは話しても無駄だな。
ママは「あらもう帰ってきたの早かったわね」とのたまった。声の調子からすると、まだ半覚醒状態のようだ。
ママは自分は低血圧で朝は苦手なのだと主張している。そんなことはどうでもいいのだけど、その状態で作った朝食というのは、文化的生活を営む我々としては受け入れ難いものであることもしばしばだ。たとえば九割以上炭化したトーストとか、裏表の格差が甚だしいベーコンエッグとか、入浴するのに適当な温度の湯で入れられた紅茶とか。ママに対して尋常ではない深い深い愛情を抱いているパパだけが、それらの朝食を文句ひとつ言わずに平らげ、揚げ句の果てに「おいしい朝食だったよ」とのたまってから愛する人の額に接吻し、意気揚々と出掛けていくことができるのだ。しかし、お姉ちゃんが「今朝も食欲がないの」と朝食を食べずに家を出て、学校に到着するまでの間にカロリーメイトで空腹を癒すということを知っているのはぼくだけなんだな。
で、ぼくはママよりもあとに出掛けるので、もう一度自分でトーストを焼いて、ベーコンエッグを作って、きちんと沸騰したお湯で紅茶を入れる。というわけで、ママの作る朝食が尋常な神経の持ち主には食べられない、ということがママ自身に知れることはないのだ。ママはどうかって？ママは朝食を食べないんですよ、困ったことに。
さてキッチンはほんの数分の間に異常な程気温が上昇していた。すわ二酸化炭素濃度の増加による温室効果かと思ったが、もちろんそんなことはない。推測通りガスファンヒーターの設定温度が３０℃になっていた。
「ねえ暑くない？」
ぼくは恐る恐るママに聞いた。半覚醒状態のママがどんなリアクションを示すか見当も付かなかったから、その態度を崩すわけにはいかない。
「暑くない」
ママはぼくのマグカップを持ったまま答えた。それからこう付け加えた。「暑いと思うんなら外へ行けば？きっと涼しいわよ〜〜ん」
ママは戸外の状況を的確に把握していた。ただしあれを「涼しい」と言い切れるなら。
「お姉ちゃんは？」
「さあ。まだ寝てるんでしょ〜〜〜」
「外は寒いよ」
「あらそ〜お、よかったわね〜〜。明日はたぶん雪ね〜〜ん」
「どうしてそう思うの？」
「なんとな〜〜〜く」
ママの「なんとな〜〜〜く」はよく当たるので恐い。明日は本当に雪かもしれない。
「あ〜あ、明日はパパに買い物に行ってきてもらおうと思ってたのに〜〜」
ママはそういうとテーブルに突っ伏し、数秒後には寝息を立てはじめた。
部屋に戻ると、そこもむっとするほど暑かった。ここでもエアコンが３０℃に設定されていた。で、お姉ちゃんはといえばまだ眠っているようだった。しかしこの人なら眠ったままでエアコンの設定を変えるくらいのことはやりかねない。なにしろ枕許にならべられた七つの目覚まし時計が大きな音をたてるたびにきちんとベルをとめ、自分でそんなことをしたという記憶がないまま再び眠りつづけることができるのだ。
ぼくはお気に入りのセーターとダッフルコートとマフラーを廊下で身に付けた。部屋の中では暑過ぎて着る気になれなかったのだ。手袋はコートのポケットに突っ込んだ。
土曜の朝、ぼくはとってもご機嫌だ。朝から晩まで何をしよう。この世でいちばん好きなこと！自転車に乗ってどこかに行きましょう。さて、かくして意気揚々と自転車置き場に向かったぼくの行く手には思わぬ障害が待ち受けていました。なんと、ぼくの自転車はパンクしていたのです。
キッチンに戻ってみるとママとお姉ちゃんが並んでテーブルに突っ伏していた。よりによって二人とも同じ柄のパジャマを着ていたので（ママがバーゲンで買ってきたやつだ。おんなじものを二つも買ってくるんじゃない！）、どっちがどっちだか見分けが付かないくらいだ。
なにしろママもお姉ちゃんもちびで寸胴で顔の造作も似ているし、ママはただでさえ気味が悪いほど若く見えるというのに、最近お姉ちゃんが髪を切ったらママそっくり！まるでクローンだ（パパのＤＮＡはどこへいってしまったのだろう）。まるで姉妹みたいですね、っていうお世辞はあるけど、うちの場合、双子ですか？って尋ねたらいえ親子ですって答えるようなそんな感じで、相手の人はさぞかし困惑するのだろうな。だいたい、同じ家族のぼくがみても異様に似ているのだから、他の人達からみたらどうなのだろうか。そんなママとお姉ちゃんを見ていたらなんだかうんざりした。
「ママ」
ぼくが声を掛けると二人とも同時にむっくりと起き上がった。悪夢だ。
「自転車貸して」
「あんたの自転車は？」
二人同時にそう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。
「あんたの自転車は？
またもやユニゾンでそう言ってのけた二人は再び顔を見合わせて笑った。もちろんぼくは笑えない。
「パンクしてた」
「あたしのギター貸してあげようか」
お姉ちゃんのつまんないシャレはお姉ちゃんの髪を切った理由と関係している。
「お金あげるから直してきなさい」
「面倒だからいやだ」
なにしろ自転車屋は遠い。ママは血走った目でぼくのことを睨みつけた。どうせぼくの部屋から姿を消した「花とゆめ」最新刊を夜遅くまで布団の中で読んでいたに違いない。
ママは黙って立ち上がるとぼくの前を幽霊のように──こんな幽霊がいたら笑ってやるが──通り過ぎ、電話機の乗っている棚の引出から自転車の鍵を取り出し、何もいわずにぼくに差し出した。
第二土曜日のママは大嫌いだ（ついでに第四土曜日のママも）。サドルの高さを調節しなくても、ママの自転車に乗れないことはない。それはつまりそういうことだ。
さあいったいどこへ行こう？ぼくのと違ってママの自転車は十段変速なので、坂を登るもの平気・・・だ。ゆるやかな坂をとろとろ登っていく。この坂を登っていくとすると、行き先はＱん家だ。考えなくとも行き先が自動的に決まってしまった。
Ｑの家は海を見おろす高台の上にある。というとなんだか豪邸のようだが、実はたんなるぼろアパートだ。Ｑはそこに一人で住んでいる。中学生のくせに生意気だが、高校生になったねーちゃんに部屋を追い出されて、彼の両親の経営するアパートに転がりこんだというわけだ（すくなくともＱはそのように説明していた）。
アパートはあいかわらず臭かった。もちろん便所や腐った床板や所々崩れた壁やしみだらけの天井だって強烈な臭気を発散してはいるのだが、問題は、ぼくにとって問題になるのは、住人たちおよびその生活から出される臭気だ。それは安い油で揚げる天ぷらやフライのにおいであるし、服にしみついた防虫剤のにおいであるし、十日間履きつづけたクツシタのにおいであるし、晴天が続こうとも洗濯されない衣類であるし、先日降った雪でぐちょぐちょに濡れちゃったにもかかわらずドアの横の小汚い靴箱に放り込んだ革靴のにおいであるし、年に数回しかシャンプーされないフケ頭のにおいであるし、廊下の隅でゴキブリのあふれているゴキブリホイホイのにおいであるし、便所に落ちていた使用済みコンドームのにおいであるし、やはり便所のごみ箱からはみだしていた生理用品のにおいであり、足の爪にたまった垢のにおいであるし、焼き立てのホットケーキのにおいであるし、ねずみのふんのにおいであるし、古い機械の出す油っぽいにおいであるし、トースターの中の食パンがこげるにおいであるし、万年床のにおいであるし、その万年床の下の腐りはじめた畳のにおいであるし、冬だというのに腐りはじめている生ゴミのにおいであるし、電気ゴタツのにおいである。たとえば、Ｑの隣に住んでいる女──Ｑによれば大学生だという──はその外見に応じてとてもくさい。
玄関前で新鮮な空気を胸いっぱい吸い込み、息を止める。入り口の戸を開け、靴を脱ぎ（げ、今日は紐靴だ！）、階段を早足で登り、摺り足でＱの部屋の前へ急ぐ（階段を駆け上がったり、廊下を走ったりすれば、床が抜けかねない）。そしてＱが戸を開けてくれるまでこわれんばかりに拳で叩き続けるのだ。
ぼくの息が続くうちにＱが戸を開けてくれればよいが、なかなか開けてくれなかったり、いなかったりすれば万事休すだ。ぼくはその場に、臭気の底にへたり込むしかない。だって、肺の中には片道分の酸素しか入らないから（カミカゼ・ミッション）。
今日は──今日は、命運尽きて腐った大気の底に沈んでしまった。ようやく戸を開けたＱがその場にへたり込んでいるぼくのことを見下ろした。
「間に合わなかったか」
Ｑは救急病院に運びこまれたが残念ながら手後れだった患者を目前にする医者のようなことをいった。ぼくは立ち上がる気力もなかった。するとＱがいつものようにずるずるとぼくを部屋の中に引きずっていった。
「悪いな、デッサンをしていたものだから」
Ｑの部屋には生臭いにおいが充満していた。ぼくは窓のところまで這っていくと窓を全開し、深呼吸をした。でもなんだか海臭くて気持ちが悪かった。
さてあらためて部屋の中を眺めれば、部屋のまんなかの卓袱台の上には白い皿に載った一匹の生魚と、開いたクロッキー帳と消しゴムと２Ｂの鉛筆が転がっていた。
「『たかむらこーたろー』って知ってるか？」
ぼくは首を横に振った。たぶん人の名前だと思うが、そのような名前の付いている人物が、うちの学校の校長の名前なのか、Ｑの親戚の名前なのか（たぶん違うだろうが）、あるいは有名な人の名前なのか（たぶんそうなのだろう）、よくわからなかった。
「『たかむらこーたろー』の作品に木彫りのナマズがあるんだが、おれも何か魚を題材にして彫刻でも作ってみようと家の冷凍庫からかっぱらってきたのがこれだ」
ぼくは窓をしめて尋ねた。
「それは何て魚？」
「ニジマスだ」
「へえ、これがニジマスなんだ」
そのとき、キーンというばかでかい音がして、それ以外の音はすべてかき消されてしまった。同時に、ガラス窓が割れんばかりにびりびりと振動した。窓を黒い影が過った。
静かになってから、Ｑがいった。
「ジェット戦闘機だ。気にすることはない」
「あの、港にみえるボロい船から飛び立つの？」
「ああ、そうだ」
眼下には港を一望することができる。そこには赤錆だらけの航空母艦がこちらを向いて碇泊していた。甲板にはぽつぽつと申し訳なさそうに飛行機が乗っかっていた。なんだか不景気な光景だ。
「不景気だね」とぼくはいった。
「にっぽんにがいこくのきちはいりません」とＱが答えた。
「あるいはね」とぼく。
「ところで今日は何しに来たんだ？」Ｑ。
「暇だから遊びに来た」ぼく。
「そうか」Ｑ。
「灯台に行ってみない？」ぼく。
「まあいいけど」Ｑ。
というわけで、ぼくたちは灯台に行くことにした。
玄関のところでＱの隣の部屋に住むくさい女と鉢合わせした。よりによって、ぼくとおんなじ真っ赤なダッフルコートを着ている。許せん。
「あら、お出かけ？」
「うん」
Ｑが答えた。
ぼくは黙って靴紐を結んだ。
「あら、私とお揃いね」
くさい女がいった。ぼくは無視した。ただでさえ同じコートで気分悪いのに話し掛けるんじゃない。ぼくはさっさと外へ出た。
Ｑは出てくるなりいった。
「おまえＤさんに挨拶くらいしろよな、ガキなんだから」
ぼくは聞こえない振りをした。だって、あの女に「くさい」と言わなくなっただけでも、ありがたいと思ってもらわなくちゃ困るんだ。
とにかく、あの女がいちばんくさい。Ｑの真下に住む、一年に数回しか風呂に入らないと噂されているをぢさんよりも、ずっとくさい。だからぼくはあの女が嫌いだ。
Ｑは「やれやれ」という顔をしていた。近所の人に挨拶くらいしてくれたっていいじゃないか、というのだろう。でもぼくが挨拶をしないのはあの女だけだ。風呂嫌いフケ頭のをぢさんにもきちんと挨拶をしているよ。Ｑは知らないかもしれないけど。