ついでだから、もう少しＩ県にいた頃のことを書こうと思う。
またしてもある事情から、Ｄ郡のある村にも住んでいられなくなった。次に移り住んだのがまたしてもＩ市で、今度は街中ではなく海沿いの、水田と住宅地が並んでいるあたりの二階家を借りた。築五十年くらいにはなっていたと思う。隙間風がひどくて、夏はともかく冬は寒風が家の中を吹きぬけるので寒くて仕方がなかった。でも家賃は都内にちょっとした部屋を借りるよりもずっと安かった。取り壊すにもお金が掛かるから、誰でもいいから住んでいてくれさえすればいい、ということで家賃が設定されていると聞いたが、実は他にも理由があったのだ。そのことについては機会があったら書くかもしれない。
でもとにかく私はその家が気に入った。老朽化の度合い、つまりボロさ加減が私の気持ちにしっくり来たのだ。もし体調を崩さなかったらもう少し長いこと住んでいたかもしれない。
正月過ぎに風邪をこじらせてしまい、気管支炎になってしまったのだが、その原因はその家の隙間風のせいだと同居人が主張したので、病気で気弱になっていた私はつい折れてしまったのだ。でも同居人は正しかった。県南のＯ市のアパートに引っ越して間もなく、気管支炎は治ってしまったから。
Ｉ県は日本の多くの地方がそうであるように、夏暑く冬も寒い。エアコンのないボロ屋はもちろんとても暑かった。でもまあ隙間風のせいで、部屋の真ん中に寝転がって扇風機でも回していると、何もする気にはなれないけどしのげないほどではなかった。
それに、夜になれば東京と較べてずっと過ごしやすかった。窓を開け放していてもほとんど虫が入ってこない。なんといっても蚊がほとんどいないのだ。目の前が田んぼなのに、である。
その理由はじきにわかった。そのあたりでは一斉に農薬散布をするので、田んぼに住む水生生物が全滅するらしいのだ。そのせいで夜になっても蛙は鳴かないしもちろん蛍なんて飛ばない。都会以上に生物の少ない無菌状態みたいなそのあたりは、妙に私の気に入った。
そのときは無職だったので、一日中何もしないで家の中に閉じこもっていることが多かった。なにしろ、同居人が働かなくてもいいと言ったのだ。でもそれが何を意味するかを考えると屈辱的な気持ちになるので何も考えないようにしていた。Ｉ県での生活にすっかり疲れてしまっていて、働く気力が湧いてこない、ということもあった。
その頃すでに東京に帰りたいと思わない日は一日もなくて、週末にしかやってこないような同居人は、すでに同居人ですらないのではないか？いったい私は何に縛られているのか？東京へ帰るということは何を意味するのか？そんなふうに考え始めると暑さで頭がオーバーヒートしてしまうので、頭に濡れタオルをのせて扇風機を付けて、葦簾の隙間から覗く空を眺めて気を紛らわしていた。
昼間、夢も見ないで眠ることができたらどんなによかっただろう。
そんなふうに一夏過ごしたら、太るどころか体重が５キロも減ってしまった。
家の中に閉じこもっていたのには、他にも理由がある。近所の人とあまり顔を合わせたくなかったのだ。Ｄ郡の村を離れた原因のひとつは近所付き合いが親密過ぎたことによると、その頃の私は考えていた。でもおそらく私はＤ郡のあの村が同居人の故郷でもある、ということを見ないようにしていたのだ。
近所付き合いが鬱陶しいというのは確かにあったし、それになにやらわけありの余所者が好奇の目にさらされることは確かにありそうなことだった。週末だけやってくる同居人とか、ときどき尋ねてくる妙に派手な女たちとか。あるいは近所の人たちは何もかも知っていて知らん振りをしていてくれていたのかもしれないけど、それはそれで嫌だった。きっと陰であることないこと言っているのだろうって。
だから昼間は必要最小限しか外出せずに、散歩なんかは夜になってからするようにしていた。蛙も鳴かない、虫もほとんどいない、でも天の川はぼんやりと見えるし、歩いて五分の堤防の向こうからは波の音が聞こえて来るような夜道を歩くのは気持ちのよいものだった。そして同時に不思議なほど現実感がなかった。そこにそうしている自分が信じられないみたいな。
そんなある日、住んでいたところから少し離れたところで花火大会が開かれるということを知った。回覧番で知ったのか、それとも店先でポスターでも見たのか忘れてしまったけど、週末に開かれるということなのでその一週間前に同居人に話すと、それじゃあ見に行こう、ということになった。
花火大会の当日、私は久しぶりにわくわくした気持ちで昼をやり過ごした。花火は見ているうちに妙にしんみりしてしまうところが好きで、でもそういう気持ちがどこか安っぽい気もしていて、だからそういう素振りを誰にも見せないよう心掛けていた。今から思うとなんだか微笑ましいが。
ところが同居人は約束の五時になっても現れなかった。それどころか花火大会の始まる七時になっても現れなかった。そのときどんな気持ちで待っていたのかあまりよく思い出せないけど、例によってイライラしながら「世界なんて滅びてしまえ」なんて思っていたのだろうと思う。たぶん午後八時頃、外に出て田んぼのずっと向こうの花火大会の会場のほうを見ていたとき、屋敷森と屋敷森の隙間の夜空に、花火がぱっと開くのが見えた。それは本当に小さくて、花火のミニチュアみたいだった。音は忘れた頃になってようやく小さな音で「ドン」と聞こえるだけで、花火の作り物みたいな気がした。
呆然と道端で花火を見ているとき、同居人がやってきた。いろいろ言い訳をしたり謝ったりしていたような気がする。でもちっとも覚えていない。というのも、私は花火のミニチュアというか作り物に、すっかり魅了されていたからだ。
そんなふうに花火を見たのは初めてのことだったし、それ以後も、ない。
九時に花火が終わり、二人でたこ焼きを食べたのだったと思う。同居人はなぜかたこ焼きが大好きで、私のところに来るときはいつも買ってきた。でも私はたこ焼きなんてたいして好きでもないのだ。でもそのときは夕食を食べていなかったこともあって、たいして好きでもないたこ焼きがとてもおいしく感じられた。
そのあと、同居人が買ってきた線香花火をして、海を見に行った。いや、もしかしたら順番が逆かもしれない。でも私の頭の中では「ミニチュア花火」「線香花火」「海」というように順序付けられている。
二人で線香花火をすると、やっぱりしんみりしてしまう。どこまでもクールに振舞いたかった私だが、たこ焼きとビールで少し調子が狂っていたのかもしれない。同居人にいつになく感傷的になっているのではないかと指摘された時には向きになって反論したが、それはつまり指摘が正鵠を得ていた、ということだ。
そのあと堤防に行って、夜の海を見ながらいろいろ議論をした。その中でもよく覚えているのは「花火なんかに感傷的になったり感動したりするのはいかにもありがちで間抜けである」と私が吐き捨てるように言ったのに対する同居人の反論だ。
同居人が言うには、人間の心なんていうものは私が考えているよりもずっと単純で、そのことは私の言動そのものによって証明されているのだ、と。
私の言うように花火に感傷的になったり感動することはいかにもありがちだというのはまったくその通りで、だから映画やドラマや小説でもその辺の事情に通暁していれば、人の気持ちをそれなりにコントロールすることだってそんなに難しいことではない。
一方でまた、それがいかにもありがちなことであると気付いている人たちも確かにいる。映画やドラマや小説の作り手はそういう人たちだ。
私はまだ若いのだと同居人は言った。そういうありがちなものに苛立ちを感じるのは尤もなことだが、でも同時に私自身が感傷的になってしまったり心を動かされてしまったりすることに注意を向けるべきだ、と。
脳の仕組みに詳しいわけではないが、と前置きしてから同居人は続けた。
感傷的になったり心を動かされるのはたぶん脳の生理現象のようなものであって、恥じるようなことではない。それを恥じるのは炭水化物が分解されてエネルギーになるのを恥じるようなものだ。
クールに生きたいのなら、むしろそういう情動に身を任せてしまえばよいのではないか。感傷や感動に苛立ちを感じてきたという経験をしてきたのであれば、敢えてそのように生きても構わないのではないか。
「君が考えているよりもずっと人は機械なのだと思うし、単純なのだと思う。この場合、『単純』と『複雑』が何を指しているのかが問題になるだろうけど」
同居人はそんなふうに言葉を結んだ。
思い出せばある程度思い出せるのだから、同居人の話を聞いていたのは間違いないだろう。でもそのとき私がいちばん夢中になっていたことは、星明りに照らされた同居人の横顔をうっとりと眺めることだったのである。