目が覚めると列車は水田の中を走っていた。空は澄んだ青い色をしていて、ところどころ掃いたような薄雲が見えた。水田は二、三百メートル向こうで青々とした小山に遮られていた。人の姿はどこにもなかった。
私は思いきり伸びをして立ち上がると、洗面所へと向かった。乗客は私のほかに数名といったところだった。目を覚ましているのは私だけのようだった。
洗面所で顔を洗う。鏡をみると目の下にくっきりとした隈があった。まあ、しかたないさ、とつぶやいてみる。デッキには誰もいなかったし、小さな声などかき消されてしまうほどの騒音だった。
列車はまもなく小さな駅に到着した。私はドアを開け、ホームに飛び降りた。少し肌寒いくらいだった。ひとつ前の客車から車掌が飛び降り、たったひとりの降車客であった私のところへ小走りにやってきた。私は無言で乗車券を渡した。車掌も無言で受け取った。そしてその場で思いっきりホイッスルを鳴らすと、私の飛びおりたデッキに飛び乗った。鋭い警笛をひとつ鳴らすと、列車はゆっくり走り出した。車掌は私を一瞥するとドアを閉めて車内に消えた。
列車はそのままゆっくりと遠ざかって行き、ゆるいカーブに差し掛かって大きく身をくねらせたところで再び警笛を鳴らした。その音が周囲に谺した。
列車が去るのを見送って、私は待合室へ入っていった。駅の事務室の窓には外側から板が打ち付けてあった。今は使われていないらしかった。
待合室には誰もいなかった。私はバッグをベンチに置き、駅前に出た。駅前にはなにもなかった。店はおろか、家も、広場さえなかった。あるのは、未舗装の道路と大きな楢の木が一本だけ。その楢の木がざわざわと葉を鳴らしていた。未舗装の道路は右手に数十メートルも行くと別の舗装道路と直角に交わったところで終わっていた。左手にも数十メートル先で薄の原に埋もれてしまっていた。
私は舗装道路にぶつかるところまで歩いていった。その道路は二車線の道路で、地図では国道ということになっていた。しかし、道の両側に白線でかろうじて歩道が示されているだけで、ガードレールもなければ、街路灯もなかった。片側に木製の電柱が立ち並んでいるのが、かえって物寂しかった。
その道を左に進めば山にぶつかって、そのあたりには駅と同じ名前の小さな集落があるはずだった。右に進めばすぐに踏み切りにぶつかる。踏み切りには警報機はあるが、遮断機はなかった。列車は日に十往復くらいしか通らないから、それでもじゅうぶんなのだろう。
そのＴ字路のところに立って周囲を見渡していると、踏み切りのずっと向こうから白い乗用車がこちらへ近づいてくるのが見えた。車は踏み切りの手前で注意深く一旦停止した。兄の車に間違いなかった。
兄は私の目の前に静かに車を止めた。
「よお、しばらく」
兄は以前とは見違えるほど日焼けして、痩せていた。痩せたといっても不健康な感じではなく、身体が引き締まった、という感じだった。
私は、荷物を持って来るからここで待っていてくれ、と言って駅舎に戻った。ホームにはどこからやってきたのか、数人の背広を着た男達が立っていた。
私は車のトランクに鞄をほうり込むと助手席に座った。兄はすぐに車を出した。
「元気でやってるか？」
まあね、と私は答えた。
兄は駅と同じ名前の小さな集落のほうへと車を走らせた。とにかく小さな集落なので、あっという間に通り過ぎてしまった。車は山裾に沿ってうねった道路を走って行く。対向車はまったくない。それどころか人の姿さえ見ない。私がそういうと、「だって、まだ朝の五時だぜ」と兄はいった。私はそのくらいの時刻から農家の人は水田に出ているものだと思っていたので、意外に思った。
三十分くらい走ったところで、道路は山裾を離れて一直線に水田を横断し始めた。じきに大きな川を渡って、それから踏み切りに差し掛かった。踏み切りは偶然にも警報機が鳴っていた。まもなく二両編成の派手な色をしたディーゼルカーが私達の前をゆっくり通り過ぎていった。警報機が鳴り終わり、車を発進させようとしたとき、ひとりの男が車の前に立ちはだかった。私はその人のことを知っていた。兄もその人のことを知っていた。兄は窓を開けるといまいましそうに「どうぞ」と言った。その人は軽く会釈をして私の後ろに乗り込んだ。
「渡りに船とはこのことですね」
その人はそう言った。
「これは自動車という乗り物だし、踏み切りを渡るには徒歩で十分です」
兄はそう答えた。そして車を出した。
「よくもいまさら私の前に顔出しできましたね」
兄はまっすぐ前を見たまま、バックミラーさえ覗かずにそう言った。その人は何も答えなかった。
「私は行き先を変更して、市の教育委員会へ行こうかと思います」
その人はやはり何も答えなかった。
「教育委員会には何人も知った人がいるのです」
バックミラーを覗くと、その人はうなだれていた。
「娘の件では、私は決してあなたを許さないでしょう」
車はまもなく市街地に入り込んだ。かつての農道がそのまま市街地の道路になった、という複雑さだった。私鉄の線路をくぐったところで兄は車を止め、そこにあったクリーム色の建物へと入っていった。
「逃げるなら、今のうちですよ」
私はその人に言った。だが、その人は黙ってうなだれているだけだった。
「あなたのしたことは間違っていたかもしれないけど、それはそれで仕方のなかったことではないのですか？」
その人はあいかわらずうなだれたままだった。私は車から降りると、その人の座っていた横のドアを外から開けて、「さあ」と促した。しかし、その人は車から降りようとはしなかった。
そうこうしているうちに兄が戻ってきた。兄は何も言わずにシートに座ると、エンジンを掛けた。
「この人を許してあげたらどうだろうか。寛容、というのは大事なことだと思う」
私は兄にそう提案した。しかし兄はそれには答えずに、××さんはいなかった。まだ朝の６時だから仕方がないが、と言った。それから、前を見たまま「どこまで行きたいのですか？」と後部座席のその人に尋ねた。その人はうなだれたまま目的地を告げた。
その人を目的地で降ろしてから、兄は車をあてもなく走らせた。所々、人の家の庭や、神社の境内に大きな白い花が咲いていた。兄はその花を付けている木の下に車を止め、「朴の花だ」とつぶやいた。私達はしばらく言葉を交わさずに白い花を見ていた。
「さあ、休みはたっぷりある。メキシコまで行こうじゃないか」
兄はそういって車を発進させた。私は頷いた。休暇はまだ始まったばかりだ。