焼け付くような夏の日。どうしてこんなに暑いのだろう。地平線はかすんで見えない。辺りは一面黄色い花が咲き乱れている。咲き乱れている？そんななまやさしいものではない。むせかえるばかりの花の香、草いきれ。もういきがつまりそう！
夏は暑いから嫌いだ。海に行って紫外線を過剰に浴びることの好きなマゾヒストたちの気持ちが私にはどうしてもわからない。せっかくの色白のお肌が台無しになってしまう。皮膚が真っ赤に焼け焦げてやがてべろんとむけてしまうのは余りに悲しいし、情けない。一度そうなってしまえば元に戻るまでは肩の出る服などはいっさい着れない。もし７月に海に行けば、８月中はせいぜい半袖、悪くすれば長袖だ。この暑い東京の夏を長袖で過ごせとでもいうのですか。
でもきっと彼は私が炎天下長袖のブラウスを着込んでいても何も不思議には思わないだろうな。どうせ私もそういうときには日傘かなんか差しちゃって汗ひとつかかずに涼しい顔してるんだから。
「今日も暑いわね」
「暑い。」
「図書館でもいきましょうか」
「なぜ？」
「クーラーがきいてるじゃない」
「一理ある。しかし暑がっているようには見えない。」
「そう？」
「なぜ君は汗をかかないんだ？」
「痩せてるからよ」
「僕も太っているつもりはない。だが汗をかく。シャツが体に張り付いて不快だ。君のように汗を余りかかないと便利でいい。」
「便利とか不便とかいう問題かなあ」
「そうだ。」
一面の花畑。高い山の上にあるお花畑というのもこんな感じかしら。レモンイエローが水の中に染みだし、光を拡散する。遠くの方は霞んでよく見えない。
車内は午後の暖かな日差しに満ちている。この電車にこの時間に乗ると、日向ぼっこというか、暖かい午後の日差しの感覚というか、太陽光線の温もりのありがたさというものをしみじみ感じてしまう。お盆の東京は人がまばらになる。それが夏の日差しさえも何か貴いものに感じさせるのかもしれない。
電車を降りると蝉が鳴いていた。お盆になると夏もどこか勢いがなくなるような気がする。油蝉よりもミンミン蝉の声のほうが増えて来ると、そろそろ夏も終わりに近付いた気がする。夏は嫌いなんだけれど、こういう風情には思わず涙を流さずにはいられないと言うわけでございます。
夏はやっぱりワンピース。それも空色の。日傘よりもつばの広い帽子がいい。素足にサンダル。なんて涼しげな装い！真夏のリゾート。夏の日の恋。か細い腕を帽子にかざして木漏れ日の小径をたどる。ときどき長い髪が風にそよぐ。
でも今日の私はそんな理想とはちょっと違う。確かにか細い手足には違いないが（たんにガリガリだといえないこともない）、髪はどちらかといえば短いし（そのうえひどいくせ毛！）、そしてなんといってもこの色彩。ひまわり柄のワンピースに黄色い花柄の日傘、そして黄色いサンダル。電車を降りるとき、乗って来る人がしげしげと私の格好を眺めて、最後に顔をまじまじと見ていった。ちょっと派手だからってそんなにじろじろ見なくてもいいじゃない。
階段を降りて改札を出ると、少し寂しげな太陽がそれでも容赦なく私の上に照りつけた。光化学スモッグさえも今日は発生していないようで、そのためかいつもよりも光線が刺すような感じだ。でもそのぶん息苦しさはないし、空気も乾燥しているので暑いよーという感じはそんなにしない。
おもむろに日傘を差して歩き始めた。頭上に花畑が展開する。青い空と黄色い花、花、花。ぎらぎらとなたね油のような光を発散する。すれ違う人が振り返る。私も思わず振り返る。見返り美人。
大きい家が多い。困ったものだ。私のようにマンションの一室（でもないが）にこもって生活しなければならない者にとっては、うらやましいというよりもむしろ憎たらしい。ああいう大きな家の縁側に寝そべってすいかを食べたりうたた寝をしたりしたいなあ。でもああいう家に生まれ育ったならばそういう行儀の悪い庶民的感覚の生活が許されるはずがない。
「御嬢様、よく冷えたメロンを切って参りました」
「あら、どうもありがとう。でも、御母様と一緒にサロンでいただきたいのでそちらに運んでくださる？」
「承知致しました」
こういう生活では広々とした縁側の良さが認識されるはずがない。すいかや蝉時雨も。そして夏の日差しも。まったく、縁側なんかはその価値を知る私のようなものに開放してもらいたいものだわ。
見通しのきかない花畑。なま暖かい空気が黄色い香りを含んでまとわりつく。花粉？そうではなくてむしろ黄色い花弁が溶け出しているみたい。甘ったるい香りがだるい空気を重たく浸していく。花をかき分ける、息が切れる、しかし地平のぼっとした明りを求めて歩いていかなければならない。ならないような気がする。誰かが呼んでいる・・・。思わず大声を上げる。頭の中が花弁で満たされていく。
門を入って砂利道を歩く。木々がとっても懐かしい。木漏れ日が黄色いワンピースに黄土色の染みをつける。文学博物館。文学ねえ。小説なんてあんまり読まないんだけどねえ。でも、建物がとっても気に入った。昔は誰かの屋敷だった、と友達にきいた。そう、ホールで自動ピアノが演奏している、というのを聞いたとき、何かとっても格調高い感じがして、それが気に入ったのでこの暑い中をわざわざやってきたのだ。玄関を入ると、そこは大正ロマンティック。なんとなくひんやりとして、外の暑さをわすれさせる。サロンらしい部屋には椅子とテーブルが置いてあったりする。そして、豪奢な感じはもちろん漂っているのだけれども、やはりどこか図書館のような、質素だけれども知的な雰囲気が、確かに感じられるのだ。
展示してあるのは作家の肉筆の原稿だとか初版本だとかそんなものなんだけれども、高校生の頃に夏目漱石の「こころ」くらいしか読んだことのない私には馴染みの薄いものばかりだった。たしかＫっていうひとが失恋して自殺しちゃうんだよね。明治の男の人ってみんなうぶだったんだね。おんなじ家の中に住んでいる一人の娘を二人で同時に好きになって、表面的に取り合うこともなく、黙って死んじゃうなんてね。・・・同じ家に住まないと恋愛できないなんてやだな。
しかしある展示室を出たとき私ははっとして立ち止まりました。木の壁に四角く秋の日の日溜りの色が塗り付けてあったのです。木の葉の間を通ってきた太陽光線がほこりのついた窓ガラスを通過して廊下の壁に投影されていたのです。
一通り展示を見終わったので、玄関近くのサロンに入ってみた。椅子に腰掛けて庭を眺めてみる。急に私の夏も終わったな、という気がしてきた。蝉が鳴くせいだろうか。黄色い花は私のワンピース。花畑に咲く黄色いサンダル。いくら歩いても花畑からは抜け出せない。息が切れる。額には汗がにじむ。どこまでも生あたたく甘ったるい空気。次第にひまわりのワンピースが花と同化していく。日傘はすでに花になっていてそこら辺を花弁と一緒に舞いながら花畑を広がっていった。空を見上げると一面に霞んでいてミルクを薄く溶いたような色をしている。太陽はどこへいったのかしら。黄色いサンダルを片方脱いで地平の方へ向かって投げる。地平でぱっとはじけて空一面に黄色い花弁をまき散らした。
「結局私っていつもこうなのよね」
「それはきみがそう思うからさ」
「そうかしら？」
「嘘だと思うんなら目を閉じて三つ数えてごらん」
・・・１・・・２・・・３
夏の終わりを思わせる青く澄んだ空に黄色い花弁がひとひら舞った。