これまでほとんど誰にも話したことはなかったが、実はＩ県に二年ほど住んでいた事がある。
修士課程を終え、就職先を探したが見つからなくて困っていたとき、大学の研究室でアルバイトを世話してくれた。専門技術を生かせる仕事だったので、願ったりかなったりだった。忙しい職場だったがやりがいもあったし、基礎的というより応用的なその仕事は、私の性にも合っていた。
収入は決して多くなかったが、親元だったので家賃も要らなかったし食費も払っていなかったので、生活費もそんなに必要ではなかった。身の回りのものと本を買った残りのお金はそっくり貯金した。それがあとでどれだけ役に立ったことか。
その職場はとても気に入っていたので、できることならそのまま正式に採用してもらいたいくらいだったが、そういうことはあり得なかった。だから、どこかで別なところで同じような仕事にありつけないかと考えていた。
ところがそういった希望も、安穏な生活も、その秋にすべてが失われてしまった。そうなってしまった原因や責任の半分以上は確かに私にあった。少なくとも、私は誰かを恨むことのできるような立場にはなかった。私は職場を去り、実家を捨て、秋の終わる頃にはＩ県に住んでいた。
その経緯についてはまだ話す気になれない。まだ時間が必要みたいだ。とにかく、あるつてを頼りにＩ県に行き、最初に落ちついたのがＩ市だった。そこには翌年の春先まで住んでいた。そしてある事情からそこを出なければならなくなり、Ｄ郡のある村に移った。その村にも夏までいられなかったが、ちょうどそこに住んでいたときに鉋祭を見たのである。
その村の鎮守様にはかなり高い一本の独立した柱がある。断面は八角形、長さは八丈で、社殿に向かって左側の、石の台座に立てられている。柱の頂上から八本の縄が地面に向かって張られ、それが支えになっている。
その柱の表面を八十八夜の日に削るのである。柱を倒し、木でできた八つの台座の上に寝かせ、一日がかりで鉋で削ってきれいにするのだ。
柱そのものは二十年に一度新しいものに替えられる。その年には鉋祭の八日前に裏山の御神木が切り出され、女陰を意味する掛け声を掛けながら村の男達が総出で神輿のように柱を担いでくる。
それを鉋祭の日に長さ八丈、八角形の断面に整えるのだが、実際には一日のうちにそれだけの作業はとてもできないので、前もってその形にしておき、当日は例年と同じように八面に鉋を掛けるだけだ。五年前に柱を立て替えたときには人出が足りなかったので、製材所でおよその形に整えたという。
知り合って間もない近所の人に誘われ、私は鉋祭を見に鎮守様に行った。境内にはすでに柱が横たえられ、柱の長さがほぼ直径になるように円形に縄が張られていた。縄からは紙垂が垂れていて、つまり注連縄のようなものなのだろう。見物人は縄の外側に三々五々集まりつつあった。
しばらくして、白装束の男が縄をくぐって円の中に入って行った。それは私のよく知っている人物だった。私が驚いているのに気付いたのか、連れが知らなかったのかと聞いた。
その人物がこの村の出身であることは知っていたが、そんな役割を果たす立場にいるとは知らなかったし、本人も教えてくれなかった。祭の後で問い質すと、人に吹聴して回るようなことではないのだということだった。
白装束の男は円の内側に設えられている神棚に拝礼し、神棚に置いてあった鉋を取った。そしてもう一人の白装束の男が、大きな布の袋を持って円の中に入ってきた。
一年の間に表面に凹凸ができたのか、最初はうまく削れなかったが、じきに薄くて幅の広い鉋屑が面白いように吐き出されるようになった。それをもう一人の男が手に持った袋の中に入れていく。風が強いからごみが散らばらないようにそうしているのかと思ったら、後でわかったことだがそういうことでもないのだった。
作業は昼過ぎから始めて午後いっぱい掛かった。八丈の長さを八面も鉋掛けしなくてはならないのだから、それだって決して時間が掛かったとはいえないだろう。鉋掛けが終わると、白装束の男は鉋を神棚に返し、縄を潜って円の外に出た。鉋屑を集めていた男はその袋を神棚の前に置き、側に控えている。程なく神主が現れ円の中に入ると、神棚の前の袋の上で御幣を振り回した。
それが終わると鉋屑の男は袋の口を開け、鉋屑をひと掴み、空に向かって投げた。風は昼頃よりもずっと強くなっていたので、薄くて幅の広い鉋屑は円の外へ飛ばされた。すると観客がどっとそちらに向かって動いた。
連れが言うには、その鉋屑を拾って肌身離さずにおくと、それから一年間は平穏に暮らせるのだという。
私も他の観客に混じって、鉋屑が飛ばされてくるたびに両手を上に上げて掴もうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。見兼ねた連れが代わりに取ってくれたが、どうやら自分の手で取らないことにはご利益はないらしい。というのも、それからの一年間も少しも平穏には過ごせなかったから。
鉋屑をばら撒き終わると、円の中から男も神主も出て行き、祭は終わった。その直後雨が降り出して、私も連れも、家に帰りつく前にびしょ濡れになった。でも観客のほとんども傘など持っていなかったから、やはりびしょ濡れになったのだと思う。柱を立てる前に雨が降ると凶作になると言われているそうだが、実際その年の米のできはよくなかったのである。