大学の研究室にいたときもその後のアルバイト先でも私はいつも白衣ばかり着ていた。そして東京を遠く離れたＩ県に来て、またもや白衣を着る仕事に就くことになった。
Ｉ市はおろかＩ県全体でも私の直接の知り合いというのは同居人を除いて一人もいなかったから、何をするにも必然的に同居人の手を煩わすことになった。さしあたっての仕事を探すのも例外ではなかった。今にして思えば、多少の勇気を奮い起こしさえすれば一人でも仕事を見つけることはできなくもなかったろう。街中でもあったのだから。でもなにしろまともに就職活動をしたこともなくアルバイトだって自分で見つけたわけではないようなそんな私が、自力で仕事を探すなんてできるとは思えなかったのだ。それに、情けない話ではあるけど仕事を探して回ることがなにやら怖くもあったのだ。
同居人は働く必要などないと言ったが、それに従うことは我慢できなかった。少なくとも経済的には対等な関係でいたかったのだ。何もできない割にはプライドばかり高かったのだ。
しつこく何度も食い下がった結果、やっと知り合いに頼んでみると請合ってくれた。後でわかったことだが、同居人の知り合いに心当たりがなかったのでそのまた知り合いに頼み、その知り合いにも心当たりがなかったのでまた別の知り合いに頼む、という複雑な過程を経たのだった。そのせいか、たとえばスーパーのレジ打ちのような私の望んでいた仕事とは似ても似つかない仕事が舞い込んできたのである。
その仕事とはホステスである。ホステスという仕事に多少の偏見を持っていただけでなく、何しろ私はひどい人見知りでそれは現在でも変わらないのだが、そんな人間に勤まる仕事であるとは思えなかったのだ。なにしろ私はＩ県に来るまで白衣を着て日がな一日を実験室で過ごす、というような仕事しかしたことがなかったのだ。それでもなけなしの勇気を振り絞ってするならばせめて見たことのある仕事、ということで商店での販売補助みたいなものを考えていた。だからその話にはとても驚いた。
私のために骨を折ってくれた人はそのとき初めて私と会ったのだが、私の顔を見るなり「断ってくれても構わないからね。あんまり無理しないで」と言った。その人から見ても、私はその仕事に向いているように見えなかったのだろう。
私も最初断ろうと思ったのだが、そんなことをしていたら永久に仕事に就けないような気がしたし、それに、せっかく骨折って探してくださった方にも申し訳ない、ということで、先方が雇ってくださるならお願いしたいと返事をした。それに、私のような得体が知れないだけでなく、おそろしく世事に疎い者を雇ってくれることはよもやあるまい、という気持ちもあった。ほかにもっとよい人材があるに違いないと、そう思ったのだ。そうすることで、先方にも骨を負ってくださった方にも迷惑を掛けずにその仕事を避けることができるのではないかと考えたのである。
つまり、その仕事にはあまり気乗りがしていなかったのだ。
先方は急いでいるそうなので、その日のうちにお店に面接に行くことになった。そのときは車で連れて行ってもらったが、お店は住んでいたアパートからバスで十分ほどの距離にあった。
女主人──みんなは「ママ」と呼んでいたけどここで「ママ」と書くことにはどこか違和感があるので女主人ということにする──は私の顔を見るなり、「東京からきた訳有りの女だって聞いてたけど、まるでお嬢さんじゃない」という意味のことを言った。
確かに世事におそろしく疎いとか、つい最近まで恋愛をしたことさえなかったとか、そういう属性は「お嬢さん」的かもしれない。でもまあ正直見てくれは冴えない私なので、「お嬢さん」という言われてなんだか居心地が悪かった。
これを着てみて欲しいと女主人が私に手渡したのが白衣だった。しかも私が着慣れていたのとは異なる白衣。実験用の白衣ではなく、看護婦さんの着る白衣。因果なことだと思いながらも早速着替えると、女主人はよく似合うと言った。就職に骨を折ってくれた人も、同じことを言った。
大学の研究室にいたときも、そしてアルバイト先でも、私は白衣が似合うと言われ続けてきた。そしてここにきてまた同じことを言われたのだ。
女主人はとりあえず白衣の似合う人材を探していたということだったので、私はその場で採用になった。早速その晩から仕事に出て欲しいと言われた。もちろん承知したが、心の準備がまったくできていなかったのでひどく動揺したのを覚えている。
店は女主人と二人のホステスで切り盛りしていたのだが、一人辞めてしまったので急いで後継を探していたということだったらしい。そのもう一人の従業員は白衣を着た私を見るなり、本物の看護婦かと思った、と言った。
夜になってから、同居人に仕事が決まって今日から働くことになったと電話した。同居人はろくに返事もせずに、不機嫌そうに電話を切った。同居人は私が働くことさえ嫌だったのに、就職先がいわゆる水商売であったのがなおさら気に入らないらしかった。それなのに、同居人は飲み屋で女の人を相手にするのが嫌いではないタイプなのだ。
店では女主人は女医の格好、私たち従業員は看護婦の格好をしていた。医療用品カタログというのがあって、看護帽から履物まですべて実際の医療現場で使われているもので揃えていた。でも店の内装にはそういうこだわりはなくて、どうということのないものだった。店の名前もそうだ。普通の店だと思って入ってみると女医と看護婦がいた、みたいな感じというか。
お客は後述する例外を除いてよい人ばかりだった。女医の格好をした美しい女主人とそれに遣える看護婦たちと静かに飲みたいという、やや、あるいはかなり、エキセントリックだが礼儀正しい客がほとんどだった。「お医者さんごっこ」なんて破廉恥なことを言い出したヤツはその職場にいた間に一人しか見なかった。
その晩は最初緊張しまくっていて、客に勧められてウイスキーの水割りなんていうものを生まれて初めて飲んですっかり酔っ払ってしまい、酔っ払ってから後のことは何も覚えていない。気が付いたらそこは女主人の家で、部屋には西日が差し込んでいた。頭がガンガン痛んでひどく喉が乾いていた。誰もいないようだったので勝手にキッチンに行って水を飲んだ。部屋に戻ろうとするとテーブルの上にメモが乗っていた。「今日はお店はいいから、ゆっくり休みなさい。こういうことは、一度だけですよ」と、美しい筆跡で認めてあった。
とりあえず家に帰ろうと思ったが、そこがどこだかわからなかったので帰るに帰れなかった。Ｉ市には来たばかりだったので、まるで見当が付かないのだった。夜になってから家に電話すると、同居人が「事情は聞いているから問題ない」と言って、こちらが「迎えに来て欲しい」と言う前に不機嫌そうに電話を切った。
仕方なく女主人が帰って来るまで待つことにして、おなかが空いたので冷蔵庫を漁って何か食べてしのいだような記憶がある。
夜中を過ぎて女主人が帰って来て、私を見るなり「まだいたの？」と言った。帰ろうにも帰り方がわからないというと、それじゃ今夜はもう遅いから明日お帰りなさい、と言ってくれた。
そして私たちは同じベッドで眠った。とはいっても変な意味ではない。女主人のベッドはなぜかダブルベッドで、夕べもそこに寝かされていたのに気が付かなかっただけのことだ。
そして翌日、女主人に帰り方を教わって二日ぶりに家に帰ったのである。
最初のうち、生活時間帯が夜にシフトしたのでちょっときつかったけど、それにもじきに慣れた。お客はいい人ばかりだったので、慣れてくると案外楽しかった。それがお世辞であろうとなんだろうと、男の人に囲まれてちやほやされて悪い気はしなかった。そういう経験がそれまでに一度もなかったからなんとなく舞い上がってしまった、というところもあるかもしれない。自分がたいした女じゃないということはよく自覚していたけど、そういう浮いた気持ちに歯止めはかからなかった。
しかし、とんでもない客がいないわけじゃなかった。女主人も同僚も「男には本質的にああいう部分がある」と言っていたけどどちらかというと、いや、ラディカルに性的なものに対する嫌悪感の強い私には耐え難いものがあった。というよりも許せなかった。
女主人はいつも首から聴診器をぶら下げていたが、そいつはそれを引っ手繰ると「お医者さんごっこをしよう」と言い出した。同僚と女主人が目配せしたところを見ると、私は露骨に嫌な顔をしたらしかった。実際、そいつは「僕は客なんだぞ。そんな顔するな」と言った。私は無理に笑顔を作った。「そう、それでいい」というそいつの口調は母親に命令する幼児みたいでとても気持ち悪かった。それが客だろうと何だろうと生理的嫌悪！だ。そいつは聴診器を両耳に突っ込み、酒臭い息を吐き出しながら、「お医者さんごっこしよう」と言った。私は「仕事仕事」と自分に言い聞かせて自制しながら、どうにか引きつった笑顔を保っていた。ところがそいつは何をどう思ったのか、いきなり聴診器を私の胸のてっぺんに当てた。発作的に私は聴診器を払いのけたが、辛うじて残っていた自制心で、聴診器を手首の内側に当てた。そして、「このほうがよく心臓の音が聞こえるでしょ？」とかなんとか言ったような気がする。ふと女主人と同僚のほうを見ると、緊張と安堵の入り混じった表情をしていた。同僚が私とそいつの相手をするのを変わろうとすると、そいつは私のほうがいいと言った。どうやらそいつに気に入られたらしかった。
しかもそいつは聴診器を当てた左手首の内側の傷まで見つけた。十代の頃の傷だと言うと、「いや、その傷はつい最近のものに違いない」なんて言うのだった。それが事実でもあっただけに不快感と嫌悪感はいや増した。
そいつは四、五日に一度のペースで通ってきていた。かなり下品でセクハラでマザコンなヤツには違いなかったが、頭は悪くなかったみたいだ。下品とセクハラとマザコンを除けば、あるいはそれほど嫌悪するほどのヤツでもなかったかもしれない。
そいつの悪口をよく同居人にもしたのだが、同居人はそいつの話を聞くのをすごく嫌がっていた。しまいには「もうそいつの話を僕の前でするな」と言ったほどだ。他のお客を話題にしても、たとえば教養があってみてくれもよくて私にも親切にしてくれる人の話をしてもちっとも嫌がらないのに。それは私にとってかなり不可解だったが、同居人は勘付いていたのだろう。あとでなるほどと納得しないわけには行かなかった。
そいつが店に来出したのはクリスマスの頃からだったと思う。クリスマスを一人で祝うしかない客──単身赴任していてどうしても家に帰れない客や、たんに一緒に過ごす相手のいない客──を相手にパーティーをやったとき、友人に連れられて来たのだったと思う。
そしてその次に来たのがたぶん正月過ぎで、そのときに「お医者さんごっこ」をやらかしたのである。
そいつが来るとなんとなく胃が締めつけられるように痛んでいた私であったが、そいつが後に告白したところによると、そいつは私のことを考える度に胸が締めつけられるように痛んでいたのだという。
市内のとある老舗の次男で、兄の代になってからは副社長という肩書きでその実たいしたこともしないでぶらぶらしているうちに四十を過ぎてしまい、兄からもそろそろ嫁さんでも、とせっつかれていたとき私に出会ったのだという。
そいつがそんなことを私に話したのは、三月三日の私の誕生日のことである。その冬も暖冬でろくに雪が降らなかったら、私たちの店は経済的にはかなり潤っていた。女主人が言うには雪がたくさん降ると商売上がったリらしい。その翌年は雪がたくさん降って、なかなか大変だったという話を後に聞いた。
その年も、それまでほとんど雪が降らなかったのに三月三日には結構雪が降った。でも店を開けられないほどでもなかったので、開けることにした。もし途中から大雪になって帰れなくなったときは、店のすぐ側の女主人の家に二人とも泊まればいい、ということになった。
さすがに客は少なかったが、そいつはやってきた。しかも真っ赤なバラの花束を持って。よもや私にくれるのではあるまいと思っていると、案の定私のために持ってきてくれたものだった。いつもよりもさらに洒落た格好をして、お里を完全には隠せなくとも下品とセクハラとマザコンをできるだけ押し隠して「お誕生日おめでとう」と私にバラの花束を手渡してくれるのだった。そいつの普段の素行を差し引いても、私はちょっと、いや、結構感動してしまった。だって、バラの花束を貰うなんて、生まれて初めてだったから。
そいつがどうして私の誕生日を知っていたかというと、それは私がそう口走ってしまったからだ。ちょっとした拍子に、「桃の節句は私の誕生日」と言ってしまったことがあるのだ。
花束を受け取った私は、しどろもどろに「ありがとう」と言った。そいつは「白衣に赤いバラがよく映えるし、あなたの白い肌の色は赤いバラに映える」と言った。そいつは隙あらば無礼に私のからだのあちこちに触るようなやつなんだけど、たとえそういうやつにでも誉められると、どきどきしてしまう。同居人さえ忘れている誕生日に、バラの花束なんて贈られると、どきどきしてしまう。
その日そいつはとてもよい客で、下品でもなければセクハラでもなかった。マザコンだけはどうしても抜けなかったけど、それくらいは許せなくもなかった。
そして帰り掛け、私に向かって「結婚して欲しい」と言った。「事情はすべて承知している。返事は今すぐでなくてもいい。いつまでも待っている」と言い残して雪の中を帰っていった。そいつが出て行くと、店の中に残っていた客から拍手が起こった。
私はといえば、ものすごくショックを受けていた。プロポーズをされたのは生まれて初めてのことだったのだ。
その晩、どうしても家に帰る気がしなかったので、女主人の家に泊めてもらうことにした。どうしてＩ県に来たのかという大まかないきさつはすでに話してあったが、事細かに話をしたのはその晩が初めてだった。
そして、プロポーズされたのが生まれて初めての経験であることも告白した。女主人は暗に同居人のことを責めた。「もう少しあなたの気持ちを察してあげられる人ならよいのにね」とも言った。「でも、どうするかはあなたが決めるべきことで、私が口を出すことではないから」とも言った。
その晩またあのダブルベッドに二人で寝た。明け方に近い頃ふと目を覚ますと、女主人が私の上にかがみこむようにして顔を除きこんでいた。どうしたんですか？と尋ねると、女主人はなんでもない、と答えた。
翌日は雪もすっかりやんで空もすっかり晴れ渡り、雪が日の光を反射しておそろしくまぶしかった。その日は休日だったので、同居人も家にいるはずだった。私は女主人が止めるのも聞かずにバラの花束を持ち帰った。
私は同居人に夕べのすべてのことをすべて話した。同居人は花束を私から奪い取ると足で踏み付けたが、何しろ棘のあるバラのことゆえ──棘はじゅうぶんに取り除かれていなかった──同居人は叫び声を上げて跳び上がった。
それから私はどうして結婚してくれようとしないのだと同居人を責めた。同居人はいろいろ難しいのだといつもの繰り返し。それなら私は他の男と結婚するけどそれでもいいのかと言うと、売り言葉に買い言葉、勝手にしろという。なによ、私の誕生日覚えていなかったくせに、と言うと、不覚にも涙が双の瞳から溢れてきた。予定外のこと。
で、結局いつものパターンで喧嘩は終わってしまった──どうして私はあんなに単純だったのだろう？いまでも変わらないのかもしれないけど。
同居人は私に白衣を着て見せてくれと言った。クリーニング代を浮かすため家で洗濯しようと一着だけ持ち帰っていたので、それを着て見せた。同居人はそれを見て、「お願いだからこの仕事は今すぐ辞めてくれ」と畳に頭を擦り付けて私に懇願した。
結局、後釜が見つかるまで続ける、という条件付で私が折れた。
そいつとはその後一度だけ店に来たときに会った。私はプロポーズされてとても嬉しかった、と言った。でも、私はあなたと結婚するわけにはいきません。誰か他の人を探してください、と続けた。そいつは「最初から駄目だってわかっていたから、いいんです。気にしないでください」と笑った。今にも泣き出しそうな、情けない笑顔だった。私はごめんなさい、としか言えなかった。
三月半ばに後釜が見つかったので仕事を辞めた。同居人がＩ市に留まり続けるのを嫌がったので、私たちはＤ郡のある村に移っていくことにしたのだった。
その後聞いたところによると、そいつは本物の看護婦さんと結婚したということだ。いまさらだけど、陰ながらおめでとう、×××さん。