大学受験に失敗した予備校時代から大学卒業頃まで、かなりひどい吐き気に悩まされていた。
吐けば楽になるというものではなく、吐き気だけがずっと持続する。思考能力は低下し食欲は減退する。というよりもまったくなくなる。しまいには食べることや食べる物を憎むようになる。
最初にそうなったのは高校三年の秋のことで、それまで好きだった餃子をたくさん食べた後に突然気持ち悪くなり、すべて吐いてしまった。吐いたら落ち着いたかというとそうでもなく、気持ち悪さがしばらく続いた。
正月になると再び吐き気が襲い、そのほとんどの時間を布団とトイレの中で過ごした。トイレにいると、万一吐いても大丈夫、という安心感があった。でもこのときは吐かなかったし、それ以後も吐いたことはほとんどなかった。
次に吐き気が襲ったのは受験がひととおり終わった日曜日のことだった。そのときは吐き気と同時に激しい腹痛が襲ったので盲腸炎かとわたしも周囲も疑ったが、休日診療の病院での診察の結果、胆嚢炎だと診断された。でも軽いので薬を飲むだけで普通の生活をしていてよいと言われた。
受験に失敗し、四月にはいって予備校に通い始めてから、再び吐き気に見舞われるようになった。毎日ではないが朝教室で講義の開始を待っている頃から、あるいは通学の途中から吐き気に見まわれ、それが数時間続いた。
吐き気は耐えることが困難で、どうやって凌いでいたかといえば手の甲や指におもいきり爪を立て、その痛みで吐き気を紛らわせる、という方法を取っていた。だからその頃はいつでも手の甲や指先に爪を立てた跡がついていたし、時には血が滲んでいた。
吐き気がするときには体調も全体に低調で、実際予備校から帰ってくると布団に直行して昼寝をする、という生活パターンが続いていた。そのために宿題をする時間も体力もなく、今から考えれば何のために予備校に通っていたのか、という気がしなくもない。
そして夏休みには何を血迷ったのか十日ほど放浪の旅をした。それはわたしの精神には必要だったが、その見返りとしてからだを容赦なく破壊したのだと思う。母親が後にわたしに告げたところによると、あの旅行はいくらなんでも無茶だった、ということだった。わたしは明らかに体調を崩していて、旅行なんて言語道断、という状態だったようだ。だが生来の頑固さに加え、受験の緊張がわたしをとんでもなく意固地にしていて、何を言っても聞き入れないだろうとあきらめていた、というのだった。おそらくそのとおりで、何を言われても絶対に聞き入れなかっただろうとわたしも思う。
その旅行は吐き気との闘いで、途中で出会った人たちにずいぶん助けていただいたし、迷惑もかけたと思う。旅行の間、吐き気のために食事を満足にとらなかったので、帰るまでにかなり痩せてしまっていたし、あともう少しで東京に着く、というところで吐き気がひどくなりそのために電車に乗っていられなくなり、たまたまいっしょに行動していた人に、結果としてずいぶん助けてもらった。
結局旅行の間中していたように、酔い止めを飲んで眠った。ろくに食べていないところに酔い止めを飲むと耐えがたいほどの眠気に襲われて、それでどうにか吐き気をやり過ごすことができたのだ。
そして秋になり、友人と一緒に新学期のテキストを取りに予備校に出掛けた。それがわたしが予備校に行った最後だった。
帰りに昼食を一緒に食べ、食後のアイスコーヒーを飲んでいたときに、それまででいちばんひどい吐き気に襲われた。思えば夏休みの旅行の帰りにひどい吐き気に襲われたときも直前にアイスコーヒーを飲んでいた。
どうにか電車に乗って、なんとか家までたどり着けないかと思ったのだが、途中の駅でどうにも吐き気を我慢することができなくなり、電車を降りた。そしてホームのベンチに座りこむなり動けなくなってしまった。それから、友人が駅員に知らせてくれて、担架で駅事務室のベッドに運ばれた。
しばらく友人がそばについていてくれたが、何時の間にか眠ってしまった。そして目を覚ましたら母親がいた。友人が家に連絡してくれていたのだった。
友人は母親にわたしを引き継ぐまでそばにいてくれたのだった。
だがそのあとわたしは床について動けなくなった。そして予備校に復帰することも受験勉強に復帰することもなかったのである。
そのときわたしを助けてくれた友人は、受験勉強の甲斐あって第一志望だったある地方の国立大学に入学したが、わたしを助けてくれてからちょうど一年ほど経った頃、交通事故で他界した。
告別式のあと、友人のお母さんがわたしのところにいらして、彼がずっとわたしのからだのことを心配していた、と話してくださった。それから、わたしにこうおっしゃった。
「××の分まで、生きてくださいね」
わたしが今日まで生き長らえてきたのも、あるはこの言葉のためかもしれない、とも思うことがある。実際、その後自分あるいはそれ以外の何かによって生命が脅かされるたびに、この言葉を思い出していたのである。