フラれてしまった。何の前触れもなく、突然に。地下鉄を降りて地上に出たとたんに携帯がぶるぶると振動した。絵理だった。「ごめん、わたし、行けない」ぼくは言葉がでなくなっただけじゃなく、右足も左足も前に出なくなってしまった。それが突然だったので後ろから来た女の人に突き飛ばされてしまった。「ちょっと、突然立ち止まらないでよ」女の人は汚いものでも見るような目でぼくのことを見て、それから前方をみて、そのまま歩いていってしまった。そのあいだ、絵理はなにかぼそぼそしゃっべっていたのだけど、まるでぼくの耳には届いて来なかった。
「わたし、好きな人がいるの」
ということばは、ぼくの耳に確実に突き刺さったので、聴き逃すことはなかった。それじゃあ、どうしてバレンタインデーにぼくの大好きなお店のチョコレートなんかくれたんだよって思う。絵理には何度も何度も「ぼくは○○の紅茶もチョコレートも大好きなんだ」って話していたから、きっとぼくのためにこころを裸にしてチョコレートを買ってくれたんだろうって思ってた。だって、贈り物なんてこころを裸にしないと買えないもの。そうやってこころのいちばん敏感な部分を剥き出しにして、その部分がびびびっと何かを感じ取ったものを買うんだ、少なくともぼくの場合。だから、そういうときには電車の中でお年寄りに席を譲ろうとして「いえ、どうもありがとうございます、すぐに降りますから」と言われただけでも鋭いナイフで切り付けられたようにこころが傷ついてしまうのだ。それがどんなに理不尽なことでも、傷つくのだ。
ぼくは突き飛ばされて歩道にうずくまったまま絵理の話を聞いていた。もう、立ち上がる気力もない。ぼくの前方三十センチのところに真っ白な薔薇の花束が放り出されたままになっている。向こうから来る人も、ぼくを追い越して行く人も決してそれを踏んづけたりはしない。でも、絵理は電話の向こうにいながらこの花束を踏みにじった。
「ほんとうにごめんなさいね」
という絵理の声は済まなそうだけど、それだけだ。ぼくよりも好きな人がいるのだから当然のことだろう。でも、済まないと思うのなら、もっと早い時点でどうにかして欲しかった。白い薔薇と裸のこころを抱えて東京タワーに向かうぼくに不意打ちをかけなくたってよかったはずだ。
待ち合わせは東京タワー。それを言い出したのは絵理だった。ぼくはどこでもよかったんだけど、絵理が、東京タワーがいい、と言ったのだ。絵理は東京に出てきて三年になるのにまだ一度も東京タワーに行ったことがないから、といった。でもぼくだって東京に二十年以上住んで、子供の頃にたった一回行ったことがあるだけだ。そのときにいったい何を見、何を聞いたのか、なんてことは何ひとつ覚えていない。
スーツなんか着込んでいくのは会社説明会みたいで笑っちゃうので、ぼくはふだん着のなかでいちばん気に入ったものを着ていくことにした。ジーンズにセーター、スニーカー、そして寒かったのでバーミリオンのダッフルコートを着て。外へ出たら雪がちらついていた。
白い薔薇の花束のセロファンの上で溶けていた雪も、だんだん溶けなくなってきていた。いったい、ここで何分間うずくまっているのだろうか。体は、気温のせいか雪のせいか絵理のせいかわからないけど、すっかり冷え切ってしまっていた。絵理はまだ電話の向こうでしゃべっていた。薔薇のはなびらにも雪が積もりはじめていた。赤い薔薇に白い雪という取り合わせはきれいだろうけど、白い薔薇に白い雪もまた、たとえようもなくきれいだなって思った。
絵理の左手の薬指には三ヶ月前までは指輪が填まっていた。もちろん結婚指輪みたいなのじゃなくて、確か三日月形のきれいな青い石がはめ込んであったと思う。それが、クリスマスの日、学校の図書館で偶然絵理に会ったとき、その指輪が消えていた。そう、ぼくはいつも絵理のことをみていたし、絵理の左手の人差し指を見ていた。
そしてその日一緒に夕食を食べに行った。それだけだったけど。でもそれからときどき電話をくれるようになったし、ぼくからも電話を掛けるようになった。
あのさあ、ぼくみたいに女の子からもてない男の家に電話が掛かってくると、母親が妙に気を利かせるんだよね。それがなんだか居たたまれないんだけど、でもやっぱり嬉しかったんだ、絵理からの電話は。
一瞬何の脈絡もなくそう言おうとしたけど、ぼくの唇は意志に反して閉ざされたままだった。まるで寒さで凍り付いてしまったかのように。
バレンタインデーにチョコレートを貰ったときは、ほとんど不安な気持ちがした。だってそれは「義理」って感じじゃなかった。どこまでが義理で、どこまでがそうじゃないのか、ぼくにはチョコレートそのものから判断することはできないけど、少なくとも投げやりな感じのするものではなかった。それが錯覚かどうかはわからないのだけど、ぼくは絵理のこころがそこにあるんだと思ったんだ。
そして今日３月１４日、ぼくは港区の路上でうずくまっている。いったいどうしてこんなことになっているのか、いくら頭を振ってもよくわからない。それに、バレンタインデーの日の夜に、ぼくたちははじめてのキスをした。いったい、あれはなんだったんだろう。
「わたし、あなたのことが好きだった。これはほんとうです」
絵理のそのことばは、ぼくのこころを鈍く揺さぶった。もう、そんなことは言わないで欲しいし、早く電話を切って欲しいと思った。ぼくが先に電話を切ることは、どうしてもできそうもなかった。
じゃあ、どうしてキスなんてしたんだ、と言いたかった。言わなかったけど、絵理はそれにこう答えた。
「だって、あなたのことが好きだって思ってた。本当に好きだって思ってた。でも、一度だけキスしたでしょ？あのとき、やっぱり違うって思ったの。わたしが好きなのはコノヒトじゃない、好きなのはアノヒトだって。アノヒトは奥さんも子供もいる人で、去年のクリスマスイブに別れたの」
そして、アノヒト、から貰った指輪も捨てた、のか。
「そしたら目の前にあなたがいた。わたしはあなたのことがいまでも好き。でも、アノヒトのように好きではない。いくらあやまってもどうしようもないことはわかっているけど、あなたに許して貰えるとも思っていないけど、やっぱりごめんなさい、としか言えない。それに、これ以上あなたから何も受け取れない。あなたのためにじゃなくてわたしのために」
ぼくは花束を拾おうとした。でも、それは三千マイルも向こうにあるのと同じように、どうしても手が届かなかった。すぐそこに、目の前にあるというのに。
ああ、ばかばかしい、と思った。いまどきこんなの、ソープオペラにだってありゃしない。きっと道行く人から見たら、ばかに見えるだろう。それよりも、無気味にみえるかもしれない。携帯を片手に無言でしゃがみこんで目の前に落ちている花束にのろのろと手を伸ばそうとしている男。瞬間的にしか見なかったら、電話中に花束を落としてそれを拾おうとしているように見えるかもしれない。でもずっと同じ姿勢を続けているのだ。
くそ女、ばか女、ええとそれから、ちっとも罵倒する言葉が思い浮かばない。だいたい、絵理はこんどぼくと会うとき、どんな顔をするのだろう？こいつは見物だと思う。
でもなによりも腹立たしいのは、不倫女だろうがくそ女だろうがばか女だろうが、ぼくは絵理のことが好きで、愛している、ということだった。
「ごめんなさい」
という言葉とともに、やっと電話が切れた。それからどのくらいの時間、そうしていただろうか。ほんとうはみっともないから早くその場を立ち去りたかったのだが、どうしても体が動かなかったのだ。
でも永久に動けなくなったわけではなかった。自分でも気付かないうちにぼくは東京タワーに向かって、しかも花束を携えて歩いているのだった。一瞬、あの電話は夢で、絵理の待つ東京タワーに向かっているのではないかと思ったほどだ。でも薔薇の花束は雪で溶けた水でぐしょぐしょだったし、傘も差さずにしゃがみこんでいたぼくの全身もすっかり濡れてしまっていた。
見上げると、東京タワーは高かった。３３３メートルもあるのだから、当然だ。ぼくはそのてっぺんまで登って花束を放り投げたい衝動に駆られたが、もちろんそんなことを考えたのは一秒にも満たない時間だった。それから、もう一度東京タワーを見上げた。空からは次から次へと雪が舞い落ちてきていて、まるで東京タワーが白く濁った空に向かって音もなく上昇しているようだった。
それから東京タワーを背にしてふらふらと歩いていくと渋谷行きのバスの停留所があったのでバスを待った。雪はあたりをうっすらと覆いはじめていた。でもまだ道路は黒く湿ったままで、たぶんこのまま積もることはないだろうと思った。
停留所の屋根の下で雪としずくを払っているうちにバスがやってきた。バスは空いていた。なぜだかいちばん好きないちばん後ろの座席に座った。コートを脱いで裏返しにして膝の上に乗せた。それから薔薇のはなびらにそっと手を触れた。
玄関のチャイムを鳴らすと、母親がドアを開けてくれた。
「お帰り」
「ただいま」
「それ、貰ったの？」
「うん」
母親の誤解はなんだかおかしかった。だって、ホワイトデーに男が白い薔薇を貰うなんて、なんか変じゃないか？
押し入れから大きめの花瓶を探し出して、水切りした薔薇をごそっと活けた。雪のようだ、とは思わなかったけど、やっぱりこれは絵理に似合うよな、と思った。