ＪＲ鎌倉駅に到着したのが午後二時半。五時半には帰らないといけないので自由になる時間は三時間だけ。たぶんそんなにたくさんのものは見れないけど、仕方がない。
行きたい場所、見たいものはたくさんある。たとえば噂に聞いてる小洒落たカフェとか由比ヶ浜とか。でもいちばん行きたいのは鶴ヶ岡八幡。
それなのに、とりあえず海でも見に行こうかということになってしまう。いちばん行きたいところに最初に行けない病。行けずじまいのこともしばしば。
というわけで当てずっぽうに海の方へと歩いていく。鎌倉は小学校のとき以来だから道なんてわからない。それに小学生の頃は学校の先生とか親とかの後を付いてくだけだったから、道なんて覚えるはずもなかったし。最初から道なんて知らないのだ。せめて駅前の観光案内の地図を見てくればよかった。
でも車の通りの激しい表通りを抜けて、東京となんにも変わらない静かな裏通りを歩いているうちにそんなのどうでもよくなってしまう。海なんて見れなくてもいい。でも鶴ヶ岡八幡に行けないのは残念だ。というよりも口惜しい。
やっぱり一度駅に戻って、そこから鶴ヶ岡八幡に向かうことを考えた方がいいかもしれない。駅に戻れば地図もあるし。でもなんの目印もない住宅地の真ん中では、駅に行くにはどっちへ行けばよいのかもわからない。誰かに道を聞こうにも誰にも会わないし。
そのうち駅に戻るのさえどうでもよくなってしまって。東京と少しも変わらない住宅地をうろうろしながら、鶴ヶ岡八幡を見に行けないかもしれないことだけがただただ口惜しくて。口惜しい口惜しいと言いながら歩いているうちに小さな神社の前に出た。小さいけれど、鎌倉だから何かそれらしい由来でもあるかもしれない。名の知れた武将の首を洗った井戸があるとか。そういうのがあるのは神社よりもお寺なのかな？よくわからないけど。
神社は鬱蒼としていて、鳥居の前には若い人たちが集まっていた。怖い感じじゃなくて、青年団に近い感じ。いまでも青年団ってあるんだろうか？
「観光ですか？」
そのうちの一人の青年がこっちを向いてそう言った。他に誰もいないので、わたしに声を掛けたとしか思えない。ええまあ、と答えると、「こんなところにいらっしゃるなんて、道に迷われたのでしょうか？」と言う。図星だったので、一瞬言葉に詰まる。でも観光地にいるせいか、道に迷って投げやりな気分になっているせいか、いい加減疲れてきてたせいか、素直に、鶴ヶ岡八幡に行こうと思うのだけど道がわからない、なんて答えてしまう。
「それなら、この神社から参道が続いていますので、ご案内します」と邪気の無い笑顔で青年が言う。顔立ちが整って、美しい青年。ほかの三人もみな美しい。
美しいから、じゃないと思うけど、たぶん邪気の無いせいだと思うのだけど、よろしくお願いします、なんて答えてしまうのだ、わたしは。迂闊かもしれない。
青年たちの後について鳥居をくぐり、鬱蒼とした森の中を歩いていくと、本殿の手前の清めの水の左手に社務所があり、そこに上がるようにと言われた。参道に案内してくれるんじゃなかったの？と思ったけど、つい言いなりに。邪気の無い笑顔の効能？
通された畳の部屋は窓が開け放たれ、涼しい風が通り抜けていた。境内の空気は町中のそれよりもいくぶん温度が低いのだった。
さっきわたしに声を掛けてくれた青年だけが部屋に上がって、冷たい麦茶をすすめてくれた。ひんやりと甘くて、美味しい。パックじゃなくて麦を薬缶にざらざら入れて煮立てたやつなんだろう。
涼しい部屋で冷えすぎていない麦茶を啜っているうちに、すっかりくつろいだ気分になってしまった。たぶんそのせいで、気を許してしまったのだ。
青年は押入の中から白い布地を取りだした。
「まず、身を清めて頂きます。このすぐ裏に小さな滝があって、その滝に打たれればよいのです。それから、着物を着ないで参道を通って参ります。でもそれは途中までで、街に出る前にこれを着て頂きます」
青年は、相変わらず邪気の無い顔をしていた。微笑んでさえいた、清潔な感じ。そして断固として拒否できない感じ。というわけでつい、裸で歩くなら着ていたものや荷物はどうしたらいいんですか？なんて婉曲な断り方をしてしまう。
「それなら、ここへ置いていっても大丈夫です。貴重品も含めて、無くなるなんてことは絶対にありませんから」
あいかわらず邪気の無い笑顔を湛えたまま、青年はそう答えた。
はあ、そうですか、と答えるのがやっと。承諾としか受け取ってくれなかったようだ。滝に打たれて裸で歩く、というのは避けられない運命らしい。
でも不思議と嫌な感じはしなかった。青年たちの前で裸になるのは気恥ずかしかったし嫌には違いなかったけど、それがおぞましい結果に繋がるとはどうしても思えなかった。
「それでは、ここで服を脱いで滝にいらしてください。入り口を出て敷石の上を左に進めばすぐです。そちらでお待ちしています」
有無を言わせぬ、という強引さは少しもなくて、とても自然な感じでそう言うと青年は部屋を出ていった。出ていく前に大きめのバスタオルを押入から出していってくれた。わたしは意を決して着ているものを脱ぎ、バッグや貴重品とひとまとめにし、バスタオルを巻き付けて部屋を出た。言われた通りに敷石の上を裸足で歩いていく。敷石がひんやりと心地よい。
滝のところでは青年たちが邪気の無い笑顔を湛えて待っていた。滝壺に入る前に裸になるようにと言われた。ちょっと気合いを入れて、言われる通りにした。
「滑りやすいので、足元にお気を付けて」
青年はわたしの手を取って滝壺へと導いた。
「少し痛いかもしれませんが、耐えられない、というようなものではありません。心地よささえ感じるはずです。打たれているのはそんなに長い時間ではありませんし、危険はありません。軽く手を引いて合図をしたら終わりですから、そうしたら滝から出て来てください」
わたしの手を取って、青年も一緒に滝壺に入ってきてくれた。でも滝に打たれるのはわたしだけ。
滝の水は冷たいけど、それよりも肩や頭に何かを激しく打ち付けている、その感覚の方がはるかに強かった。でも青年の言ったとおり、それはむしろ気持ちよかった。いつまででもそうしていたいくらい。
手を引っ張られたとき、最初それが青年の合図だとわからないくらい滝に打たれることに心を奪われていた。気が付いて滝から離れなければならないと思ったとき、残念だとさえ思った。
滝壺から上がると震え上がった。水がとても冷たかったのだ。青年がさっきのとは別のバスタオルを渡してくれた。それで全身の水気を取っていると、今度は草鞋を履くようにと言われた。
「ここから先は素足だと怪我をされるかもしれませんから」
履き方がわからないというと、わたしを岩の上に座らせ、履かせてくれた。立ってみると、足の裏がちくちくして痛い。このくらいなら裸足で地面の上を歩いたほうがいいんじゃないかって思うくらい。でも山道を歩くということなので、草鞋を履いていないと怪我をすることもあるのかもしれない。
滝に打たれた後は、清めた草鞋以外、何も身に付けることは許されないと言うことだった。じゃあ清めた着物を着させろよと思ったけど、言いくるめられるだけだと思ったのでやめた。なんかいろいろ謂われがあるのかもしれないし。何も身に付けないと、身の置き所がない感じ。
わたしだけが裸、しかし草鞋は履いている、というのはなんかものすごく間抜けな気がするのだが、青年たちまで裸になるのはとても嫌だと思ったので、黙っていた。
社務所の裏手を進んでいくとそんなに高くない二本の木が左右に並んでいて、わたしの肩くらいの高さで注連縄で繋がれていた。
「一般には知られていませんが、鶴岡八幡の参道はここから始まっているのです。知られていない、というよりも隠されている、と言った方がいいかもしれません。そもそもこの神社は参道の入り口を隠すために作られたと言われています」
じゃあどうしてわたしには隠さないのですかと尋ねると、青年は笑顔を作って何も答えてくれなかった。
その注連縄をくぐったところから参道なのだという。参道に入る前に、歩き方や決まりについて説明された。
ここからしばらくは草鞋以外何も身に付けてはいけないということ。口をきいてはならないこと。サイコロの五の目みたいに並んで歩かなくてはならないということ。つまり四人の青年が草鞋以外何も身に付けていないわたしを中心にして、並んで歩くということ。青年たちを伴わずにこの参道を通ることは禁止されているということ。一度に一人しか通ることが許されていないということ。途中木が鬱蒼としているので他から見える気遣いはいらないという。
いったい誰がこの参道を通ることを禁止しているというのか。そもそもこの青年たちは何物なのか。それを聞いてもにっこりして終わりだと察しが付いたので、何も聞かなかった。
先に二人の青年が、それからわたし、そして残りの二人の順に注連縄をくぐった。注連縄をくぐるとき、首筋を冷たい風がくすぐった。
参道とはいっても、それはただの山道だった。でもたいした上り下りはなく、歩くのに苦はなかった。
ずっとわたしの世話を焼いてくれてる青年は、わたしの右後ろを歩いていた。裸の後ろ姿を見られているのが気になって振り返ると、邪気の無い笑顔で答えるのだった。
山道の終わりにはやはり二本の木が並んでいて、さっきと同じようにその間に注連縄を渡してあるのだった。それをくぐると、青年は白装束を手渡してくれた。
素肌に袖を通して帯を締めるだけなので着るのはあっという間だった。やっと裸から解放されたと思うとほっとした。でも素肌にそれしか身に付けていないというのはちょっと不安でもある。
そこにも入り口と同じように神社があった。最初同じ場所に戻ってきたのかと思ったけど、建物もあたりの様子も違っていた。
神社を出るとやっぱり住宅地で、青年たちはときどきすれ違うたぶん地元のおばさんたちと挨拶を交わす。顔見知りなんだろうか。
そして、ずっと前に見たのと同じ、あの鶴ヶ岡八幡の参道に出た。何時頃なんだろう？まだ日は暮れてないけど。時計もあそこに置いてきてしまったからわからない。あの青年にたずねると、時計も見ずに四時半だと答えた。あと一時間で参拝して境内を見学して、もと来た道を戻って、服を着て、駅に戻れるだろうか？
「そんなに時間が気になりますか？」
もちろん、とわたしは答えた。青年は不思議そうに「なぜ？」と首を傾げた。
それは、５時半には鎌倉を後にするとわたしが決めたから。でも青年には嘘を言った。その時間に帰らないと帰りが遅くなって家人を心配させるし明日の仕事に差し支えがあるからと。
本当はもっと遅くても困らないし、帰りを待ってくれてる人もいないし、差し支えるような仕事なんてない。
青年は、「わかりました」と答えたけど、ほんとうにわかってくれてるのかどうかまではわからない。ただ、お金も何もかもあそこに置いてきてしまったのだから、青年を信頼する以外にどうしようもない。
気のせいかもしれないけど、道行く人たちみんながわたしを見る。時折目が合う人もいる。白装束を着ているから？それとも邪気のない笑顔の美しい青年たちに傅かれているから？
ほどなく鶴ヶ岡八幡に着いた。かなりの距離を歩いたような気がする。いいかげん疲れた。わたしたちは揃って参拝し、境内をひとまわりした。それからわたしは舞台の梯子段に座り込んだ。来たのと同じだけ歩かなければならないと思うと、うんざりした。だいたい、わたしはどうして鶴ヶ岡八幡に来たいって思ったのだろう？鎌倉といえば鶴ヶ岡八幡だから？そもそもどうして鎌倉に来たいって思ったのだろう？小洒落たカフェにも行ってないし、弓ヶ浜も見ていない。
「さあ、いらっしゃい」という声がした。わたしのすぐ横に、あの青年が邪気の無い美しい笑みを湛えて手を差し伸べている。私が手を差し出すと、青年は両手でその手を包み込み、草鞋を脱いで舞台に上がってらっしゃいと言った。青年の手は大きく繊細で冷たかった。
草鞋を脱ぎ素足で梯子段を昇っていくと、舞台は思ったよりも高くて、境内が見渡せた。
勝手に上って怒られないかなと思いながらも、舞台から見る境内の夕暮に心奪われた。心奪うような特別なものなんて何もないのに。
「さあ、舞ってください」
いつの間にか舞台の四辺のそれぞれの真ん中に、四人の青年たちが跪いていた。
舞うって……舞うって？
「どうぞ、ご存分に」
あの青年が扇を差し出す。わたしはそれを受け取る。広げると金色の扇。社交ダンスを習ったこともないし、日本舞踊を習ったこともない、フォークダンスでは相手の足を踏んでばかりのわたしが？
でも心配することなんて何もなかった。身体の方が勝手に舞い始めたのだから。それはあまりに自然なことだったので、抵抗する気さえ起きなかった。わたしはただその動きに身を任せればよかった。すると、それまで味わったことのないような心地よさが背筋を走るのだった。
青年たちは跪いたまま頭を垂れて、彫像のようにじっとしていた。
やがて舞台のまわりに人だかりがし始めた。しかも決してざわつかずに。みんな黙ってわたしの身体の動きを見つめていた。考えて踊っているわけではないので、観客を観察するくらいの余裕はあった。
そのうちあたりが暗くなってきた。舞台のまわりには篝火が焚かれ、ちらちらする炎の向こうの観客の数は、夕方よりもさらに増えていた。青年たちは、姿勢を変えることなく舞台の上に跪いている。
もう、何時間舞っているのかわからなかった。少しも疲れは感じなかった。でも少しずつ気持ちが高ぶってきているのはわかった。そしてほとんどその気持ちに心を奪われたとき、ふっと意識が遠のいた。
気が付くと迦陵頻伽の絵が見えた。舞台の天上に描かれたものだった。首だけ動かしてあたりを見ると、青年たちがさっきまでと同じ姿勢で、わたしを見ていた。
「ご厚意、感謝に堪えません」
四人の声がユニゾンでそう言った。わたしは何時かとたずねた。「午前二時です」と時計も見ずにあの青年が答えた。もう、舞台の周りには誰もいないみたいだった。見えないけど、気配がなかった。篝火も消えていた。
わたしは何も言うべき言葉が見つからなかったので黙っていた。泣けそうな気がしたけど、涙は出なかった。
起きあがろうとしたけど、体中が痛くてだめだった。仕方なく、迦陵頻伽の絵を眺めた。ほかにできることもしたいこともなかったから。